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メッセージ > 主日礼拝 |
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Title |
霊の人 |
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Speaker |
堂会長 イ・ジェロク 牧師 |
Bible |
ヨハ 4:24 |
Date |
2004-10-10 |
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[序論] 今日は本教会が創立22周年を迎えた,幸いな主日です。 開拓以来22年の間、一瞬も変わらずに本教会と共におられて、本教会を通して計画されたすべてのご摂理を成し遂げてこられた父なる神様に、すべての感謝と栄光を捧げます。 また今日に至るまで、主のからだである教会のために、献身して共に万民の歴史を作られたすべての方々にも感謝致します。 今日、この幸な日を祝うために、全国、全世界から来られたすべての方々にも感謝を申し上げて、主の恵みが豊かに臨むよう祈ります。 [本論] 愛する聖徒の皆様、また、本教会と衛星を通して礼拝を捧げている、全国のすべての聖徒の皆様、支教会の聖徒の皆様、支聖殿の聖徒の皆様、光と塩宣教会の聖徒の皆様、飲食宣教会の聖徒の皆様、全世界でインターネットを通して、礼拝を捧げているすべての聖徒の皆様、[日曜学校の子供の皆様]、また本教会を訪ねて下さった来賓の皆様、 今日の本文[ヨハネ4霊の人4]を見ると、「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」とあります。 この御言葉のように、神様は霊ですから、神様の子供達も、今日の御言葉の題目のように、「霊の人」になることを願われます。 神様がこの地で人間を耕される目的も、霊の人々を得られるためであり、今日までこの教会を導いてくださった理由も、多くの霊の人々を得るためです。 勿論、救われた神様の子供達は、聖霊によって新しく生まれ、霊が生き返って、天国に行けるようになりました。 ところが、信仰で新たに生まれて,私たちの霊が生き返ったとしても、それですべてが完成されたということではありません。 例えば、赤ちゃんは生まれた瞬間から一人前になるわけではなく、青年から壮年へと、段々大きくなっていきます。 同じように、救われて命を得た私たちも、その信仰が毎日大きくなっていかなければなりません。 それで聖書の信仰の先輩たちのように、完全な霊の人に変えられなければならないのです。 私たちがこの世で生きていきながら、信仰生活をすることが、まさに完全な霊の人に変えられていく過程です。 どれくらい完全な霊の人に変えられたかによって、天国でもその栄光が違います。 また、霊の人になるほど、父なる神様の心と願いをもっとよく知ることが出来、神様と明らかに交わっていけます。 神様の国のために働く時にも、霊の人になってこそ、宿敵サタンのしわざを破って、多くの実が結べるのです。 それで神様は、神様の摂理を成し遂げるのに道具として使われる人々をまず練られて、霊の人に変えられるのです。 例えば、モーセは練られる前には、いくら神様に対して熱い心を持っていたとしても、出エジプトの指導者として使われることはできませんでした。 荒野で40年間も練られて、地上のだれにもまさって、非常に謙遜であって、霊の人になった時、はじめて御力を受けて神様の民を導くことができました。 本教会の場合も同じです。 神様が私たちに向かって計画されたことを成就するためには、まず、私たちの中に多くの霊の人々がいなければなりません。 皆様が今日に至るまですべての訓練の歳月を、感謝の心で受け入れられた理由も、訓練を通して霊の人々に変えられて、神様の御わざを成し遂げる主役になるためでした。 したがって、創立22周年をむかえた今日は、今後、皆様が真に完全な霊の人に変えられるために、目標となる御言葉を3つに分けて語ります。 御言葉を聞いて、「私はどれくらい霊の人に変えられたのか。」と自ら省みて、より速かに霊へ、また完全な霊へと入ってこられるように願います。 愛する聖徒の皆様、霊の人になるために、第一は、ただ、聞き従わなければなりません。 [サムエル1の15霊の人2後半]を見ると、「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、牡羊の脂肪よりまさる。」とあります。 人がいくら熱い心から忠実しようとしても、聞き従わない者は神様の御前に取り柄がありません。 では、神様のわざを行うことを願っても、実際に神様がある事を命じられると聞き従えない理由は何でしょうか。 まさに肉の思いがあるためです。 神様が「東の方へ行きなさい。」とおっしゃっても、自分は西の方に行ったほうがよさそうだと思ったり、 牧者が「これが神様の御心です。」と言っても、「私はあれがしたいのに。」と言ったりして聞き従えないのです。 また、神様は「信仰でできる。」とおっしゃっても、「私には到底不可能なことだ。」と思うので聞き従えないのです。 従えそうなことに従うだけでなく、人の思いでは不可能なことまで従う人、そういう人がまさに霊の人であります。 出エジプトの時、ろにはエジプトの軍隊が追いかけてきて、前は紅海で遮られた状態で、「杖を上げ、手を海の上に差し伸ばし、海を分けなさい」と言われると、モーセは全く疑わずに聞き従って海を分けました。 約束の子供である、一人子イサクを全燒のいけにえとしてささげるように言われたときも、アブラハムは全く肉の思いを働かすことなく、すぐ従う心だったので、信仰の先祖として、立てられましたで。 神様を本当に信じるなら、また、神様を本当に愛するなら、どんな命令をされても聞き従えるのです。 人の限界の中で肉の思いを働かすのではなく、善なる神様、全知全能な神様の深い御心があるだろうと、全面的に信頼します。 また、神様をあまりにも愛するので、自分の命さえも惜しまず、恐れずに聞き従えるのです。 の人々は、命をかけなければならないことでもなく、一人子を捧げなければならないことでもないのに、十分にできるやさしいことを命じられる時でさえ、あまりにも多くの不從順を行います。 栄える道に導かれる御霊の声を聞いても、自分の思いの中で不順従になるので、栄えることができないこともあまりにも多くあります。 神様が私たちにいかなるビジョンを下さっても、私たちが神様の御前に聞き従う時でこそ、神様のご摂理が完全に成し遂げられます。 エジプトから出たイスラエルの民の場合、初めは彼ららの信仰では聞き従えずに、神様のご摂理を成し遂げることもできませんでした。 しかし、リーダーのモーセの信仰と従順を通して、イスラエル全体が神様の御わざを体験してカナンに向かって進むことができました。 しかし神様が願われたのは、モーセひとりを通して成し遂げられることではありませんでした。 リーダーとして立てられたモーセの従順と、それを通して成し遂げられる神様の御わざを見て、ついにはイスラエルの民全体が、モーセのように神様を信頼して従うことを願われたのです。 それで彼らを長い間、荒野で練られて、モーセの後継者ヨシュアと共にいた、出エジプトの第2世代が信仰で聞き従うようになった時、初めて彼らはカナンの地の祝福を受けることができました。 本教会も同じです。 まだ働き人や聖徒たちの信仰が弱かった時は、完全に聞き従えずに、各分野で不順従であっても、牧者の従順を通して神様のご摂理がなされてきました。 たとえ働き人たちの不順従によって試みを受け、時には困難なことがあっても、頭である牧者の信仰と従順があったので、神様は大きな流れを繋いで行かれることができました。 しかし、窮極的に終わりの時のご摂理を完成されるために、神様が本教会に望まれることは、私と皆様の完全な従順です。 22年の間、非常に多くの神様の御わざを見聞きして体験してきたので、今は皆様自身が神様と全き信頼関係を成し遂げて、どんな御言葉にも百パーセント聞き従わなければなりません。 そうしてこそ個人的にも教会的にも、今後神様が備えられたすべての祝福が受けられて、私たちに向かわれた神様のご摂理を完全に成し遂げられるのです。 今までの世界宣教も不可能なことを、ただ信仰で可能にさせて、無から有を創造してきた過程でした。 偶像の国や、宣教が法律で禁止された国、テロと戦争のがある国々で、ただ神様の御心に聞き従って、奇跡的に神様の国を成し遂げてきました。 しかしこれからの道は、現実的に見ても、今まで歩んできた道より、さらに険しい道です。 共産圏とイスラム圏、そして最後には福音の不毛地イスラエルに達するまで、人の力では決して入れない所を、信仰で入らなければならないのです。 また、私と皆様がそのように切実に祈ってきた大聖殿の枠がすべて明らかにされるとき、その規模は一般の想像を越えるものです。 今後このように大きなことを成し遂げるのに、いろいろな分野で神様のご摂理につまずかないためには、必ず皆様一人一人が思いを働かさずに、完全に聞き従える霊の働き人たちとして、すでに備えられていなければなりません。 皆様は今からでも、神様の御心を悟る時、そして聖霊の御声を聞く時、ただハイとアーメンだけで聞き従うように願います。 それでまことに父なる神様の友と認められるほどの,尊い霊の人々になりますようにお願いいたします。 愛する聖徒の皆様、霊の人になるための2番目は、私欲があってはいけないということです。 私欲があると、情欲や欲望が働き、神様の御心よりも自分の思いを行おうとします。 神様の国に益になることより、自分と自分の家族、周りの人々の益となって良いことを取りたがるのです。 特に私欲があれば、ある瞬間、高ぶりが芽生えるようになります。 「私も聖霊の御声を聞いて働き掛けられる。」、「私も神様の御わざを現せる。」と思い、「私ができる。」という心になってしまいます。 初めにはへりくだって神様にだけ栄光を帰した人が、いつの間にか自分の栄光を求めて、神様に帰す栄光を自分が受けるようになります。 口では神様に栄光を帰すと言っても、私欲があるので心の奥からは違う声が出ます。 「私も罪を捨てて火のような祈りを積んだので、ほかの人よりは神様の御心にかなう人となっだから、神様に栄光を帰す道具として使われたのだ。」と、自分も誉められたがります。 こういう私欲や高ぶりは、に隠されていて、自分ではよく悟れない場合が多いのです。 私たちがいくら忠実であっても、死ななければならない罪人を哀れんでくださり、尊い血潮で救われた方が誰なのかを思い出すなら、おそれ多くて私がこれくらいはしたと高くなることは考えられません。 罪を捨てる力を下さり、隠された神様の御言葉を悟らせて、霊の世界を体験するように導かれた恵みを思い出すなら、自分自身を高めようとは、毛頭かんがえられません。 たとえ火のような祈りを積み、神様の御わざを現せるようになったとしても、ある使命をまかされて信仰で実を結んだとしても、人が自分の栄光を求め始めれば、すでに神様との距離が遠くなり始めたということです。 それで一時は神様の御前に大きく栄光を帰して、尊く使われた人や教会が、時が流れるのに従って、私欲と高慢が芽生えて、神様に顔を隠されてしまうことがたびたびあります。 一時は熱く神様の御わざを体験したとしても、時が流れるのに従って, 熱い心が冷めてしまうので、さらに熱心に神様の御心を行っていけず、知らないうちにその場に安住してしまう教会もあります。 肉の安らぎと安定を追って生ぬるい信仰になってしまいます。 あるいは、物質や名誉に対して貪欲な心を持つので、結局罪を犯して、神様の栄光を遮ったり、高ぶってむしろ神様に敵対して誤った道に陥ったりもします。 本教会は今まで、どんな私欲もなく、世と友にならずに、ただ神様の御心に聞き従い、神様がある事を命じられると、理由も条件も言わずに、すぐ従いました。 ですから、今日まで十分に世界宣教を成し遂げられる教会、大聖殿を建てられる教会として、神様が導いてこられました。 皆様は、この世でつかの間の利益を取ろうとしたり、人の前で認められて誉められようとする心が、どれほど空しいかを徹底に心に留めるように願います。 ただ、神様にだけ栄光を帰して、低い者を高める神様、悩む者を輝かせる神様の御前でもっともへりくだった姿で聞き従うようにお願いします。 そうすれば、神様が皆様を認められるので、それぞれの分野で大事な道具として使われて、将来、神様の国でも輝くところに導かれます。 愛する聖徒の皆様、霊の人になるための3番目は、すべての分野で平和を作らなければならないということです。 今まで申し上げたように、ただ従順の心で、私欲のない心を成し遂げた人ならば、その人は当然すべての分野で平和を作るようになります。 [箴言16:7]に「主は、 人の 行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。」とおっしゃいました。 この御言葉のとおり、私たちが神様にただ「はい。」と「アーメン。」だけ言う時、神様が私たちの周りの人々まで働き掛けて平和を作らせます。 また、自分の益を求めず、自分の栄光を求めない心を成し遂げた人は、悪い人までも心に抱くようになり、気まずくなることがありません。 神様の御わざは一つになる所でなされます。 いくら能力があって熱い心のある人々が集まったとしても、そのなかで平和が破られると、神様の御わざは途絶えてしまい、その代わりにサタンが妨害し始めます。 今日まで神様の御わざを成し遂げるのに、いくら私が正しかったとしても、働き人たちに強制的に命令したり、自分の意思を言い張らなかった理由もまさにここにあります。 堂会長の権威で無理やりに聞き従わせることもできますが、平和を作って神様の御わざを受けなければならなかったので、各人の信仰と都合をすべて考えて、共に歩む働き人たちと歩調を合わせなければならなかったのです。 それによって来る試みと困難があったとしても、他の人を恨んだり気まずく思ったりしたことはなく、私が頭として耐えなければならないものと思い、黙黙と負ってきました。 ただ一日でも早く皆が霊の働き人に変えられて、父の御心を完全に成し遂げられるよう、御父の前で涙で祈ってきました。 ところが、ある方々は自分が多くの人を気まずくさせたり、平和を破ったりすることを知らずに、「私は正しいけれど、相手が信仰がなくて悪いから、気まずくなります。」と言います。 あるいは自分の意見を主張する時、相手が気まずくなりたくないので、無理やりに従うけれど、その心は苦しいという場合もあります。 このように、相手を苦しませながらも、「私は平和を作っている。」と思う人もいます。 しかし真の平和は、本当に相手の心に安らぎをもたせることで、そのなかで神様の御心を成し遂げられるように、耐え忍び、自分を使い尽くことです。 ですから平和を作るとは、どれくらい善良で美しい霊の心でしょうか。 [マタイ5:9]に「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」と書かれたように、平和の心を成し遂げた人は、真の神様の子供の資格が認められます。 皆様は、極めて善良で柔和な心で、すべての分野で平和を作れるように、主の御名でお願いします。 [結論] 愛する聖徒の皆様、神様の国を成し遂げることは、霊の世界のことなので、人の力と能力でできることではありません。 霊の人々が集まって祈り、神様の御心に聞き従っていく時、ただ、神様の御力でなされます。 、神様の働き人として使われることを慕い求める方々は、多いようですが、いざ、神様が信じて使命を任せられる霊の人を捜すとなると、易しくありません。 一瞬、心が熱いからといって、短い間で霊の人になるのではなく、長い間、よく練られて自分を変化させて、純金のように出てこられるからです。 「兄弟たち、私にとって、每日が死の連續です。」と言った使徒パウロの告白のように、自分を高めようとする心、自分の益を求める心など、こういう肉の姿を完全に脱いでしまおうと、血を流すまで努めていかなければなりません。 神様もその子供たちを霊の人に変えられるために、この地の人生の中で色々な苦しみを許されて、その中で自分を発見させるのです。 しかも、本教会に下さった使命は、終わりの時、全世界に聖潔の福音を伝えて、救われるすべての人々を神様に導くことです。 また、天下万民の上に神様の栄光を表す大聖殿を建築することです。 神様が下さったこれらの課題を成し遂げるためには、数多くの霊の人々がいなければなりません。 それで神様は過ぎ去った22年の間、聖徒のみな様を純金のように練りに練って、来られました。 特に、創立記念日の前夜、金曜徹夜礼拝で証したように、今年2004年を通しては、神様がとても特別な恵みの時間を下さいました。 自らは全く悟れなかった部分まで、心と行いを一つ一つ現されて、皆様に自分を発見させられました。 これを通じて、真に父なる神様と牧者の実として、完全な霊の人の姿で出てこられる機会を与えられたのです。 そのような霊の流れで、多くの聖徒たちが、「これからは本当に変えられよう。霊の人になろう。」と決断して、一所懸命走っています。 まさにこういうところで、神様は皆様が完全な霊の人として出てこられるように前進できる、3つの大きい項目を座標として下さいました。 霊の人は、第一に、「ハイ」と「アーメン」だけ言う従順の人で、第二は、私欲がなくて、高慢が芽生えない人であり、第三は、すべての分野に平和をつくる人であると、言いました。 この三つをすべて成し遂げたら、まことに神様の御前でも、霊の人と認められて、この教会で大切に使われる働き人になれます。 もう霊の人に変えられる恵みの時、2004年もいくらも残っていません。 これからの日々も、皆様はこの三つの御言葉に照らして、傷もしみもない神様の子供たちとして出てこられるよう願います。 本当に、それぞれの分野で霊的な頭として、必ず必要な人で、御父に栄光を帰して教会と牧者の力になる、大事な働き人になりますように望みます。 それで將來、主が再び來られる時には、終わりの時の大きな使命を共に成し遂げた尊い働き人として、天國で光輝くところに至る皆樣になりますように、主の御名で祈り願います。
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