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Title
信仰の量り(17) - 信仰の4段階
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ロマ 12:3
Date
2006-04-02
<本文>
<ローマ12:3>
「 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
<序論>
愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ペルー、ホンジュラス、ボリビア、エルサルバドル、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジェリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど全世界と全国の4、400余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通して礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん、
人が主を受け入れて聖霊を受ければ、死んだ霊がよみがえります。生まれたばかりの赤ちゃんのように、信仰で新しく生まれた状態、信仰の一段階です。幼い子が乳を飲んで育つように、聖徒の霊と魂も神様のみことばを聞いて行いながら、信仰が成長していきます。
みことばどおり行おうと努力する信仰の二段階に、努力して行えるようになる信仰の三段階にだんだん成長するのです。神様のみことばどおり熱心に守り行うだけでなく、心の罪の性質まで脱ぎ捨てると、信仰の四段階に入るようになります。
信仰の四段階に至り、霊の人になれば、神様に似せられた聖なる心を成し遂げたので、真の意味で神様の子どもと認められます。ですから、大胆に求めることはすべて神様に答えられて、霊肉共に祝福を受けます。
ところが、これで全部終わったのではありません。罪をすべて捨てて霊に入ってきたとしても、さらに深くて無限な霊の世界へ攻めて行かなければなりません。全き霊を成し遂げて、信仰の五段階に入らなければならないのです。
きょうは「信仰の量り」十七番目の時間です。きょうもみことばを通し、愛する聖徒の皆さんすべてがすみやかに霊に入り、また多くの方が全き霊に入ってこられますように、主の御名で祈ります。
<本論>
愛する聖徒の皆さん、信仰の四段階は「神様をこの上なく愛する段階」であり、心の罪と悪まですべて脱ぎ捨てて、魂に幸いを得ていて、すべての点でも祝福を受ける段階です。
このように信仰の四段階に入ったことは、「清い器が備えられた」ということと同じですが、清い心の器は備えられても、その中に入れるべき霊的な内容物がまだすべて満たされたのではありません。器を備えたら、その次には何をすべきでしょうか? 備えられた器の中に、霊的な内容物をぎっしりと満たしていかなければなりません。
もう少し具体的にたとえで説明しましょう。信仰の四段階に入った人は、その心に「憎しみ」という罪の性質はありません。憎しみを捨てたので「愛」だけが残るようになります。ところがこの時、どれくらい大きくて、どれくらい深い愛を成し遂げたのか、その愛の実が結ばれた程度は、信仰の四段階の中でもすべて違うのです。憎しみのない清い器の中に、愛をさらに多く、さらに豊かに満たすほど、もっと全き霊に変えられるのです。
以前、善の段階を四つに分けて説明したことがありますが、これに関連づけて信仰の量りを説明しましょう。
善の一段階は、相手が悪を行うと、そのために気を悪くしますが、それでも我慢して、悪をもって悪を返さない段階です。世の中では、善の一段階になっただけでも、「本当に善良な人だ」とほめられるようになります。信仰の量りから見ると、みことばどおり行える信仰の三段階が、まさにこのような善の一段階にあたります。
ところがこの善の一段階は、神様がご覧になる時は、まことの善だと認められないと言いました。表で悪を行うのではないけれど、心には悪が残っているからです。心をご覧になる神様は、表だけではなく心の中にも悪がなければ初めて善良だと認めてくださいます。
次に善の二段階は、相手は自分に悪を行っても、自分のほうでは何の悪い感情も抱かない段階であり、心が揺れることなく赦せる、と言いました。こういう善を成し遂げたら、心に悪がないので、清い霊の心を成し遂げたということであり、信仰の四段階にあたります。
信仰の四段階でも、さらに深く入った人、あるいは信仰の五段階の入り口に入った人は、悪い相手を何の感情もなく赦すだけでなく、むしろ善良な言葉と行いで相手の心を和らがせて、感動を与えることもあります。これが善の三段階です。ただ赦して我慢するより、もっと積極的な愛の姿であり、善の実がもっと豊かに結ばれた状態です。
最後の善の四段階に至ると、悪を行う相手のために、自分のいのちまで渡してあげられる、献身と犠牲の愛が臨むようになります。これは信仰の五段階にあたり、主の満ち満ちた身たけに達した人々の姿です。
イエス様は善良な人々のためだけでなく、悪い人たちまで救われるために、十字架にかけられて下さいました。十字架にかけられて死なれながらも、自分を釘つける人々のために、赦しを求めるとりなしの祈りをささげられました。まさにこのような愛を施せる時に、最高の善を成し遂げたと言えるのです。
このように神様の前に認められる善と言っても、その中で善の段階が分けられるように、信仰の四段階の中でもその量が変わります。「どれくらいもっと神様に似せられたのか」「どれくらい霊の実が美しく結ばれたのか」によって、信仰の四段階の中でも10パーセント、40パーセント、あるいは80パーセントなど、差があります。
したがって、御霊の実が結ばれた程度によっても、信仰を量ることができます。信仰の三段階も、神様のみことばどおり行いながら心の悪を捨てていく段階ですから、悪を捨てた分、御霊の九つの実が結ばれていく、と言うことはできます。
つまり、憎しみを捨てるほど愛の実が結ばれていき、平和を破って争う心を捨てていくほど平和の実が結ばれていくのです。心の罪の性質を捨てていくほど、その反対の真理の実が心に臨みます。
しかし、三段階ではまだ御霊の実が完全に結ばれたと言うよりは、ただ、実を結べる基盤が整えられたようなものです。りんごの木から花が落ちると、花があったところにとても小さいふくらみができて、実を結ぶための始まりになります。まだ取って食べるほどのものでもなく、あまりにも小さくて実と言うこともできませんが、実が結ばれる兆しはできているのです。
信仰の三段階で結ばれる御霊の実が、まさにこういうものです。悪をすべて捨てたのではありませんが、御霊の願うことにしたがって、神様の善なる属性を心に結びつつあるということです。
そうするうちに心の罪の性質をすべて脱ぎ捨てて四段階に入ると、これから御霊の実が形を見せ始めます。しかしこの時も、すべての実が結ばれたのでもなく、見事に完全に熟したのでもありません。完全に熟した実を100とするなら、御霊の実の中のあるものは50パーセント、あるものは70パーセント、またあるものは90パーセントというように結ばれているところだと言えます。
聖徒の皆さん、信仰の四段階は神様をこの上なく愛して、心の罪をすべて捨てた状態だと言いましたが、それなら霊に入った四段階と、全き霊を成し遂げた五段階とにはどんな差があるでしょうか?
信仰の四段階では罪をすべて捨てたとは言いますが、まだ「肉の痕跡」と言えるものが残っています。人は原罪を持った罪人として生まれて、罪と悪で変わってしまった世の中で生きてきたので、それによって「肉の人として生きてきた痕跡」が残っていることがあります。これまでも完全になってこそ全き霊に入るのであり、神のご性質にあずかる者となるのです。
心に霊の実が完全に満たされるほど、霊の人に残っていた「肉の痕跡」もだんだんかすかになって、消えてしまうようになります。この「肉の痕跡」は、その人が霊に変えられる前に持っていた元の性分や気質とも大いにかかわっています。
たとえば、ある人は物事をはっきりさせることにおいて、確実に真実に正しくする性分ですが、反面、愛と徳が足りない面があります。ある人は施しが好きで、愛は豊かなようですが、感情が多くて、言葉と行いが荒くて直情的で、よく相手を傷つける場合があります。ある人はいつも自分のすべきことを誠実に守り行うので、いつも認められて愛されて生きてきましたが、そのために自分も知らないうちに深い本性の中に高ぶりがあることが見られます。
このように人ごとに特性を持っています。心の罪を捨てて四段階に入ってきた後も、たとえ悪ではなくても、前に持っていたこういうところが「肉の痕跡」のように残っているということです。まさにこういうところが残っているので、主のかたちをさらに完全に成し遂げるためには、続いて練られていくことになります。
では、こういうみことばを聞くと、ひょっとして気がかりになる方がいるでしょうか?
「罪があればある、なければないということでしょう? 罪をすべて捨てたのに肉の痕跡が残っているとはどういうことなのか?」と言うのです。
しかし、洗濯をしたことのある方々は、たとえで理解しやすいでしょう。着古して垢や汚れがしみついた服は、洗濯をしても生地の色が元に戻らない場合があります。洗剤を使ってよく洗って、垢をすべて落としたのに、初めのような白い色ではありません。このような時は、きれいに洗ったので「汚い」とは言えませんが、完全に新しいものと同じとは言えません。
もう一つたとえてみましょう。ノートの最初のページにぎゅっぎゅっと力を入れて字を書いてから、その字を書いた最初の紙を取りました。すると、次のページは字を書いたのではないので白くてきれいですが、前のページに書いた字の形のとおりに跡が残ることがあるでしょう?
このように、各人がこの地上に生まれて人間耕作を受けるために、肉の世の中で生きていきながら入力されたものが、罪をすべて脱ぎ捨てて聖められた後にも、痕跡として残って影響を与えるのです。
このように信仰の四段階に至ると、霊は霊ですが、「肉の痕跡」のようなものが残っていて、ここで一歩進んで真理の実を完全に結んで、ようやくまことに神様に似せられたと言えるのです。
霊の人と全き霊の人の差を理解しやすいように、聖書から一つ例をあげましょう。
モーセの後継者ヨシュアがカナンの地に攻めて入る時のことです。神様はカナンの地を占領するとき、近くの地の住民のすべてを滅ぼしてしまうように命じられました。
ある日、ある人々がヨシュアのところに来ました。彼らは自分たちがとても遠い国に住んでいると言い、かわいて、ぼろぼろになっていたパンと古びた着物を見せました。遠い国から出発して、長い旅をしたので、その時に持ってきたパンもかわいて、ぼろぼろになってしまい、着物も古びてしまったと言うのです。ヨシュアはその話だけを信じて、彼らと和を講じました。ところが、しばらくしてわかったのですが、彼らは遠い国から来た者ではなく、とても近くに住むギブオン族だったのです。神様が「滅ぼしなさい」と言われた対象に属する民族だったのです。
ヨシュアが決める前に主の指示を仰いでいたら、神様は彼らが欺いていることを正確に教えてくださったでしょう。しかし、ヨシュアは一瞬油断して、神様の御心を聞かずに事を決めたので、結果的に彼らを滅ぼすことができなくなってしまいました。
ヨシュアは心に悪のない霊の人で、自分の意見を主張しないで神様の御心に完全に従う人です。しかし、全き霊に至っていなくて、完全でなかった時は、こうした事が起こることもあります。
この時、ヨシュアに私欲があったり、わざと神様の命令に逆らったりしたのではないので、人のほうではヨシュアを「高慢だ」とか「悪い」と罪に定めることはできません。しかし、完全である神様のほうでは、これを「高慢」だと言われるのです。このように重要なことを決める時に、軽率に行って神様に伺いをたてず、もっと徹底して神様に頼らなかったからです。こういうものを、まさに四段階で捨てるべき「肉の痕跡」と言うのです。
また他の例で、アブラハムがエジプトの王に妻のサラを奪われる事件がありました。アブラハムの妻サラは非常に美しい女性でした。アブラハムがエジプトの地に入る時に考えてみたら、エジプトの人々が自分の妻サラを奪うために、自分に害を加えることもありそうでした。それで妻のサラを妹だと言うことにしました。
もちろん、血縁関係で実際にサラは親戚だったので、妹と言ったことは嘘ではありません。また、アブラハムが卑怯な心だったり、神様が信じられなくて恐れが生じたりしたのでもありません。アブラハムには、万が一の事態が発生すれば十分に対抗する勇気もあって、神様の力で勝利するという信仰もありました。それにもかかわらず、アブラハムのほうでは、初めから問題が発生しないように、自分なりに賢く対処しようとして、こうしてサラを妹だと言う方法を使うことになったのです。
これは真理に逆らう肉の思いではありませんが、この地上で耕作を受けた人なので、そのために人の限界の中から出てくる人間的な思いでした。これをまさに「肉の痕跡」と言うのです。
アブラハムが完全で全き霊だったら、こういう瞬間の思いも働かなかったでしょう。それで神様は、アブラハムがさらに完全に神様により頼む人になれるように訓練を許されます。エジプトのパロがサラを自分の妻に取ろうと連れて行ってしまったのです。アブラハムはサラを妹だと言ったので、妻を奪われても一言も言えず、ただ胸を痛めるしかない状況になりました。
この危機に神様が働かれて、パロの家に災いを下され、アブラハムは劇的に妻を取り戻すようになりました。アブラハムはその前にも神様を信頼しましたが、この事件を通して、もう一度神様の全知全能なことを切々と体験しました。
もちろん、アブラハムに神様を信じられない心があったり、罪を犯して練られたりしたのではないので、結果的に被害をこうむらなかったのですが、妻を奪われて胸を痛めるという、つかの間の訓練を通して、神様にさらに完全に頼って信頼できる信仰が持てました。
実際的な例をあげましょう。ある方が神様の働きを成し遂げるのに、目下の人たちが担当したことまで、いちいち指示して干渉するとしましょう。そのことを成し遂げるようにされた神様の御心がわかるし、そのことを成し遂げるための方法をよく知っているので、担当者たちに一つ一つ指示をして、それからもちゃんと行われているのか見守りながら、干渉します。
この方は自分の益を求める心でもなく、相手を苦しめようとする心でもありません。ただ神様の御心を成し遂げることを願って、そうして相手も祝福されることを願うので、良い道を教えてあげようとするのです。
ところが、これが相手の立場では、全然違って受け取ることもあります。従おうとする心がなかったり、能力がなかったりするため、目上の方の行いが重荷に感じられるのです。自分に任されたことなのに、細かいことまで干渉されるので、気を悪くすることもあります。
この時、このようにする目上の人は、ある面では自分の義と枠の中で相手を苦しめる信仰の三段階と似ているように見えるかもしれません。しかし、うわべは似ているようですが、神様がご覧になるとき、その心は全く違います。
三段階で自分の義の中で行う人は、自分が栄光を受けて現したい心、自分の悪で相手をさばく心、高慢で相手を無視する心、こういう心が行いの底にあります。しかし、霊の人々にはこういう悪い心がありません。明らかに聖められて悪のない心ですが、何としてでも神様の働きをよく成し遂げようとする熱い心からそういう行いが出てくるだけです。
しかし、この時も主の心にさらに似せられたなら、もっと明らかに働きかけられて、完全に平和を追い求めたでしょう。したがって、周りの人とぶつかったりする時は、より一層自分を低くして顧みなければなりません。相手の信仰と心と立場をもう一度考えて、たとえ働きの進みが遅くても、真理に逆らうことでなければ、時には我慢して待てなければなりません。「私は本当に善の心で言っているのに、これが本当に神の国に益になるのに、あの人たちが悪いので、私の言うことが受けられないんだな」と相手のせいにだけして残念に思うならば、自分にもそれ以上発展がありません。
霊に入った人の中でも、たびたび四段階の入り口で霊の停滞が起きる場合が、まさにこういう理由によります。自分は霊に入って、悪がなく正しいので、そういう自分の正しさだけを見て、さらに深い善の次元が悟れないのです。ですから、信仰の四段階に入ってきて、悪がないと言っても、こういうものまで完全に成し遂げるためには、再び神様が許される訓練を受けていくようになります。
信仰の四段階に入った霊の人が信仰の五段階、全き霊に入る過程については、次の時間に続いて語ります。
<結論>
愛する聖徒の皆さん、同じ形の箱が二つあるとき、その中に何が入っているのかによって、それぞれの箱の価値はずいぶん変わります。宝石が入っていたら尊い宝石箱になり、砂が入っていたら、単なる砂箱にすぎません。
同じように、人が同じように一日24時間を送る時も、それぞれの心に入っているものが何か、どんな心と思いで、どういう姿勢で生きていくのかにより、神様の前で各自の人生の価値はずいぶん変わるのです。
同じ日課を送りながらも、その心には感謝と喜びの告白があって、すべての事に神様に頼って生きていく人がいます。しかし、心に欲、憤り、憎しみなどが満ちていたり、何も考えずに、「大変だ」とつぶやきながら一日一日を送ったりする人々もいます。つらくて大変な一日を過ごしても、その翌朝には、一夜の休みを下さって新しい日を下さった神様に賛美しながら、喜びで一日を始める人がいます。しかし、朝、起きてきながら「疲れた」「もっと寝たい」というくたびれた心で、神様とは関係ない肉の生活を始める人もいます。
世の職場で働いていても、「どうすれば相手の益を求めて光と塩になるだろうか?」「どうすればもっと誠実に仕える人生になり、神様に栄光をささげられるだろうか?」という人もいる反面、おおまかに適当にしようとする人もいます。教会に出てきて礼拝をささげて祈る時も、本当に神様に出会って体験することを願って、切実な心で慕い求める人がいるかと思えば、ただ習慣的に来る人もいます。
皆さんがより大きい信仰を持って、霊に入るということは、特別な恵みの機会を通してだけなされるのではありません。日常生活の一瞬一瞬に、皆さんの心をどんなもので満たすのかにより、すみやかに霊の心を成し遂げることもあり、遅れて成し遂げることもあるのです。毎瞬、自分の言葉と行いを顧みながら、どうすれば父なる神様の心に似せられるか、主ならどうなさっただろうかと、このように真理を慕い求めて変えられていくとき、全き霊で美しく満たされていくのです。
したがって、愛する聖徒の皆さんは<マタイ5:48>で「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」と言われたように、毎瞬皆さんの人生の中で、聖なることと完全になることを成し遂げられますようにお願いします。それで将来、皆さんすべてが完全な神様の子どもたちとして、聖なる都、新しいエルサレムにとどまれますように、主の御名で祝福して祈ります。
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