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Title
   十字架のことば(22) - 永生(4)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ヨハ 6:53-55
Date
   2005-09-11


<本文>

<ヨハネ6:53 -55>

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」

<序論>


 愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプトなど、全世界3600余りの支教会の聖徒の皆さん、全国の支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子供の皆さん>、視聴者の皆さん。

今日の本文<ヨハネ6:53>に、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」とあります。
イエス・キリストが人類の救い主であることを知って、天国と地獄があることを頭で分かっても、その知識によって救われるのではありません。口で「主よ。主よ。」と呼んで、礼拝に参加して、いろいろな使命を受けたといっても、それだけで救われることでもないのです。
聖書は、必ず人の子の肉を食べ、その血を飲んでこそ、永遠のいのちを得ることができ、そうでなければ、私たちの中にいのちがない、と教えてくださいます。
それで前の時間は、まず人の子の肉を食べる方法について語りました。出エジプトの時、イスラエルの民が子羊を食べた方法を通して、神様のみことばを糧とする方法を、詳しく説明しました。
今日は、人の子の血を飲むことについて語ります。

人が肉の生命を維持するためには、糧を食べて、同時に水分を摂取しなければなりません。もし、乾燥した食物だけ食べて、水分を全く摂取しないなら、消化が良くできるはずがないし、水分がなくては、生命を維持することもできません。水があってこそ栄養素が消化・吸収されて、不必要な老廃物と毒素が排出されるのです。
霊的にも同じです。「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」と言われたように、人の子の肉を食べて、完全に糧とするためには、必ず飲み物である、人の子の血を飲まなければなりません。
それでは、「人の子の血を飲む」とは、何を意味するのでしょうか?
愛する聖徒の皆さんは、語られるみことばを通し、人の子の肉を食べ、その血を飲む方法をよく悟るよう願います。その霊的な意味を知識で知っているだけでなく、必ず人の子の肉を食べて、その血を飲むことによって、永遠のいのちを所有する皆さんになられますように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん。今日のみことばの結論から申し上げると、私たちが「人の子の血を飲む」ということは、「神様のみことばを信仰で行っていくこと」を意味します。
この間は、「人の子の肉を食べる」とは、「神様のみことばを霊の糧とすること」だと説明しました。子羊を食べる時は、火で焼いて食べなければならないように、神様のみことばを読んで聞く時も、御霊に感じて深い霊的な意味を悟り、心に糧としなければならない、と言いました。
ところが子羊を完全に糧とするためには、知識的にその意味を悟るだけでなく、御霊に感じて、そのみことばが皆さんの心に臨まなければなりません。66巻の聖書に記録された神様のみことばをこまめに聞いて読み、知識として積むだけでなく、そのみことばを心に完全に耕すことが、まさにみことばを糧とすることであります。
心に糧とすることと、知識にだけ入れることには、どんな差があるでしょうか?
頭に記憶されたことは忘れることもあるし、真理を知識的に知っているからといって、そのまま行えることではありません。
皆さんが聖書を暗唱する時も、口ですらすらと暗唱するだけでなく、その霊的な意味を考えながら黙想すると、これが心に糧となります。
このように心に糧としたことは、皆さんの人生の中で行いとなります。歳月が過ぎて記憶力が落ち、正確な聖書の箇所は忘れても、心に耕された内容は、そのまま残ります。
たとえば<マタイ5:44>に、「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とあります。
このみことばを知っているからといって、敵が悪を行って自分を迫害する時、みことばのとおり、相手を愛することができるのではありません。頭でだけ知って心に耕さなかったら、心が傷ついて相手が嫌になり、はなはだしきは、悪をもって悪に報いるようになります。
しかし「愛しなさい」というみことばを心に糧とした人は、このみことばが何章何節にあるかは忘れたとしても、相手が悪を行う時、自然に自分の中から愛と憐れみが湧き出るようになります。そして、相手のために真心で祈ります。
こうして人の子の肉を糧としていくなら、非真理で染まった黒い心が、ますます白い心に変わるようになります。まるで、食べ物を食べて水を飲むと、老廃物が体から排出されて、栄養分が吸収されるように、人の子の肉を心に糧とするほど、真理は満たされて、非真理は出て行くようになります。
愛を心に満たすなら、憎しみが出て行きます。柔和を満たすなら憤りが出て行き、謙遜を満たすなら高慢が出て行きます。
本来、神様が人を創造された時は、全く罪と悪がない、真理の心でした。ところが、アダムが罪を犯してから、非真理を一つ一つ心に受け入れるようになり、非真理が入った分、本来の真理が出て行くようになりました。白い心がますます汚れて、黒い心に変わるのと同じです。
ところが、皆さんが人の子の肉を食べて、神様のみことばを糧としていくと、真理が一つ一つ心に満たされて、反対に非真理が出て行くようになります。
このようにみことばを糧とすることは、人の力だけではできません。御霊に感じてみことばを悟るだけでなく、火のような祈りを通して心の悪を捨てるようにされる、神様の恵みと御力を受けなければなりません。
そうしながら、どうしても必要なことがあります。みことばを信じてそのまま守り行おうとする自分の努力です。このような行いが、まさに人の子の血を飲む過程であります。
人が食物を食べる時も、消化をよくするためには、必ず水分が必要です。そのように、霊的にも、真の飲み物である人の子の血を飲んでこそ、人の子の肉を完全に自分のものにすることができます。
いくら神様のみことばを熱心に聞いて その教えに思いを潜めて、それを成し遂げようと祈ったとしても、それだけでは足りないのです。「何々を守りなさい」、「捨てなさい」、「しなさい」、「してはならない」など、聖書のみことばを一つ一つ守り行っていかなければならなりません。行いがなければ、神様のみわざを体験することができず、自分で直接神様のみわざを体験しないと、見聞きした知識的な信仰からもう一歩先に進めないのです。
<ヤコブ2:22>に、「あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、」とあるように、聞いたみことばを守り行うとき、その行いを通して、霊的な信仰が積まれます。
皆さんは、初めから大きい信仰を持って信仰生活をするのではありません。初めは、からし種ほどの信仰しかありませんが、その小さい信仰でも、行いを通して見せるとき、神様は信仰どおり、恵みを体験するように働かれます。このように神様のみわざを体験したら、それによってより大きい信仰を持ち、次回にはさらに大きい行いを見せられるようになります。
わが教会の聖徒の皆さんもそうです。皆さんがみことばを通し、そして多くの証を通し、神様のみわざについて見聞きしたので、これが皆さんの中に、信仰の種として蒔かれます。
日常生活である問題が起こっても、「私も神様に頼ろう」と信仰の行いを見せるようになります。すると自分も神様のみわざを体験するようになり、こうして小さいことでも体験していくと、信仰がますます大きくなります。それで結局、人には解決できない、より大きくて重大な問題にぶつかっても、大胆に神様に頼ることができます。
私が開拓する前、幼い三人の娘たちを通して、それぞれ大きな体験をしたことがありました。娘たちに一回ずつ難しい問題が起こったとき、神様の御前に信仰を見せる行いを通して、より大きい信仰が持てました。
一度は、私が休みに祈梼院に行って来たら、小学生だった長女が、頭からつま先まで、全身におできができて、横になっていました。少し動いただけで皮膚が破れ、血が出ていました。
次女は、トラックとぶつかる事故にあったことがあります。事故を起こしたトラックの運転手が、驚いてけがをした子どもを連れてきました。子供は顔がぷっくりとはれて、口の中はぼろぼろで、めちゃくちゃの顔でした。
末の子は、小学校に入る前のことですが、高校生とひどくぶつかって倒れ、脳震盪(のうしんとう)を起こしました。他の人が末の子を病院に連れていったら、その病院で、総合病院に行きなさい、と言われました。しかし、私はその子を病院に連れていかず、娘はただ家で横になって、ずっと意識を失っている状態でした。
このように、三人の娘はすべて、世の中の人々が見ると、病院に行かなければならないところでした。交通事故でけがをしたら、手術でけがしたところを縫合すべきであり、しかも脳震蕩で意識を失うほどなら、急いで病院に行っても、危ない状況です。
しかし、私は病院に連れていかず、薬も一度も塗らなかったのです。ただ祈りながら、神様に任せただけです。
動けなくて横になっている長女を見た時も、めちゃくちゃになった次女の顔を見た時も、脳震蕩で意識不明の末の子を見た時も、私は全く心配せずに、神様だけに頼りました。
事故を起こした人にも補償を要求しなかったし、むしろ、神様がいやしてくださるから何の心配もしないように、と慰めて、行かせました。
果たして神様は、信仰どおり働いてくださいました。祈ってあげてから、長女は全身のおできが一夜のうちにきれいになり、次女は、そのように口がはれて破れていたのに、神様が働かれたので、痛みがなくなり、ご飯までよく食べられるほどでした。
そして学校も全部出席しました。学校の先生が、後で子供に手紙を送ってきましたが、「あなたがあんなに痛かった時も、病院に行かなくても、数日できれいにいやされるのを見て、私も生きておられる神様を信じるようになった」と書いてありました。
三女もやはり神様が答えてくださいました。事故が起きた日が月曜日でしたが、水曜日の朝になると、嘘のように意識が戻って、水曜礼拝までささげられました。
このように信仰で行って、神様のみわざを体験するたびに、私と家族はより大きい信仰になっただけでなく、周りの人々も感心して、神様に栄光を帰しました。
皆さんのすべてのことにおいても同じです。信仰で完全な十一献金をささげると、日用の糧を満たしてくださる祝福を体験するので、次には、もっと大きい信仰で蒔いて、刈り取るようになります。
神様は「敵までも愛しなさい」とおっしゃったので、皆さんが憎んだ人であっても赦して、信仰で相手を愛する行いを見せる時、心に愛が少しずつ臨みます。そのように努めていくと、結局、心から憎しみがすべて出ていき、全き愛を成し遂げるようになります。
すべてにおいて神様のみことばを信じて行うとき、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するようになり、神様のみことばを完全に心に糧とすることができます。
逆に、聖霊を受けて、からしの種ほどの信仰があるとしても、行わない人は、いくら長い間信仰生活をしても、霊的な体験をすることができずに、心が変えられることも難しいのです。そのうちに、ともするとその小さい信仰さえ奪われて、救いから遠ざかることもあります。
ですから、<第一ヨハネ1:6- 7>に、「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」とあり、「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあるのです。
暗やみの中で、すなわち、世の中の非真理を追って行うのではなく、光である神様のみことばどおり行うとき、それで光の中を歩んでいる時、光である神様の子どもであり、救われる信仰がある、と認められるようになります。

愛する聖徒の皆さん。本当に信じるなら、必ず行いが伴います。
神様は、私たちが神様のみことばに聞き従うなら、この地でも、はいるときも、 出て行くときにも祝福され、将来、天国でも大変栄光あるところに入れる、と約束されました。また、すべてのことに信仰で神様だけに頼るなら、どんな問題も解決してくださると約束されました。
皆さんが聖書を神様のみことばだと信じて、本当に神様を信頼するなら、必ずそのみことばに従って行うようになります。水を飲めばのどの渇きが解消されるということを信じながら、冷たい水を目の前にしても、「ああ、のどが渇いた」と言いながら、飲まない人がいるでしょうか?信じないから飲まないのです。
また、釜山の海辺のどこかに数億ウォンほどの宝が埋まっていて、ソウルにいる人が釜山まで歩いて帰るなら、その宝を手にすることができる、としましょう。尊い宝が埋まっているという事実と、自分が所有できることだけを確信するなら、どんなに歩いて足が痛くても、期待を持って宝を取りに行くでしょう。信じないから行かないのです。
同じように、「全知全能の神様を信じます」と口では告白しますが、心では完全に信じられないので、相変らずみことばどおり行わないのです。
しかし、皆さんは、みことばのとおり行える霊的な信仰があってこそ救われて、神様のみわざを体験して、答えと祝福の中で生きることもできる、ということを必ず覚えるようお願いします。

愛する聖徒の皆さん。<ローマ10:13>には、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」とあります。これは、死ぬべきだった罪人たちを、主イエス・キリストの御名で救われた神様の限りない愛を表す一節です。
ところが、ある人々は、このみことばをもって、自分が真理の中を歩まないことを正当化しようとします。「主の御名を呼び求める者はだれでも、つまり、罪の中を歩む人であっても、救われる」というのです。こうした話を聞いて、「本当にそうかもしれない」と惑わされる人々もいます。
しかし、このみことばは、決して不法を行う人を正当化する一節ではありません。神様のみことばは対になっているので、前後の文脈を見て、正しく理解しなければなりません。
このみことばの前にある<9節-10節>を見ると、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあります。
無条件に主の御名を呼んで、口で主を告白するのではなく、心に信じて義と認められる人が、口で告白する時に救われる、ということです。
それでは、「心に信じて義と認められる」とは、どういうことでしょうか?
<ローマ2:13>に、「それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。」とあります。律法を聞いて知る者でなく、律法を行う人でこそ、正しいと認められるということです。
神様のみことばを聞いて、まことに心に信じるなら、必ずそのとおり行うようになり、そうする時、義と認められるのです。このように、心に信じて義と認められた人が、口で主を告白する時に、救われるのです。

<結論>

愛する聖徒の皆さん。私たちがいくら教会に通うといっても、人の子の肉を食べて、その血を飲まなければ、その中にいのちがありません。みことばを聞いて知っているだけでなく、真理をこまめに聞いて行うことによって、正しい人になるべきです。
それでは、ひょっとして皆さんの中に、「私はまだ完全にみことばのとおり生きられないから、救われないのだろうか?」と心配する方がいらっしゃるでしょうか?
しかし、まだ完全にみことばを行えないといっても、熱心に努力していく過程にあるなら、神様も「あなたには救われる信仰がある」と認めてくださいます。少しずつですが、明らかに人の子の肉を食べて、その血を飲む人だからです。
時には真理から外れた姿を発見しても、直ちに悔い改めて立ち返っていくと、たとえ小さい信仰であっても、「信仰がある」ということであり、その信仰で永遠のいのちを得られます。
かと言って、このようにいつも幼い信仰のままとどまっている方はいないように、お願いします。深い霊的なみことばを聞いて、大きい神様のみわざを常に体験する皆さんならば、だれよりも大きい信仰を持たなければなりません。
霊へ、全き霊へ入った子どもたちに約束された神様のすべての祝福を、本当に信じて望み、こまめに人の子の肉を食べて、血を飲まなければなりません。
愛する聖徒の皆さんは、こまめに人の子の肉を食べて、その血を飲んで、完全に神様の形を取り戻して、必ず新しいエルサレムに入る、神様の真の子どもたちになられますように、主の御名で祝福して祈ります。

愛する聖徒の皆さん。次の主日は旧盆です。多くの方が里帰りをなさるでしょうが、行き帰りのすべての旅程も守られて、主の中で幸せな時を送られますように。賢く周りの方々と平和を作って、必ず神様を喜ばせる皆さんになられるように願います。
もし、家庭が福音化されていない聖徒の方でも、万が一にも、偶像を拝むとか、主日を守らないようなことは、決してあってはなりません。主の中で伝道して、証しして、恵みあふれる平安な時間になりますように、主の御名で祈ります。

 
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