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Title
ヨハネの手紙第一講解 (30)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ヨハⅠ 3:13-14
Date
2012-02-26
[本文]
[第一ヨハネ3:13-14]
「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」
愛する聖徒の皆さん、「第一ヨハネ講解」三十回目です。
前回に続いて、[第一ヨハネ3:13]のみことばを調べてみましょう。「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。」とあります。このみことばのように、聖徒が職場や家庭で不当に苦しみを受けるとしても、これはつらく思ったり、驚くようなことではありません。主の御名によって迫害されるとき、喜んで感謝すれば、神が慰めて報いてくださり、神に栄光を帰すことができるのです。
ダニエルがそうだったように、最後まで真理をもって行なえば、神が働いてくださいます。このように大きい神の力と愛を信頼するとき、どんな訓練の中でも信仰が守れるのです。訓練を受けている間は、神のみこころがよくわからない時がよくありますが、すべての訓練が終わってみこころを悟れば、涙でその愛に感謝するようになります。
ところが、皆さんがダニエルの立場になったと考えてみますように。ダニエルのように神にだけ喜ばれて、訓練をよく通り抜ければ、とても感謝なことでしょう。一方、命が危なかったとき、神の御前に少しでもむなしく思ったり、感謝できなかったなら、どうだったでしょうか?
神が獅子の穴から救い出して、前より高い地位につかせてくださった後、以前の自分の完全でなかった姿を思い出せば、どれほど恥ずかしく申し訳ないでしょうか。「このように祝福を備えておかれた愛の神様の御前で、私はどうしてあんなことを言ったのだろう。私はなぜ信頼できなかったんだろう」と骨にしみるほど後悔したでしょう。
ステパノ執事が殉教するとき、主は天国の御座に座ることもできず、立って見守っておられました。父なる神も、主も、ステパノが信仰によって殉教すると知っておられましたが、それでも愛する子どもが殉教するのをご覧になるとき、どれほど緊張しておられたでしょうか。神は私たち自身より私たちを愛されますが、それでも、より大きい祝福を与えてくださるために、時には訓練や不当な苦しみを受けることを許される時があるのです。
皆さんがこのような父なる神と主の心をいつも覚えているなら、いくら火のような訓練がやって来ても、もっと気を引き締めるでしょう。「必ずこの訓練を見事に通り抜けて、私を信じて望んでおられる父なる神様に喜ばれよう」という覚悟でです。
私は初心の者だったとき、たった一度、神様の心を痛めることを言ったことがあります。初めて神様を見つけたとき、さまざまな病気がいやされて救われた恵みで、家庭に感謝があふれました。貧しくて安い部屋を借りて住んでいて、力仕事で一日一日暮らしていましたが、一瞬一瞬が天国のように幸せでした。
そのうち家が撤去されるようになって、敷金も返してもらえないまま引越ししなければならなくなりました。5千円借りて、かろうじて陽もささない部屋を借りましたが、あまり経たないうちに、また撤去通知が舞い込んできました。一か月以内に明け渡しなさいと言うのです。今回は敷金5千円は返してもらいましたが、それでもそんなわずかなお金で急に部屋を探すことはやさしくありませんでした。
ある日は遠く離れたブルクァンドンにまで行って家を探したあげく、お昼も晩ご飯も食べられないまま、暗くなってから家に帰ってきました。がっかりして、自分でも知らないうちに嘆いていました。「どうして私の祈りを聞いてくださらないのですか。どうして部屋一つ備えてくださらないのでしょうか。」
ところが、その直後に、ひょっとしてと思って家の近くの不動産屋へ寄ったら、たった今、家の近くの物件が出されて、次の日でもすぐ入れると言うのでした。しかも、今住んでいる家よりずっといいし、店ができる部屋もついているのに、敷金は手持ちの5千円ならいいと言うのでした。
この日、私がどんなに泣いたかわかりません。「病気をいやしてくださったことだけでも感謝なのに。神様が私を貧しくさせたのでもないのに。私はなぜ神様の前につぶやいたのか」と、徹底的にたましいを砕いて罪を告白して、三日断食をしました。
その後からは、神様の前に決して悲しませるようなことを言ったことはありません。たとえ命を失っても、私に良いものだけ下さった父なる神様を二度と悲しませることはできないからです。
神の思いは人の思いと異なり、神の知恵は人の知恵と異なっています。私たちが信仰によって祈り求めたなら、すぐ目に見えなくても、神は大いなることを備えておられます。私たちの思いより良い時に、もっとすばらしい祝福を下さるのです。
どんなことにあっても、皆さんはいつも神の愛を覚えていますように。かけがえのない救いの祝福と天国をすでに下さったことを、決して忘れませんように。最も良いものを下さる神の愛を信じて、いつも信仰の告白、感謝の告白だけささげて、神に喜ばれるよう、お願いします。
愛する聖徒の皆さん、これとともに、必ず覚えておかなければならないことがもう一つあります。教会を言い訳にして、自分の利益を求めて、あるいは賢く行なえないから迫害されるなら、これは主の御名のために迫害されるのでもないし、報いになるのでもないということです。
たとえば、子どもが学業をおろそかにして、教会に来て教会の友だちと付き合って遊んでいて、主婦が家事をまともにしないで、教会の集まりにだけ参加しているとしましょう。それで、家族から聞きたくない言葉を聞いて、教会にも行かないように言われるなら、これは主のために迫害されたのではありません。むしろ自分が怠けていて、賢くないために教会について良くないことを言われたから、報いが減らされるかもしれないではありませんか。
[第一ペテロ2:19-20]に「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」とあります。
聖徒は信仰を守るために大胆で、不義と妥協してはいけませんが、それだけもっと誠実で、正直でなければなりません。人より愛をもって仕えて犠牲になり、人よりもっとまめに、もっと低くならなければなりません。そうしてこそサタンのしわざを退けて、神に助けられることができるのです。
また、罪を犯すのではなくても、伝道をするとき、度々知恵のない言葉で相手の感情を傷つける人もいます。相手の信仰では聞き従えないみことばを強いたり、霊的にあまりにも深くて理解できない内容を伝えたりもします。このような時は、相手が恵みを受けるのでなく、むしろ誤解して心の戸を閉ざします。はなはだしくは、気を悪くして悪を現すこともあります。
このように、本当に主の御名のために迫害されているのか、それとも自分が欠けているので自ら迫害を招いているのかよく見分けて、賢く徳を高めるように行なうようお願いします。主の御名のために迫害される時や、他のどんな訓練の中でも、悲しんだり気を落としたりするのでなく、心から喜んで感謝しますように。それで、愛の神が備えられた祝福を豊かに受けて味わいますように、主の御名によって祈ります。
愛する聖徒の皆さん、使徒ヨハネはヨハネの手紙第一で、聖徒に「互いに愛し合いなさい。」ということばを繰り返して伝えています。続く本文[第一ヨハネ3:14]にも「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」とあります。
私たちが死からいのちに移ったのは、イエス・キリストを信じる信仰のゆえです。もともと人類は罪のために死の刑罰、すなわち、永遠の地獄の火に落ちるべきでしたが、イエス様がその刑罰を代わりに受けてくださいました。このことを信じて、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れるなら、罪の赦しを受けます。つまり、主を信じる信仰によって、死から移っていのちを持つようになるのです。
[ヨハネ5:24]でも、イエス様は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」と言われました。
ところで、本文には「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。」とあって、「愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」とあり、結局、救われないと警告しています。
どうして私たちが兄弟を愛さなければ、救われないのでしょうか? 皆さんが初めて聖霊を受けた時を思い出してみたら、すぐ理解できると思います。主を受け入れて初めの愛で熱い時は、心が愛でぎっしり満たされています。両親を敬い、兄弟愛をもって愛し合い、以前、憎んでいた人でさえ愛すべき人に見えて、相手に先に笑ってあげることができます。心に喜びが臨むので、表情が明るくなるし、冷たくて硬かった印象が天使のように柔らかい印象に変わったりもします。
もちろん、主を受け入れたその瞬間から、全き愛を心に耕せるという意味ではありません。聖霊に満たされて、恵みが臨んだほど、愛を実践する力が与えられるのです。
ところが、まだ信仰の一、二段階の時は、少し聖霊に満たされなくなって、恵みが落ちると、憎い心が動いたりもします。自分の思いに合わないように行なう人、自分をつらくさせて害を与える人は憎くて、近づきたくなくなります。何か気に入らなかったら、かんしゃくも起こります。兄弟がうまくいくのを見て悔しくなったり、自分と比べて気を落としたりもします。まだ愛を完全に心には耕していないからです。
そうであっても、聖霊に働きかけられる人は毎日少しずつでも変えられて、全き愛を心に耕そうと努力していきます。「私のような者のために神様がひとり子を下さったのに、私のような罪人のためにイエス様がいのちを渡してくださったのに、どうして他人に悪い心をもてるのか」と思って、兄弟を愛そうと熱心に祈ります。
そうするほど、だんだんと全き愛を心に耕していきます。相手が自分の益に合わないように行なうからといって、自分の思いに合わせてくれないからといって怒ったりしません。たとえ相手が欠けていてもどかしいところがあっても、よくやれる時まで励まして寛容を尽くすことができます。相手がよくやれるように、成功するようにと、切なる心で願って、また、そうなれると信じてあげます。その時まで自分を犠牲にしなければならなくても、耐え忍ぶことができます。
自分の持っているものを自慢しないし、相手の持っているものもねたみません。高慢にならず、礼儀に反することをせず、不正を喜ばずに、人のした悪を思いません。自分に悪を行なった人であっても、その人がなぜそんな悪を行なうしかなかったか、相手の身になることができます。
さらには、そのように悪を現わす相手を心から憐れむことができます。究極的には、イエス様が私たちのためにいのちを渡してくださったように、敵のためにいのちを渡せる愛まで持つことができます。
このような愛を心に耕すなら、この時は真理そのものであられる主が皆さんの中に完全にとどまると言えるでしょう。「主がわたしにおられ、わたしが主にいる」というみことばがそのまま成就されるのです。
また、もう一つ覚えておかなければならないことは、兄弟を愛し、魂を愛するなら、魂を救うために励むということです。まだ救われていない魂たちのために切に祈って、伝道するでしょう。また、信仰の弱い兄弟が万が一にもつまずかないように、すみやかにもっと大きな信仰に成長するようにアドバイスして、いつも祈ります。
神を信じていない人はキリスト教について、時々次のような不満を口にします。「あなたたちはどうしてそんなに他人にあなたたちの宗教を強いるのか。どうしてもキリスト教だけを信じなければならないと言うから、他の宗教を信じてる人は気を悪くする」と言います。
もしイエス・キリストのほかに救いの道があるなら、私たちもいくらでも他の宗教を信じる方々に、それを信じますようにと言うでしょう。自分のお金を使って、時間をかけて伝道しなくてもいいし、時にはあえて迫害されながら信仰を守らなくてもいいから、聖徒にとっても、とても楽で良いかもしれません。
しかし、信仰があるなら、真理を知っているなら、伝えるしかないでしょう。天国と地獄があることを明らかに知っていて、救いの道がただイエス・キリストの十字架だけであることを知っています。兄弟が福音を聞けなくて信じなければ、その人は天国に行けないし、しかも火の池に落ちるのを知っているのに、どうして伝えずにいられるでしょうか。
自分が愛している人には何としてでもおいしい料理を食べさせたいし、良いものがあれば一緒に分かち合いたいと思います。実際、あまり愛していない人であっても、火事が出た家の中で寝ていることがわかったら、何としてでも大声で呼んで起こそうとするでしょう。自分と何のかかわりのない人であっても、危ない状況に置かれているのを見たら、家の中に走っていってでも救おうとしないでしょうか。まして自分の愛する人が永遠の火の刑罰を受けることになっているなら、どうして救い出さないでいられるでしょうか。
また、信仰の弱い聖徒を見れば、何としてでももっとすばらしい天国に入れるように助けて、敵である悪魔・サタンが惑わさないように守らなければならないでしょう。霊肉ともに何かの問題で苦しんでいるのを見ると、自分のことよりもっと切にとりなしの祈りをするようになるのです。
一方、ある人は務めもあるし、すばらしい天国を慕って熱心に信仰生活をしているのに、魂を救うことにはあまり関心がありません。一年経ってもひとりも伝道しないし、聖徒を顧みる使命も慕いません。機関長や区域長の使命をゆだねられて訪問なさいと言われれば、むしろ負担に思うのです。
使徒パウロは[第一コリント9:16]で「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは 私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。」と言いました。皆さんの心に霊の愛がぎっしりあって、多くの人と一緒に神の国に入れますように、主の御名によって祝福して祈ります。
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