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Title
できるものなら、と言うのか
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
マルコ9:21-24
Date
2016-02-07
[本文]
[マルコ9:21-24]
「イエスはその子の父親に尋ねられた。『この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。』父親は言った。『幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。』するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」」
[序論]
愛する聖徒の皆さん、まず私について言ってください。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」このみことばは真理そのものである私たちのイエス様が言われたものです。「信じる者には、どんなことでもできるのです。不可能はありません。すべてができるのです。」どんなにすばらしいでしょうか。
それで、私たちの教会も開拓の時からこのみことばを標語のように講壇にかけておきました。このみことばが皆さんにそのまま実現されるなら、どんなことも問題になりません。
ところが、人々は生きていく間、自分や家族の病気で苦しむこともあります。詐欺にあったり、保証人になって物質の困難にあったりすることもあります。子どもたちがぐれたり、配偶者がすべきことをしないので精神的な苦しみにあったりもします。泣いても何の役にも立たない、我慢するからといって解決されるのでもない、お金でもどうすることもできないし、誰からも助けてもらえないこともあります。
きょうの本文には「息子の問題」をもってイエス様のところに出て来たある父親が一気に問題を解決される場面が出て来ます。1987年、主がこのみことば解き明かされたとき、どんなことでもできる信仰を持つための方法を教えてくださいました。この時間、みことばをよく糧として、どんなことでもできる信仰を持ちますよう、主の御名によって祈ります。
[本論]
愛する聖徒の皆さん、まず本文の状況を調べてみましょう。イエス様が三人の弟子だけを連れて高い山に行って、降りて来られた時でした。群衆のひとりが、息子をイエスのところに連れて来ました。その子はイエスを見ると、地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回りました。彼は幼い時から、口をきけなくする霊につかれて、話すことも聞くこともできなくて、これにてんかんまであったのです。一度発作が起こると、火の中や水の中に倒れて、それまでに死の峠も何度も越えました。このような息子のゆえ、父親はいつも不安と憂いをもって暮らしていました。
ところが、イエス様の噂を聞くようになったのです。「イエスという方が、さまざまの病気の人をいやして、見えない人は見えるように、話せない人も話すようにする。悪霊を追い出して、それどころか死んだ人も生き返らせた。」このうわさはこの父親にひと筋の希望の光になりました。「そんなに力のある方なら、うちの子も治せるかも」と息子を連れて、イエス様のところに訪ねて来たのです。
いよいよイエス様に会ったとき、申し上げます。「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」これは信仰の告白でしょうか? この父親が本当に信仰を持って出てきたなら、「イエス様はどんなことでもおできになりますので、かわいそうな私の息子をいやしてください」と言ったでしょう。それで、イエス様は彼が答えられる信仰を持つように、導いてくださいました。結局、彼はイエス様を通して息子の問題を解決されたのです。
聖徒の皆さん、病気の問題でも、事業の問題でも、家庭の問題でも、人には解決できないことでも、信仰によっては解決できます。イエス様が言われたように、信じる者には、どんなことでもできるからです。それなら、どんなことでもできる信仰を持つには、どうすればよいでしょうか?
第一に、信仰の告白をしなければなりません。
本文の父親がイエス様に「信じます。」と言ったように、私たちも主に信仰の告白をしなければならないのです。ところが、彼も初めは信仰の告白をしたのではありません。「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と消極的に助けを求めただけです。すると、真理そのものであるイエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」ということばで信仰を植えつけてくださいました。それで、はじめて「信じます!」という肯定の告白が出て来たのです。
ところで、実はこの告白も信じられる信仰があって出て来たのではありません。イエス様がはっきりと言われるので、その権威の前に霊的に圧倒された結果です。イエス様のことば、すなわち、光の権威によって闇が離れて、その父親の否定的な思いも制せられたので「信じます」と告白したのです。
それでもこの父親には、イエス様のうわさを聞いたとき、それを信じた良い心がありました。知識的な信仰はあったのです。聖徒の皆さんも最小限知識的な信仰を持っているなら、いつも肯定の告白をしなければなりません。
口の告白はまことに重要です。[ローマ10:10]に「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあります。心に信じる信仰ならそれでよいのに、どうして口で告白するというみことばも一緒にあるのでしょうか? 救いも答えも「信仰」によって受けますが、信仰を完全にするものが「行い」だからです。このように、肯定的な信仰の告白は全き信仰に至るための礎であり、最小限の行いなのです。
ところが、聖徒の皆さんの中にはたまに、答えられるために祈りながら、否定的な告白をする方がいます。「他の人はみないやされても私はだめです。」「私の事業の場はあまりにも問題がもつれていて、とうてい解決できません。」「うちの家族の誰々はとてもかたくなで、伝道できません。」「私は心の地も生まれつきの気も良くないようで、御霊の歩みに入るどころか、信仰の岩に立つのも大変そうです。」「できません。だめです。難しいです。大変です、できるでしょうか?」これもみな否定的なことばです。
イエス様はこのような人たちに何と言われるでしょうか? [マルコ10:27]「イエスは、彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。』」
父なる神様も言われています。[エレミヤ32:27]「見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、【主】である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。」
このような神様を信じる私たちが「できるでしょうか? だめです。難しいです」と言ってはならないのです。みことばを握って「神様にはどんなことでもおできになります。この神様を信じる私たちにも、どんなことでもできるのです」と告白しなければならないのです。神の全知全能なることを最小限、頭ででも知っているなら、口からでも告白してこそ心に信じられる信仰が芽生えてき始めます。
「ほとんどのことなら信仰で告白しますが、私の問題はあまりにも大きくてできません。」こう思う方がいるでしょうか? それなら、神様は小さい問題は解決して、大きい問題は解決できないということでしょうか? そうではありませんね。問題が大きくても小さくても、私たちの神様には何でもありません。
自分の口の否定的な告白で、全知全能なる神を力の小さい神にしてしまうなら、これはとても申し訳ないことです。反対に、サタンには訴えの種を与えるようなことです。サタンはその不信のことばを口実にして、否定的な思い、疑いの思いがもっと大きくなるようにします。
したがって、信仰の告白がまだ心から湧き上がるのではなくても、肯定的な告白をする皆さんになりますように。皆さんが口から出した言葉は消えないで、種になって育ち、実を結びます。肯定的な信仰の告白が種になって、結局「全き信仰」という実として結ばれることができるのです。
愛する聖徒の皆さん、どんなことでもできる信仰を持つには、第二に、「信じられる信仰」をいただかなければなりません。
本文の父親が「信じます!」と告白した後、「不信仰な私をお助けください。」と言いました。ちょっとおかしくありませんか? 確かに「信じます!」と言ったのに、どうして続けて「不信仰な私をお助けください。」と言ったのでしょうか? この父親はイエス様のことばの権威の前に、切実な心で「信じます」と言いましたが、率直に自分が「心に信じられる信仰」「答えられる霊の信仰」を持っていないことを認めたのです。
皆さんが一度この父親の心になってみてください。今どんなに切羽詰っているでしょうか。イエス様が息子をいやしてくださることを切に願っています。イエス様にはそのような力があることを信じています。しかし、そのような力が自分の子に与えられるためには、自分が信じられる信仰を見せなければならないことを初めて悟ったのです。それに、自分が準備した信仰はとても小さいということを、今やっと把握したのです。
たとえを挙げるなら、息子の病気を治す薬を探してあちこち訪ね回って、やっとその薬のある所を見つけたとします。ところが、実際にその薬を買おうとすると、用意したお金が全然足りなかったのです。父は息子のことを思うと、あきらめることはできません。うちの子にこの薬がどうしても必要なので、お助けくださいと哀願するしかないのです。土下座してでも切に助けを求めるしかない父親の心。まさにこの父親の渇望が「不信仰な私をお助けください。」という表現として出て来たのです。
イエス様はこの父親の心をみな読まれました。彼が息子の問題を解決していただくために、どれほどじりじりしながら訪ねて来たのか、どれほど苦しみもだえて来たのか、彼の性分も誠意も、切実さも、真実と謙遜も、心でみな読まれたのです。それで、結局イエス様の心が動いて、彼の息子からその霊を追い出してくださったのです。
ここで私たちは、心に信じられる信仰を持つためにはどうすべきなのかわかります。本文の父親のように、神の御前に届く誠意を見せなければなりません。もちろん、まずは罪の壁があってはならないのです。罪の壁がない状態で、神が心を動かすほどの誠意と神に喜ばれる行いを見せると、「信じられる信仰」をいただくことができます。
[ローマ12:3]に「信仰の量り」は「神がおのおのに分け与えてくださった」とあります。信じられる信仰、霊の信仰は自ら持つことができなくて、神が与えてくださってこそ持てるのです。心に信じられる信仰が与えられると、答えの確信がもたらされます。周りの環境にかかわらず「できる」という心になり、誰が何と言っても揺るぎません。結局、その信仰のとおりになるのです。
愛する聖徒の皆さん、どんなことでもできる信仰を持つには、第三に、答えられるまで、主を呼び求めて祈らなければなりません。
本文の父親もイエス様に「叫んで言った」とあります。イエス様が目の前におられるのに、叫ぶ必要があるでしょうか? それでも叫んで言ったとは、それだけ切実な心の表現です。これは、どんなことでもできる信仰を持つために、どうしても必要な行いです。
[エレミヤ33:3]にも「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」とあります。[エゼキエル36:36後半節~37]には「【主】であるわたしがこれを語り、これを行う。神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。」とあります。
したがって、私たちは主を呼んで祈りますが、切実に、答えられるまで、心に信じられる信仰が与えられるまで、続けて求めなければならないのです。
聖書を読むと、昔の信仰の人々も神の御前で主を呼び求めて祈りました。神の御子である私たちのイエス様もそうでした。死んだラザロを生き返らせる時も、大声で「ラザロよ、出て来なさい。」と叫ばれたのです。ゲツセマネで祈られた時は、どれほど苦しみもだえたのか、汗が血のしずくのように地に落ちた、と書いてあります。十字架につけられた時も、大声で「父よ。 わが霊を御手にゆだねます。」と祈られました。
私たちも主を呼び求めて切実に祈らなければなりません。いつまででしょうか? 答えられるまで! 行く途中で立ち止まるなら、全く行かないほうがましです。初めに信仰を持ってスタートしたなら、最後まであきらめずに祈らなければなりません。不可能なことを答えられたいなら、それほどの忍耐と労苦で公義を積まなければならないのです。
皆さんが主を呼んで祈り続けていくと、だんだん答えられる器を備えるようになります。主を呼び求めて祈ると御霊に満たされ、「あなたが答えられるためには、これを悔い改めなければならない。こう行わなければならない。こう蒔かなければならない。」このように聖霊の声を聞いて働きかけられるようになります。変わらず主を呼んで祈る神の子どもに、聖霊が答えの道を教えてくださるのです。このような聖霊の声と働きに聞き従うと、神が「信じられる信仰」を注いでくださいます。
一方、聖霊の働きに従わないなら、いくら主を呼んで祈っても、答えの器が備えられていないので、信じられる信仰も与えられないのです。ですから、主を呼び求めて祈って、器をしっかり備え、答えと祝福で栄光を帰す聖徒の皆さんになりますように。
[結論]
愛する聖徒の皆さん、[ヘブル13:8]に「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」とあります。私たちのイエス様はことばが人となって来られた方であり、ことばはすなわち神であります。ですから、このことばが私たちの前にあるとは、イエス様が私たちの前におられるのと全く同じです。
この父親のように、私たちも信仰をもって告白して信じられる信仰が与えられるまで主を呼び求めて祈るなら、どんな願いでも答えられます。約二千年前、イエス様に会って答えられるのと、今、このみことばを信じて答えられるのは全く同じなのです。しかもこの教会には、聖書が真実であることを確かにしてくれる神の力ある証拠が無数にあります。
したがって、聖徒の皆さんは今年「旧正月」をきっかけに、もう一度信仰が跳躍して信仰のとおりに答えられますように。そんな皆さんを通してあちこちで神の栄光が現れますように、主の御名によって祝福して祈ります。
愛する聖徒の皆さん、明日になると韓国の旧正月です。祝福あふれる年になりますように。
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