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メッセージ >
Title
信仰の量り(24)-信仰の五段階(5)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ロマ 12:3, 民 12:7
Date
2006-06-11
<本文>
<ローマ12:3>
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
<民数記12:7>
「しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。」
<本論>
愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ペルー、ホンジュラス、ボリビア、エルサルバドル、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジェリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど全世界と全国の4,500余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通して礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん、
きょうは「信仰の量り」二十四番目の時間で、信仰の五段階の五番目のメッセージです。
この間までは信仰の五段階の特徴のうち、二つを説明しました。第一に、信仰の五段階は神様の御心に完全に従い、いのちまでささげられる信仰と言いました。第二は、無数な祈りを積み重ね、しるしと不思議を行う段階と言いました。
信仰の五段階の特徴、第三は、「全家を通じて忠実な者である。」ことです。「全家を通じて忠実」について説明する前に、まず「忠実」が何かについて調べましょう。
神様がおっしゃる忠実とは、自分に任せられたこと以上を成し遂げることです。たとえば、ある人を働き人として呼んで、給料をあげて仕事を任せたとき、その人がそれだけをよく果たしたとしても、それを「忠実だった」と言うのではありません。
もちろん、お金をもらってもきちんと働かない人もいるので、それに比べると「よくやった」と言うことはできます。しかし、代価をもらった分果たしたので、当然すべきことをしただけで、「忠実だった」とほめられないという意味です。
しかし、お金をもらって働く人であっても、いやいやするのではなく、心から「私に言われた以上に果たそう」という心がにじみ出て、自分の時間と物質とからだを惜しまず、与えられた仕事を果たしていく時は、「忠実だった」と言えるのです。
歴史的にも「忠臣」という場合は、国から給料をもらう官吏として、自分の職務をよく果たしただけで「忠臣」と認められるのではありません。代価をもらってももらわなくても、代価が少なくても多くても、そういうことは気にしないで、自分の道理をあふれるまで果たす場合、「忠臣」と認められるのです。
たとえば、イ・スンシン将軍の場合は、いのちをささげて国を守りましたが、むしろ計略にかかり、監獄に閉じ込められた時も、王を恨みませんでした。ただ国の将来だけを心配しました。官職をすべて奪われたまま、再び戦場に出るようになった時も、何もつぶやかず、いのちを尽くして戦って、ついには熾烈な戦闘中に戦死するまで、その誠実と献身に変わりがありませんでした。
世の中でもまさにこういう人々を見て、「忠実だった」と言うのです。私たちも神様から「忠実だった」とほめられるためには、自分にゆだねられた使命以上を果たして、神の国にとって益にならなければなりません。
信仰の四段階に入ってきた人は、霊的に忠実であると認められます。聖められて信仰の四段階に入ってきた人には御霊の実が結ばれている、と言いましたので、忠実の実も当然結ばれているのです。
ところが、この忠実が「全家を通じて忠実」になるためには、信仰の五段階に入ってきて、すべての御霊の実が百パーセント結ばれるべきです。
たとえば、「忠実」が良い実を結ぶまでは、必ず相手の益のために自分を犠牲にして献身する過程があるべきですが、霊の「愛」がなくてはこのように犠牲になって献身することができないのです。また「自制」の実が足りないと、片方でいくら忠実であっても、他の分野ではちょっとおろそかになることもあります。「平和」の実が完全に結ばれていなければ、忠実に神様の働きを進めていっても、それを成し遂げる過程で人とぶつかることもあり、その過程で周りの人々の心に傷をつけることもあります。このように平和が破られた忠実は、神様の前に完全な報いとして積まれません。
ですから、霊的に忠実であるべきですが、全家を通じて忠実な者になるためには、忠実の分野だけ優れてできるのではなく、いろいろな御霊の実がすべて一緒に結ばれていなければなりません。
それでは、全家を通じて忠実な者であるとは、具体的にどんな意味でしょうか?これは「自分に与えられたすべての使命を完全に果たして、任された職務と与えられた代価以上を、あらゆる分野で十分に果たすこと」です。
皆さんが信仰生活をしているなら、主にあっていろいろな使命をゆだねられるようになります。その使命を忠実に果たすものの、ある一つ、二つだけを熱心にするのではなく、ゆだねられたすべての分野に心を尽くして果たすことが、すなわち、全家を通じて忠実な者であるのです。
いろいろな使命の中には、重要に思われて人々に認められる使命もあって、それより重要でないように思われたり、人々に認められなさそうな使命もあったりします。しかし、全き霊に入った人は、人の目に大きかろうが小さかろうが、神様が与えられたすべての使命を大切に思うので、同じく心と力と最善を尽くして果たします。
ところが、このように全家を通じて忠実な者であることは、やさしいことではありません。ある場合は、使命が三つ、四つほどならよく果たすために努力しますが、使命が多くてあまりに忙しいので、すべての分野に気を遣えないという場合もあります。ある使命は大きくて、急いで果たさなければならないですが、ある使命は緊急ではないので、後回しにしてしまうと、結局疎かにする場合もあります。そうしながら、「人の力には限界があるのに、どうしてすべてのものに心を尽くせるだろうか」と思い、自ら慰めたりします。
しかし、全き霊に入った人は、いくら多くの使命を持っていても、十分にすべての分野で忠実であって、実を差し出すことができます。まさに完全な神様の心に似せられて、キリストの心を持ったからです。
霊である神様の御心は無限の空間であり、いくら多くのことでも十分に抱くことがおできになります。人類の歴史のすべての過程も、数え切れない魂たちの人生も、神様はあたかも手の平をながめるように、心にすべて入れてつかさどっていかれるのです。
信仰の五段階、全き霊に入った人は、もちろん神様と同じ水準ではありませんが、霊である神様の属性に似せられて、いくら多くの魂でも、いくら多くのことでも十分に心に抱けます。
また、神の国のために、そして神様がゆだねられた魂たちのために、自分のいのちまで与えられる愛があります。その切実な愛で心に抱いて求めるので、自分にゆだねられたすべての分野で、神様のみわざを引きおろすことができます。
もちろん、すべての分野を同じく心に抱いて大切に思い、最善を尽くすということは、すべての使命に同じ時間を使い、同じく緊急に思うということではありません。明らかに緊急なことと、後にすることがあり、相対的に多くの時間が必要なことがあります。
しかし、忠実の実が完全に結ばれた人は、多くの使命のうちどんな使命も軽く思わず、数多くの羊の群れのうち、だれひとりも疎かにしません。使う時間が少なかろうが多かろうが、どんな分野においても心の姿勢そのものが、力と誠実を尽くしてするようになります。
私の場合は私がどんな職分を持っているのか、いちいち数えることも難しいです。宗教界でも最大限活動を減らしていますが、それでもすでに多くの職分が与えられていて、何より本教会だけで数万名の羊の群れの牧者であり、全世界4500余りの教会の教団の総会長です。
その多くの羊の群れの家庭をいちいち訪問できるのでもなく、国外はもちろん、国内の支教会でさえ訪問する機会がほとんどありません。しかし、心ではすべての魂たちのために父の御前に求めるのを休んだことがありません。
使徒パウロの場合もその多くの教会を開拓して巡りながら、数多くの魂たちをいつも心に抱いて、父の御前に一つ一つ祈りをささげました。
<コロサイ1:9前半>に、「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがた(つまり、コロサイ教会)のために祈り求めています。」とあり、<第一テサロニケ1:2>には、「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、」とあります。その他にも数多くの教会と全部一緒にいることはできないけれど、彼らのためにいつも祈っていると、聖書の所々に記録しています。
私もやはり、朝、目が覚める瞬間から夜遅くまで、何をしている時でも、私にゆだねられた使命と魂たちについての求めが、私の中で途絶えることがありません。本教会と周りの親しい働き人でも、遠い支教会の羊の群れでも、すべて同じく、いつも父の御前にゆだねて求めます。
ですから、各々に必要なみことばを働きかけられて、講壇で教えることができ、個人的に少しの間の出会いがあっても、必要なことを神様が思い出させてくださるので、霊的に導くようにしてくださるのです。
エジプトから出たとき、イスラエルの民は壮年の男子だけで六十万人くらいだったから、女と子どもを含めて約二百万人と推定されます。その数多くの魂たちにいちいちモーセが会って、彼らの問題を相談することはできなかったのです。
しかし、モーセはそのすべての民を霊で抱いていて、自分のいのちまで渡せる愛で彼らを養いました。ですから神様はモーセのことを、「彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。」と仰せられたのです。
皆さんも同じです。霊に入った分、多くのことを霊で抱けるようになり、そうする時にはいくら多くの使命でも十分に果たすことができます。
たとえば、皆さんにゆだねられた羊の群れが五百人ならば、その全部を毎週、家庭訪問することはできません。信仰が弱い羊の群れや、緊急な問題がある羊の群れは、しばしば顧みるようになりますが、そうでない時は、一年にやっと一、二回訪問する羊もいます。
そうすると、よく家庭訪問しない羊には、自分の役割をよく果たさないように感じられることもあります。しかし、本当に忠実な心を持ったなら、しばしばよく見ても見なくても、ゆだねられたすべての羊の群れをいつも霊で抱き、心に抱いていられます。数ヶ月間、家庭訪問の礼拝を一度もささげられなかった魂であっても、心にはいつも抱いているので、その心をご存じである神様が働いてくださいます。
それで、どうしても必要な時は心をつかさどられ、特別に切に祈るようにされたり、訪問するようにされたりします。偶然に会わせて、必ず必要な話をするようにされたり、他のどんな方式ででも自分にゆだねられた魂たちを顧みるように働いてくださったりするのです。たった一度、短く会っても、心にいつも抱いていることが積まれて、良い実として出てくるようになります。
これは、自分が怠けて家庭訪問しないで、「その代わり祈っているから」と言い訳する姿とは全然違います。いのちを尽くして使命を果たそうと努力するけれど、「私が直接顧みられない分野までも父が顧みてください」と祈る心がどれくらいもどかしく切ないでしょうか?そういう心の香りを受けられるので、神様が直接働いてくださるのです。
魂たちを顧みることだけでなく、他のすべての使命でも全部同じです。すべての分野に対して同じ時間と同じ努力をしなければならないというのでなく、すべての分野に心と力と最善を尽くして、霊で抱き、実を差し出すのが、まさに全家を通じて忠実な者である秘訣です。
ところが、ある人は、「多くの使命をゆだねられると、すべての分野を全部よく果たせないので、いっそ一つ、二つだけ引き受けて最善を尽くすほうが、全家を通じて忠実なことではないだろうか」と言う人もいます。
しかし、本当に心そのものが忠実な人ならば、神の国のためにもっと多くの働きをしようと、使命を慕う心が熱いはずであり、死にかけている魂たちのために献身しようとする情熱が熱いので、何としてでも使命を慕うようになります。
ですから、自分が上手に果たせる一つ、二つだけ果たすという言葉自体が、すでに全家を通じて忠実であることとは、距離が遠いのです。
また、皆さんが必ず覚えることは、神様の全家を通じて忠実な者は、私的な分野にも忠実であり、実を差し出して栄光をささげることです。
かりにある人が教会では熱心なのに、家庭は全く顧みなかったり、学校や職場では不誠実な人と思われていたりするならば、他の人たちが見るとき、「あの人はまことに忠実な働き人だ」とほめられるでしょうか?
私の場合は開拓してから、家庭を顧みる時間はほとんどなかったのです。子どもたちがお父さんと一緒にいることをどれくらい願うのか知っていても、家族どうし集まって食事する時間でさえ、一年に何回しか持てなかったのです。
しかし、私のほうでいくら忙しいといっても、家族を忘れてしまったり、顔をそむけたりしたのではありません。家長の役割もまた、神様が私に与えられた役割であり、同時に家族もまた私にゆだねられた羊なので、心ではいつも家族を抱いていました。
ですから、神様が私の心を受けられて、直接子どもたちを育てられましたし、霊肉ともに家族に必要なものをいつも神様が満たしてくださいました。たまに一回、一緒にいる短い出会いの中でも、親として子どもたちを愛する心と、牧者として羊を愛する心を家族が十分に感じられるように、神様が恵みを下さったのです。
もし神様の働きで忙しいと言って、家族を心に抱くこともできなくて、父にゆだねることもできないまま、ただ疎かにしただけなら、私のほうでも父の御前で申し訳なかったでしょう。
家庭だけでなく学校や職場や、どんな分野でも同じです。忠実な人は心自体がすでに誠実で真実なので、神の国だけで忠実であるのではなく、すべての所で誠実に行うようになります。
だからと言って必ず一番にならなければいけなくて、実績が一番良くなければならない、というのではなく、少なくとも誠実にすべきことを尽くす人だと認められるべきという意味です。
もちろん、優先順位を決めなければならない時は、明らかに神様が与えられた職分と使命のほうがもっと重要であり、さらに多くの魂を救うことが先です。しかし、そうだからといって、神様の働きだけ熱心にして、他の分野では不誠実な姿を見せるなら、この時は神様の前でもまことに忠実な心で使命を果たしているというより、肉的な忠実であるか、一時的な熱さで熱心にする場合もあるのです。
<結論>
愛する聖徒の皆さん、「全家を通じて忠実である。」ことは、結局、神様がゆだねられたすべての分野で「父なる神様の完全な心で使命を果すこと」です。
ですから、人が全き霊に入って、父なる神様の御心を成し遂げた時でこそ、すべての分野に霊的な忠実になることができ、全家を通じて忠実な者である、と認められるのです。
しかし、皆さんがまだ全き霊でないとしても、全家を通じて忠実な者になるために努力していくなら、それだけさらにすみやかに霊に、全き霊に入ることができます。
それでは、どのように努力すべきでしょうか?最も基本的には、聖められるために、血を流すまで罪と戦って捨てなければなりません。そうしながら、すべての使命を果すとき、心を広げるために努力して、心と知性と力と最善を尽くして、一つ一つ果たそうと努力していくのです。
ある人は自分があまり願わない使命や、ささいに見えることは熱心にしません。また「私の能力はこれくらいにしかならないから」と言い、もっとよく努力しなくてもかまわない、自分を犠牲にしなくてもかまわない範囲内だけで適当にする人もいます。
主人の立場で見るとき、こういう人には信頼度が落ちて、次はその人にゆだねたくないのです。小さいことに忠実であった人に大きいことも信じてゆだねられます。
もし、自分の力が足りないとしても、周りに助けを求めたり、方法を学んだりしてでも、事を果そうとして最善を尽くそうとする真実と努力が見えるなら、万一その結果はちょっと足りなくても、その人には信頼が積まれるようになります。「あの人は、能力はちょっと足りなくても、心の姿勢ができた」と、次回にはさらに重要な責任も任せられます。
神様の中でも同じです。皆さんが自分にゆだねられたすべての分野で、心を尽くして犠牲にして仕えていくなら、全能な神様は必ず果せる能力を与えられます。また、神の国のために献身するほど神様が喜ばれて、恵みと力を与えられます。前は悟れなかった自分の悪を発見する機会になって、その悪が捨てられる力を受けて、霊に、全き霊にすみやかに入ってこられるようになります。
愛する聖徒の皆さんは、霊肉ともに皆さんが属したすべての分野で、人に対してではなく、心と力と知恵を尽くして神様に対してするように果すようお願いします。
それで<詩篇101:6>に、「私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。」とあるように、全き道を歩み、真実で忠実な者と認められて、永遠に神様と一緒にとどまる皆さんになられますように、主の御名で祝福して祈ります。
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