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Title
信仰の量り(18)-信仰の四段階(7)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ロマ 12:3
Date
2006-04-23
<本文>
<ローマ12:3>
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ペルー、ホンジュラス、ボリビア、エルサルバドル、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジェリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど全世界と全国の4、400余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通して礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん、
きょうは「信仰の量り」十八番目の時間で、この間に続き、信仰の四段階を語ります。
信仰の四段階は神様をこの上なく愛する段階であり、心の罪と悪まですべて脱ぎ捨てて、魂に幸いを得ていて、すべての事に祝福を受ける段階だと言いました。
このように信仰の四段階に入ったということは、「清い器が準備された」というのと同じです。清い心の器は準備されましたが、その器に入るべき霊の内容物がまだ全部満たされたことではありません。ですから、清い器を準備した人は、すみやかにその中に霊の内容物をぎっしりと満たしていかなければならないのです。
この間は、信仰の四段階に至ると、心に残った罪と悪はなくても、「肉の痕跡」のようなものが残っていると説明しました。キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためには、こういう「肉の痕跡」までも脱ぎ捨てて、真理の実を完全に結ばなければならない、と申しました。
ところで、時々人の目には、信仰の四段階の入り口と信仰の三段階が似ているように見える場合があります。
たとえば、信仰の三段階の終わりの人が他の人の仕事に干渉して、万事に自分の思い通りにしようと強いることは、概して自分の悪の中から出てくることです。相手が苦しくて気を悪くしても、自分の益に合わせよう、自分の意志を貫徹させようとする心が残っているからです。
こういう人は、自分が指示するのに目下の人が従わないなら、気を悪くして悪い感情が生じ、それを心に入れておきます。それによって、相手に対するとき、顔色が変わったり、傷つける言葉を言ったりして苦しめることもあります。
しかし、四段階ではこういう悪い心がありません。かりに目下の人に事を任せたのに、度々干渉して相手を強権的につかさどろうとしても、自分に私欲があるからではありません。自分の益のために他の人をつかさどろうとするのではなく、神様の御心をもっとよく成し遂げるために、真理どおり行うことを願うだけです。このような時、目下の人々が気を悪くして従わなくても、相手に対して残念な心はあっても、それによって人に悪い感情を持ったり悪い心を抱いたりするのではありません。
この時、表から見ると、信仰の三段階の終わりの人が自分の義と私欲で他の人をつかさどろうとするのとあまり差がないように見えますが、神様の御前では二人の心は全く違います。前者はその心と行いが全部悪いと言われますが、後者は、まだ完全ではないだけで「悪い」と罪に定められるのではありません。
ただし、いくら悪い意図がなかったとしても、自分がもっと広く見なくて、もっと徳を持って行わなかった分野については、必ず悟って変えられなければなりません。
信仰の四段階に入ってきても、さらに発展して全き霊に入るためには、こういう分野で絶えず自分を発見して、自分を打ち砕いて従わせる努力が必ず必要です。いつもへりくだった心で自分を顧みて、神様の完全なみこころが何か見分けられてこそ、キリストの満ち満ちた身たけにまで達することができます。
私はある事を一度任せたら、全幅的に担当者に任せて信じます。もちろん、その担当者が助けを求める時は、力が及ぶところまで支援します。しかし、私の方でその人がしようとする方式を無理に変えようと強いることはなく、私の心にぴったりな方法でしないと、途中でその使命を奪って他の人に与えたこともありません。
私が直接干渉すれば、結果がはるかに良くなるかもしれないし、試行錯誤もないかもしれませんが、それでは働き人を育てることはできません。働き人が自分の力量の中で最善を尽くしながら、時には失敗を通しても学んでいくので、神様の御心を見分ける方法を悟るようになり、牧者と一つになって働ける能力を育てるために、最善を尽くして配慮します。
その過程で働き人たちによって間違いが出ると、その結果は私が責任を負わなければなりません。しかも間違った働き人たちが力を失わないように励まして慰めることも、結局私が担当することになります。
ですから、このように働き人ひとりを育てるためにも、心に悪がないことだけでは足りないのです。愛、柔和、平和、善意、寛容、自制、こういう霊的な実が豊かに結ばれてこそ可能です。
私たちの主の心がまさに、こういう実がすべて結ばれた完全な心です。そして主は、主の子どもたちもこのように完全であることを願われます。それで、霊に入ってきた子どもであっても、ただ罪のない状態で満足するのではなく、さらに完全な心の実を結べるように、親しくつかさどられ、練って行かれるのです。
ところで、こういうみことばを聞く時に、皆さんが注意しなければならないことは、自分の心を自ら見分けられなくて錯覚してはいけない、という事実です。心の悪をすべて捨てたのでもなく、自分の益を求める心、自分の義で行いながらも、「私は私の益を求めるのではなく、神の国のためにそうした」と、自分の悪をおおう人々がいます。
そのような人々は、自分の心を徹底的に顧みなければなりません。自分が本当に他の人の心と立場を考慮して、気を楽にして仕えているのか、すべての事に他人の益をまず求めようとする心なのか?どんな状況でも心が揺るがずに、悪い感情がなくて、かりに悪を行う相手に対しても柔和と愛を持ってもてなすのか?心の底から真理を喜ぶので、自分より他の人がうまくいくことを見て幸せに思うのか?
こういう質問に、いつも「アーメン」と答えられるでしょうか?「時々そうだ」とか、「恵みに満たされた時はそうできる」ではなく、「いつもそうだ」と答えられるでしょうか?
それなら、皆さんの信仰が四段階にあると神様も認めてくださり、皆さんの人生の中で神様が共におられる証拠を表してくださるでしょう。
愛する聖徒の皆さん、信仰の三段階と四段階の入り口の人の行いが時には似ているように見えるけれど、その心は明らかに差があると言いました。また、悪を捨てて信仰の四段階に入ってきて、清い心の器を準備したとしても、完全になるためには、その中に霊の内容物が満たされなければならないと言いました。
では、その内容物が満たされていくということが、どんなことなのか、聖書の例をもう少しあげてみます。
創世記を見ると、神様がアブラハムを祝福されるとき、アブラハムと一緒にいたおいのロトも、アブラハムのために祝福を受けた場面があります。
ところが、このように神様が祝福されて、アブラハムとロトの家畜がとても多くなると、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こり始めました。
同じ地域で二人の家畜を食べさせるには、草と水が足りなかったからです。
こういう状況で当然な道理を行うなら、ロトは自分の牧者たちにあらかじめ警告して、アブラハムに憂いになるほどの声が耳に入らないように、取り締まりをすべきでした。アブラハムは肉的にもロトの目上の人で、しかもロトがアブラハムと一緒にいたので、ロトにも祝福が臨んだからです。
しかし、ロトはあらかじめ措置を取らず、問題が起こった時も黙っていました。それでアブラハムがまず、平和を果たせる解決策を提示します。牧者たちが争わないようにする最も良い方法は、それぞれ違うところで家畜を飼うことです。結局、ロトはアブラハムの提案により、自分の家畜とアブラハムから離れるようになりました。
聖徒の皆さん、こういう状況で、もしアブラハムが信仰の三段階の人だったら、ロトのことで気まずくなって是非を問おうとしたかもしれません。「彼は私の目下で、私のゆえに祝福を受けたのに、どうしてこのように道理を無視するのか?恵みも知らないおいを連れている必要がないから、私から離れるように言わなければ・・・」と、悪い感情を抱いて追い出すように去らせることもあります。もちろん三段階の終わりぐらいなら、真理をよく知っているので、たとえ心にはわだかまりがあっても、表面に感情を現すことはないでしょう。
では、信仰の四段階に入ってきた人はどうでしょうか?この時は感情を現さないだけでなく、根本的に心に悪い感情そのものがありません。ただ、その状況で一番合理的な解決策を探して、分かれようと提案することはありえますが、心に悪がないので、相手に対してわだかまりがあったり憎んだりするのではありません。
「牧者たちが争うのを見ると、私たちが平和を作るためには分かれなければならない。私はこちらへ行くからあなたはあちらに行きなさい」と、アブラハムの方で行き先を定めてあげることもできます。アブラハムには十分にまず選択する権限があるし、すでに霊に入った人なので、先に選択しても自分の益を求めるはずはありません。
ところが、肉の人がこういう姿を見ると、まかり間違えばさばいて罪に定めたりする場合があります。「アブラハムに悪い感情があってロトを行かせるんだ」「自分の欲に従って良いものを選んで、相手にそのまま従うように要求している」と思うのです。三段階の終わりの人や四段階の入り口の人は、うわべに現れた行いだけを見ると、互いに似た結果として現れるからです。
しかし、肉の人が他人の心を推し量ることはできないし、しかも霊の人の心にある深いことは肉の人にはわかりません。
<第一コリント2:15>に、「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」というみことばのように、自分が霊に入ってきて御霊を受けている者になってこそ、聖霊のみわざの中で正しいか正しくないのかを見分けることができます。
したがって、人が相手の行いだけを見て肉の限界の中で善悪をさばくよりは、まず自分の心から悪を捨てることが重要なのです。
ところが、聖書を見ると、アブラハムの場合には、単純に感情やわだかまりがないという程度を越えて、もっと善良な心でロトに仕えています。
<創世記13:8-9>に、「そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」とあります。
互いに平和を作る方法を提示しながらも、ロトの誤りを指摘したのではなく、心を楽にしてあげて、ロトが良い地をまず選んで行けるように配慮してあげるのです。こういう姿を見ると、その当時のアブラハムはすでにその心に霊的な実が豊かに結ばれていたことがわかります。単純に悪い感情を持たない次元にとどまらずに、善で悪を返せる心です。そのような心なので、こうして相手に感動を与えられる言葉と行いが出ました。
四段階でも、霊的な実でさらに多く満たされたほど、口の言葉と行いがもっと徳があるように感動的に出てきます。その実が50パーセント、80パーセントとなり、ついに100パーセント満たされたとき、完全に真理に満たされた全き霊になります。
また、このように心に真理が満たされていくほど、どんな選択の状況でも神様がさらに喜ばれるほうを選べるようになります。あることを選択する状況で、あれもこれも正しくて、二つとも真理から外れないことならば、信仰の四段階でもまだ入り口にいる時は、特に考えずに自分の願う方を選ぶこともあります。
しかし、霊的な実が心に満たされるほど、神様の心をさらに深く推し量れるようになります。自分に良いものを選ぶよりは、神様がさらに喜ばれる方を選び、そのまま行えるようになるのです。
例をあげると、ダビデの場合です。ダビデが王として油を注がれてから、ダビデをねたんだサウル王がダビデを殺そうと、長い間、追いかけました。
サウルによっていつも命をおびやかされていたダビデに、ある日、サウルを殺す絶好の機会が来ました。サウルがダビデを殺すために追いかけているうちに、ダビデが隠れている場所に入ってきて、深い眠りに陥ったのです。
<サムエル第一24:4>に、「ダビデの部下はダビデに言った。『今こそ、主があなたに、「見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。」と言われた、その時です。』そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。」とあります。サウルを殺しても、神様の前にふさわしいので、すぐサウルを殺そうと主張するのです。
この時、サウルはあまりにも悪を積み重ねてきたので、すでに神様に捨てられた状態でした。しかも、神様はダビデに新しい王として油を注がれたので、サウルがダビデを殺そうとすること自体が、すでに神様に敵対する反逆であり、殺される十分な根拠になりました。しかも、国の頭の王が悪いので臣下と民が苦しんでいる状況なので、この機会にサウルを殺すことが、多くの人に益になると考えることもできます。
こういう状況でダビデがサウルを殺すとしても、神様がダビデを責められない状況でした。殺そうが生かそうが、ダビデが良いと思うとおり行えるように、神様の御前に許された環境でした。何よりも、ダビデはサウルによって長い間、一瞬も緊張をゆるめられずに逃げ回っていました。何の罪もなく、いつも命をおびやかされて、飢えて疲れて気をもんでいたのです。ですからこの瞬間、彼を殺しさえすれば、ダビデはうんざりする逃亡者の立場から抜け出し、王の栄華が受けられるのです。
皆さんがダビデなら、どちらを選ばれるでしょうか?ダビデはサウルを殺さなかったのです。サウルを殺すことが悪ではないと言っても、ダビデは悪でないことを選ばずに、それよりさらに完全な善を選びました。
サウルは自分が仕えた王であり、一時は、神様の前で油を注がれた人です。そのサウルがいくら悪い人で、そのために自分に害が及んだとしても、ダビデはどうしても自分の手で彼を殺すことはできなかったのです。今、彼を殺さないために、今後も自分はずっと追いかけられたとしても、神様に油を注がれた人に害を与えずに、ただ神様に任せる方を選んだのです。
聖徒の皆さん、このように信仰の四段階の中でも、その心に霊の内容物がどれくらい満たされているのかにより、単に悪がない次元から完全な善の次元にまで、だんだん近づくようになります。
もちろん信仰の四段階の入り口でも、人ごとにさらに多く満たされた分野はそれぞれ違います。ある人は愛と柔和が優れていたり、ある人は柔和の実は少なくても、犠牲と仕え、忠実の実が優れていたりします。ある御霊の実は30パーセント程度でも、他の実は90パーセント以上結ばれていたりします。ある分野では全き霊に近い姿なのに、ある分野ではただ三段階の終わりと似ているように見えたりします。
ところで、いくつかの実だけが豊かに結ばれたり、時々全き霊に近い行いがあったりするからといって、信仰の五段階だとは言えません。ですから、信仰の四段階も訓練を通し、すべての分野で完全に主に似せられるように、続いて変えられていくのです。
愛の章の愛と八つの幸いの実を始めとして、御霊の九つの実、光の実など、真理の実が完全に結ばれて豊かになるとき初めて、信仰の五段階に入って、全き霊の人だと言えるのです。
<結論>
愛する聖徒の皆さん、ある人が道に財布が落ちているのを見て、すばやく拾ってポケットに入れました。この人の行いは良いことでしょうか?悪いことでしょうか?これはその人の心にかかっています。
拾った財布をポケットに入れて、「あ、きょうは運が良かった。このお金をどこに使おうか」と思う人もあり、でなければ「この財布の主人がどれほどもどかしいだろうか?早く主人を探さなければ」と思う人もいます。表から見ると同じ行動ですが、その心がどうなのかにより、善悪の差が全く変わります。
それで<ヨハネ7:24>には「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」と言われたのです。うわべを見て人をさばいてはならず、神様の公義でさばく時でこそ、善と悪を正しく見分けることができます。他人の目のちりが見える人は、自分の目の梁を取るべきであり、神様は相手をさばく人を「正しい」と言われないのです。
<第一テモテ5:22>に、「また、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。」とあるように、自分の心を清めればよいのであって、他の人の足りないところを知るようになっても、相手をがまんし、信じて期待し、耐え忍ぶ愛があればよいのです。
天国ではお互いが霊で通じるので、あえて言葉で表現しなくても、互いの心を明らかに理解することができます。心に悪がないので、どんな誤解もなく、さばき、罪に定めることもありません。このように悪がなくて誤解がないということ一つだけでも、天国の人生はとても幸せで平安です。
ところが、この地上でも皆さんが霊に入れば、そのような幸せを味わって生きていけます。聖霊の御声を明らかに聞いて交わるので、何を見て聞いてもまことと偽りを見分けられ、あえて問い詰めて見分けなくても、すべての事をただ善で見つめるので、誤解することもなくて、さばくこともありません。ですから、いつも心が平安で、上から臨む喜びがあふれるのです。
愛する聖徒の皆さんは、あることやある人について、ただ善で見て聞いて、善で見分けて言えるようにお願いします。それで、すみかに霊の心を成し遂げて、神様と明らかに交わって、霊の秘密なことまでも分かち合える皆さんになられますように、主の御名で祝福して祈ります。
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