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Title
信仰の量り(5) - 信仰の1段階
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ロマ 12:3
Date
2005-11-06
<本文>
<ローマ12:3>
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
<序論>
愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエルそしてケニア、ウガンダ、コンゴなどアフリカ諸国をはじめとする全世界と全国の3800余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。
もし、子どもが生まれても、その子が全然成長しないでそのままならば、大きい問題になるでしょう。いくら時間が経っても、いつも両親が食べさせて、着せて、洗ってあげなければならなくて、ことばも通じない赤ちゃんのままとどまっているなら、どれくらいもどかしくて心が晴れないことでしょうか?
普通の子どもなら、すくすく育って、物事がわかり、両親の心もわかって、一人前の人になって、両親の喜びになるはずです。
信仰によって新しく生まれた聖徒も同じです。イエス・キリストを信じて救われたとしても、そこで終わるのではなく、信仰によってその霊と魂が新しく生まれたのですから、その時からすくすく育たなければならないのです。
愛する聖徒の皆さんは、今日も語られるみことばを通し、皆が救われる霊の信仰を持ち、また、日が経つにつれて、より大きく成長した信仰に変えられていくように願います。
それで、すみやかにキリストの満ち満ちた身たけにまで達して、神様を喜ばせる皆さんになられますように、信仰の創始者であり、完成者である私たちのイエス・ キリストの御名で祈ります。
<本論>
愛する聖徒の皆さん。今日は「信仰の量り」五番目の時間で、信仰の一段階について語ります。「信仰の量り」全体をそれぞれの特徴によって五段階に分けて、その中で最も少ない信仰から語っていきます。
信仰の一段階は、「救われるための信仰」です。これは「聖霊を受けるための信仰」だと言えます。この間説明した<第一ヨハネ2:12>のみことばに照らしてみると、「子どもたちの信仰」にあたる段階です。
<使徒の働き19:2>に、弟子たちに、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねる使徒パウロの質問があります。弟子たちは神様を信じる人々であり、バプテスマのヨハネの洗礼も受けた人々でしたが、聖霊は受けたことがありませんでした。
それで、パウロが彼らにイエス・キリストをあかしして按手すると、直ちに聖霊が臨まれました。また、異言と預言など、いろいろな聖霊の賜物が現れました。それでは、皆さんは聖霊を受けられましたでしょうか?
聖霊を受けてこそ、神様の子どもとされます。聖霊は、御父、御子、御霊の三位一体の神様のおひとりです。
福音を聞いて主イエスを受け入れた人々の心に、御父の神様は聖霊を送ってくださいます。聖霊を受けるためにはまず、イエス・キリストについての福音を聞かなければなりません。
<ローマ10:17>に、「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあります。
つまり、イエス・キリストがどういう方なのか、なぜ私たちの救い主になられるのかを知ってこそ、主が信じられます。<もちろん、この時はまだ知識的な信仰です。>
なぜイエス・キリストだけが私たちの救い主になられるのか、皆さんはよくご存じですね?
アダムの罪以来、すべての人類は初めから原罪を持って生まれるようになりました。また、生きている間罪を犯すので、罪の主管者である悪魔に従って生きていきます。
このように、原罪と自ら犯した罪を持った罪人なので、すべての人が地獄に行かなければならないところでした。
自分で「善良に生きている」と言う人々もたくさんいますが、その人々も真理に照らしてみれば、明らかに罪人です。明るい光で部屋の中を照らすと、細かいホコリまで明らかにされるように、神様のみことばに照らすと、隠された悪が明らかにされるしかありません。
<ローマ3:10>に、「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。』」とあるように、律法の義に照らすと、罪のない人はだれもいないのです。
ところが<ローマ6:23>に、「 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」と言われました。
罪人たちは必ず死の刑罰を受けるべきなのに、イエス様が十字架を背負って亡くなられたので、罪人たちの罪の代価を代わりに払ってくださいました。
しかし、イエス様は罪がないので、亡くなられて三日目に死を滅ぼし、またよみがえられました。この事実を信じる人は、十字架の血のいさおにより、罪の赦しを得て救われます。
<使徒の働き2:38-39>に、ペテロが福音を伝えた後に、人々に勧めるみことばがあります。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」と言いました。
このように、福音を聞いて心の扉を開いて、自分が罪人であることを悔い改めて、罪の赦しを得ると、神様が聖霊を心に送ってくださいます。
主を受け入れて聖霊を受けると、ようやく救われた神様の子どもとして「いのちの書」に記されて、天国の国籍を得るようになります。子どもが生まれると出生届けをするように、救われた天国の民として名前が記されるのです。
<ヨハネ1:12>に、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と言われたとおり、神様の子どもとされた特権を得るようになります。
聖霊を受けると、知識的な信仰で知るのではなく、心から信じられるようになります。処女がみごもってイエス様が来られたことも信じられるし、イエス様が亡くなられて、またよみがえられたことも信じられます。イエス様が自分の救い主であることが信じられ、将来、私たちを連れにまた来られる、ということも信じられます。聖徒たちが終わりの日に復活することも信じられます。
人の知識と考えでは信じられないことですが、聖霊が信じられるように助けてくださるので、心から信じられるのです。
もちろん、この信仰はまだ全き信仰ではなく、からし種ほどの小さい信仰です。からし種を蒔いて育てれば、ますます大きい木になるように、からし種ほどの小さい信仰も、信仰生活を通して、大きい信仰に育てていかなければなりません。
聖徒の皆さん。一段階の信仰では、聖霊を受けていのちの書に名前が記されても、まだ神様のために何もしたことがありません。みことばを聞いて従い、罪と戦って捨てたのでもなく、ある職分を受けて神の国のために忠実に働いたこともありません。
たとえば、<ルカ23章>の救われた強盗が、この信仰の一段階にあたります。イエス様が十字架を背負って亡くなられるとき、イエス様の十字架の両側には、ふたりの強盗がそれぞれ十字架の処刑を受けていました。
その中のひとりは、悪い人々と一緒にイエス様に悪口を言ってあざけりましたが、もうひとりのほうは、むしろその人をたしなめて、イエス様に信仰を告白します。
<ルカ23:42>に、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と自分の霊と魂をゆだねたのです。するとイエス様は彼に、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われました。この人は死ぬ直前の最後の瞬間に、イエス様を主として受け入れて、天国の約束を受けたのです。
このように、かろうじて救われた信仰の時に入る天国の場所が、まさにパラダイスです。<もちろん、ここでイエス様が「パラダイスで彼とともにおられる」と言われたことは、「イエス様がパラダイスにおられる」という意味でなく、「イエス様がすべての天国の主人だからである」とこの間、すでに説明しました。>
ところが、この人が仮に、救われてずっと生きて信仰生活したとしたら、その結果が変わったかもしれません。それ以後は、聖霊が心をつかさどるとおり、つまり、御霊の願いを追って生きたでしょう。罪を捨てて、心の割礼もして、伝道して奉仕もして、神の国に忠実に働いたはずでしょう。
ですから、一段階の信仰にとどまっているのではなく、二段階、三段階と、このようにますます成長して、パラダイスではなく、それ以上のより良い天国に入ることもできるのです。
皆さんも同じです。信仰によって聖霊を受けて救われたら、そこで終わらず、だんだん信仰が大きくならなければなりません。「主を信じます」と告白はしますが、世の中の人とあまり差のない姿にとどまっていてはいけません。
皆さんの人生そのものが、キリスト者の人生に変えられていくべきです。すなわち、みことばを聞いて学ぶべきであり、そのみことばどおり従って行い、心を聖めなければなりません。伝道して奉仕をして祈るなど、神の国を果たすために、忠実に働かなければなりません。より良い天国を慕い求めて、激しく攻めていかなければなりません。
愛する聖徒の皆さん。一段階の信仰で救われた人は、天国の中のパラダイスにいる、と申し上げました。それでは、パラダイスとはどんな所でしょうか?
パラダイスは天国では最も低い場所ですが、この地上とは比べられないほど、幸せで美しくて平和なところです。
この地上でも、有名な観光地や美しい休養地がたくさんあります。皆さんの中にも直接行った方々もいるし、テレビや写真でご覧になった方もいるでしょう。
それでは、今から皆さんが記憶と想像力を全部働かせて、最も美しくて快適で幸せな場所を一度思い描いてみましょう。
空は眩しく清くて青く、白い雲が絵のように浮かんでいます。きれいな砂が眩しく輝く浜辺。海はとても澄んで、水の中がすべて透けて見えて、さまざまな色の魚たちが珊瑚礁の間で泳いでいます。
美しい樹木と花が見事に咲いて、甘い花のかおりが四方からただよい、芝生が果てしなく広がっています。寒くも暑くもない快適な天気で、あちこちから人々の幸せな笑い声が聞こえてきます。
この地上でも、このように美しくて平安なところを見ると、神様を信じない人々も「天国のようだ」、あるいは、「ここがまさに地上のパラダイスだ」と言ったりします。
しかし、この地上でいくら美しい所と言っても、また、どんな想像をしても、パラダイスとは比べられません。花びら一つ、草の葉一つが、この地上のものとは全く違って、鳥の羽一つ見ても、その色と軟らかさと輝きは、うっとりするほどです。
ですから、人がパラダイスに入ると、あたかも夢の中に入ったような美しい景色の中で、「私のような者がどうしてこのような恵みを受けたのだろう」と、神様の愛に感激せずにはいられません。
神様の御座から流れ出る清らかないのちの水が、新しいエルサレムと三天層、二天層、一天層をあまねく回り、パラダイスまで流れてきます。
いのちの水の川の両岸には、いのちの木があり、十二種の実が毎月なります。
霊の目が開かれて天国のパラダイスを見た方々は、道がよく整えられて、広々した空間に広がった芝生と、美しく飾られた多くの庭園を見られたでしょう。
さまざまな鳥のさえずる声が音楽のように聞こえて、花は満開で美しいかおりを放ち、木になった果物も思いきり食べられます。
病気もなく、死もなく、害を与える獣や災いもありません。悲しみも苦しみもありません。罪と悪がないので、互いに苦しめ合うこともなく、苦しみを受けることもないのです。
では、皆さんはこのようなパラダイスで永遠に生きることを希望されますか? もちろんパラダイスは良いところです。救われた恵みだけでもとても感謝で、永遠な刑罰である地獄に入らないことだけでも、ことばに言えないほど感謝です。
しかし、これで満足してはいけません。必ず、より良い天国を激しく攻めていかなければなりません。
いくらパラダイスが良くても、一天層で受ける幸せとはあまりにも大きな差があります。それより上の段階の天国とは、もっと大きい違いがあります。
いくつかたとえてみましょう。先ほどパラダイスの美しさについて、いろいろと想像してみるように申しましたが、それ以外に、「天国」ということばをお聞きになって、皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか?
純金と各種の宝石で華麗に建てられた宮殿のような家を思い浮かべることもでき、王子のように、王女のように、栄えある冠をかぶって、華麗な服を着た姿も思い浮かべるでしょう。美しい天使たちが、皆さんを主人として仕えて付き添う姿も想像できます。
ところが、パラダイスでは、こういう想像があてはまりません。パラダイスにいるようになる人々には報いもなく、冠もなく、家も別に与えられないのです。
信仰の一段階を越えて、二段階になってさえ、自分の家がありますが、パラダイスでは自分の私的な空間や家がないのです。なぜでしょうか?
人がこの地上で信仰生活するとき、信仰によって行ったこと、神様のために忠実に働いて蒔いたことがあってこそ、それが天国で報いになるからです。
一段階の信仰では、かろうじて救われることだけでも精一杯なので、天国に報いを積む余裕がなかったのです。地獄に行かないことだけでも感謝な状況なのに、そういう人々が、神様に何か報いを望むことはありえないのです。
もちろん、家がないと言っても、パラダイスにいる人々は、ただ芝生を歩いたりしているだけではありません。この地上にも、村の会館や福祉会館のような所があって、このような場所は多くの人が共同で使います。そのように、パラダイスにも共同で使う場所があって、その中に集まることも、ゆっくり休むこともできます。
もちろん、共同生活をするからと言って、互いに被害を与えたり迷惑をかけたりすることは全くありません。天国には悪がないので、ただ互いに譲り、相手を配慮するので、幸せがあるだけです。
しかし、パラダイスがいくら幸せなところだと言っても、「私はパラダイスに入りさえすればよい」と言う方は、皆さんの中にいないように願います。
肉的に、この地上でより多くの物を手に入れて、受けようとする欲は捨てるべきですが、神様の御前で賞を望む霊的な欲は、なければなりません。
まことに信仰があるならば、当然より良いところを慕い求めなければなりません。霊的に欲を持つからといって、「もっと良い天国に入らなければ」と口先だけで言うのではなく、実際に、より良い天国に入れる資格を備えなければなりません。
その資格とは、まさに神様のみことばを守り行って、心の悪を捨てて聖い人に変えられることです。
それで、このように天国を激しく攻めていこうとする善なる戦いが始まると、直ちに信仰の二段階に入るのです。信仰の二段階については、次の時間に調べていきます。
<結論>
愛する聖徒の皆さん。「私はまだ世の中をもっと楽しんで、後で年を取ったら、教会に行きます」と言う方々もいます。福音を聞いて知識的にはわかるけれど、まだ世の中がよくて、信仰生活することはいやだ、という意味です。
けれど、自分が死ぬ日をあらかじめ知っている人が果たしてどれくらいいるでしょうか?
自分がしばらく経つと死ぬことがわかり、「これから信じます」と言っても、その時、救われる信仰が与えられる、とだれが保証できるのでしょうか?
聖霊は、神様が恵みとして下さる賜物です。自分の思いのままに受けられることではありません。いくら「信じます」と言っても、救われる信仰が与えられないならば、聖霊を受けられないならば、結局、天国に入ることはできません。
また、ある場合は、臨終の時、その魂の救いについて、霊界の激しい戦いがあるのを見ます。霊の目が開かれた方々が見ると、ふたりの天使たちと、ふたりの地獄の使いたちが来て、臨終を迎えようとする魂を連れて行くために、互いに力を競っています。
このような場合は、ひとまず聖霊は受けても、熱心に信仰生活ができなかったか、あるいは、むしろひどく罪を犯して、神様との間に壁を作っていったので、初めに受けたからし種ほどの信仰さえ、ほとんど残っていない場合です。
たとえば、火種をつけたら、燃え続けるようにすべきですが、そのままにしておいたり、水を浴びせて火種がほとんど消えてしまったりするかのようです。
この時は、周りの人々が続けて信仰を植え付けて、天国の賛美を聞かせてあげるなど、希望を植え付けなければなりません。それで神様の恵みが臨むと、悔い改めるようになり、救いの確信が来ます。すると心に平安が臨み、明るい顔で臨終を迎えるのです。
ところが、このような場合、まかり間違って、最後の瞬間まで信仰を持てないなら、地獄に落ちるしかないのですから、どれくらい危ういことでしょうか?
世の中で最も重要なことは、魂の救いの問題です。「それでも私は救われるだろう」と、漠然と偶然の幸運を願ってはいけません。救いの確信と天国への希望の中で、いつも満たされた信仰生活をしなければならないのです。
皆さんの中に、万一、まだ聖霊を受けられなかった方がいるならば、神様が約束された恵みの聖霊を切に求めて、必ず聖霊を受けるように願います。
また、聖霊を受けた方々も、そこで立ち止まらず、熱心に信仰生活をして、さらに上の段階の信仰に入るようにお願いします。
今が皆さんの前に救いの扉が開かれた時であり、より良い天国に入る機会が与えられた時です。
<イザヤ55:6>で、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」 と言われたように、今、与えられた機会を捉えて、歳月を大切にして、激しく天国を攻めていく皆さんになられますように、主の御名で祝福して祈ります。
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