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Title
空の空(3)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
伝 1:2, ヨハⅠ 2:15-17
Date
2006-12-17
<本文>
<伝道者1:2>「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」
<第一ヨハネ2:15-17>「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」
<序論>
子どもたちがままごと遊びをする時は、自分たちがママやパパになったり、大将や部下になったりします。石やびんの栓をお金にしたり、道に線を引いて宮殿のようにすばらしい家だと想像したりします。しかし、いくらおもしろく遊んでいても、太陽が沈みかけると遊ぶのをやめて、それぞれの家へ帰らなければなりません。
人の人生も同じです。世の中で私たちに許された時間は努力して大きい富を積むことも、権勢を受けることもできます。美しくて立派なものを見て聞いて味わって、思いきり求めていくこともできます。しかし、人生の黄昏を迎えて、与えられた日が尽きて神様が召されるなら、ただちにすべてのものをそこに置いて行かなければなりません。
それで<伝道者12:1>に、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」とあるのです。一生自分が積んできたすべてのものがむなしいものだったと嘆かないように、創造主の神様を覚えて、価値ある人生を生きていきなさい、ということです。
愛する聖徒の皆さんは神様が皆さんに与えられたすべての日々、最も美しくて価値ある生き方をしますように。朽ちてしまう世を追い求めるのではなく、永遠の天国に皆さんのすべての宝を積み上げる幸いな皆さんになりますよう、主の御名によって祈ります。
<本論>
愛する聖徒の皆さん、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は人に肉を追い求めさせる原動力のようなものだと言いました。人が肉を良いと感じて愛するようにさせて、世のものを追い求めるように誘導するのです。
その中でも「肉の欲」とは「自分の中にある罪の性質に従って罪を犯そうとする属性」であり、このような肉の欲を受け入れずに、心の中の肉を引き抜いてしまうためには、火のように祈らなければならない、と言いました。
それと同時に、目の欲をさえぎらなければならないのですが、ここで「目の欲」とは「見て聞くことを通して心が揺れ動き、肉に属するものを追い求めるようにする属性」だと言いました。
罪を犯したい欲求が生じるように刺激するものを近づけて、ずっと接していったら、これがすなわち、目の欲を受け入れ続けることです。酒を断とうとするなら、においもかいではならないし、姦淫を捨てようとするなら、心を揺れ動かすものを徹底的に遠ざけなければならないなど、本当に肉を脱いで御霊の歩みに入るためには、自ら目の欲をさえぎる努力がなければなりません。
ところで、皆さんが覚えるべきことは、目の欲をさえぎるからといって、単純に罪の性質が現れないように覆っておくだけではいけない、ということです。
たとえば、ある人が度々皆さんを傷つけることを言って、苦しめる行いをするので、その人を見ると皆さんの中に憎しみが揺れ動くとしましょう。その時、憎まないようにと、その人と会わないように避けるだけなら、これが目の欲をさえぎることでしょうか。そうではありません。憎しみという感情が働きそうな状況だけを避けて、心にある悪を覆っておくだけであり、次にその人に会えば、また憎しみが湧き上がるようになります。
ですから、こういう場合は相手を避けるのでなく、善をもって悪に打ち勝っていかなければなりません。相手の立場で理解して、良いほうに思って、仕えと愛で対することがすみやかに聖められる道なのです。
また、ある目の欲をさえぎっているからといって、その状態にずっととどまるだけでなく、さらに積極的に自分の中にある肉を引き抜く作業がなければなりません。
たとえば、異性間で肉の行いを犯し、悔い改めて立ち返った人がいるとします。その人はこれ以上肉の行いをしないだけでなく、再びそうしないように心を守ろうとするはずです。
ところが、この時重要なのは、行いでだけ立ち返るのではなく、心から姦淫という罪の性質自体が抜けてしまうまで、火のような祈りを絶えず積み上げていかなければならないことです。そうしないと、古い人の以前の生活に帰ることもあります。
もちろん、しばらくは悔い改めた時の感じが残っていて、恐れと申し訳ない心で自分を守ろうとしますが、時間が経てばその心が弱くなってしまいます。そうするうちに何かのきっかけで恵みが落ちれば、前に肉が好きで追い求めた記憶が浮び上がり、心から再び肉に属することを一つ一つ受け入れ始めるのです。以前、好きで楽しみにしていたことを思い出して想像したり、間接的にでも情欲を充足させるように、いろいろなことを見て聞いて接していきます。つまり、その時までさえぎっていた「目の欲」にも再び心を渡すようになるのです。
このように心を肉に渡せば渡すほど、祈りはだんだん冷めていきます。すでに心がほかのところにあるので、心を尽くして祈ることもできなくなり、眠気と雑念で同じ言葉をただ繰り返すようになり、霊とまことによって礼拝することもできなくなります。すると肉の欲がますます火のように起きて、自分を制することができなくなり、結局はまた肉の行いを犯すようになります。
ちょうど、バネを無理にぐっと伸ばして、手を離せば元にはね返るように、本来の姿に帰ってしまうのです。元に戻らないようにするためには、ただ伸ばして握っているのではなく、バネ自体を切ってしまわなければなりません。
同じように、肉にとどまっていながら悔い改めた人が再び昔の姿に帰らないためには、肉を追おうとする欲をただ抑えているだけでよいのではありません。また世に心を奪われないように徹底的に自分を守り、自分の中に残っている肉を引き抜く作業が必ず同時になければならないことを心に留めますように。
聖徒の皆さん、次に、暮らし向きの自慢について調べてみましょう。
「暮らし向きの自慢」とは「現実のすべての享楽を追って、自分を現すために自慢しようとする属性」のことを言います。
肉の人の心の中には、ほかの人より高くなって仕えられて認められたいと願う属性があります。それで、自分の富と名誉を誇り、知恵や知識、才能を誇って、自分にあるものを現そうとします。「私はこういう人だからわかってくれ」ということです。
このように暮らし向きの自慢を求める人々は、認められるためになくてもあるふりをして、低くても高いふりをして、ほかの人に害になり、あらゆる不法を行ってでも自分が高くなって認められようとします。自分より劣ると思われる人を無視して、反対に、自分がほかの人々に認められない時は、ひどく自尊心が傷ついて気を落とすようになります。ほかの人が認められてほめられるとねたんでそねみ、害を加えたりします。
世の人々だけがそうなのではなく、神様を信じるという人々の中でも、暮らし向きの自慢を追って行くので、神様から遠ざかる人々がたくさんいます。世の名誉と地位を守るために主日を犯したり、真理でないものと妥協していったりするので、ますます神様から遠ざかる場合もあります。自分が高くなるためなら競争相手を謀略したり、卑怯な計略、わいろ、暴力を使ったりなど、手段と方法を選ばない場合もあります。
しかし、このように悪い方法で世の良いものを得て誇ったからといって、結局それが何の益になるでしょうか。<詩篇103:15>に「人の日は、草のよう。野の花のように咲く。」とあります。この世で誇るどんなものからでも、まことの価値といのちを得ることはできません。
しかも、世で得た富と栄華は、いくら心を込めて多くを積んだとしても、崩れるのはあっと言う間です。一時国で最高の権勢があった人々も、時間が経って彼らの不正が明らかにされると、一瞬にしてすべての権勢を失って、多くの人にあざけられるのが見られます。本人だけでなく、その家族までも恥ずかしい目にあうようになります。
罪を犯すまでしなくても、周りの人々に自分を誇示するために流行とブランド品を求め、分に合わないような贅沢をして、経済的にとても苦しくなることもあります。
愛する聖徒の皆さん、神様は暮らし向きの自慢を求める人を遠ざけて、助けられないのです。<箴言16:5前半節>に「主はすべて心おごる者を忌みきらわれる。」とあり、<ヤコブ4:16>には、「ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。」とあります。
聖潔の福音を聞いて、世の栄光がどれほどむなしいかわかる皆さんならば、朽ちてしまう世の名誉や知識、権勢、財物のために神様に逆らおうとする方はいないはずでしょう。神様の恵みによってほかの人より多くを持っていても、そのために叫ぶこともあまりないでしょう。
ただし<第一コリント1:31>に「まさしく、『誇る者は主にあって誇れ。』」とあるとおり、神様の栄光のための誇りは熱心に誇ろうと努力します。つまり、神様が下さった恵みと祝福をまめに証しして、栄光を帰すのです。
ところが、時には、自分は主にあって誇っていると思っていますが、実際には自分も悟れないうちに暮らし向きの自慢を求めている場合があります。口では神様の栄光を語っているのに、隠された心の底では、自分を現すことを願うのです。
たとえば、ある霊的なことを聞いたり、霊の目が開かれて何かを見たりして、ほかの人々にその内容を伝える時も、自分がどんな心で言っているのか見分けなければなりません。本当に神様に栄光を帰すために、ほかの人々と恵みを分かち合うために伝えるなら、まず相手の信仰の水準と心を考えて、その話を伝えるような状況かをわきまえるのです。<ローマ15:2>に「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」とあるように、ただ徳を高めるように気をつけるのです。
ところが、ある人は「私はこのように霊的な人だ。主と牧者を愛する人だ」と言ったり、あるいは「私は霊的に多くの奥義を知っている」「霊的な人々と親しい」と、ひそやかに自分を現したりして、自分が認められたいという心で話を伝えます。このような時は、相手が考慮できないので、その伝える話が徳を高めずに、むしろ相手の恵みが落ちることもあり、ただの自慢になってしまうのです。
また、任された分野の実のために祈って訪問する時も、まことに魂を愛して神の国のために熱心に働く場合もありますが、時には数値で何パーセントを達成したという結果にだけ執着する場合もあります。これはまことの忠実の心よりは「私は実を結んでいる働き人だ」と認められたがる、暮らし向きの自慢から出て来るものです。
あるいは「私は信仰歴が長くて多くの務めを持っている」と言って、仕えることより仕えられることを当然と思う場合もあります。いつも愛されて仕えられることに慣れていて、むしろさらに低くなって仕える立場でありながら、自分が悟れないうちに高くなって、暮らし向きの自慢を追っているのです。
特にリーダーの働き人たちや礼拝を助ける務め、あるいは賛美や演奏などで栄光を帰す務めなどの方々はさらに注意しなければなりません。このような務めは隠れて労苦して奉仕するより、多くの人々に明らかにされて目に見える務めであり、そのようになるだけでも周りからとても愛され、認められます。また、このような務めを慕う方々も多いのです。
ところが、自分がそのような務めを慕うなら、本当に神様の栄光を高めたいと願ったからなのか、でなければ、多くの人の前に明らかにされて愛されたいと願ったからなのか、心の芯を見分けなければなりません。現在このような務めを負っている方々も、自分の信仰と姿勢をいつも顧みていくべきです。
忠実に仕えて天国を望み、熱心であった人々も、時間が経てば暮らし向きの自慢が生じて、思わず心が変わってしまう場合があるのです。そうなると高ぶりになって、神様のみことばさえ破るようになり、いろいろな肉に属するものを追い求めるようになります。
イスラエルの初代王だったサウルも、王に立てられたばかりの時は、自ら高くなったり叫んだりしませんでした。神様に対して熱心で、へりくだって前に出たがらず、自分を低くする人でした。ところが、いったん王になって王の権力を味わうと、自分の栄光を求めて、暮らし向きの自慢を追うようになり、神様の命令さえ破る人に変わってしまいました。
ある時、神様がアマレクを攻撃して、そのすべての人と家畜を聖絶するように命じられました。するとサウルはアマレクを攻撃はしましたが、アマレクの羊と牛の中で良いものは生かして、アマレクの王も生かして捕虜として連れて来ました。良い家畜を見ると殺すのが惜しい気がして、また敵軍の王を殺すよりは生けどりにして来るほうが、自分の勝利をさらに輝かせそうだったからです。むさぼりと暮らし向きの自慢のため、神様に正面から聞き従わなくなってしまったのです。
それで、神様は預言者サムエルをサウルのところに遣わして、神様がサウルを捨てられたことを知らされました。その時、サウルはどうだったでしょうか。すぐ悔い改めて、へりくだった姿で神様に赦しを求めたでしょうか。
<第一サムエル15:30>に「サウルは言った。『私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。』」とあります。
サウルは今、「私は罪を犯しました」と言ってはいるけれど、いざその心はというと、へりくだったものでもないし、悔い改めて赦されようとする心でもなく、相変わらず自分が高められることだけに関心があります。ですから、預言者サムエルに、自分といっしょに帰って、民の前で自分の面目を立ててくれるようにとだけ、しつこく願っているのです。
サウルは結局、神様から赦しの機会が得られず、後には異邦人との戦争に負けて、悲惨な死を迎えてしまいました。名誉を求めて面目を立てようとしましたが、それによって自分のいのちを失ってしまったのですから、暮らし向きの自慢を求めたことが結局無駄になりました。この地上ではたとえ彼が王であったとしても、地獄に行ってしまっては何の意味もないのです。
それでは、万が一にも皆さんの中にそのように変わってしまった分野はないのか、一度顧みてみますように。神の国で務めを受けたとき、初めはどんな心から始めるでしょうか。 ほとんどの場合、「救われただけでも感謝なのに、どうして私のような者が神の国に用いられるようになったのだろうか」また「父の宮の門口に立っているだけでも幸いなのに、私がどうしてこのように多くの聖徒に愛される務めを受けるようになったのだろうか」と言います。名もなく光もなく犠牲になってもただ幸せで、一生変わらず主のために命をささげようと心を固めます。
しかし、歳月が経って肉が生じて、暮らし向きの自慢が入ってくれば、態度が変わり始めます。もちろん、相変わらず口では、父の国のために尊い務めを下さって感謝する、と言いますが、働きの過程で難しいことはしたくなくて、仕えることがいやで、自分を現して認められるほうを好むようになります。また、暮らし向きの自慢が生じて高ぶるようになると、前にはなかった不順従が出て来るのも見られます。
たとえば、教会の中の秩序と原則がわかっていても、任意にその原則を破る場合もそうです。前はあえて秩序を破ろうという思いもなかったのに、ある程度地位と信仰歴があると思うので、任意に秩序を破るのです。前は仕える人だったのに、今は目下の人々に指示して命令して、周りの人々を苦しめる人になります。心に憎しみとわだかまりがあっても、「相手が間違っているのでそうだ」と平和を壊し、他人に無礼な行いをしながらも「正しいことを言う時は言わなければ」と言うのです。
講壇から聞いたみことばも、低い地位にあった時はいのちのように守るために努力したのに、上に上がってくるほどだらけてしまいます。「状況によって守れないこともある」とか「信仰がない人々に当てはまることだ。私は自分で心が守れるので大丈夫だ」とみことばにそむくのです。それで、以前に捨てた肉の行いをまたしていく人もいます。
また、よくやったことがあってほめられると、ほかの人を無視する言葉や疎外する行動で傷つけたりします。反対に、何か過ちがあって責められると、さらによくやるために努めに努めるのではなく、気を落としてへたり込んでしまったり、自分よりほかの人が認められると、そねみ、ねたみから平和を壊すことを言って、父の御前に不平、不満を吐き出したりします。
暮らし向きの自慢を求める心がないならば、ほめられるからうきうきしたり叫んだりせず、責められるから気を落としたりもしません。ほめられる時は、さらにへりくだってもう一度自分を振り返り、責められるとしても、自分が変えられるように悟らせてくださったことに感謝して、さらに熱心に努力していくだけです。
愛する聖徒の皆さんは万が一にも自ら認められて高められようとする心が生じないように、すべての事に自分の言葉と行いを顧みるよう、主の御名によってお願いします。
<結論>
愛する聖徒の皆さん、<詩篇90:10>に、神の人モーセがこう告白しました。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」事故や病気で短命な人も多いし、その上健康でも七十、八十まで生きますが、その歳月が過ぎて振り返ってみれば、あたかも矢のように過ぎ去ったと言います。
私たちがこの地上で生きるこの短い歳月は、永遠の来世に備える時間です。それで、続く<12節>でモーセは、「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」と言ったし、<伝道者12:13>には、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」と書かれています。人の本分は神様を恐れて愛することであり、どれくらい肉を捨てて御霊の人に変えられたかによって、その人の価値が決められるのです。
人が肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を追って肉にとどまっていれば、その人は人の本分も尽くせないということであり、人としての価値がありません。価値がない肉の人は天国に入れないので、結局は地獄に入らなければならないのです。
愛する聖徒の皆さんは、矢のように速い人生を生きていく間、まことに価値ある生き方をする知恵の心を得ますように。世の情欲とつかの間の快楽を求めず、神様を恐れて清い心に変えられますように。それで、この地上でも神様が下さる豊かな祝福をいただいて、永遠の天国に皆さんの所有が積まれますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
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