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Title
信仰の量り(14) - 信仰の4段階
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ロマ 12:3,ヨハⅢ1:2
Date
2006-02-05
<本文>
<ローマ12:3> 「 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
<第三ヨハネ1:2>「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」
<序論>
愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジェリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど、全世界、全国の4、000余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。
聖書には、神様の子どもたちに約束された祝福のみことばが本当にたくさんあります。
ところが、こういう約束のみことばには、みな条件があります。「主よ、信じます」と告白だけすれば、だれでも祝福を受けるのではありません。
「神様を愛すれば」、「まことの信仰があれば」、つまり、「光の中にとどまり、神様の戒めを守り行えば」、そのような祝福を与えられる、ということです。それがまさに、神様の公義だからです。
もちろん、まだ完全に戒めを守れなくて、まだたましいに幸いを得ていないとしても、全く祝福を受けられないのではありません。自分の信仰の量りの中で戒めを守って行く分、たましいが幸いを得ている分、こういう祝福が部分的に臨むことはあります。
しかし、信仰の四段階に入ってくると、それから本格的に祝福が臨み始めます。心の罪の性質まで脱ぎ捨てて、完全に光の中にとどまる霊の人だ、と神様に認められると、その時からは神様が思いきり祝福を注いでくださいます。
信仰の三段階まででも、熱心に蒔いたとおり、行ったとおりに祝福が臨みますが、信仰の四段階になると、その前とは比べられないほど大きな祝福の扉が開き始めるのです。
では、信仰の四段階に入った霊の人々は、果たしてどんな心を成し遂げて、具体的にどんな祝福を受けるのでしょうか?
きょうは「信仰の量り」十四番目の時間で、この間に続き、信仰の四段階のみことばを語ります。愛する聖徒の皆さんは、みことばを通し、信仰の四段階以上に、霊の世界に一日でも早く入るようにお願いします。
それで神様が待ちこがれる霊の子どもとして、思いきり祝福を受けて栄光をささげる皆さんになれますように、主の御名で祈ります。
<本論>
愛する聖徒の皆さん、信仰の四段階はこの上なく主を愛する段階です。ただ愛するのではなく、心と思いと知恵と力といのちを尽くして、神様をとても愛する段階です。
このような信仰の四段階の特徴のうち、二つの分野をこの間説明しました。
一番目は、「どんな代価も願わずに、何の条件もなく神様を愛すること」です。
<箴言8:17>に、「 わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」と言われたように、神様を愛する人には、神様もその人を愛されるので、この地上でも多くの祝福を与えられます。しかし、神様をこの上なく愛する人は、かりにこの地上で祝福されなくてもかまいません。世の中で祝福と栄光を得られなくても、自分が神様を愛して、そのみこころどおり行えるということ自体だけでも幸せであり、感謝するからです。
みこころに従って福音を伝えると、報いと栄光を受けるよりは、むしろ主の御名で数多くの迫害を受けて、はなはだしきは殉教することもありますが、そうする時も、ただ感謝するだけの信仰が、まさに信仰の四段階です。ある代価を得るために愛するのではなく、神様を愛することがまことに当然なことなので、愛するのです。
二番目に、信仰の四段階は世のどんな事よりも神様を愛して、「神様を第一に愛する信仰」です。世のどんな富も栄華も家族も友だちも、さらには自分のいのちさえも、神様のためになら惜しまないのです。自分の持っているすべてをささげても、むしろ、もっとささげるものがないのか、顧みるようになります。
ここまでは信仰の四段階についてこの間説明した内容です。きょうは三番目から語ります。
三番目に、信仰の四段階の特徴は、「たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康である段階」です。
きょうの本文<第三ヨハネ1:2>に、「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。
ここで「すべての点でも幸いを得、また健康である」とは、病がなく、からだが健康なことだけでなく、家庭、職場、すべての事に幸いを得て栄えること全部を含みます。
のちほどまた説明しますが、たましいに幸いを得ている人は、神様が常にすべてを先んじて解決してくださるので、すべての事に栄えるのです。健康も、物質も、名誉も、知恵も、悟りもすべてを求めるとおり与えてくださり、神様がその人のすべての事に働きかけられて、いつも栄える道だけを歩むように導かれます。
それでは、はたしてこのように祝福される条件、つまり、「たましいに幸いを得ている」とは、どのような意味でしょうか? 簡単に言うと、「たましいに幸いを得ている」とは、死んだ霊が生き返り、霊と魂と肉の秩序が正されることです。主を受け入れたので死んだ霊が生き返り、その霊が魂と肉を支配して治める主人の役割をするようになります。
これについては、「十字架の道」や「霊・魂・肉」のメッセージで、すでに詳しく説明をしたので、ここでは簡単に説明します。
本来、神様が最初の人アダムを造られた時、「生きた者」、つまり、霊が生きた者として造られました。生きた者だったアダムは、霊・魂・肉で造られて、神様と交わる「霊」、そして霊の支配を受ける「魂」と、霊と魂が宿る「肉」で構成されていました。
ところが、アダムが神様の命令に逆らって、善悪の知識の木の実を取って食べたことで罪を犯すと、「罪から来る報酬は死」という霊の世界の法則にしたがって、アダムの霊が死んでしまいました。霊が生きた者だったアダムは、霊が死んだので肉の人に変わりました。ここで「霊が死んだ」とは、「霊が消滅した、なくなった」という意味ではなく、「霊の活動が止まった」という意味です。
このように霊が死んで活動が止まると、魂が霊の代わりに主人の役割を始めました。「魂」とは、人の「頭脳の記憶装置とその中に含まれたすべての知識と、それを思い出して活用するすべての働き」を含むものです。人が生きていきながら、ある事を体験して、それを覚えておき、思い出して活用することなどのすべてが、魂の働きです。
霊が生きて主人の役割をしていた時は、霊で神様と交わり、神様から真理の知識を受けました。それで魂の働きも真理だけでして、からだも霊の願うとおりに、真理の中だけで話したり行なったりしていました。
ところが、霊が死んで神様との交わりが途絶えてからは、敵である悪魔・サタンが魂を通して人を支配し始めました。神様が人の心に教え込まれた真理の知識が一つ一つ抜け出て、代わりに敵である悪魔・サタンが吹き込んだ真理に逆らう知識、いろいろな罪と悪が蒔かれました。
時間が過ぎるほど、ますます人の心は真理に逆らうものに染まっていき、あらゆる罪と悪の中で生きていくようになりました。
ところで、人が「たましいに幸いを得ている」とは、霊が生き返り、最初の人アダムが初めに造られた時のように、霊が魂と肉の主人の役割をすることだ、と言いました。それなら、どうすれば人の死んだ霊がまた生き返るでしょうか? まさに、道であり、真理であり、いのちであるイエス・キリストを救い主として受け入れて、聖霊を受ければよいのです。
神様は罪人の罪を赦されるために、何の罪もないイエス様を死に渡してくださいました。イエス・キリストを自分の救い主として受け入れた人には、神様がその心に聖霊を送ってくださいます。
聖霊は私たちの心に臨まれるので、その中で死んでいた霊を生かしてくださり、心に真理の知識を一つ一つまた満たせるように、助けてくださいます。みことばを聞く時に、悟れて信じられるようにされ、罪と義とさばきについて知らせてくださるのです。それで毎瞬、真理で思って、真理で話し、真理で行うように、力を与えられます。
このように助ける聖霊の働きに従っていくなら、御霊によって霊を生んで、生きることができます。高ぶり、憎しみ、憤り、そねみ、姦淫、欲など、敵である悪魔・サタンが心に蒔いた真理に逆らうものが一つ一つ脱ぎ捨てられ、代わりにその心が真理で満たされていきます。
完全に真理で満たされた心になると、神様が初めて造られた人のかたちを取り戻すようになります。まさにこれが、たましいに幸いを得ていることです。
心の真理に逆らうものをすべて捨てて、たましいに幸いを得ている人は、信仰の量りでは四段階に入ってきたことであり、もうそれ以上朽ちる肉に属した人ではなく、魂の働きを受ける人ではありません。人の心に悪そのものがなければ、サタンがその魂を通して、真理に逆らう考えをするように仕向けられません。
これはラジオの局を選ぶようなものです。ラジオのスピーカーから出る放送は、皆さんが周波数をどこに合わせるのかによって決められます。
このように、霊が主人である人の心は、その周波数が聖霊に合わせられていて、魂が主人である人の心は、その周波数がサタンに合わされています。
真理で心が満たされて、霊が主人である人は、心に聖霊の働き、つまり、真理だけを受け入れて、魂と肉は主人である霊に従うので、真理の思い、真理の行いだけが出ます。
しかし、魂が主人である人は、すべての事にサタンが好むとおりに思い、悪を行っていきます。
たとえてみましょう。ある人が、普段でも心にわだかまりがあった相手が、またいやな行いをするのを見ました。
するとサタンが魂を通して働きかけます。「またいやなことをするよ、憎らしい、殴ってやりたい」など、真理に逆らう思いを吹き込みます。
この時、心に憤りやかんしゃくのような悪があれば、こういう真理に逆らう思いを心に受け入れて、憤ったり、相手を殴ったりする行いまで出てくるようになります。
しかし、たましいに幸いを得ている人には、サタンがいくら真理に逆らう思いを吹き込もうとしても、心の中にその思いを受け入れる悪がありません。心に憎しみ、憤りの代わりに、愛と赦し、憐れみだけがあるので、相手がいくら無礼なことをしても、善だけを追って、相手の立場を理解して、愛して、抱いてあげます。
ですから、ちょうど周波数が合わなければ放送が聞けないように、サタンがその人の心を操ることができません。こういう人の心には、八つの幸いと愛の章の愛が臨んでいて、御霊の九つの実もますます完全に結ばれていきます。
<ピリピ2:5>に、「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」とあるように、主に似せられた心を持ったのです。
愛する聖徒の皆さん、たましいに幸いを得ている人は、「すべての点でも幸いを得、また健康である。」と言われています。では、すべての点でも幸いを得、また健康である人、つまり、信仰の四段階に入った人は、どんな祝福を受けるのでしょうか?
前に天国の場所を説明したとき、信仰の三段階と四段階の人がいる場所は、その栄光と報いの次元が完全に違って、天と地の差だと言えるほどだ、と説明しました。
ところが、天国でだけそうなのではなく、この地上で受ける霊肉の祝福も、霊に入らなかった人と霊の人とでは、とても大きい違いがあります。心の罪まで脱ぎ捨てた四段階に入ると、本当に聖なる神様の子どもと言えるので、光の子どもとして、霊的な権威が本格的に受けられるのです。
<第一ヨハネ5:18>に、「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」とあります。
悪い者、つまり、敵である悪魔は、罪の中で生きる肉の人々を訴えて、試練や患難をもたらします。しかし、心の罪まで捨てた霊の人々は罪を犯さないので、神様にすべて守られて、どんな災いにもあいません。
もちろん、全き霊に入るために神様が許される訓練はありますが、これは敵である悪魔がもたらす試練・患難とは違います。訓練中であっても、すべての事が栄えて、神様がその人と共におられることが周りの人々に感じられます。
ヤコブの息子ヨセフがそうでした。神様の摂理の中で、エジプトに奴隷として売られる訓練を許されましたが、その中でも神様が共におられて、彼のすることすべてを成功させてくださったので、主人も彼を認めて信頼するようになりました。彼がぬれぎぬを着せられて、監獄に入れられた時もそうでした。
<創世記39:23>には、「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」とあります。
このように霊の人は、悪い者が触れることもできないように守られて、神様が直接導かれて練られて、その後には、最も尊いところまで高めてくださいます。
また<第一ヨハネ3:21-22>に、「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、 また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。」とあり、<第一ヨハネ5:14-15>には、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」とあります。
このように、霊の人は罪を犯さないので、霊的な権威があるだけでなく、肉的な分野でも神様の前に大胆に出て行き、求めるものは何でも神様からいただくことができます。
その一つが健康の祝福です。霊の人は、病気やわずらいで苦しみません。常に聖霊の火の垣で守られるので、病気の原因になるウイルスや菌がからだに入れないだけでなく、かりに自分の間違いで病気にかかっても、祈ると、それらが直ちに聖霊の火で焼き尽くされるのです。
ところで、皆さんが霊に入る前でも、信仰で霊の空間にいる時は、どれほど多くのいやしのみわざを体験していらっしゃるでしょうか? 世の中に数多くの病気と事故があっても、私たちのほとんどの聖徒は、それらを恐れません。
「SARS(新型肺炎)」や、「鳥インフルエンザ」など、こういう病気がはやると、全世界が敏感に反応して恐ろしくて震えますが、ほとんどの聖徒の皆さんは気にしません。本教会にいつも御力で共におられる神様のみわざを体験するからです。
いろいろな事故にあった時も同じです。もちろん、普段完全に主日を守り、完全な十分の一献金をささげる方々ならば、神様が毎週守られるので、事故や災いにはあいません。ひょっとして人の失敗や間違いで交通事故にあい、車が廃車されるほどでも、聖徒は守られたあかしがたくさんあります。
もちろん、神様の前にふさわしくないことがあり、大小の病気にかかったりケガをしたりしても、心から徹底的に悔い改めて、祈りを一度受ければ、正常にいやされます。
このようにまだ霊に入らなった状態でも、信仰で健康を守られる体験をするのですから、まして霊に入った人ならば、さらに言うまでもないことでしょう? 病気や事故とかかわらない人生になり、年を取っても衰えることがなく、霊に全き霊に入ると、若返りしてむしろ若者より剛健な体になります。
ニュースを見ると、この頃は脱毛症で悩む人が多くなったと言われます。前は40代以降の男性の悩みだった脱毛が、今は環境汚染とストレスなどの要因で、20代初めから30代の若い男女にとってさえ大きい悩みになっている、と言うのです。
しかし、霊に入ればそのような悩みもありません。いつも心から感謝と喜びが離れないので、ストレスにも十分に勝てて、環境的なことに影響を受けないのです。
また、世の人々を見ると、いくら豊かで権勢のある人であっても、その心にまことの平安がないので、憂いをたたえた顔で、シワがたくさんあることがよくあります。
しかし、霊に入れると心が平安ですから、年を取ってもシワがさらに増えることもなく、白髪が増えることもありません。全き霊に入ると、すでにあったシワもなくなり、張りがあってツヤツヤの肌に変わります。
また霊の人は、自分だけ健康なのではなく、他人のために祈っても、いやしのみわざが現れます。私が霊に入ってからは、家族も病気になって病院に行ったことがなかったのです。ささいな病気にかかったとしても、私が祈ってあげると、直ちにいやされたためです。
もちろん、完全な御力を受けるためには、信仰の五段階・全き霊に入らなければならないのですが、<ヤコブ5:16>に、「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」とあるように、四段階からでも、すでにいやしのみわざが現れるのです。
信仰の四段階では、健康の祝福だけでなく、求めることは何でも答えられるので、物質、名誉、知恵、その他のどんな分野でも豊かに答えられて祝福されます。このような祝福については、次に時間に続いて語ります。
<結論>
愛する聖徒の皆さん、信仰の四段階に至って霊の人になると、霊的にだけなく、この地上の人生でも豊かな祝福を受ける、と言いました。
しかし、実際、霊の人には、この地上で受ける物質、名誉、権勢やどんな事も、それ自体としてはそんなに重要なものではありません。信仰の四段階では、すでに世の欲は全くなく、この地上の栄華を越えて、無条件に神様を愛して、天国の希望を持って生きていく信仰です。
それで<コロサイ1:24>に、「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」という使徒パウロの告白のように、一生、飢えて渇いて、主の御名により迫害されても、むしろ喜び踊ります。
ただ、この地上で下さるすべての祝福は、愛する父なる神様が共におられることをもう一度直接感じられるあかしなので、それも喜んで感謝するのです。
本教会の聖徒の皆さんが行く所に虹が現れると、さらに感謝して喜びにあふれるように、この地上でもあふれるように下さる答えと祝福によって、神様が共におられることが感じられて、また神様が生きておられることをあかしして栄光を帰することができるので、もっと幸せなのです。
愛する聖徒の皆さんは、すべての事に満ち足りる心になり、すべての事に感謝して喜ぶように願います。
そして、すみやかに霊に、全き霊に入り、いつも共におられる神様の愛をより一層濃く感じて、大きい祝福の中で毎日栄光をささげられますように、主の御名で祝福して祈ります。
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