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Title
ヨハネの手紙第一講解 (40)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ヨハⅠ 4:7-10
Date
2012-12-30
[本文]
[第一ヨハネ4:7-10]
「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
[本論]
愛する聖徒の皆さん、きょうの本文[第一ヨハネ4:7-8]に「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」とあります。本文で「私たちは、互いに愛し合いましょう。」とありますが、この愛は霊の愛であります。
霊の愛と肉の愛を見分けるとき、一番簡単な方法は第一コリント13章の愛の章に照らしてみることです。霊の愛は寛容であり、親切で、自慢せず、高慢になりません。肉の愛をする者は言葉ではいろいろと愛情表現をしますが、気に入らないことがあると寛容でいられず、ささいなことにも怒ってけんかすることが多いです。また、霊の愛は礼儀に反することをせず、自分の利益を求めません。小さい者であっても無視しないで、人を自分よりも優れた者と思います。肉の愛は相手と親しいからといって、礼儀に反することを言ったり、行ったりします。自分の利益に合わせて、自分が望むやり方で愛し愛されたいと思います。また、熱く愛する時は何でも相手に合わせてあげているようですが、時間が経つと、その愛が冷めたり、変わったりします。このように愛の章の項目に一つ一つ照らしてみたら、霊の愛がどんなものなのか、ある程度見分けることができます。
ところで、ひょっとすると、世でもある人は誰かを変わることなく好きだったりもします。めったにないですが、相手のために大きな犠牲を甘んじて払ったりもします。だからといって、それでもその愛を霊の愛だと言えません。なぜなら、その愛の結果として、相手に永遠のいのちを与えることはできないからです。まことに相手のためを思う霊の愛とは、相手がたましいに幸いを得ているようにする愛です。
このような霊の愛をするためには、まずは自分が神を第一に愛して、隣人を自分自身のように愛する人にならなければなりません。神を愛し、相手をまことに愛するなら、相手も神を第一に愛するように、たましいに幸いを得ていて、よりすばらしい天国に入るように助けるでしょう。自分の夫、妻、子どもを霊的に愛するなら、家族に自分を第一に愛しなさいと言うのではなく、神を第一に愛するようにと言います。また、両親を本当に愛するなら、肉的にもまことを尽くして仕えるだけでなく、霊的にも仕えるでしょう。天国に一緒に行くように伝道したいという心がとても切実になります。
ところで、気をつけなければならないことがあります。言葉では愛していると語り、熱心に伝道しているのに、実際には愛をもって仕える行ないを見せないため、かえって両親がさびしく思うなら、これは霊の愛だと言えません。仕えることも、犠牲になることもなく、自分の利益だけを求めながら、相手に教会に一緒に行こうと誘っては、相手の心が感動しません。いくら耳障りの良い言葉で説得しても、心が動かないのです。
[マルコ7:9-12]に、肉と霊を誤解し、正しくない行いをした事例がイエス様のおことばの中に出てきます。「また言われた。『あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。モーセは、「あなたの父と母を敬え。」また「父や母をののしる者は、死刑に処せられる。」と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました。と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。』」
自分の欲のため両親に仕えていないのに、神のことを言い訳にしているのです。これは神によく仕えたのではなく、かえって神の戒めを破ったことになります。霊の愛には、人として踏み行うべき道に従って行う、実質的な仕えと犠牲も含まれています。
結論として、「自分が霊の愛を心に耕しているか見分けるためには、まずは愛の章の項目をチェックしてみるとともに、相手がたましいに幸いを得ていることを願い、その人にいのちを与える愛をしているのか」をチェックすればよいのです。
聖徒の皆さん、本文でこの愛は「神から出ているのです」とあります。愛の章の愛、また、相手がたましいに幸いを得ているようにして、まことのいのちを与える霊の愛は、ただ神から出ています。敵である悪魔・サタンはこの愛を与えることも、知ることもできません。世から出た人も、まことの愛があるはずがありません。ただ私たちが神から生まれたとき、その愛があります。つまり、聖霊を受けて、神の子どもとされ、心に真理が満たされるほど、霊の愛があるのです。それで、霊の愛がある者は神から生まれ、神を知っているのです。
神を知っているとは、神がどんなお方なのか、頭で知っているだけでなく、神に属する真理の知識が心に満ちている状態のことを言います。神は愛そのものであられるので、神を知っている人は、すなわち、真理の知識で満たされている人は、自分も他の人を愛するしかありません。
聖徒の皆さん、「神は愛だからです」とありますが、その愛を私たちはどう感じることができるでしょうか? 時々、ある人たちは、神の愛が心に迫ってこないと言います。目に見えない神が自分を愛しておられるということがよく感じられないとも言います。しかし、神はその大いなる愛をとても確かな証拠をもって私たちに示してくださいました。その証拠とはまさにイエス・キリストです。
[本文9-10節]に「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」とあります。
神に立ち向かって遠ざけた罪人にいのちを与えるために、傷のないひとり子のいのちを犠牲にされたのです。愛はまさにここにあります。想像さえできなかった出来事を通して、最高の愛が示されました。宇宙万物の創造主である神、その尊いひとり子イエス様が、罪人である人間と同じ姿でこの地上に来られました。殺伐とした険しい地で貧しく生きることで人の子らの貧しさを贖ってくださり、残酷な十字架刑を受けることで罪人たちを贖ってくださいました。
「なだめの供え物」とは、神と人とを和解させるために、犠牲としてささげるいけにえです。旧約時代のなだめの供え物は、何か特別に感謝することがある時や、神に喜ばれたい時、自分を聖別して誓願を立てる時や、何か願いに答えられようと誓う時にささげました。どんな目的でささげようとも、なだめの供え物の基本的な意味は、神と人とが和解することです。神との間に罪の隔ての壁がなく、和解するなら、神は真理の中に生きられる力を私たちに増し加えて、心の願いに答えてくださいます。
ところで、罪人だった私たちが神と和解するためには、必ず罪が赦されるための供え物が必要です。この供え物になってくださった方がまさに神のひとり子イエス様でした。罪人には聖なる神が御手を差し伸べてくださることもできないし、神と交わることも、答えられることもできません。神をまず愛することもできません。
ところが、神は私たちをまず愛されたので、ひとり子を犠牲にされて、私たちの罪を赦してくださいました。このように私たちが神と和解するようにされたので、私たちも神を愛することができ、救われ、答えられ、祝福されるようになりました。
愛する聖徒の皆さん、このことを決して忘れてはいけません。自分のように汚れて凶悪な罪人のために、尊い神の御子が死なれたことを一瞬も忘れてはいけません。自分が地獄の火に落ちる代わりに、イエス様が死の苦しみを受けられました。自分のせいで、潔白なその方のからだが骨が見えるほど、むちで打たれました。傷のないその方の手と足がむごたらしく釘づけにされ、全身の水と血をすべて注ぎ出して死なれるまで私たちを愛してくださいました。
その血で自分のいのちを買い取ってくださった恵みが、眠っていても目ざめていても、生きるにしても死ぬにしても、私たちの心に刻まれていなければいけません。毎日、イエス・キリスト、わが主の十字架、その恵みの賛美が感激的に流れ出なければなりません。その神の愛に胸が一杯で、口を開けば感謝があふれ出なければなりません。
十字架のことばを聞いてもこの愛が感じられないなら、その心がどんなにかたくななのか悟らなければなりません。イエス様の十字架を思いながら、父なる神の愛を賛美しても、胸が一杯にならないなら、その心がどれほどかたくなになっているか悔い改めなければなりません。「自分はあまりにも悪くて、恵みを知らない者なのか」と気を落としなさいという意味ではありません。神の愛を深く悟れるように、もっと切なる心で慕いなさいという意味なのです。
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