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主日礼拝 メッセージ > 主日礼拝
主日礼拝
Title
   信仰を測ると(24)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   エゼキエル47:1-5
Date
   2013-12-22


[本文]

[エゼキエル47:1-5]
「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。 」

[第一ヨハネ5:16]
「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」


[序論]

愛する聖徒の皆さん、
[ルカ18:8後半節]で、イエス様は「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と言われました。今がまさにそのような時代です。全世界でクリスチャンの数が減っています。本当にもどかしいことは、主を信じていた人の一部が信仰から離れている現実です。それほど世が悪くなって、主を信じる人までも罪の誘惑に負けて主を裏切るのです。
その中には、教会の指導者で働き人だった人も含まれています。主を信じる人として決してしてはならない、すなわち、救われない重い罪を繰り返し犯して主を裏切ることがあるのです。信仰が弱い初心の者と違って、主のしもべや働き人がこんなことをする場合、教会と聖徒の信仰まで揺らいで破壊されます。教会の中に罪がパン種のように広がったりもします。ですから、どうして彼らの罪が軽いと言えるでしょうか。聖書ではこのような罪を「死に至る罪」と名づけています。必ず死ななければならない罪だと戒めているのです。
きょうから、死に至る罪に当たる、代表的な三つについて調べてみます。皆さんすべてがこのような罪に落ちないように、心の着物を力いっぱい洗ってください。それで、「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と聞かれる主に「真実な信仰がここにあります」と大胆に告白しますように、主の御名によってお願いします。


[本論]

愛する聖徒の皆さん、視聴者の皆さん、信仰歴が短くない働き人が救われない重い罪を犯す場合、その罪が死に至る罪になると伝えました。「死に至る罪」に当たる代表的な場合、三つを聖書から調べてみましょう。

第一は「神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与えること」です。
これについては[へブル6章]に記されています。[へブル6:4-6]に「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」とあります。
イエス・キリストを受け入れれば、神が心に聖霊を賜物として下さいます。この聖霊に励まされて、恵みのうちに信仰生活をしていけば、驚くべき体験をするようになります。天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わうようになるのです。
聖霊を受けると、自分が罪人だということと、二千年余り前にこの地上に生まれたイエスという方が自分の救い主であることが信じられます。また、創造主の神が生きておられ、天国と地獄があることも信じられます。聖霊を受けると同時に、病原菌が焼き尽くされて、病気がいやされる体験をすることもあります。
この教会では、神の力あるわざによって、聖徒の不治の病と難病がいやされることも多くあります。また、聖霊に助けられて、霊的に深いみことば、すなわち「善」と「愛」についてのみことばを心で悟ることもできます。
ある人は、特別な恵みのうちに霊の目が開かれて、天国と地獄など、霊の世界を見ることもあります。聖霊に満たされてさまざまな問題が解決されて、御霊の賜物を体験したりもします。
その時は「神の国と義のために、教会のために、命をかけて忠実に仕えます」と告白します。神の働きならあれこれえり好みせず、熱心になって献身します。そうするといつの間にか人に認められ、務めも受けます。
神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与えることは、このように聖霊にあずかる者となり、御霊に属するものの味を知ったうえで、再び世を友にして堕落する場合のことを言います。熱心だったのに、ある瞬間、もう一度世にあるものが心に入って、世の人にも劣る生き方をするのです。情欲に従って物質、名誉、快楽を追い求めて、不義と不法を行いながら、獣にも劣る生き方をしたりします。
このような人を見て、世の人は「教会に通っても何になる。そんな人のほうが悪かった」と、よけいに教会について悪口を言ったり、後ろ指をさしたりもします。神の栄光をひどく遮ったのです。それどころか、サタンのしわざを強く受けて、あらゆる策略をたくらんで教会に立ち向かって、倒そうとすることもあります。
もちろん、初心の者の中に、信仰が弱くてしばらく世に落ちていて、[ルカ15章]の放蕩息子のように悔い改めて帰ってくることがあります。今、このような場合を指して、死に至る罪を犯したと言っているのではありません。主のしもべ、あるいは教会の働き人に立てられるほど信仰が認められた人が、また、一生報いても全部報いきれない大きい恵みを受けて、とうてい否定できない聖霊のみわざを直接体験した上で、神を裏切る場合を言っているのです。
このように聖霊にあずかる者となったうえで、堕落してしまって、もう一度主に恥辱を与えた人は、心に悔い改めの霊が与えられません。度の過ぎた悪が神の栄光を遮ったからです。悔い改められないから罪が赦されないし、結局、死に至るしかないのです。
聖書の人物のうち、一時イエス様の十二弟子のひとりだったイスカリオテ・ユダがこれに当たります。たとえ聖霊を受ける前だったとしても、ユダはイエス様に付き従って、多くのしるしと不思議を見ました。また、彼がイエス様のすぐそばにいる十二弟子のひとりになるまでに受けた恵みも、決して小さくなかったでしょう。そうでなければ、どうして自分の人生を全部後にして、イエス様について行けたでしょうか。
このような彼が、恩人であり師であるイエス様を、この世に救い主として来られた神の御子を、銀貨三十枚で売り渡しました。物質と権力への欲を捨てられなくて、また、悪で目が隠されていて、恵みに背いてしまったのです。
ユダは後で後悔して、もらったお金を返そうとしました。しかし、悔い改めの霊が与えられなくて、罪が赦されませんでした。結局、ひどい苦しみに耐えられず、自殺してしまったのです。
皆さんの中で多くの方が、1998年、99年の事を通して、このような罪がどれほど大きいかを悟ったでしょう。誰より神様を愛すると言って、いのちを尽くして忠実に仕えると言っていた人たちが、どうしたでしょうか? さまざまな不義を行っていて、教会にひどく害を与えて、多くの魂を死の道に引いて行きました。
聖徒の皆さん、自分の罪のために十字架につけられて、むごたらしく死なれたイエス様を、もう一度、それも自分の手で十字架にかけるなら、その罪をどうやって、誰を通して赦していただけるでしょうか?
ですから、皆さんは必ず心に割礼をしなければなりません。[エレミヤ4:4]に「ユダの人とエルサレムの住民よ。【主】のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行いのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」とあります。
何がイエス様を十字架にかけたのでしょうか? まさに罪です。私たちが主を知る前に犯した罪と咎がイエス様をむごい十字架にかけました。今、主を受け入れて罪が赦された私たちは、この汚れた罪に染まっていた心の包皮を完全に取り除かなければなりません。
そうしないで、再び以前の生活を追い求めて、罪と悪のうちに生きるなら、十字架の尊い血がむだになります。さらにその罪と悪がもう一度主を十字架にかけるようになるということです。
ですから、もう一度世に目を向けるようにして、肉に従って罪を犯すようにする罪と悪を完全に脱ぎ捨ててください。それで、主をもう一度十字架にかけることが決してあってはいけません。むしろ多くの人を罪と悪から救い出して、十字架につけられた主の涙をぬぐわせていただく皆さんになりますように、どうかお願いします。

聖徒の皆さん、視聴者の皆さん、死に至る罪、第二は「真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けること」です。
これについては、[へブル10:26-29]に記されています。「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」とあります。
ここで、「ことさらに罪を犯し続ける」とは、神が赦さない罪だと知っていながらも、故意に続けてしていくということです。
[第二ペテロ2章]に、このような人たちについての説明がとても詳しくあります。ペテロは聖徒に、教会を罪に染めていたにせ預言者に気をつけなさいと戒めました。にせ預言者は好色で、偽りで聖徒を誘惑して私欲をむさぼるなど、あらゆる不正を行いました。
彼らを「にせ教師」と呼んでいるのを見ると、うわべでは彼らは教える立場にいる人たちでした。福音を知らない初心の者ではありませんでした。そうでありながらも、その福音を勝手に変えて、救われないひどい罪を先に立って繰り返し犯していきました。
[第二ペテロ2:10]に、彼らは「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たち、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。」とあります。また、[14節]には「その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。」ともあります。
続く聖句を読めば、これに当たる聖書の人物としてバラムが出てきます。エジプトから出たイスラエルの民がモアブの地に着いて、カナンの地を目前にしていた時でした。モアブの王バラクは自分の国にとって脅威的な存在であるイスラエルを弱めようと、バラムにイスラエルを呪ってくれと頼み込みました。
バラムは初めは断りました。バラムは神と交わっていて、祝福と呪いの権利も持っていました。確かに神のみこころを知っていました。神の民を呪ってはならないということを知っていたのです。しかし、バラクがつかさたちに贈り物を持たせてやって、再び頼んだら、誘惑を退けられませんでした。
このように不正に加担しようとすると、神、主は御使いを遣わしてその道を塞ぎました。しかし、バラムはその主の使いを見られませんでした。むしろ一匹の動物にすぎないろばが主の使いを見て、立ち止まりました。バラムはこのような状況を悟れずに、かえってろばを打ちながら急きたてます。これに神がろばの口を開いて、悟らせてくださいます。この体験を通してバラムは結局、神、主の命令どおりに、イスラエルに向かって呪いではなく、祝福だけを祈りました。
しかし、富、権勢、名誉へのむさぼりを完全に断ち切ったのではなかったので、イスラエルを呪う代わりに、モアブにイスラエルに害を与える策略を教えました。それは、イスラエルの男たちをモアブの神々にいけにえをささげることに招くことでした。イスラエルの男たちはこの策略に落ちてしまいます。招かれて行った所で、不品行と偶像礼拝をしたのです。これに対する呪いとして、イスラエルの民が神罰で二万三千人も死んでしまいました。
[黙示録2:14後半節]に「バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。」とあるように、この悪巧みがまさにバラムから出たのでした。バラムは神のみこころが何か知っていながらも、また、これを神が繰り返し悟らせてくださったのに、不義の報酬を愛して妥協していきました。その結果、死の道に向かってしまったのです。イスラエルがカナンの地を征服していくとき、バラムもむごたらしく殺されたのです。
バラムの罪が彼自身を死に引いた理由は何でしょうか? 神のみこころと正しい道が何かを明らかに知っていながらも、逆らってはまた逆らったからです。このように行う人たちについて、[第二ペテロ2:20-22]では、こう言っています。「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、『犬は自分の吐いた物に戻る』とか、『豚は身を洗って、またどろの中にころがる』とかいう、ことわざどおりです。」
私たちは今日、初代教会の時代とは比べられないほど罪と悪がはびこっている時代に生きています。ですから、なおさらこのような罪と悪に対して、自らを戒めなければなりません。
犬が食べた物を吐き、それをまた食べては吐くことを繰り返すように、豚をいくらきれいに洗っておいても、また汚いどろの中にころがって汚れるように、罪を犯して悔い改めてから同じ罪を繰り返し犯すなら、どうしてそんな人を救われたクリスチャンと言えるでしょうか。
ところが、皆さんも見てきたように、現実はどうだったでしょうか? これほどみことばどおりに生きようと努めているこの教会の中にも、このように死に至る罪を犯してはまた犯して、悔い改めると言ったのに、また犯す人がいました。
その数が思ったより多かったので、私は大きいショックを受けるしかありませんでした。私が30年以上聖潔を叫び続けている間、かえって情欲に従って不品行をして、忌み嫌うべきことをした人がいました。信仰の兄弟を欺いて不義の報酬を手にするなど、さまざまな不正を行いながら、教会だけ行ったり来たりする人も、意外に多くいました。このように救われない重い罪を犯した人たちの中に、主のしもべ、レビ族、かしらの働き人も少なくなかったということが、とうてい信じられませんでした。
とりなしの祈りを求めた人の悔い改めの手紙には、口にすることさえ恥ずかしい罪と、私が顔と名前を知っている人がことさらに犯し続けてきた罪が書いてありました。「信仰が少しでもあるなら、いや、良心が少しでも生きているなら、どうしてそんな悪を行えるんだろう」と、初めは大きなショックに襲われました。もちろん、今は父なる神様が何度もくださった罪の赦しの機会によって、ほとんどが悔い改めて立ち返りました。

愛する聖徒の皆さん、これから、私たちはこのような過ちを繰り返しては決していけません。イスラエルの民はカナンの地を目前にして、不品行と偶像礼拝に巻き込まれました。その結果として多くの民が死に向かったのです。ですから、カナン聖殿建築を目の前にしている今、罪に対してさらに目をさましていて、慎み深くしていてください。これがこの教会が父なる神様に栄光を帰せる道であり、皆さんに備えられた救いと祝福をいただける道です。今は、主を十字架にもう一度かける、死に至る罪に加担しては絶対いけません。これを心に留めて、ただ新しいエルサレムに向かって前進だけしてください。
このように死に至る罪には赦しがないと言うと、ある人はこう言うかもしれません。「主は七度を七十倍するまで赦しなさいと教えられたのに、これと違って主は罪人を何度も赦さない恐ろしい方なんですか?」
これは愛が豊かであると同時に、正しく、やみは少しもない神様を誤解したのです。または、罪と悪から離れたくない人が、さばきの恐れを払いのけようと、すり抜ける隙を狙っているのです。
聖書には反対のようなみことばが連れ合いになって、みことばの意味を完全にすることが多くあります。赦しについてのみことばもそうです。「七度を七十倍するまで赦しなさい」とは、自分に罪を犯した相手に対して無限のあわれみといつくしみ深くありなさいという意味です。しかし、これは、死に至る罪に適用できるみことばではありません。
聖書に、救われない重い罪を犯して立ち返らない人が、しかも立ち返ろうともしない人が救われることができるというみことばは、ただの一節もありません。赦しと救い、神のあわれみといつくしみは、罪から徹底的に立ち返った人、また、立ち返ろうと血を流すまで罪と戦っている人にだけ与えられる恵みです。
神を愛したダビデ王はどうだったでしょうか? ダビデ王は人の妻を娶って姦淫を犯しました。また、これを隠そうと、正しい民を殺すまでしました。しかし、預言者ナタンが来て罪を指摘すると、ダビデは直ちに悔い改めて立ち返りました。このように立ち返ってから一生、神の御前に罪を犯さないために、口にするひと言もむやみに出しませんでした。神は、このように罪を深く悔い改めて、ひどく申し訳ないと思うダビデを愛して、重い罪を全部赦してくださいました。
まことの悔い改めとはこのようなもので、これに対しては神は限りないあわれみと慈しみを施してくださいます。もちろん罪の報いは受けなければならなかったので、訓練が伴いました。しかし、この訓練は神が下さった祝福でした。訓練を通してダビデがきずもしみもない人に変えられることができたからです。
ダビデがこのように行った反面、サウルはどうだったでしょうか? 預言者サムエルが罪を指摘したにもかかわらず、悔い改めないで、ことさらに罪を犯し続けていきました。結局、神に退けられました。
このように神を信じると言いながらも、ことさらに、すなわち、知っていながらも繰り返し罪を犯していく人は、神が御顔を背けてしまわれます。御霊が消され、良心が麻痺して、悔い改めることもできなくなるのです。結局、その名前がいのちの書からぼやけて救われなくなるということです。その代わり、その名前が地獄にある「死の書」に書き記されます。
[黙示録20:12]を読むと、最後の審判の時、天国と地獄、また報いと刑罰の判決の根拠になる、いのちの書とその外の書物が登場します。「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」とあるとおりです。
名前と行いがいのちの書に記されないなら、どこに記されるでしょうか? いのちと反対である死の書に記されるでしょう。
ひょっとして、心に割礼をしないから罪の誘惑に勝てなくて、もう一度罪と悪の沼に足を入れた人がいるでしょうか? 今からでも抜け出してください。心の底から罪から立ち返って、父なる神様に赦しとあわれみを求めてください。罪の性質まで完全に引き抜いて、その罪から徹底的に立ち返った証拠を見せてください。
たとえ死の書に名前が記されたことがあっても、こうすることで、今はその痕跡までも完全に消さなければなりません。皆さんの能力は極めて小さくても、主の尊い血の力では十分罪と悪から離れることができます。私たちのイエス様が最後の一滴の水と血まで注ぎ出してくださったのは、私たちが罪と悪を脱ぎ捨てられるように強くしてくださるためだったからです。また、御霊が代わりにうめきながら祈ってくださるから、この愛を握って死力を尽くしてでも、死ではなくいのちの道に向かいますように、主の御名によってお願いします。

 
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