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主日礼拝 メッセージ > 主日礼拝
主日礼拝
Title
   2018年祈祷課題② - 真心と全き信仰  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ヘブル10:22
Date
   2017-12-31


<本文>

<ヘブル10:22>
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」


<序論>

愛する聖徒の皆さん、GCN放送の視聴者の皆さん、きょうは2017年、最後の主日です。<詩篇48:9>に「神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました。」とあります。この告白のように、きょう私たちが主の宮に出て来て、一年間施された恵みを思い巡らすようになさった父なる神様に、すべての感謝と栄光をおささげします。
聖徒の皆さん、父なる神様は毎年私たちの教会に、一年間祈る、四つの祈祷課題を下さいます。2018年は特に、その第二として「真心と全き信仰」という祈祷課題を下さいました。心待ちにしているでしょうか。35年間、信仰の行軍をしている間、神様が「特別にしかじかのことを握って祈りなさい」と言われたことは必ず答えられました。あるいは、その答えを受けるための準備をさせてくださったのです。
もちろん、皆さんそれぞれの信仰の量りに応じて、答えのかたちは違うこともあります。しかし、確かなことは、答えられたと信じて祈るとき、皆さんが真心と全き信仰を持てるように、父なる神様が一年間強く導いてくださるということです。祝福が門の前に来ているこの時に、皆さんすべてが真心と全き信仰を持ち、大きい喜びにあずかりますように。


<本論>

愛する聖徒の皆さん、皆さんは真心と全き信仰をどれほど切に慕っているでしょうか。世の人が純金やまぶしく輝く最高額のダイヤモンドを持ちたがる心とは、あえて比べられないほど慕わなければなりません。その理由は何でしょうか。真心と全き信仰に変えられた結果として、万軍の主、私たちの父なる神にこの上ない愛をいただくようになるからです。
真心とは、皆さんがよく知っているように、偽りや移り変わりのない、きよくて真実な心です。これはすなわち、全く聖なるものとされた時の心です。全き信仰とは、この真心に変えられたとき、神が上から与えてくださる霊の信仰です。神の心と思いを推し量って従うので、神に喜ばれる信仰のことです。つまり、神を少しも疑わない、まことの信仰なのです。
神からいのちの息が吹き込まれていたアダムには「真心」という単語が要りませんでした。心が霊そのものだったからです。心に真理の内容物だけが満ちていたアダムはいつも神に従い、これで神にこの上なく愛されました。神が造られたすべての物の支配者として富と権勢を味わい、何より霊である神と交わりながら生きていました。
このようなアダムが罪を犯してからは、アダムの中に真理でない内容物が入れられ始めました。そしてアダムはこれ以上霊そのものではなく、真理と真理でないものが混ざっている「心」を持つ、肉の人になってしまいました。それで、神からいただいて味わっていたすべてを手放して、顔に汗を流してこそ糧を得られる、呪われたこの地上で生きるようになったのです。
アダムにとって最も大きい苦しみは、神と以前のように交わることができなくなったことでした。歳月が流れるにつれて、アダムの子孫、すなわち、人の子らの心はますます真理でないものに染まりました。神とはだんだん遠くなっていき、その代わり敵である悪魔・サタンと交わるようになったのです。
たまに、小さい時、親とはぐれて迷子になって、遠い国で養子縁組により他人をお父さん、お母さんと呼んで、実の親とは断ち切られて生きていく場合があります。心が真理でないものに染まって、敵である悪魔・サタンの子どもとなって生きていく人の子らも、実はそんな迷子のように数奇な人生を送っているのです。
あまりにも感謝なことは、私たちの神は愛なる父なので、このように失った子どもたちをあきらめなかったということです。ひとり子イエス様をなだめの供え物として犠牲にさせ、父と子の関係を回復させてくださいました。また、助け主聖霊を遣わして、人の子らが神をアバ、父と呼べるようにしてくださったのです。<ローマ8:15>に「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」とあるとおりです。
聖徒の皆さん、父なる神の愛はここまででしょうか。そうではありません。神の子どもにしてくださっただけでなく、真心と全き信仰を持って、父なる神とまことの愛を分かち合いながら幸せに生きていくように導かれます。この地上では、罪を犯す前のアダムのように、神の子どもとされた特権を味わいながら乏しいことなく生きることを望んでおられ、将来は天国を相続しますが、それも神の御座のある新しいエルサレムに入って来ることを望んでおられるのです。
このような父なる神の愛を切々と感じた方ならば、それだけ真心に変えられているでしょう。皆さんはどれだけ真心に変えられているでしょうか。ひょっとして、まだ道は遠いと感じている方がいるでしょうか。真心を持つことは皆さんすべてに向けられた、父なる神様のみこころです。私たちの神様は差別のない方です。誰々はできる、誰々はだめだと言われるのではありません。
また、父なる神様は移り変わることもありません。皆さんが真心を持ってほしいと思う心は30年、20年、10年前も、きのうもきょうも同じです。それでも、ひょっとして「他の人にはできるかもしれないが、私にはできそうもない。もう今は父なる神様も私をあきらめられただろう」このような肉の思いに縛られて、一歩も前に進めない方がいるでしょうか。決して移り変わりのない父なる神様の心を思い起こしてみますように。
今は、これ以上そんなふうに気を落としている時間がありません。私たちの教会に祝福の便りがより一層近づいているからです。恵みの雨を待っている人は、いつ雨が降っても、その雨水を受けられる器を用意しています。カナン聖殿、大聖殿の祝福が近づいているこの時、皆さんはすでに祝福を入れる器を用意していなければなりません。父なる神様は慈しみ豊かな方なので、私に、またこの教会に、約束された祝福を下さる時は、その祝福が満ちあふれて皆さんひとりひとりにまで及ぶようにされるでしょう。そのあふれる祝福を受ける器がまさに真心と全き信仰です。
皆さんの中にまだむさぼりがあって、世への憧れと移り変わる属性があるなら、真心とはかけ離れています。このような心の子どもに、神様は祝福を与えることはおできになりません。それがかえって災いになるからです。また、このような心には、全き信仰、すなわち「神様は私が求めるものは必ず答えてくださる」という信仰が与えられません。
この時間は、40年の荒野暮らしの末に、カナンの地を目の前にしても結局入れなかった人々について調べてみたいと思います。このメッセージが真心を持つことにおいて「自分の祈祷課題」とする分野を悟らせる鏡になりますよう、主の御名によって祈ります。

真心を持つために照らしてみる一番目の鏡は、最後まで移り変わる属性を捨てられなかったイスラエルの民です。
神は、エジプトのつらい奴隷生活の中でうめき、わめいていたイスラエルの民を憐れに思われました。それでモーセとアロンを遣わして、頑ななパロから解放させ、乳と蜜が流れるカナンの地を与えようとされました。
ところが、エジプトから出て来た民はほとんど毎日のように「飲み水がない、肉が食べたい、モーセとアロンが私たちをこの荒野で死なせようと、あんなに暮らしやすいエジプトから連れ出した」と絶えずつぶやきました。分かれた葦の海を乾いた地のように渡らせて、マナとうずらを食べさせてくださってもその時だけ。心が何度も変わってしまい、つぶやいたのです。自分の心がこのように絶えず移り変わるので、誠実なる神の約束もやはり信じられなかったからです。
こんな民であっても、神はモーセをご覧になって寛容を尽くされ、結局、40年の荒野暮らしの末に、カナンの地の門の前まで導いてくださいました。このような瞬間でも「飲み水がない、行く道があまりにも険しい」と不平を言う人々がいました。それで、多くの人が祝福の地を目の前にして、約40年もの荒野の旅のかいもなく、燃える蛇がかみついて死ぬなど、あまりにもむなしい最期を迎えなければなりませんでした。
聖徒の皆さん、皆さんは万民教会で霊のみことばをたくさん聞きました。神様がきのうもきょうも同じように現してくださるしるしと不思議、力のわざをたくさん見て体験しました。
しかし、皆さん自身が移り変わる肉の属性を脱ぎ捨てなければ、皆さんが期待する祝福をいただくことはできません。喜んで感謝していても、また忠実に仕えていても、自分の気分によって、状況によって、不平を言って平和を壊すので、祝福の器をひっくり返してしまうからです。いくらカテゴリー5の超強力ハリケーンを退ける、途方もない神の力を見せて信仰を植えつけても、移り変わる心がその信仰をカテゴリー5のハリケーンのようにさらってしまうので、私はもうこれ以上何をすればよいのでしょうか。
したがって、新年には必ず、いやきょう今すぐにでも、移り変わる肉の属性を完全に脱ぎ捨てるようお願いします。そして「私もうちの教会に下さる大きい祝福に間違いなくあずかるだろう」と芯から信じられる全き信仰を持ちますように。

愛する聖徒の皆さん、真心を持つために自分を照らしてみる二番目の鏡は、最後まで世に目を向けたイスラエルの民です。
イスラエルを神の民としたとき、神は多くの戒めを与えられました。「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「あなたの隣人の家を欲しがってはならない」「カナンの住民のように忌み嫌うことを行ってはならない」と言ってはまた言われ、繰り返し諭されました。みことばだけでなく、罪を犯した人はみな動物をほふっていけにえをささげるようにして、罪から来る報酬は死であることも教えられました。また実際に、自分の部族と隣人が罪のゆえ荒野でさばかれて殺される姿を見てきました。
それでもイスラエルの民の一部は、カナンの地を踏む直前であっても、モアブの女たちと淫らなことをしました。偶像を拝む反逆を行いました。それで、二万人を超える人が神罰で死んでしまったのです。また、カナンの地を攻めて行くとき、アカンという人はむさぼりが動き出し、聖絶のものを盗み、石で打たれて死んでしまいました。
聖徒の皆さん、私は教会開拓以来1週も欠かさず、何が罪なのか、罪の結果は何なのかについて明らかに伝えてきました。それでも多くの聖徒が世を愛して、救われない罪、死に至る罪を犯しました。それゆえ私は牧者として懲らしめの剣を変わりに受け止めて、地獄の苦しみを間接的でありながら皆さんに見せることまでしました。数えきれない日々を涙でとりなしの祈りをささげながら、皆さんに訴えてきました。
神がイスラエルに下さったカナンの地は、乳と蜜が流れる豊かな地でした。同時に、さばかれるしかないほど住民の罪と悪がぎっしりある地でした。少しでも油断すれば、豊かさの中で安易になったり、快楽に染まったりするようになりうる所でした。ですから、神は長い間、荒野暮らしを通して、イスラエルを聖なる民として聖別するために訓練させたのです。
皆さんがまもなく入るカナン聖殿の時代も、同じように豊かな時代です。また、世の罪と悪の中で生きていた人々が無数に集まって来て、一緒にいるようになります。このような環境でも、皆さんの心はただ神様だけに向かい、天にあるものだけに向かうと、自信があるでしょうか。今は世を愛する心を完全に捨てて、このように百回聞かれても、百回全部「アーメン」と言える皆さんになりますように。

愛する聖徒の皆さん、真心を持つために自分を照らしてみる三番目の鏡は、高ぶって神により頼めず、征服戦争で完全な勝利を収められなかったイスラエルの民です。
神に全面的により頼んだカレブは、相続の地として与えようと約束された地をしっかり取りました。しかし、ダン部族のような一部の部族は自分たちの方法と力だけに頼ったので、下さった相続の地を完全に占めることができなかったのです。モーセの後継者であったヨシュアでさえも、神のみこころを伺う時は栄えましたが、神に伺わなかったので、カナンの人にだまされたこともありました。
聖徒の皆さん、特にかしらの働き人の皆さん、真心と全き信仰の実は最高の信仰である五段階の信仰です。このような目標を目指すなら、信仰の岩に立った、御霊の歩みに入った、または全く聖なるものとされたとしても、高ぶる理由が全くありません。真心に変えられていけばいくほど、さらにへりくだって神により頼んでいきます。
「高ぶり」は人の心の奥深くに根を下ろしています。しかし、本文<ヘブル10:22>には「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあります。初めの光と声に頼って、みことばと祈りを武具として身につければ、明白な悪はもちろん、自分では悟りにくい邪悪な良心と本性に深く隠されている悪まで、根こそぎにすることができます。来年はこのようなみわざを体験する方が多く出て来ますよう、主の御名によって切にお願いします。


<結論>

愛する聖徒の皆さん、真心と全き信仰を持つためには、心に割礼をしなければなりません。心の割礼とは何でしょうか。心を汚しては悔い改めて、しばらく洗ってはまたも汚すことではありません。洗っても洗ってもまた汚くなり、においがする包皮の肉を最初から切り捨てるように、罪と悪で汚されやすい心の包皮を完全に取り除くことです。<エレミヤ4:4>に「ユダの人とエルサレムの住民よ。【主】のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」とあるとおりです。
このように割礼した心に真理をたっぷり満たすと、真心と全き信仰を持つようになります。カナン聖殿の祝福を目の前にしているこの時、皆さんすべてがこのような真心と全き信仰を持ち、神様に永遠に属しますよう、聖なる主イエス・キリストの御名によって祝福して祈ります。

 
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