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主日礼拝
Title
信仰の量り(16) - 信仰の4段階
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ロマ 12:3
Date
2006-03-26
<本文>
<ローマ12:3>
「 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
<序論>
愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど全世界と全国4、400余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん、
ある程度本教会で信仰生活をした方々は、これまで「霊」「全き霊」「肉」――こういう用語をたくさんお聞きになったでしょう。
では、「霊」とは何でしょうか? 霊とは「朽ちなくて変わらないこと」であり、「永遠でまことであること」です。
これは創造主神様の属性でもあります。ですから「神は霊である」と言うのです。霊である神様は、人を造られたとき、このように聖なる永遠な神様の属性の一部を分けてくださいました。それで最初の人アダムは、霊が生きた者として創造されました。
しかし、アダムは罪を犯して、永遠でまことの霊の属性を失って、そのためにそれ以上霊でない肉に堕落してしまいました。
「肉」とは霊と反対になるもので、つまり「変わるもの」、「朽ちるもの」であり、「醜くてむなしいもの」です。
それ以後に生まれたアダムの子孫は皆が「肉的な存在」、つまり「肉の人」として生まれました。このように肉に変わった人々に、必ず成し遂げるべき最も重要な課題は、まさに肉の人から霊の人に回復することです。
では、どうすれば霊の人に回復できるでしょうか? 心が聖められればよいのです。心の罪と悪を脱ぎ捨てると、つまり、朽ちて変わる肉の属性を脱ぎ捨てると、霊である神様のかたちを取り戻すことができます。
このように霊の人に変えられると、皆さんは最初の人アダムが持っていた霊の属性を取り戻すだけでなく、それよりもっと美しい神様の子どもになります。なぜでしょうか?
アダムは「生きた者」、すなわち、「霊が生きた者」という意味です。霊は霊でも、死ぬこともある、という意味が含まれています。つまり、自由意志の中で罪と悪を受け入れて、肉に堕落することもある、ということです。
最初の人アダムは、肉がどれほど悪いことなのか、体験がありませんでした。死と涙、悲しみ、苦しみを経験したことがなかったのです。そのために神様がいくら「霊が良い、肉は悪い」と教えられても、それを心に刻まなかったのです。
しかし、耕作を受けて、肉から霊に変えられた人々は、肉がどんなことなのか、骨身に沁みるほど体験しました。反対に、死も悲しみも苦しみもない霊がどれくらい良いものなのか、とてもよくわかります。ですから、どんなに惑わされても、二度と罪と悪を受け入れることはないのです。
まさにこれが、皆さんがこの地上で人間耕作を受けていく意味です。皆さんがこの地上で生きていくすべての瞬間は、世のすべてがむなしいということを悟る時間です。死と悲しみ、苦しみを与える肉の無益さを体験して、心に刻む日々です。その分、霊がどれくらい良いことかを悟って、霊に回復していく時間でもあります。
そうして熱心に霊を慕い求めて、信仰の一段階から二段階、三段階に入っていき、ついに信仰の四段階になるとき、霊の人に回復されるのです。
このように肉を脱ぎ捨てて霊に入れば、この時からは神様が共に歩まれ、神様の子どもとされた特権を思いきり受けるようにされます。最初の人アダムが受けた霊的な権威を取り戻すので、敵である悪魔・サタンが働けないようになり、どんな試練や患難も臨まなくなります。家庭、職場に祝福が臨み、求めることは何でも答えてくださる神様のみわざを体験します。皆さんがこういう祝福を受けるように、講壇では「心を聖めなさい、霊の人になりなさい」と無数に叫び、また叫ぶのです。
きょうは「信仰の量り」十六番目の時間で、信仰の四段階に入った人が受ける天国の栄光を語ります。きょうもみことばを通し、愛する聖徒の皆さんは、霊の世界への望みと慕う心がより一層切になり、すみやかに霊に、全き霊に入れるように、イエス・キリストの御名で祈ります。
<本論>
愛する聖徒の皆さん、行いに従って報いを与えられる公義の神様は、天国の場所と報いも信仰の量りに応じてそれぞれ与えられます。
世の人々は天国と地獄があると言っても信じられないだけでなく、信じる人であっても、ほとんどは天国がどんな所なのか、天国の暮らしはどうなのかわかりません。
しかし、聖徒の皆さんはこれまでのみことばを通し、天国の場所と天国の暮らしについて多くのことを聞いて、その分天国への望みも大きいでしょう。ところが、皆さんがそのように望まれる多くのことは、天国に入りさえすれば、だれもが受けられるのではありません。
もちろん、すべての天国の場所は、この地上とは比べられないほど幸せな所です。真理に逆らう暗やみもなく、悲しみと苦しみの代わりに愛と喜びだけがある所です。あちこちに美しい天使がいて、甘い賛美が流れて、うっとりするほど美しい環境で、愛する人々と永遠に生きる所です。
これらはパラダイスから一天層、二天層でも全部同じように受ける天国の幸せです。しかし、聖徒の皆さんが望まれるのはそれ以上のものです。つまり、黄金とまばゆく光るさまざまな宝石で飾られた 宮殿のような家に、湖やプール、劇場、ゴルフ場、宴会場など、このように望む施設が自分の家にそろえられています。無数の天使が皆さんに仕えて、尊い王女様、王子様のようにつき添って、皆さんは王のような権威を受ける、そのような天国の人生を見つめているのです。
この地上で高級自家用車に乗るように、雲に乗って思いきり空を飛ぶこともできます。愛する主をいつも近くで拝見して、その食卓を共にして天国の宴会を楽しめて、永遠な喜びと幸せだけがある所が、まさに皆さんの願う天国です。
ところが、これらをすべて受けるためには、完全に聖められて、全家を通じて忠実な者となって、新しいエルサレムに入らなければなりません。信仰の五段階に入らなければならないのです。少なくとも信仰の四段階、霊に入って天国の三天層に入れてこそ、それと似た栄光ぐらいは受けられます。
ですから、信仰の四段階と信仰の三段階、すなわち、霊に入ったこととそうでないことは、天と地の差だと言うのです。
たとえば、パラダイスや一天層、二天層には多くの天使がいて天国を管理し、時に応じて神様の子どもたちを助ける働きをします。芝生や花の道を管理したり、公共の施設を案内したりして、神様の子どもたちが安らかで幸せに天国の暮らしを楽しむように助けるのです。
しかし、二天層以下では、ひとりひとり個人的に付き添う天使がいるのではありません。三天層以上の天国に入ってこそ、ひとりひとりに付き添う天使がいて、その中でもどれくらいさらに聖められたのか、どれくらいより大きい信仰と従順の行いで神様に喜ばれたのかによって、付き添う天使の数が変わります。新しいエルサレムに入った人々には、三天層よりさらに多くの天使の群れが伴うので、その天使の数だけを見ても、それぞれの人の栄光と誉れが感じられます。
雲の自家用車に乗るのも、三天層以上に入らなければなりません。天国にある雲は、水が蒸発してできたこの世の雲とは違います。天国の栄光と美しさを増すために造られた、一つの飾りのようなものが天国の雲です。
エジプトから出て来た当時、神様がモーセに現れた時も、雲の中にあって降りて来られたし、ソロモンが神の宮を奉献する時も、雲で神様の栄光が満ちていることを表されました。
また、イエス様が高い山に上られた時は、雲の中から神様の御声が聞こえたとあります。
<マタイ17:5>に、「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。」とあります。
<マタイ26:64後半>には、「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」と言われたイエス様のことばがあります。
その他にも、聖書のところどころに出てくる天国の雲は、神様の栄光を表す飾りのようなもので、この光り輝く雲が神様の子どもたちにも与えられて、自家用車のように神様の子どもたちを乗せて、望む所に移動してくれるのです。
ところが天国に入ると言っても、だれもが雲の自家用車を持てるのではありません。新しいエルサレムの栄光に入った人々でこそ、個人の雲の自家用車が与えられるのであり、三天層の人は個人でなく共同の雲の自家用車に乗れます。
この他にも、二天層以下の人々と三天層以上の人々とは、外見だけ見ても大きい違いがあります。各人の栄光の光が違い、服と服の模様、飾り、髪型などが違い、その人がどれくらい主に似せられて聖められたのか、どれくらい神様に愛される人なのか、すぐ見分けることができます。
そういう特徴の一つが、女性の場合は髪の長さです。天国では男性も女性も、みな少しウェーブのある金髪を持つようになります。男性はみな首くらいの長さですが、女性の髪は報いによって長さが変わります。
<第一コリント11:15前半>に、「 女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。」とあるように、三天層と新しいエルサレムの女性たちは、長くて見事な髪が光栄ある報いとして与えられます。新しいエルサレムでは背中の下くらい、三天層ではそれより少し短くて、背中の真ん中くらいまで伸びているのです。
では、三天層の家はどのように建てられているでしょうか? 二天層の人々は美しい邸宅のような家を、独立した建物として持つ、と言いましたが、二天層の建物は全部一階建てです。しかし、三天層からは二階以上の建物で、純金と宝石で飾られ、美しくてかおりのよい花と木で華麗に整えられた庭と湖があります。湖の中には多くの魚がいて、その魚たちと仲むつまじく話を交わすこともできます。
もちろん、二天層でも個人の邸宅に付いている湖を持つことも、ゴルフ場やプールや散歩路を持つこともできますが、ただ、どんな施設でも一つだけが選べます。しかし、三天層では一つだけ選ぶのではなく、願うもの全部を所有することができます。他の人の家に行く必要がなく、自分の所有として与えられた施設をいつでも思いきり使えるのです。
こういう施設のある三天層の邸宅は、世のどんな百万長者でも真似できないほどうっとりするほど美しく作られていますが、二天層ともう一つ違う点は、家に表札がないということです。家そのものから主人の心が感じられる独特の霊のかおりが流れてくるので、主人がだれなのかが自然にわかります。
ところで、このように「表札がない」ということ一つだけ見ても、三天層に入ってきた人々がどれくらい尊くて栄華を受けた人々なのかがわかります。
どんな意味なのか、たとえてみましょう。世の中でも、一般の庶民が住んでいる家を訪ねて行くなら、住所を探して表札を確認しなければなりません。
しかし、とても有名な人々が住む邸宅は、表札がなくてもよく知られています。たとえば、並外れた財閥の会長の邸宅や、世界的な芸能人の派手な別荘、あるいは大統領が住む所は、あえて表札がなくても周りの人々がみな知っています。その町に住む人だれに尋ねても、簡単に探せるのです。
このように聖められて三天層に入った人々は、その栄華が大きいために、あえて表札を付けなくても、だれの家なのか皆わかります。新しいエルサレムは、さらに言うまでもありません。
各人の霊のかおりが違うように、その家から流れてくるかおりが違うだけでなく、家から放たれる光もそれぞれ違います。その主人がどれくらいさらに聖められて、神様に似せられたのかにより、かおりと光がさらに美しく放たれるのです。
聖徒の皆さん、世の中のある人々はペットをとても愛して、まるで子どものように情を与えます。しかし、動物には霊がないので、この地上でいくら賢くて可愛くても、天国に連れていくことはできません。
かと言って、動物は地獄に行くという意味ではありません。動物には霊がなく、魂と肉だけで造られているので、動物が死んで肉が朽ちて消滅するとき、魂も消えて無に帰ります。
もちろん、天国に動物がいないということではありません。この地上の動物とは比べられないほど美しくて、華麗で賢くておとなしい動物と鳥たちがいて、天国の聖徒たちを楽しませてくれ、互いに対話をすることもできます。三天層では天国の動物と鳥がペットのように個人に与えられ、これは二天層の動物よりもはるかに華麗で美しくて、可愛いのです。
一天層や二天層にそれぞれの冠があるように、三天層の人にも三天層にふさわしい、いのちの冠が与えられます。
<ヤコブ1:12>に、「 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」とあり、<黙示録2:10>は、「 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」とあります。
ここで「死に至るまで忠実である」とは、殉教の信仰を持って、神の国のために霊的に完全に忠実であることを言います。身に与えられた使命を果たすだけでなく、世の真理に逆らうものと妥協せずに、罪と血を流すまで戦って捨てた人、完全に聖められた人でこそ「死に至るまで忠実であった」と言えるのです。
三天層の人々は、聖潔を成し遂げて、いのちを尽くして死に至るまで忠実だった人々ですから、その報いとして「いのちの冠」を受けるのです。
たとえ完全に聖められなくても、主の御名によって信仰で殉教した人々は三天層にとどまるようになり、いのちの冠を受けます。このように信仰で殉教するということは、決してやさしいことではありません。
今日「主を信じます」と言う人の中にも、ほんのわずかな物質の誘惑により主日を守らないこともあります。いのちを投げ出すような威嚇を受けるのでもないのに、家族や職場の迫害を恐れて、神様の戒めに逆らったりします。このように小さいこと一つ、真理どおり行えない人が、いのちを投げ出さなければならない状況になったら、どうして信仰で殉教できるでしょうか?
もちろん殉教したとしても、だれもがすべて三天層に入るというのではありません。表から見て同じように殉教したようでも、その信仰と心は人それぞれですべて違います。本当に信仰と愛で殉教した人もいますが、そうでない場合もあります。
たとえば、ある人が病気にかかったとします。その人が最後まで病院や人に頼らずに神様にだけ頼ったとしても、その心と信仰はそれぞれ違います。本当に全能な神様を愛して信頼して「私のいのちは生きても死んでも主のもの」という心で主だけに頼る場合は、かりに神様がいやしてくださらなくて、その魂を召して行かれても、殉教したも同じと認めることができます。
しかし、心に信じられる信仰があるからではなく、聞いた知識で病院に行かない、あるいは「私は信仰がある」という自尊心で病院に行かなくて、ただ持ちこたえただけなら、この場合は結果が変わります。
ですから、殉教をしても、まことの信仰と愛でいのちをささげた人でこそ、各人の心をご覧になる神様が三天層に入れて、いのちの冠を与えられるのです。
<結論>
愛する聖徒の皆さん、<ヨハネ14:21>に、「 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」とあります。
主をこの上なく愛して、完全に戒めを守って、心の罪まで脱ぎ捨てた神様の子どもたちには、神様の愛される証拠が常に現れます。この地上でも剛健で、栄える祝福を受けて、天国でもまことの神様の子どもとして多くの栄光と権勢を受けるようになります。
皆さんが神様をより一層愛して、霊に、全き霊に深く入るほど、神様も喜びをもって皆さんのことを楽しみ、さらに大きい祝福と栄光を着せてくださるのです。
しかも、将来天国で与えられる栄光は、充分に言葉では表現できないのです。
使徒パウロはパラダイスだけ見てきた時も、前は世の中で最も尊く思っていたことをすべてちりあくたのように捨てられました。自分のすべての所有はもちろん、いのちさえ喜んでささげられたのです。
皆さんもまことに信仰があるならば、この世の富と誉れと栄華を求めるのではありません。ただ聖潔を慕い求めて、罪を捨てて、熱心に天国を激しく攻めていかなければなりません。
愛する聖徒の皆さんは、決してパラダイスや一天層、二天層でも満足せずに、霊に、全き霊に入って、必ず新しいエルサレムにとどまろうと決断されるようにお願いします。
その慕う心と希望が皆さんの中に満ちて、決して世の中を見つめないで、毎瞬、新しいエルサレムを激しく攻めて行かれる皆さんの人生になりますように、主の御名で祝福して祈ります。
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