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メッセージ >
Title
信仰の量り(10) - 信仰の3段階
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ロマ 12:3
Date
2005-12-18
<本文>
<ローマ12:3>
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
<序論>
愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエルそしてケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダなどのアフリカ諸国と、全世界、全国の3900余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげるすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子供の皆さん>、視聴者の皆さん。
人が一生懸命汗を流して働き、突然、鏡を見て驚く時があります。仕事に夢中だったので、髪が乱れていたり、顔に汚いものがついたりしているのにわからなかったのですが、鏡に映った自分の姿を見て驚くのです。
皆さんが信仰生活をする時も、同じことがあります。うわべでは熱心に忠実に働いている、と思っていたのに、内面的には、自分を真剣に省みる機会がなかった場合があります。信仰の良い人々といっしょにいると、自分の信仰を正確に見分けられなくて、自分も彼らと同じ水準だと、何となくと思う場合もあります。
たとえば、自分は二段階にいるのに、自分の職分や信仰の年輪が似ている周りの人々がほとんど三段階にいると、自分も三段階だと錯覚します。そうするうちに、ある瞬間、みことばを聞くと、善良だと思っていた自分の姿があまりにも真理から離れていたことを悟り、驚くのです。
しかし、このように発見することは神様の恵みです。<黙示録3:17-18>に、「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」とあります。
神様の恵みで目薬を塗るように、みことばを聞いて悟って、霊的な目を開けると、自分の足りなさを発見するようになるので、純金のような信仰で豊かになれるからです。
今日は「信仰の量り」十番目の時間で、信仰の三段階、その三番目のみことばを語ります。今日も語られるみことばを通し、完全に悪のない聖なる心を成し遂げて、純金のようなまことの信仰を持つ皆さんになりますように、主の御名で祈ります。
<本論>
愛する聖徒の皆さん。信仰の一段階は救われて聖霊を受けた信仰であり、二段階はみことばを聞いて学ぶので、みことばどおり行おうと努力する信仰だと言いました。しかし、まだ完全に行える力がないので、時にはみことばを守り行ったり、時にはみことばを破って罪を犯したりします。
信仰の三段階になると、みことばに含まれた神様のみこころを悟って信じられるために、十分にみことばどおり行えます。ですから、「戒めを守ることが重たい」「信仰生活が大変だ」と言いません。「主を信じるからとても幸せで、感謝している」「戒めを守って生きると幸せだ」と告白できるようになります。
みことばどおり行える三段階を越えて、次の四段階に入ると、皆さんが慕い求めている霊の次元に入れます。
ところが、人によっては、信仰生活を始めてから信仰の段階をすみやかに突き抜けて、霊の段階まで順調に入る場合もありますが、そうでない場合もよくあります。
一段階から二段階まですぐ入り、二段階から三段階へもすぐ入ってきたのに、三段階であまりにも長い時間とどまっているのです。つまり、四段階に入るためには、心の罪の性質そのものを捨てて、聖められるべきなのに、心の罪の性質を捨てるのにあまりにも長くかかるのです。
たとえば、「憎んではならない」「敵をも愛しなさい」と言われたので、自分を苦しめる人がいても、理解して抱いてあげようとしますが、心にはまだ憎しみという罪の性質が残っています。常に喜んで感謝して休まず祈りますが、心から不平や恨みの根が全部抜かれていません。
この時、自分の中に罪の性質があると知っていながら怠ける場合や、優柔不断な性分のため、決断力をもって捨てられない場合もあります。しかし、もっともどかしいのは、自分の心に罪の性質が残っているのを、自ら悟れない場合です。
人が罪を捨てるためには、まず自分にどんな罪と悪があるのかを発見して悟らなければなりません。発見できないと、罪の性質を持ったまま止まって、前進できないのです。
最近は若い人たちが学校を卒業しても、就職が難しいので、卒業を延ばしながら、両親の陰を離れないので、これが社会的な問題になっているというニュースもあります。
霊的にも同じです。信仰の青年期のような三段階に入ったら、すっと成長して四段階に入るべきなのに、そうできなくて信仰が停滞してしまうと、問題が生じます。
自らも聖霊に満たされなくなり、何か重苦しくて悩むようになります。自分が見てちゃんとやっているようなのに、他の人々に大きく認められなくて、みことばの権勢や能力が伴わないので、失望して自ら苦しみを受けたりします。
本当に信仰生活を正しくして、霊に入ったなら、その心には聖霊の感動、充満が離れないし、聖霊の御声を聞いて導かれます。また、神様がともにおられるあかしが人生のすべての分野に現れ始めます。
かりに、こういうあかしが伴わないなら、自分が見て、いくらちゃんとやっているようでも、発見して捨てるべき悪のかたちがあることを悟らなければなりません。
では、信仰の三段階で、どうすれば信仰の停滞なく、すみやかに霊に突き抜けて入れるのでしょうか?
第一に、皆さんが覚えるべきことは、罪との戦いを止めてはいけない、ということです。
<第一テモテ4:5>に、「 神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」とあります。聖められることには王道がありません。みことばを聞いて、自分のうちの真理に逆らうものを悟るべきであり、祈りを通して発見したことが捨てられるように、神様の力を受けるべきです。
これは、ただ適当にみことばを聞いて、恵みを受けて、休まずにいつも祈る水準を言うのではありません。信仰の三段階なら、だれでも神様のみことばを聞くのが楽しみで、いつも休まずに祈ります。
しかし、ある人々は、時間が過ぎるほど、罪を捨てようとすさまじいほど努力した以前の姿が、ますます冷めてくる場合があります。罪との戦いが最も激しかった時は、ささいなことでも罪の性質を発見すると、本当に心を砕いて、何としてでも罪を捨てようと、断食して徹夜します。
こういう霊的に慕い求める心が変わらずに、罪の苦い根まですべて抜いてしまう時まで続くとよいのですが、そうできない場合がたくさんあります。罪との戦いでそれとなく要領よく休戦状態に入ります。
戦場でも一度勝利を得ると、その勢いで、完全に敵軍をせん滅すべきですが、そうできなくて止まっていると、敵軍が戦列を整えて反撃する余裕を与えることになります。それで、少し前進したかと思えば、また少し後退して、うやむやになりやすいのです。
霊的な戦いをする皆さんも、三段階をすみやかに突き抜けるためには、何よりも「私はある程度は成し遂げた」という霊的な怠けを警戒しなければなりません。みことばと祈りで、罪の性質の根まで抜いてしまうように、血を流すまで戦うことを休んではいけません。
二番目に、三段階をすみやかに突き抜けるなら、「肉の思い」を壊さなければなりません。
「肉の思い」とは、「御霊による思い」と反対になるもので、自分の心にある真理に逆らうものが魂の働きを通して現されることです。
<ローマ8:6-7>に、「 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。 肉にある者は神を喜ばせることができません。」とあります。
心に真理だけがあるなら、思いも真理の思い、御霊による思いだけが出ます。肉的なことも行わず、肉の思いも働かせません。しかし、真理に逆らうものがある時は、魂を通して思いが出て、その真理に逆らうものが思い出されるようになります。
たとえば、コンピュータを使う方々が、プログラムの中に誤った資料を入力すれば、いくら優秀なプログラムを使っても、結局、誤った結果が出るのと同じです。
それで、肉の思いがある人は、神様のみことばに聞き従うことができません。
簡単な例として、神様は「仕える者が偉い者で、与えるほうが受けるより幸いだ」と言われます。
ところが、心に高ぶりや欲があると、このようなみことばを聞くと、高ぶりと欲という真理に逆らうものが、人に肉の思いを働かすようにさせます。「受けずに与えるだけなら、害になるのに、どうして受けるより与えるほうが幸いなのか?」「自分を表に出しても認められにくいこの世なのに、まわりの人に仕えて低くなるなら、私はどんなにこっけいに見えるだろう?」と思うので、仕えることも、与えることもできません。
このように神様のみこころを理解することもできないし、みことばに従うこともできないので、肉の思いは神様と敵になる、と言われたのです。
ところで、聖徒の皆さんは、肉の思いが何か、今までのメッセージで常に聞いて、数え切れない不思議としるしを見たので、明白な肉の思いはたくさん捨ててきました。神様は全知全能であり、神様のみことばだけが唯一の真理であり、みことばに従うことが幸いであるとは知って、信じます。
ところが、数多くのみことばを聞き、だんだん頭で知っていることは多くなるのに、その分、心に完全に成し遂げられないと、このように聞いた真理のみことばを自分の悪と巧妙に結びつけて、新しいタイプの肉の思いをするようになります。
みことばで自分の罪と悪を発見するべきですが、むしろ他の人をさばいたり、罪に定めたりして、自分の誤りを言い訳して正当化させるために、真理を間違って適用したりします。
そのような肉の思いの中で最も代表的なものが、まさに「自分の義と枠」です。自分の義と枠については、今まで多くのメッセージと教育を通して、詳しく説明しました。それで、この時間は、自分の義と枠などの肉の思いが、どのように霊に入れないように妨げるのか、簡単に説明します。
まず、「自分の義」とは、「私が正しい」と主張することです。自分の義の強い人は、他の人にも自分の義に従うように強いるので、苦しませる場合がよくあります。
簡単な例をあげれば、自分は神様を愛して、熱心に家庭を訪問して、忠実に努力するのに、相手はあまり訪問しないようです。こういう時、自分の義の強い人は、「神様の恵みを大きく受けた人が、あんなに怠けてはいけないのに・・・」とやきもきして、なんとしてでも相手に悟らせようとします。
それで、直接相手のところに行って、「働き人がそんなに怠けてよいでしょうか? 神様の前でとても申し訳なくないですか?」と指摘して、諭します。あるいは、周りに人がいるところで、「私の周りにいる人が、このように怠けるのを見ました。私たちはそうしてはいけません」と言います。この時、本人や周りの人が聞くと、だれの話なのかすぐわかるほど、相手を表に出して言うのです。
もちろん、熱心に忠実に働くことは当然で、このように指摘して相手が恵みを受けて悔い改めれば幸いです。しかし、相手の立場ではその話を受け入れることができなかったり、むしろ、逆効果になったりすることもあります。「あの人が私をさばく、苦しませる」と思って悩んで、もっと恵みが落ちたり、「たくさんの人の前で私にこんな恥をかかせる」と、つまずいたりするかもしれません。
たとえ相手の誤りを諭しても、聖潔を慕い求める心に上から知恵が臨むと、相手の心を感動させる善良な方法を思い出すようになります。
しかし、自分の義の強い人は、自分が知っている真理だけが正しいと思うので、自分の方法が神様の心にふさわしくなく、それによって相手が傷ついたとしても、相変らず「私は正しくて相手が悪い」と思うだけです。つまり、内容が正しくて善だとばかり思うために、方法が善ではなかったことは、悟らないのです。
それで「平和をつくりなさい、相手に仕えなさい、さばいてはならない」など神様のみことばを聞いても、「私は神様を愛して忠実に働いている」、「相手を愛して正しいことを勧めた」と、自分が正しかったことだけを思います。このように「私が正しい」と思うことが自分の義であり、これによって自分の悪を発見できなくなり、聖められる道にすみやかに進めないのです。また、自分はとても正しくて善良なようでも、他の人々が見ると、怖くて難しくて避けたい人になってしまうのです。
次に「自分の枠」とは、「これだけが正しい」と自分なりに真理を規定して作っておいた枠です。
たとえば、皆さんが教会生活を熱心にするとき、信仰のないご両親や夫の立場からは、皆さんが教会に行ってから、神様だけを愛して、家族とは遠ざかったように感じて寂しいと思う場合もあります。
このような時は、神の国のため忠実に働くのと同時に、家族の心と立場を考えて、真理の中でよく仕えて愛して、彼らの心に感動を与えるべきです。
ところが子どもが自分の枠を作ると、家族を霊で扱うと言いながら、両親の心に寂しさと傷を与えるようになります。「私的感情と欲を断ち切って、霊の愛を成し遂げなければならない」「家族の救いのために祈る時も、神様をまず喜ばせてこそ、神様が感動されてすみやかに働かれる」などのみことばを聞いて、自分なりの枠を作るので、真理を誤って適用するのです。
たとえば、普段、両親によく仕えないで、子どもとしての道理も果たさずに、「私は親より神様のほうがもっと大切です。私に肉的な情を期待しないでください」と言います。両親の誕生日にも、両親の心を感動させるプレセントをあげるのではなく、伝道用新聞や聖書などをプレゼントします。これだけが霊的な愛だと思うからです。
もちろん、信仰がある両親や、善良な両親ならば、そのような子どもでも理解しようとしますが、それでも寂しい心になるはずです。
このようにして両親の心に傷を与えて、むしろ伝道の門をふさいでも、枠がある人はその状況を悟れません。「あなたの両親を敬いなさい、全家を通じて忠実になりなさい」というみことばを聞きながらも、「私は霊的に両親に仕えた」、「神様の働きを熱心にして、両親にも仕えて、全家に忠実だった」と思うからです。「こうするのが真理だ、霊だ」と自分が作った枠から抜け出せないのです。
しかし、まことに霊の心になると、真理の中であれもこれもできる心になるべきで、たとえ自分のほうが正しい時も、相手の信仰と都合に合わせるべきです。ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、相手の立場になって伝道した使徒パウロのように、善良な知恵をもらわなければなりません。
ところが、自分の枠が強い人は、自分が真理だと思うことだけを言い張るので、あちこちで平和を破るようになります。それによって「自己中心的な人、物わかりの悪い人」と言われることもありますが、本人は、「私は平和を破るのではなく、真理を追っただけだ」と思います。
このような肉の枠の中でとどまっているので、自己発見が不可能であり、したがって信仰の成長が停滞してしまいます。
聖徒の皆さん、自分の義と自分の枠、この二つは非常に似ているようですが、はっきり見分けられます。ある人は自分の枠が強くても、自分だけその枠の中にとどまり、他の人まで苦しめることではありません。つまり、枠が強くてよく破れないけれど、自分の義を強く立たせることはありません。かと思えば、自分の枠が強くて、自分もその枠の中だけで行おうとして、他の人もその枠に従うことを強いて、そうしないと、さばいたり罪に定めたりして、苦しめる人もいます。これは枠と義の両方が強い場合です。
ところで、自分の義や自分の枠は、結局は自分の中の真理に逆らうものによって作ったものです。このような自分の義と枠を通して働く肉の思いを破る時こそ、霊に突き抜けて入れることを、心に留めるようにお願いします。
<結論>
愛する聖徒の皆さん。今日は霊に入るためにどうすればよいのか、二つの分野を語りました。
一番目は、ただみことばと祈りで罪と戦って捨てるのに怠けてはいけない、と申し上げました。
二番目は、肉の思いを捨てるべきで、特に自分の悪と真理を結びつけて作った自分の義と枠を捨てなければならない、と言いました。
これらのものを捨てる時こそ、自分の霊的な状況を正しく把握できるのです。このように自分を正しく見て発見したら、その次は捨てる作業だけが残りました。
<ヤコブ1:23>に、「みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。」とあります。鏡を見て髪が乱れているなら整えるべきであり、汚いものがついたら洗わなければなりません。みことばの鏡を通し、自分の姿を発見したら、恵みを与えられる今の機会を決してのがさずに、すみやかに変えられるように願います。
それで、罪のない聖なる心と、傷もしみもない全き信仰を成し遂げて、神様の喜ばれる子どもたちだと認められる皆さんになられますように、主の御名で祈ります。
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