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メッセージ >
Title
空の空(1)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
伝 1:2, 12:13-14
Date
2006-12-03
<本文>
<伝道者1:2> 「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」
<伝道者12:13-14>「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」
<序論>
忙しそうに歩いている数多くの人々はひとりひとり行くべき所が決められているでしょう。このように道を行く時は、目的地とそこに行く目標があることが当たり前のように、人生の道を行く時も、自分の目的地がわかって正しい道を探して行かなければなりません。
ところが、多くの人々がその人生の道を行くことにおいては「今どこへ行くのですか」と質問すると、返事がよくできない場合がとても多いのです。「自分がなぜ生きなければならないのか」悟れないまま、ただ無意味に生きているのです。
もちろん、数多くの人々が人生の目的と存在の理由を追求したり、これに対して自分なりの答えを言ったりします。「生まれたから生きてるだけだ」と言う人もいるし、「楽しむために生きている」と言う人もいます。「どうせ一度だけの人生ならば、思いきり快楽を味わいながら生きよう」ということです。あるいは「学ぶために生きている」とか「愛するために生きている」と返事をする人もいるし、「他の人より良い人生になることが人生の目標だ」という人もいます。
しかし、このように人生の目標を自分なりに決めて懸命に生きていくとしても、それが本当に価値ある人生だとは言えません。目的地がなくてさまよう人生も問題ですが、間違った目標に向かって走って行くのも、意味のある人生だとは言えないのです。
しかし、信仰のある神の子どもたちは人生の道を行く理由をとてもよく知っていて、この道の果てには何が待っているのかも知っています。また、最も価値ある人生の道も知っています。ですから、最も良い道へと怠けずに足を速めているのです。
愛する聖徒の皆さんはきょうのメッセージを聞いて、一度だけの皆さんの人生をどのようにすれば最も尊いものにできるのか、もう一度心に刻みますように。特に中高生と青年の皆さんはこのメッセージをさらに深く刻むべきです。
中年や老年になった人々は、人生の多くの部分をすでに生きてきたので、人生の意味を知らずに生きていくことがどれほどむなしいことか、より深く理解できます。しかし、若い時は人生経験が少ないために、むなしいものに価値をおいて人生を浪費しやすいのです。「私は何のためにここにいるのか。」「どんな目的を持って生きるべきか。」「一瞬一瞬、私がしていることが、私の人生にどれほど益になるのか。」こういうことを真剣に考えてみますように。
神様は皆さんひとりひとりの魂を全世界より尊く思っておられます。そのように尊い皆さんの人生をむなしく朽ちてしまうものに投資せずに、永遠で価値あることに投資するようお願いします。いつも天にあるものを考えて、皆さんの人生を貴重で意味あるものとし、将来天国でも栄光を受ける皆さんになりますよう、主の御名によって祈ります。
<本論>
愛する聖徒の皆さん、一般に文明が発達するほど人々の暮らしが便利になっていくと言われます。ところが、たとえ機械がつらい肉体労働の代わりをしてくれても、人々の生活はより忙しく、より複雑になり、生存競争はより激しくなるのが見られます。
以前は幼い子どもたちは何の心配もなく友だちと思いきり遊びまわっていればよかったのですが、この頃は幼稚園や小学校低学年でも何種類か課外授業を受けて、ストレスを受けているそうです。そうするうちに本格的に受験生になれば、夜の睡眠を減らして勉強にかかりきりにならねばなりません。
良い大学、あるいは大学院に進学しても、それで地位が保障されたのではなく、それからは良い職場を求めなければならず、良い職場を見つけても、その後には実績を積んで昇進しなければなりません。より良い地位に上がって行き、さらに多くのものを得るために、生存競争の戦場で絶えず全力で苦労しなければなりません。長い間の努力の果てに最高の地位に立ったとしても、その次にはそれを守るために、前よりさらに大きくなったプレッシャーの中で生きなければならないのです。
そのように世でより多くのものを得るためにあくせく生きていくと、努力したとおりほしいものを得ることもありますが、思いもしない結果になる時も多いのです。
家に財産があまりにもたくさんあって家庭の平和が壊れ、兄弟の間で、時には親子の間で争って、結局身を滅ぼしたりします。大きな権力をつかんだため、その権力を乱用して監獄に行ったりもします。韓国の歴代の権力者だけ見ても、そんなことがどんなに多いでしょうか。芸能人の中には、最高の人気を得ながらも、その人気を維持しようとするプレッシャーのために薬物に依存するようになり、それで破滅の道に行く人々もいます。
それでは、人がこれほどまでに自分の身と心を傷めながら、より多くのものを得ようと努力して労苦する理由は何でしょうか。もちろん、基本的に食べて生きるためにはお金を稼がなければならないからです。しかし、ある程度食べて生きているような状況でも、人々はそれで満足しないで、より良い人生、より高い水準の生活を送るために努力し続けていきます。他人よりもっと良い家、もっと良い車がほしくて、休暇の時は海外旅行にも行きたいのです。
また、今のところは安定した収入があるとしても、この後何かの事故が起こって不幸が近づくかもしれないので、将来に備えなければならず、また老後に備えなければならないために、さらに多くの財産を積もうとします。
お金だけがあってよいのではなく、華やかな地位と名誉も得たいと願い、周りの人々から認められることも願うので、家族といっしょに食事する時間さえなく、仕事に没頭したりもします。また、自分だけちゃんと食べていけばよいのではなく、将来子どもたちまでより良いものを楽しめるようにと、バタバタ生きていくのです。
しかし、いくら人より良い衣食住を楽しんで、いくら大きな名誉と権力があるといっても、そんなことで本当に価値ある人生を送ったと言えるでしょうか。また、人生でそんなに大きな困難にあわずに願うものが得られ、努力した以上に手に握ったからといって、幸いな人生だと言えるでしょうか。世の人々はそう思うかもしれませんが、実はそうではないのです。
これはきょうの本文、伝道者の書を記したソロモン王の一生を見てもわかります。ソロモンは一生の間、多くのものを手に入れて、いろいろな楽しみを味わいました。ソロモンの当時、イスラエル王国は太平時代であり、周りの王たちがみつぎものを送るほど富強な王として権勢を振るいました。しかも、彼には神様が下さった、前にも後にもないほどの知恵がありました。
このような富と栄華と知恵をもって、ソロモンは自分の願うことが何でもできたのです。世の多くの宝を求めたり、派手な宮殿を建てて自分のために美しい庭と園を造ったり、多くの奴隷と家畜の群れを買い入れたりしました。男女の歌うたいをたくさん置き、目と耳を楽しませながら、エジプトの王女をはじめ多くの美しい女性たちをそばめとして置き、快楽を味わったりしました。自分の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままにあらゆる楽しみを味わってみたのです。
しかし、彼がいくら多くの快楽を味わって、また、いくら飛び抜けた知恵と知識で人の子らにとって良いものを見つけとしても、その心に満足を見出すことができませんでした。ですから、これらすべてのものをあふれるように味わった後に自分の悟りを記した伝道者の書には、結局「空の空。すべては空。」と書いているのです。「思いきり世の快楽を味わったところ、この世はまことに生きる価値があった」ではなく「日の下で骨折ったいっさいの労苦、すなわち人生のすべての労苦はむなしいだけだ」と結論づけているのです。川の水が絶えず流れても海をすべて満たせないように「目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。」と言いました。
人がいくら多くものを得て、自分の心を満たそうとしても何もならず、また、一生の間いろいろな労苦を積んでも、結局人に迫って来るものは死です。<伝道者3:19>に「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。」とあります。
知恵があって学識が高い人や、国に大きい功績を立てて名声を博した人も、その名は永遠のものではなく、悪い人でも良い人でも、豊かな人でも貧しい人でも、結局は死ぬのです。一生の間労苦して積んだどんなものも、死んで一握りの土へ帰った後はこれ以上楽しめないのですから、むなしいいのちのすべての日がまるで霧のようで影のようだ、というのです。
聖徒の皆さん、ソロモン王が味わった人生の楽しみがすべて空の空だけならば、人生におけるまことの価値はどこにあるでしょうか。この地上で一日一日生きていくとき、私たちが何を求めて生きなければならないでしょうか。ソロモンが悟った人生の価値は、まさに神様を恐れるところにありました。
<伝道者12:13>に「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」とあります。神様を恐れて人の本分を守る人には、世で努力して労苦するすべてのことが決してむなしいものではありません。死ねば一握りの土へ帰るむなしい人生ではなく、復活の栄光にあずかる望みがあります。このような望みをもってこの地上で信仰によって積み上げるすべてのものは、消えるのではなく、天国にも積まれるようになります。
世の人々の労苦が空の空だというのは、彼らの目的自体が間違っているためです。永遠の天のものを目標に定めないで、変わってなくなってしまうこの地上での快楽と幸福自体だけを目標とするので空だ、ということです。
しかし、神様を恐れて後の世に望みをおいて生きる人は、この地上で行うすべても、結局神様の栄光のためにすることなので、朽ちない永遠の価値があるのです。神様の栄光のためにこの地上でも熱心に労苦するとき、神様がその一つ一つの労苦を信仰の行いとして受け入れられるためです。
したがって、私たちが神様を信じるからといって、世では何もせずに、ちょうど修道僧のように、世から離れて教会だけ行き来するのではありません。学生ならば勉強も一生懸命しなければならず、職場でも飛び抜けて認められて、物質の祝福も受けていかなければなりません。主婦ならば家庭もよく顧みなければなりません。家族の間でも、互いに愛して仕え合いながら、ほかの人がうらやむほどのなごやかで美しい家庭を作らなければなりません。
教会に通う人だから、この地上で人の間ですべき道理は無視してもかまわないのではなく、むしろ信じない人よりもっときちんとやるべきだということです。このように全家を通じて忠実でありながら、礼拝して祈って集まることに努めるためには、むしろ世の人よりはるかにまめでなければならないのです。
聖徒たちが同じように職場で働いても、あるいは学校で勉強をしても、自分の益のためにするのではなく、神様の栄光のためにする時は、神様がその労苦を報いとして返してくださいます。この地上でも良い実を結んで神様に栄光を帰すようにされるだけでなく、その栄光を帰したことによって、天国でも報いとして返してくださるのです。
また、世の人々はいくら自分が努力しても、努力した分だけしか持てなくて、時には長い間積み上げたものが、あっと言う間に災いにあって崩れたりもします。しかし、聖徒たちが信仰によって誠実に積んだものは神様が下さった祝福ですから、どんな困難の中でも堅く、揺るぐことがありません。
もちろん、時には練られている間には、労苦して積んだものが崩れるように見えることもあります。しかし、このような時も、最後まで神様を恐れて頼り、訓練に勝ち抜けば、神様は必ず前より大きいもので返してくださいます。
愛する聖徒の皆さん、この教会で聖めのみことばを聞いて、信仰生活をある程度してきた方ならば、このようなみことばはすでに何回か聞いたでしょう。世を求めることは空の空であり、永遠で価値ある天国への希望を求めて、皆さんの宝を天に積まなければならないことをあまりにもよく知っておられます。また、神様の前で祝福されようとするなら、何よりも心から罪と悪を脱ぎ捨てることによってたましいに幸いを得ていなければならないことも知っています。
それで、皆さんの中には多くの方が聞いたみことばどおりたましいに幸いを得るために努力して、まめに心の畑を耕してきて、その結果として霊肉ともにすでに祝福されています。しかし、一方で、同じみことばを聞きながらも、相変わらず世と友になってむなしいものを求めている方々を見れば、私は大変もどかしくて悲しく、父なる神様の前にもっと涙で求めるようになります。
それでは、同じ教会から伝えられるみことばを聞き、天国と地獄についてのみことばを学びながらも、相変わらずむなしく価値のないものを求めていく人は、なぜそうなのでしょうか。これはまさに世を愛する心を捨てないためです。頭では神様の愛と天国がわかっているけれど、心には相変わらず世の欲を求めて、世と友になろうとする欲があるのです。
<マタイ6:24>に「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とあるとおり、私たちが神様と世のどちらも愛することはできません。本当に神様を愛して恐れたら、朽ちるものをむさぼる肉の心を脱ぎ捨てなければならないのです。このように脱ぎ捨てなければならないものの中で最も代表的なものが、まさに肉の欲と目の欲と暮らし向きの自慢です。
<第一ヨハネ2:15-17>には「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」とあります。
人が自分の心に詰まっている肉を捨てて御霊に属するもので満たしたいと願いながらも、相変わらず肉を捨てられないのは、まさに世を受け入れ続けているからです。すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を断ち切らないで受け入れ続けているから、一方では肉を捨てようとしながらも、他の一方では新しく肉を受け入れているのです。
ですから、罪を捨てようと祈って断食して、聖められて忠実になるために努力しているとは言いますが、自分の姿を顧みれば、霊的な実もそれほど結べず、聖霊の満たしもますます冷めていくのです。
たとえてみれば、器の中に汚い水がいっぱい入っているとき、その中にきれいな水を注ぎ続けていけば、結局器の中にはきれいな水だけが残るようになります。しかし、仮にきれいな水を注ぎながら、これと同時に汚い水もいっしょに注げば、どうなるでしょうか。 いくら時間が経っても、器の中の水がきれいになるのは難しいのです。きれいな水をいくら注いでも、相変わらず汚い水が入っていると、水を注ぐ人も疲れてしまうのです。
しかし、聖められるための戦いは決して疲れてはならず、やめてもなりません。疲れて大変だからと言って、肉を捨てずに求め続ければ、また世に染まるようになり、すでにいただいた救いの恵みさえも失ってしまうかもしれないからです。
ですから、皆さんが本当に御霊に属するものを追い求めて価値ある人生を送るためには、肉の欲と目の欲と暮らし向きの自慢が生じるとき、ただちに断ち切るべきです。そのためには、欲を追って世を求めることがどれほどむなしいことなのか、皆さんの心にさらに深く悟って刻んでおかなければなりません。
このような肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を捨てることについては、次の時間に続いて伝えます。
<結論>
愛する聖徒の皆さん、<ルカ12:16-21>ではイエス様が一つのたとえを聞かせてくださいます。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」と言われました。
そして、続けて<ルカ12:33>では「持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。」と言われました。
このたとえはただ物質にだけ当てはまるのではありません。自分の時間と努力、知恵と思い、すべての持ち物と関心をどこに置いて、何のために生きているかを顧みさせるみことばです。
愛する聖徒の皆さんは、愚かな金持ちのように朽ちてしまう地上のものにだけ関心を持たずに、永遠の天国に望みを置くことにより、本当に価値ある人生を送りますように。霊肉ともにすべての本分を誠実に果たし、皆さんのすべての持ち物と心を尽くして神様の栄光を求めるようお願いします。それで、神様が皆さんの労苦に対して三十倍、六十倍、百倍の祝福を加えられ、天の御国でも栄えある報いとして返してくださいますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
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