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Title
力 - 教会学校教師献身礼拝
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
マコ 9:23
Date
2011-06-12
[本文]
[マルコ9:23]
「するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』」
[序論]
愛する聖徒の皆さん、2011年教会学校教師献身礼拝がささげられるように祝福された父なる神様に、すべての感謝と栄光をお帰しします。心と思いと力を尽くしてこの礼拝に備えてくださったすべての献身者の皆さんにも感謝します。
愛する献身者の皆さん、皆さんは教会学校教師の使命について、どのぐらい自負心を持っているでしょうか? 教師は小さい務めではありません。[第一コリント12:28]を見ると、教会のいろいろな務めの中でも、使徒と預言者の次に挙げられるのが教師です。
しかも成長過程にいる子どもたちは、おとなと違って周りの環境や人の影響をもっとよく受けます。教師ひとりが子どもたちにどのように仕えるかによって、その人生に大きい変化をもたらすこともあります。そればかりか、天国か地獄か、魂の救いにまで影響を与えることもあります。
終わりの時になるほど世の闇は濃くなり、子どもたちも罪と悪にもっと接しやすくなります。まだ自我が形成される前から世に染まって、自分がコントロールできなくなって、闇に落ちていくことが多くあります。
このような時代に、子どもたちを守るためには、皆さんが教師としてもっと徹底した使命感を持たなければなりません。熱い心だけ先立っているからといって、子どもたちを無理に引っぱっていけるのではありません。
「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」とあります。この「力」とは、霊的な力です。神の国を実現するすべての使命で、肉の力で果たせるものは一つもありません。光で闇を退けなければならないし、霊的な権威をもって敵である悪魔・サタンを退けなければならない、霊的な戦争なのです。肉的な知識や愛では、この霊的な戦いで勝つことができません。
教会学校の教師の皆さんも、子どもたちを守る霊的な力と、変えさせる霊的な力がなければなりません。それで、きょうの献身礼拝のタイトルも「力」です。「私は主のしもべでもないのに、私は子ども20、30人を担当している教師にすぎないのに、自分にできる範囲で最善を尽くせばいいだろう」と安逸に思う方がいてはいけないでしょう。主のしもべに劣らない愛と熱い心で、ゆだねられた魂を光の中へ導ける力を切に慕い求めなければなりません。自分の力ではできませんが、信じる者にはどんなことでもできるようにしてくださる神によって強くされれば、できるのです。
きょうのメッセージを聞いて、必ず神によって強くされ、ゆだねられた魂を守って生かすまことの教師になりますように、主の御名によって祈ります。
[本論]
愛する献身者の皆さん、力ある教会学校の教師になるためには、第一、みことばという武具を身に着けなければなりません。
神の国に用いられる働き人になるために、みことばは基本的な要件です。しかも、教会学校の教師の皆さんは世の知識を教えるのでなく、神のことばを教える人々です。霊肉ともにみことばをしっかり身に着けていなければ、アドバイスしたり家庭訪問するとき、互いにじれったいことがよくあります。心の中には言いたいことがあるのに、それを言葉でよく表現できないとか、適切なたとえが思い浮かばなくて、言いよどむのです。
勉強がよくできない子どもにも、「一生懸命に勉強しなさい。なぜしないの」とせき立てるからといって、勉強がよくできるのではありません。最近伝えた「勉強がよくできる秘訣」のメッセージだけ皆さんが完全に糧として身に着けても、子どもたちに対するとき、大いに役に立つでしょう。
いわゆる「問題児」と呼ばれる子どもたちを見る時も、霊肉ともにどんな分野がどのように満たされなければならないか、みことばで分析できるでしょう。「生まれつきの知能が問題なのか、育ってきた都合が良くないのか、集中力が欠けているのか」など、まず問題を把握しなければなりません。それと同時に、皆さん自身がそのメッセージを霊の糧として身に着け、心で学ぶ方法を会得しなければなりません。すると子どもたちにもっと具体的で直接的に勉強する方法を提示することができるのです。
もう一つの例を挙げましょう。礼拝態度が良くない子どもに「ちゃんと礼拝しなさい。いたずらしてはいけない」と叱ってばかりいてはいけません。レビ記のみことばを武具として身に着けているなら、礼拝の順序が霊的にどんな意味があって、霊とまことによって礼拝すればどんな祝福が臨むのか、確かに説明できるでしょう。もちろん、知識的にだけ教えるのでなく、皆さん自身が心から礼拝して、礼拝の喜びを味わう人にならなければなりません。そうするとき、皆さんが伝える礼拝の喜びと大切さが子どもたちの心にも感じられて、心から礼拝したくなるのです。
皆さんが真理そのものを心に耕せば、体系的に説教できなくても、話が上手でなくても、相手に恵みを与えることはできます。そのつど言うべきことを聖霊が思い起こしてくださいます。しかし、教える使命を持っている方なら、「聖霊が働かれるから、霊的な面だけ備えればいい」と思うのでなく、知識的に、体系的にも備えなければなりません。そうしてこそ、聖霊にももっとよく働きかけられるのです。
もちろん、どちらが大切かといえば、やはり霊的な武具を身に着けるほうが先です。闇を退けるのはただ光だけです。どのぐらい光が明るいかによって、闇を退けるかどうかが決められます。いくら流暢な言葉でアドバイスをしても、それによって子どもたちが変えられるのではありません。皆さん自身の心がみことばによって変えられた分、子どもたちに真理を悟らせることも、心を変えさせることもできるのです。
かといって、「私はみことばをしっかり身に着けていないから、教師をやめなければならないんだ」と、気を落としなさいという意味ではありません。主にいただいた尊い使命なので、この使命を果たすためにでも日々全力を尽くして、みことばによって変えられていきなさいということです。
今まで数多くのメッセージを聞いてきたのに、まだ御霊の人になっていない理由は、御霊の歩みに入るのが難しいからではありません。慕う心が足りなかったし、一瞬一瞬努力していなかったからです。メッセージを聞いた瞬間は恵みを受けたとしても、持続的にその恵みが保てませんでした。発見した罪の性質を引き抜くために祈っていたけれど、ある程度時間が経てば、気がゆるんで忘れてしまいました。ですから、長い時間が経っても、あまり変化がなかったのです。
今、もう一度決断して、一日一日自分の心を顧みて、みことばを守っていきますように。祈る時も、適当に時間を満たすのでなく、変えられるために切に慕って、主を呼び求めて祈らなければなりません。「父なる神様、私にゆだねてくださったあの子どもたちのためにでも、何としてでもみことばどおりに変えられなくてはなりません。どうしても真理を心に耕さなければ・・・。憐れんでくださり、強くしてください。」このように切なる心で火のように祈れば、父なる神がなぜ聞いてくださらないでしょうか。このようなみことばと祈りで、本当に教えるにふさわしい者だと認められるようお願いします。
愛する献身者の皆さん、力ある教会学校の教師になるためには、第二、肉の欠如を満たさなければなりません。
「肉の欠如」とは、人が成長過程で必ず経なければならないある過程を踏めなかったので、霊肉ともに欠けている分野のことです。この欠如はいろいろな面で現われます。心を守る意思力や決断力が極めて欠けていることもあります。善悪をわきまえる力が欠けていることもあり、相手の心や感情に共感できない情緒的な欠如として現われることもあります。外見や身なり、身だしなみや言葉つきなどが他人に拒否感を与えることもあります。もちろん、性分や知能、個性などに個人差はあるでしょうが、普遍的な基準にあまりにも達していないとき、「肉の欠如」と言うのです。
教師なら、子どもたちに信頼されて、手本にならなければなりません。主を信じない世の人々にも、「うちの教会学校の先生です」と、子どもたちが誇らしげに紹介したくなるような姿が備わっていなければならないのです。子どもたちの水準に合わせて理解して、感情が共感できて、話が通じる先生でなければなりません。保護者や学校の教師と話し合うことがある時も、皆さんの言行と外見が品良く信頼すべき姿なのか顧みますように。
肉の欠如自体がみな罪とは言えませんが、それがゆえにどうしても人が見て恵み深くない姿が出てくるようになります。また、肉の欠如が解決されていないため、時には罪を捨てていくことにおいて、深刻な障害物になることもあります。自分にこのような欠けたところがあるなら、必ず発見して直していかなければなりません。表情や身だしなみ、話し方の癖など、ささいなことまでも主の教育によって整えられていきますように。
もちろん、このようなことを自分で悟って捨てていくことはやさしくないかもしれません。どんなところが欠けているのかよくわからない時もあるし、わかったとしても、子どもの時から形成されたものなので、簡単に満たされないのです。しかし、みことばという武具を身に着けて、火のように祈っていけば、まるで鏡に顔を映すように自分の欠けたところが発見できます。どうすればそんなところを満たしていけるか、上から知恵も与えてくださいます。
また、皆さんの中に、ひょっとして肉的な学識が欠けていて、子どもたちを教えるとき、困っている方がいるかもしれません。新たに何かを学ぼうとしても、なまやさしいことでないと思うかもしれません。そのような欠如も、自分の知恵と力では難しいですが、聖霊の力と神の知恵によっては十分満たすことができます。教師としてどうしても必要なことなら、肉的な知識も絶えず努力しながら神によって強くされて、まんべんなく備えていくようお願いします。
愛する献身者の皆さん、力ある教会学校の教師になるためには、第三、霊の愛を実践しなければなりません。
霊的にみことばという武具を身に着けて、肉の欠如を満たすほど、御霊に属する心に変えられます。そうするほど、霊の愛が心に満たされます。その愛があれば、十分力ある働き人として使命が果たせます。
肉の愛を持っている人は相手の立場が理解できず、自分が見て良いものを与えようとします。また、自分が良いものをあげたから、自分の思いどおりに相手が反応することを期待しながら、焦って相手を変えさせようとします。そのように自分なりに熱心に努力してみたが、相変わらず相手が変えられなければ、気を落としてあきらめてしまうのです。おとながこのように自己中心的に対すれば、子どもたちはもっと失望して、前よりもっと傷ついて、心を固く閉ざします。
霊的に愛すれば、相手が自分の思いどおりにならないからといって、気を落としたり挫折したりしません。相手が悪い行ないをしても、さばいたり罪に定めたりもしません。その人がなぜそうするのか心を推し量って、本当に必要なものを知って、満たそうとします。肉の目で見るととうてい変えられにくく見える子どもも、信じて期待しながら最後まで変えられるように助けます。
最近、主日夕方のミニいやし集会をきっかけに多くの方が変えられましたが、特に子どもたちが変えられたという証しをよく聞いています。その証しの主人公の中には「本当にどうしようもない子だった」とか「とうてい変えられそうもない子だった」と言われることがよくあります。子ども自身も「私はもうだめだ」とか、「親も先生も私をあきらめたから、神様も私を見捨てられただろう」と思ったことも多かったそうです。
しかし、ミニいやし集会に一回、二回と参加しながら、心が変えられ始めたということです。霊肉ともに必要なものを満たして、何としてでもすばらしい天国に導こうとする心を感じるから、「私は見捨てられたのでないんだ。牧者は本当に私のことを愛しておられるんだ」と心が開かれました。命をかけてでも地獄から救い出したいと願う真実な愛を身近に感じたら、メッセージが心に入ってくるようになりました。まだ世に目を向けたい心が少しは残っていて、自分で変えられる力が足りないとしても、心に刻まれた愛のゆえに立ち直ります。その愛を思えば心が溶けて、何としてでも一生懸命に変えられようと自ら努力するようになったというのです。
しかし、いくら愛を与えるといっても、肉の愛を与えることは意味がありません。信仰を植えつけて、いのちを与える霊の愛でなければならないのです。いくら施しをして、関心をもって子どもたちの言うことに耳を傾けても、肉の愛では変えさせることができません。肉の愛を与えれば、しばらくは実が結ばれそうでも、時間が経つと実がないことに気づくでしょう。かえって子どもたちに肉に属するもの、間違った感じと感情を植えつけることもあります。主のしもべと教師はいのちと御霊に属するものを植えつけなければならないのに、かえって肉に属するものを植えつけてはいけないでしょう。教会学校の教師の皆さんの心に霊の愛を耕しますように。その愛をもって子どもたちを変えさせて、いのちを植えつけるようお願いします。
[結論]
愛する献身者の皆さん、聖徒の皆さん、信じる者には、どんなことでもできるようにされる神によって、強くされますように。「牧者は神の力を行なう方だから、あの子どもたちが変えられたんだろう」とだけ思ってはいけません。「私も牧者と心を一つにして、子どもたちを生かすように強くされよう」と霊的にチャレンジを受けなければならないのです。
教師だけでなく、指導教師も同じです。これまで皆さんも、自分なりに子どもたちのためにどうすべきかと、ずいぶん悩んできたと思います。あれこれの方法を考えてみて、肉的ないろいろな手段を使ってみたでしょう。
しかし、本当に皆さんにとって必要なのは霊的な力です。霊肉ともにみことばという武具を身に着けて知恵を受け、肉の欠如を満たして、霊の愛を実践しますように。それで、神によって強くされて、どんなことでもできる御霊の戦士にならなければならないでしょう。きょうのメッセージを心に留めて、みながまことの教師の資格を備えますように。それで、皆さんにゆだねられた子どもたちは誰でも、春の日差しに当たったつぼみがぱっと咲くようにいのちに満たされますように、主の御名によって祝福して祈ります。
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