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主日礼拝 メッセージ > 主日礼拝
主日礼拝
Title
   信仰の量り(2) - 霊の信仰を持つためには  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ヘブ 11:1-3
Date
   2005-10-16


<本文>

<ヘブル11:1-3>

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」

<序論>


愛する聖徒の皆さん、アメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプトなど、全世界と全国の3800余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。

きょうは「信仰の量り」二番目の時間です。
この間の一番目ときょうの二番目のみことばは、「信仰の量り」のメッセージ全体の序論のようなものです。「信仰の量り」を説明する前に、「信仰とは果たして何か」をまず説明しています。
私たちが救われて天国に行くのも、神様に祈って答えられるのも、信仰でなされることです。ところが、この信仰は必ず神様が認められる霊の信仰でなければなりません。人のほうでいくら「信じます」と告白しても、神様が認められる霊の信仰でなければ、救われることも、答えられることもできません。
それで、この間は、神様が認められる信仰、つまり、「霊の信仰」が何かを調べるために、「肉の信仰」と「霊の信仰」について語りました。
「霊の信仰」とは、自分の知識や理論や思いに合わなくても信じる信仰であり、現実と条件に関係なく、変わらない信仰であり、知識として知っているだけに終わらず、行いによって証拠を見せる信仰だと言いました。
このような霊の信仰があれば、この山に「ここからあそこに 移れ。」と言えば移るし、人としてはとうてい不可能なことでも、信仰で祈って答えられるのです。
ところが、この霊の信仰は、人が自ら持てるものではありません。
<ローマ12:3>に、「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあります。
このように、霊の信仰は、神様がおのおのに分け与えてくださった量だけ持てるのです。かりに、人が思いのままに霊の信仰を持つなら、この世には多くの問題が起こるでしょう。
たとえば、商売をする人が、「主よ、隣の店にはお客さんが行かないように、うちにだけ来るように働いてください。信じます」と祈ったり、隣人をとても嫌っている人が、「あのいやな人が交通事故にあうように」と祈ったりしたとしましょう。こういう人々も自分で答えられる信仰を持てるならば、世の中はめちゃくちゃになるでしょう。
したがって、正しい方である神様は、答えを受けるのにふさわしい資格を備えた人にだけ、答えられる信仰を与えられます。そのような霊の信仰を持った人ならば、こういう悪い祈りはするはずもありません。
きょうは、皆さんがどうすれば、神様が与えられる霊の信仰を持つのか、その方法を語ります。みことばを通し、大きい霊の信仰を所有して、信仰で求めることがみな答えられて祝福され、すべてにおいて神様に栄光を帰する皆さんになられますように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん。<マルコ9:22>には、おしの霊につかれた息子の父親が、イエス様のところに息子を連れてきて、いやしてくださるように求めます。
父親は「この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言いました。
ここで「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」というのは、信仰の告白ではありません。神様の全知全能を信じて求めるのではなく、「ひょっとして」と偶然の幸運を願う心です。
それで、イエス様は、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と悟らせてくださいました。するとすぐに、その子の父は「信じます。不信仰な私をお助けください。」と叫んで言いました。
初めは明らかに、「信じます」と言ったのに、その次に、「不信仰な私をお助けください。」と、「信じる」と言ったり、「不信仰」と言ったりして、前後が合わないように聞こえるかも知れません。
しかし、これは前後が合わないのではなく、「信仰」という表現に含まれた、霊的な意味が違うのです。
前に「信じます」と言ったのは、肉の信仰の告白です。すなわち、「聞いて知識的には知っている」ということです。この人はイエス様のうわさを十分聞きました。悪霊を追い出して、目の見えない者を見えるように、話せない者は話せるようにされるなど、驚くべき力のわざをなさるのを聞きました。このように噂を聞いて、頭では知っているので、「知識的に信じます」と告白したのです。
その次に、「不信仰な私をお助けください。」と言ったのは、知識的には聞いて知っているけれど、実際に、自分の心には、息子の問題が答えを受けられる霊の信仰がないことを悟ったので、答えられるための霊の信仰を下さるように求めているのです。
このようにへりくだった姿勢で、真実に求める姿をご覧になったイエス様は、汚れた霊をしかって言われました。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」それで、悪霊は出て行って、その子は正常になりました。
子どもの父親は、初めは知識的な信仰を持っていましたが、切に求めて霊の信仰を持つようになり、これを通して息子が完全にいやされる神様のみわざを体験しました。

愛する聖徒の皆さん。皆さんも神様に出会って体験するためには、必ず霊の信仰を持つべきですが、ほとんどの人々が初めから大きい霊の信仰を持つのではありません。からし種ほどの信仰から始めます。
つまり、福音を聞いて主を迎え入れると、聖霊を受けて、救われる信仰を持つようになります。この時から神様のみことばを聞いて糧とするほど、霊の信仰が育ちます。
では、皆さんはどうすれば、霊の信仰を持てるでしょうか?

第一は、霊の信仰を持てないように妨げる、すべてのはかりごとと理論を破らなければなりません。
<第二コリント10:5>のように、「 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」なければなりません。
この間も説明したように、皆さんが生まれてから学んだすべての知識と理論、思考と価値観は全部正しいものでなく、ただ神様のみことばだけが永遠不滅の真理であります。
人が自分の知識と理論を正しいと言い張る時は、真理である神様のみことばを受け入れることができず、霊の信仰を持つこともできません。
世の中で学んだことが、みことばと合わないと、それらを徹底的に否認して、神様のみことばだけを完全に信頼して認めなければないのですが、それができないので、霊の信仰を持てないのです。
ところが、この教会で信仰生活をする皆さんは、知識と理論、枠とはかりごと(つまり考え)を破ることが、他の人々より簡単にできます。
皆さんの中には、世の中で多くの知識を積んだ方もいますが、その方々も講壇から語られるみことばを、「アーメン」で受けて、熱心に信仰生活をする理由は何でしょうか? 世の中の理論と知識を超えて起きる、神様のみわざを直接見て体験したからです。
本教会でたった1ヶ月だけ信仰生活をしても、毎週数多くの不思議なわざとしるしを見聞きするようになります。特に不治の病、難病など、さまざまな病気とわずらいが神様の御力でいやされる証は、数え切れません。しかも、こういういやしの事例を裏付ける、医学的資料も明らかに提示されています。
毎週、このように無数の神様のみわざを体験すると、いくら知識が多くても、自分の理論と考えをみことばより先に立たせることはできません。
<ローマ8:7>に、「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」とあります。
この時間、みことばをお聞きになる皆さんは、今日、この教会に神様が見せてくださるみわざを通しても、神様のみことばを信じられないように妨げる、すべての考えと理論を捨ててしまうよう願います。それで、神様のみことばなら、どんなことでもただ「アーメン」で受けられるようにお願いします。

愛する聖徒の皆さん。霊の信仰を持つための第二は、神様のみことばを熱心に聞いて学び、そのまま行わなければなりません。
<ローマ10:17>に、「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあります。
まずは神様のみことばを熱心に聞いて学び、真理で心を満たしていかなければならないのです。心を真理で満たしていくと、真理に逆らう非真理は抜け出るようになり、清い心を耕すようになります。このように皆さんが清い心を耕した分、神様はより大きい霊の信仰を与えてくださいます。
<第一ヨハネ3:21 -22>に、「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。」とあり、そのほかにも、聖書の所々に、このような約束をたくさんしておかれました。
神様は必ず約束を守られる方です。ですから、心を真理で満たしていき、みことばどおり生きていく子どもたちには、信じられる霊の信仰を与えられて、その信仰で求める時、必ず答えてくださいます。
心の畑がとても良い人ならば、みことばを聞いて学ぶとすぐ心に信じられるので、霊の信仰がすくすく育ちます。しかし、ほとんどの場合は、みことばを聞くと、初めは知識的な信仰で受けて、だんだんこれを霊の信仰に変えていかなければなりません。
聞いて学んで、知識として入れた神様のみことばが、心の中で霊の信仰として満たされるためには、必ず必要な過程があります。まさに、神様のみことばにそのまま聞き従う行いがなければならないのです。
たとえば、皆さんがピアノの楽譜をすらすらと読めるからといって、ピアノがよく弾けるわけではありません。ゴルフ教本を熱心に読んだからといって、ゴルフがよくできるのでもありません。直接ピアノの前に座って練習すべきであり、ゴルフ教本のとおり、ゴルフの練習をしなければなりません。
神様のみことばも同じです。いくら神様のみことばをたくさん読んで聞いても、そのみことばどおり行わなければ、何の役にも立ちません。みことばどおり行わない人には、みことばがただ知識として、聖書の文字として残っているだけです。
しかし、みことばどおり行えば、神様のみことばは生きていて、力があり、答えと祝福の美しい実を結びます。みことばどおり従う、その行いをご覧になり、神様が霊の信仰を下さるからです。
もちろん皆さんがみことばに聞き従おうとしても、直ちに従えない場合もあります。神様のみことばで「愛しなさい」と言われるので愛そうとするのに、心では憎しみが捨てられず、憤りを捨てようとしても、しきりに憤りが出てきたりします。
そのような時は、火のように祈って、聞き従える能力を受けなければなりません。祈ってもだめだったら、計画して決めたとおり祈って、徹夜して、断食でもして、必ず能力を受けなければなりません。
このように心から神様の恵みと能力を求めると、神様は必ず、聞き従える能力を下さいます。それで、みことばに従って行っていく時こそ、霊の信仰を持つことができます。
このように行いによって霊の信仰を持つようになると、みことばに約束されたように、祝福が臨みます。たましいに幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また健康であり、心の願いにも答えられます。
こういう祝福の体験をするなら、それからは、ますます大きいことにも聞き従えるようになり、より大きい信仰を持つようになります。
それで<ローマ1:17>には、「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」とあります。
「その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」と言われたように、聞いたことに従って行う時でこそ、知識的な信仰から霊の信仰に変えて、小さい信仰からより大きい信仰に至るようになります。
これを理解しやすいように、喩えてみましょう。
皆さん、のどが渇いたら、どうなさるでしょうか? 水を飲めばよいですね。「のどが渇く時は、水を飲めば渇きが解消される」――これは一つの知識的な信仰です。この事実を心から信じるでしょうか? 信じるので、のどが渇くと、水を探すのです。
ところが、もし、「水を飲めば渇きが解消される」ということを、聞いて知識としては知っているのに、「本当に水を飲むと、のどの渇きが解消されるだろうか」と疑いながら、水を飲まない人がいるとしましょう。それでは、その人は本当に信じると言えるでしょうか? 聞いて知識では知っているけれど、心では信じられない人です。
本当と信じるなら、コップを取り、水を飲む行いが伴うようになります。「水を飲むと、のどの渇きが解消される」ということは、最初、聞いて知っている知識的な信仰でした。
頭で知っているその知識を信じて行ってみました。すると、実際にのどの渇きが解消されました。これが体験になって、それからは、のどが渇くと、自動的に水を探し、飲みます。一つの知識が行いを通し、心で信じられるので、次からは、自動的に行いが出ます。
みことばも同じです。聖書のみことばを聞いた時、からし種ほどの信仰でも、ひとまず従って行ってみると、従ったとおり信仰の体験をして、その体験を通し、霊の信仰を得るようになります。それで上から霊の信仰が与えられる分、次回には、さらに簡単にみことばどおり行えるようになります。
愛する聖徒の皆さん。霊の信仰が大きくなって完全な量に至ると、神様がいくら不可能なことを命じられても、すべて聞き従って行えます。
たとえば、アブラハムは百才に得たひとり子のイサクを全焼のいけにえとしてささげなさいという、神様の命令にも、そのまま聞き従えました。
普通の人なら、想像することさえできないですが、アブラハムは、全然迷わずに、直ちに従いました。アブラハムは神様の全知全能なことを確信して、イサクを全焼のいけにえとしてささげても、神様がまたよみがえらせることもできる、と信じたからです。
このように不可能なことまで信仰で従った時、彼は信仰の先祖となり、その名は祝福となり、そのうえ「神の友」とまで呼ばれる、驚くべき祝福を受けることができました。
愛する聖徒の皆さんは、アブラハムのように、お聞きになるみことばに信仰で従って、その行いを通して、信仰の証拠を見せるよう願います。
それで父なる神様の心を喜ばせて、ますます大きい信仰を所有して、毎瞬、全知全能な神様の能力を体験して生きていかれるよう願います。

<結論>

愛する聖徒の皆さん。きょうは、霊の信仰を持つためには、どうすればよいのか、二つに分けて説明しました。
まず、神様のみことばを信じられないように妨げる考えと理論を破らなければならない、と言いました。そして霊の信仰は、行いが伴うことなので、みことばどおりに従って行わなければならない、と言いました。
神様のみことばを守り行って、心を真理で満たしていくと、真理で満たされた分、より大きい霊の信仰が与えられるのです。
結局、おのおのの「信仰の量り」は心がどれくらい真理で満たされたのか、どれくらい聖められたかにより、決定されます。
すると、このみことばを聞いて、「私はまだすべてみことばどおり生きられないから、信仰の量りが小さいので、祈っても答えられないのか」と言うかもしれません。
しかし、そうではありません。おのおのの信仰が大きくても小さくても、自分が答えられようとする問題に答えられる器を備えると、神様はそれに応じた霊の信仰を与えてくださいます。
つまり、ある人が自分の病気がいやされることを願ったら、「信じます」と言葉だけで告白するのではなく、行いで自分の信仰の証を見せて、答えられる器を準備します。心に決めて祈り、断食して徹夜し、最善を尽くして献金をささげるなど、その他にも神様を喜ばせるものを探し、熱心に行います。
自分の方で信仰の行いが積まれ、答えられる器の準備ができると、神様が上から信じられる信仰を与えられて、その信仰によっていやされるようになります。人の方で自ら準備した答えられる器の中に、神様が上から与えられる霊の信仰が満たされると、その時、答えのみわざが現れます。
ところが、こういう時、「信仰の量が大きい人は、信仰の量が小さい人より答えられる器をさらに簡単に準備できます。
たとえば、答えられるために祈っても、信仰が大きい人の祈りの香りは、小さい人に比べて、はるかに美しくて濃い香りで神様に届けられます。
同じ題目で祈る時、ある人は一日だけ祈っても答えられ、ある人は一週間以上祈らなければならない理由がまさにこれです。
だから信仰が小さい人であっても、祈ることは必ず答えられますが、できれば大きい信仰を持つほうがはるかによいのです。
ところが、皆様が大きい信仰を持つべき、さらに重要な理由は、皆様の信仰の量りに応じて、将来、入る天国の場所が変わるからです。天国の中でも、どれほど美しい天国に入って、どれほど栄光の中で生きるのか、その尺度となるのが、まさに「信仰の量り」です。
次の時間からは、「信仰の量り」について本格的にみことばを語ります。聖徒の皆さんは、お聞きになるみことばを通し、大きくて完全な霊の信仰を持つよう願います。
それで、この地でも求めるすべてに答えを受けて、栄光をささげて、将来、天国でも最も栄えある場所に入る皆さんになられますように、主の御名で祈ります。

 
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