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主日礼拝 メッセージ > 主日礼拝
主日礼拝
Title
   祝福 (3)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   申命記28:1-7
Date
   2014-05-04


[本文]

[申命記28:1-7]
「もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、【主】は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、【主】の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、入るときも祝福され、出て行くときにも祝福される。【主】は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。 」


[序論]

愛する聖徒の皆さん、「祝福」三回目です。
前回まで、祝福をいただくための条件、第一、「みことばと命令」について調べました。「神のことばと命令をどれほど心から願って守って行ったのか」自らチェックしてみますように。神を愛して信仰のある人は、神のことばと命令に肉の思いを働かせず、ただ「アーメン」と従います。

愛する聖徒の皆さん、祝福をいただくための条件、第二は、「まことの従順とは何か」ということです。
本文[2節]に「あなたがあなたの神、【主】の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」とあります。本来、まことの意味での「従順」とは、まさに現在の状況では行えないこと、すなわち、現実を見れば行えないことを信仰の目で望んで行うことです。言いかえれば、できることを行う次元でなく、できないことを信仰によって行う次元です。人間の常識や知識と理論に合わないので、思いを働かせるならとうてい従えないこと、まさにこのようなことに従ってこそ、それがまことです。
しかし、実際、人の目には従えないようなことでも、神のほうから、神の御目には、従えないものでは決してありません。人が世で入力した知識と経験、思い、考え方は霊の信仰を持つのに障害物になります。それで、その限界を超えることにあえば、できそうもないように見えるけれど、全知全能の神にはおできにならないことがありません。
聖書で従順の模範になった代表的な人物として、信仰の父アブラハムが挙げられます。彼は神のことばに従って、その名が祝福となり、神の友と呼ばれました。[創世記12:1-2]で、神がアブラハムに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」と仰せられました。
皆さんなら、このようなとき、どう行いそうでしょうか?
[ヘブル11:8]を読むと、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」とあります。この時、アブハムは75歳であり、子どもさえいなかったアブラハムにとって、家族と親戚はこの上なく大切で近い存在だったでしょう。しかも行くところを決めてくださったのでもなく、ただ生まれ故郷、自分の父の家を出なさいと命じられるので、人の思いを働かせるなら、本当に従いにくい状況でした。しかし、アブラハムが神のことばを信じて従った結果、信仰の父となって、その後、あふれるまでに祝福をいただけたのです。
それなら、皆さんはこれまでどんな姿だったのか、アブラハムと比べて顧みますように。「自分の思いと少しだけ合わなくても、自分の利益に少しだけ合わなくても、自分の計画と少しだけ合わなくても」どうだったでしょうか?
今でこそ、聖徒の皆さんが霊の流れに乗って、自発的な従順の行いを現していますが、実は少し前まででも、皆さんの中に不従順の姿が広がっていました。ここからも不従順、あそこからも不従順になり、いつも不従順の中で生きていると、自分では不従順であることさえ悟れない場合がほとんどでした。
もちろん不従順も、わざとの場合と能力が足りないからの場合に分けられます。だが、能力が足りないからの場合でも、従おうとする心で努力さえしないなら、これもやはり、わざと不従順になるのとあまり変わらないのです。
皆さんの過ぎた日の姿がどうだったのか、もう一度悟って、完全に変えられるために、きょうは不従順の七つのタイプを簡単に調べてみましょう。

第一、能力が足りないので不従順になるケースです。
目上の人が何かを指示したとき、たとえ従おうとする心があっても、それを履行するほどの知識や経験、能力がなくて、結果的に不従順を生むようになるケースです。このような場合、ひょっとして指示した人の期待にとうてい答えられないことを知っているので、全く初めからやってみようと努力さえしないこともあります。
しかし、いくら能力が足りなくても、自分の能力の中で最善を尽くして、その限界を一つ一つ乗り越えていこうとする従順の姿勢が何よりも大切です。主にあってはできないことがないので、すべてを神にゆだねてより頼むなら、神の恵みによって強くされて、自分の力以上のこともやり遂げるのです。

第二、できるのに従わないケースです。能力がないのではないのに従わないことです。
こういう人はしたくない怠惰な心があるため、何か指示や命令されることを嫌うのです。また、自分が前に出てしたことがうまくいかないとき、自分に帰ってくる責任を心配して、いっそ口を閉じてじっとしていたり、積極的に出なかったりします。そうしながら、後で指摘されたり責任を負うべきようなことを作らないから、自分は問題にならないと思うのです。これが不従順だと思いもしません。
しかし、こういう人はその心が悪いだけでなく、結局、自分の限界を超えて発展することもできないことを悟らなければなりません。主人の心になって自分のことのように思うなら、このような姿は出てこないのです。さらに神の国のためなら、自分のことよりはるかに心と最善を尽くして、当然努力しなければならないのです。

第三、自分ができないから、そのまま事をやめるので生じる不従順です。
こういう人は従おうとする心がないだけでなく、責任感そのものがないのです。ある事を自分ができない時には、真理から外れない範囲で他の方法を使ってでも、目上の人の指示事項や事をやり遂げるために最善を尽くすのが当然です。たとえば、自分にできない事が与えられたとき、もっとよくやれる人に助言や協力を求めたり、またはゆずってその人に功を返すことができなければなりません。
ところが、欲をもって自分がしようとして、結局、事を台無しにする場合が起きます。これは能力が足りないだけでなく、私心と欲、自分だけが認められようとする悪い心まで加わって出てくる不従順です。神の国を建て上げるのにも障害物になります。
ところで、ある場合は、他の人に助けられて事をやり遂げてからは、それを自分の功にだけ返すことも見られます。これは自分が目立ち、認められたい心があるからです。こういう人が、結局は他の人に功が返されそうなら、いっそしないでただやめてしまったりするのです。

第四は、自分の思いに合わないから不従順になるケースです。
神はヨナに、ニネベに行って、彼らに罪を悔い改めるように叫びなさいと命じられました。しかし、ヨナは敵国のニネベが滅びることを願ったので、神のことばに顔を背けて、ニネベと反対にあるタルシシュに逃げます。
このように自分が正しいと思う「自分の義」によって不従順になることがあります。この場合は、肉の思いを打ち砕いて、結局従える時まで訓練がずっと伴うしかありません。神のみこころなら、自分の目にいくら正しく見えても、自分の意思を曲げるのが従順の基本姿勢です。

第五、従うといっても、結局自分の思いに合わせるから不従順になるケースです。
皆さんの中でも多くのケースがこれに当たります。本人は従っていると思うでしょうが、結局、自分の思いに合わせてするので、結果的には不従順を生んでしまうのです。
[第一サムエル15章]を読むと、神がサウル王にアマレクのすべての人と家畜を聖絶しなさいと命じられたのに、サウルはアマレク王アガグと肥えた羊や牛の最も良いものなど、すべての最も良いものを残して、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶しました。サウル自分は従ったと思ったけれど、欲をもって自分の思いに合わせて行ったのです。これによってサウルは結局、神から捨てられるようになります。
このように自分の悪、すなわち、欲や私心、情欲があれば、みこころを知っていても、結局自分の思いから不従順を生むようになります。ですから、従うべきことをいくら聞いて知っていても、自分の中に悪があるほど従えないことを悟らなければなりません。悪を捨て去ってこそ、自分の思いに合わせるのではなく、神のみこころに合わせて完全に従えるのです。

 
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