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主日礼拝 メッセージ > 主日礼拝
主日礼拝
Title
   信仰の量り(6) - 信仰の2段階  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ロマ 12:3
Date
   2005-11-13


<本文>

<ローマ12:3>

「 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

<序論>


愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエルそしてケニア、ウガンダ、コンゴなどアフリカ諸国をはじめとする、全世界と全国の3800余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。
今日は「信仰の量り」その六番目の時間です。
皆さんが主を信じて救われたとしても、各人の信仰の量りは互いに違って、かろうじて救われるほどの信仰を持った人も、大きい信仰を持って御力を行う人もいます。
「信仰の量り」のメッセージでは、「自分の信仰の量りがどの程度なのか」を見分けて、より大きい信仰が持てるように、五段階に分けて説明しています。この間は、信仰の一段階について語りました。
信仰の一段階は、「救われるための信仰」であり、「聖霊を受けるための信仰」と言います。イエス・キリストを救い主として受け入れて、聖霊を受けて、天国のいのちの書に名前が記され、神様の子どもとして認められた状態です。
聖霊を受けると、心に救いの確信が臨みます。十字架を背負って亡くなられたイエス様が復活して、自分の救い主になられたことが信じられます。
主を受け入れて聖霊を受けると、ささいな病気は直ちに聖霊の火で焼き尽くされていやされる場合も多く、異言などの聖霊の賜物を受けたりする方もいます。
罪の赦しの恵みによって、心が軽くなり、喜びと幸せで満たされるようになります。賛美が絶えず、教会に出て来ることがとても楽しくなります。
すでに聖霊を受けた皆さんは、こういう体験をしたはずです。それでは、皆さんは、このような喜びと幸せが、今でも続いて心にあふれているでしょうか? その喜びが消えないのはもちろん、「私は日が経つにつれて、もっと喜びが大きくなって幸せです。」と言われる方もいるでしょう。
そのような方は聖霊を受けてから、信仰の一段階にとどまっているのではなく、続いて一段階から二段階に、二段階から三段階に、このように信仰がすくすく成長しているということです。正しい信仰生活をしているために、聖霊が喜んで満たしてくださるのです。
しかし、信仰が成長しないで止まっている時は、聖霊がうめくので満たされなくなり、苦しくなります。ひょっとして皆さんの中にそのような方がいるなら、すみやかに悟り、自分の信仰を顧みて、より大きい信仰を持たなければなりません。
それでは、きょうは、信仰の一段階を過ぎて「信仰の二段階」とは果たしてどんな信仰なのか、そしてどんな天国の場所に入れるのか、今からその扉を開けてみましょう。

<本論>

愛する聖徒の皆さん。信仰の二段階は「行おうと努力する信仰」の段階です。
主を受け入れて聖霊を受けると、心が熱くなって救いの喜びで満たされますが、ここから信仰の一段階が始まります。
しかし、まだ神様のみことばどおり生きているのではありません。教会に通って主を信じるとはいえ、以前の生活をそのままします。まだ酒、タバコをやめられない場合もあり、憤って悪いことばを言ったり、自分の益を求めるために嘘をついたりするなど、世の人々とあまり変わらないのです。
しかし、礼拝と各種の集いを通して、だんだんみことばを学んでいくので、自分の人生が変わらなければならないことを悟ります。神様を信じる子どもの人生がどうあるべきかを知るようになります。
「安息日を聖なる日として守ること」と「完全な十一献金をささげること」について学びます。また、「憤ってはならない」「偽りを言ってならない」「さばいたり、罪に定めたりしてはいけない」「姦淫してはいけない」「 自分の益を求めずに相手の益を求めなさい」「祈りなさい」「愛しなさい」「仕えなさい」「平和をつくりなさい」などのみことばを一つ一つ学ぶようになります。
すると「私も変えられて、学んだみことばのとおり生きよう」という心になります。この時、各人の心に住まわれる御霊が、神様のみことばを思い出させてくださり、真理の中で行えるように助けてくださいます。
<ローマ8:26>に、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」とあります。
神様の子どもたちが神様のみことばどおりに生きないで不法を行う時は、聖霊がうめかれるので、心が苦しくなります。
みことばに聞き従って行う時は、聖霊が喜ばれるので、心に平安と幸せが臨み、聖霊に満たされるようになります。このような聖霊の働きの中で、罪と悪を悟って、みことばどおり行える力を受けていくのです。
愛する聖徒の皆さん。信仰の一段階の人は、罪を犯しても心があまり苦しくないのです。まだ神様のみことばがよくわからなくて、真理が何か、真理に逆らうことが何かがわからないので、罪を犯しても、罪であることがわからないのです。この時は聖霊のうめきも聞けないのです。
そうするうちに、みことばを聞いたとおり行っていこうとする心ができて、そのまま行おうと努力し始めると、信仰の二段階に入ります。
二段階に入ると、みことばを学んで知っていても、相変らず罪と悪の中を歩む時は、聖霊がうめかれるのを感じます。「私がこうしたらいけないのに、真理はこれではないのに」と思い、心が苦しくなり、満たされなくなります。
なぜそうなのか、理解しやすいように、たとえてみましょう。
赤ちゃんは裸でも恥ずかしいと思いません。自分が脱いでいることも知らず、服を着るべきだという礼儀も知らないし、恥とは何かすら知らないのです。しかし、子どもたちがもう少し大きくなると、脱いだことが恥ずかしいと思うようになります。
別のたとえで、はいはいしていた子どもが部屋の床に置いてあったコップをひっくり返したとしましょう。この時は両親が子どもを責めません。むしろ「子どもの手が届く所にコップを置いておいた私が悪かった」と自分のせいにします。けれども、少し大きくなって物事がわかる子どもが、うっかりコップをひっくり返したら、責められます。
これと同じです。信仰の一段階では、まだ真理をよく知らないために、真理に逆らってはいけない、という意識もないのです。これについては、神様もまだ責められません。
しかし、信仰の二段階では、すでにみことばを知っているので、罪を犯すと聖霊のうめきを聞くようになり、心が苦しくなります。神様が喜ばれないことを心から悟るようになるのです。
聖徒の皆さん。信仰の二段階は、「行おうと努力する信仰」だと言いました。<ヤコブ2:26>に、「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」とあります。神様のみことばを聞いて知ったので、まことに信仰があるならば、そのまま行おうと努力をしなければなりません。
しかし、まだすべての事において、真理を追って行えるのではありません。行おうと一生懸命に努力はしますが、真理どおり行って勝利する時もあり、時には真理どおり行なわない場合もあります。
たとえば、「安息日をすべて守りなさい」と言われたので、すべて守ろうと努力はしますが、家や職場で何かあれば、すべて主日を守らない時もあります。みことばに従って休まずに祈ろうとはしますが、忙しくなると、祈りを休んだりします。試練にあうと感謝できなくて、口からつぶやきが出たりします。憤りを捨てて平和をつくろうとしますが、時には耐え忍べなくて、憤ったり争ったりします。
しかし、このような時も、気を落としたりあきらめたりせずに、続いて信じて努力していかなければなりません。たとえ、まだみことばどおりすべて行えないとしても、神様は、こうして努力していく姿をご覧になって、その人に救われる信仰がある、と認められるのです。
また、祈って神様の力を求めて、みことばどおり行おうと、努力しているうちに、必ず自分が変わっていくのを感じるようになります。前は十回罪を犯した人が、九回、八回、ますます減って、二回、一回になり、そうするうちに結局、罪を犯さない人に変えられるのです。このように変えられるほど、信仰の二段階からだんだん信仰の三段階に近づいて行きます。
聖徒の皆さん。信仰の二段階の人は、信仰生活が難しく感じられるかもしれません。知識的には神様のみことばを知っていて、罪と義とさばきについて教わりました。
しかし、心では相変らず世の中がよくて、真理に逆らうことを行いたがる心があるので、以前の生活を捨てるのが容易ではありません。それで「信仰生活するのが難しい」と言ったり、悩んで満たされなくなり、信仰生活をなおざりにしたりする人もいます。
時にはこの過程でそのまま信仰を捨てて、天国を攻めていくことをあきらめる場合もあります。楽に信仰生活するために、罪を指摘しない教会を探して行ったりする人もいます。
しかし、このような姿で、どうして「私にはほんとうに信仰がある」と言えるでしょうか? 罪を悟らせる聖霊の御声に耳をふさいで、世の中の人と同じように生きていくということなので、ただ形式的な信仰生活に過ぎません。
信仰の一段階から二段階に来たのですから、三段階に向かって行くべきですが、むしろ行わない一段階の信仰に後退しているのです。
敵である悪魔・サタンが、こういう人をただほおっておくはずがありません。やっと持っていたからし種ほどの信仰まで奪うために、肉の思いを吹き込んで疑いを植え付けます。受けた恵みを奪って、世の中を求めていくように惑わします。
ですから、神様の恵みも、聖霊の充満も冷めていき、教会だけ行ったり来たりして、結局は聖霊が消滅してしまうから、救いさえ受けられなくなります。
それで、<第一ペテロ5:8>に、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあり、<第一テサロニケ5:19>には、「御霊を消してはなりません。」とあるのです。
ほんとうに信仰があるならば、罪を捨てることがいくら難しく感じられても、その過程を乗り越えていかなければなりません。この道だけが祝福の道、天国に行く道ですから、敵である悪魔と戦って勝ち、神様のみことばどおり行わなければならないのです。
聖徒の皆さん。まことに神様を愛して天国を望むなら、決して真理の中を歩むことが難しくありません。
前にもこういうたとえを挙げたことがありますね。
だれかがものすごい宝を隠しておいて、皆さんにその宝を手に入れなさい、と言ったとします。宝が隠されているところまで、一ケ月歩いていかなければならないのに、そのように歩いて行きさえすれば、ものすごい宝が全部手に入るのです。
このような事実を確実に信じることさえできるならば、いくら険しい道であっても、不平を言うことなく、喜んで歩いて行くでしょう。
また、世の人々も、愛する人が願うことならば、いくら難しくても喜んでしてあげようとします。
まして、私たちに与えられた命令は、愛の神様がより良い天国を与えられて、霊肉ともに祝福されるために命じられたことですから、これに従うことがどうして難しいのでしょうか? ほんとうに神様を愛して天国を望むなら、みことばどおり従うことが難しくなく、聞いて学んだまま守り行って、すみやかに三段階の信仰に至ることができます。
私もやはり、神様に熱く出会った後、みことばどおり行うことが全然難しくありませんでした。とても神様が好きで、主が好きだったので、神様のみこころを悟るために、熱心に聖書を読みました。また、こまめに礼拝とリバイバル聖会を捜して歩き、神様のみことばを聞いて、みことばを学べば直ちにそのまま行っていきました。
たいていのみことばは、聞いて悟り次第、従うことができ、心にある罪の性質そのものを捨てるためには、若干時間がかかったこともありますが、それもそんなに多くの歳月はかかりませんでした。
ですから、信仰の一、二段階にとどまった期間はとても短くて、その次の三段階もすみやかに過ぎて、四段階に入れました。
聖徒の皆さんの中にもそのような方々がいらっしゃいます。神様が嫌われることなら、その場で捨てて、反対に神様が喜ばれることなら、その時から心に決めて、変わらずに行っていきます。そのようにする方々ならば、すみやかに信仰の二段階を過ぎて、三段階に入ることができます。
神様もそんな皆さんを喜ばれるので、聖霊に満たされるように、すべての事にともにおられ、常にあかしがあふれるように働いてくださいます。
愛する聖徒の皆さん。羊の群れを養う主のしもべや働き人たちは、信仰の一、二段階にある聖徒に常に気を遣い、家庭を訪問しなければなりません。
ところが、このように信仰が少ない聖徒の家庭を訪問するとき、注意しなければならないことがあります。
本文<ローマ12:3>に、「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあります。
このみことばのように、皆さんが訪問する時も、相手の信仰の量りに応じてしなければなりません。
たとえば、信仰が弱くて、大礼拝だけささげて、また店を開ける初心の者に、「完全な主日を守らなければ救われません」と言えば、どうなるでしょうか?
幸いにも神様の恵みで、完全に主日を守る人に変えられるかもしれませんが、まかり間違えば、「信仰生活はあまりにもつらい」とつまずいて、大礼拝さえささげないこともありえます。
<第一コリント3:2>には、信仰の少ない聖徒たちに、「私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。」とあります。
乳を飲まなければならない赤ちゃんに、堅い食物を食べさせると、どうなるでしょうか? 自分の方ではいくら良いものを与えたといっても、赤ちゃんにとってはいのちさえ危なくなるのです。
かと言って、初心者が完全な主日を守らなくても、そのまま知らないふりをしなさい、と言うのではありません。神様のみこころが何かは、正しく知らせてあげなければなりません。完全な主日を守ると、神様がどれくらい喜ばれるのか、そうする時、どのように霊肉ともに祝福されるのか、実際のあかしと一緒に、知恵をもって信仰を植え付けて、自らの信仰で行える力を注いであげなければなりません。
病気に関しても同じです。信仰もない初心者が病気にかかりましたが、「祈りを受けると、何の病気でもいやされます」と言って、無条件に病院に行くことをさまたげてはいけません。
この教会には、みことばと多くのあかしがあるので、これによって信仰を植え付けて、自らの信仰で神様の前に出て来るようにしなければなりません。自らが信仰を示せないならば、他の人が無理に強いてはならないのです。
その他にも、皆さんが家庭を訪問する時や、何かを勧めるとき、ある神様の働きをするとき、常に自分の信仰だけで行うのではなく、相手の信仰を考慮しなければなりません。
それで、弱い信仰であっても、神様の愛を感じて天国を望み、信仰の三段階へと聖霊に満たされて走って行けるように助けなければなりません。
では、このような信仰の二段階が入れる天国の場所はどういう所でしょうか? これは次の時間に語ります。

<結論>

愛する聖徒の皆さん。信仰の一段階と二段階は、信仰生活の中でもとても初歩的な段階です。この信仰では、救われて天国に行っても、「恥ずかしい救い」を受けるようになります。みことばを聞いて知っていながら、まだ行いで犯す罪さえ捨てられなかったので、聖なる神様を拝見するとき、どれほど恥ずかしいでしょうか?
<ヘブル12:14>に、「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とありますが、心から平和を追い求めて聖くなるどころか、行いでも罪を捨てられなかったのですから、聖なる主の御顔を拝見することもできません。
また、自分が信仰生活を怠けている間に、熱心に罪と戦って捨てた他の聖徒たちに会う時も、申し訳なくて恥ずかしいのです。
神様はかたよったことをなさらず、心をご覧になる方であり、また、行いのない信仰は死んだ信仰だと言いました。
信仰生活を始めて、やっと数ヶ月、あるいは数年にしかならなかった人でも、こまめにみことばを聞いて行っていけば、直ちに信仰の三段階に育ちます。
このように熱心に信仰生活する人々は、聖霊に満たされて、祈ることごとに答えられて、すべての事に栄えるなど、あかしが絶えません。
主を受け入れて長くなったのに、罪をすみやかに捨てられない人々は、かえってあかしも多くなく、聖霊の御声もよく聞けません。
しかし、信仰の年輪が浅くても、聞いた通り従っていく人々は、聖霊の御声を明らかに聞いて導かれて、その他にもいろいろな霊的な体験をするようになります。
肉的にも、まだ幼い子が大きい子のように両親に従って喜ばせるなら、両親の愛をあふれるように受けます。
同じように、まだ信仰の段階が低いのに、その信仰の量り以上に、信実な行いを見せる時は、神様がその人を喜ばれて、愛のあかしをさらに濃く見せられるのです。
愛する聖徒の皆さんは、こまめにみことばを聞いて学び、心と行いで聞き従っていくよう願います。
それで毎日皆さんの信仰が進んで、すみやかに神様が喜ばれるところにまで至り、この地上でも天でも神様に愛されるあかしを受けて味わわれますように、主の御名で祈ります。

 
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