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Title
十字架のことば(21) - 永生(3)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ヨハ 6:53-55, 出 12:8-10
Date
2005-09-04
<本文>
<ヨハネ6:53 -55>
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」
<出エジプト12:8 -10>
その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。
<序論>
愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプトなど、全世界と全国の3600余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。
皆さんが主を信じて信仰生活をする究極的な目的は何でしょうか?ある人々は病気をいやされるために教会に来たり、ある人々は主を信じれば祝福を受ける、という言葉を聞いて、豊かな祝福を受けるために来たりします。
もちろん、神様は全知全能であり、愛が多いので、病気もいやされて、豊かになる祝福も与えられます。
しかし、何よりも最も重要な目的は、永遠のいのちを得ることです。罪を赦されて、アダムが罪を犯して以来失った永遠のいのちを得て、神様の形を取り戻して、天国に行くために、信仰生活をするのです。
ところが、永遠のいのちを得ることは、ただ言葉だけで「主よ、信じます」と言ってできるのではなく、イエス様が私たちの救い主であることを、頭だけで分かってできるのでもありません。
この間は、「主よ、主よ。」と呼んで、「主を信じる」と言いながら、救われない場合を説明しました。きょうからは、主を信じて永遠のいのちを得るためには、どうすればよいのか、その方法を語っていきます。
もちろん、救われて永遠のいのちを得ることは、信仰によってなされることです。イエス様を救い主と告白して、自分の罪を悔い改めると、神様が聖霊を与えられて、神様の子どもと認められるので、新しく生まれて、いのちを得るようになります。
ところが肉的にも、赤ちゃんが「おぎゃー」と生まれたからといって、すぐに一人前になることはありません。お乳を飲み、ご飯を食べて、おとなになるべきで、人の知識と人の道理を学ばなければなりません。よく食べなくて育たないなら、生まれたとしても正常に生きることはできず、結局、死ぬでしょう。
霊的にも同じです。主を迎え入れて新しく生まれることで、永遠のいのちを完全に所有したのではなく、霊の糧を飲んで食べ、主に似せられて、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するべきです。
それでは、霊と魂の成長のために、聖徒たちに必要な糧とは何でしょうか?
今日の本文<ヨハネ6:53>に、「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。』」と言われました。
また<55節>に、「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」とあり、人の子の肉と血、つまり、主の肉と血が私たちのまことの食物と飲み物だと言われます。
人の子の肉を食べ、その血を飲まないと、「いのちはありません。」すなわち、「救われない」ということです。
では、2000年前にこの地におられたイエス様の肉と血を、皆さんがどのように食べて飲めるのでしょうか?
愛する聖徒の皆さんは、これから語られるみことばを通し、「人の子の肉を食べ、その血を飲む方法」を、必ず心の糧になさるようお願いします。
それで、必ず皆さんのうちにいのちを所有して、終わりの日、主と共に永遠の天国に入る皆さんになられますように、主の御名で祈ります。
<本論>
愛する聖徒の皆さん、私たちが食べるべき人の肉とは、霊的に、聖書に記録された「神様のみことば」を意味します。
<ヨハネ1:14>に、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあり、イエス様は、神様のみことばが肉の姿でこの地に来られた方であることを証しています。
<ヨハネ6:51>には、「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」とあります。
ところが、私たちが神様のみことばであり、いのちのパンである「人の子の肉」をどのように食べるのかは、聖書の子羊のたとえとも直接かかわります。<ヨハネ1章>にも、バプテスマのヨハネがイエス様にお会いした時も、「見よ、神の小羊。」と言いました。
羊は、ただ牧者の声にだけ聞き従って、おとなしくて人に益だけ与えます。私たちのイエス様も、ただ御父のみこころに聞き従って、おとなしい子羊のように、贖いのいけにえになってくださり、人に良いものだけ与えられました。
特に、その中でも、一歳になった傷のない子羊は、人間では青年期の最も美しい時であり、さかりがつく前の純潔な状態であり、霊的には、傷もしみもない、私たちのイエス様のたとえです。
<出エジプト記12章>には、イスラエルの民に、傷のない一歳の雄を食べるように、神様が命じられる場面があります。エジプト全地に、初子の災いが臨む時でした。
子羊をほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつけると、その血で示されているイスラエルの民の家に、初子の災いが臨まないように、神様が守ってくださいました。
ところで、羊を食べるのも、勝手に食べるのではありません。神様が教えてくださった方法がありました。
今日の本文<出エジプト12:8-10>に、「その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。」と言われました。
このように子羊を食べる方法を詳しく教えてくださったのは、その中に、私たちのいのちとかかわる、霊的な教訓が含まれているからです。これが人の子の肉を食べる方法であり、神様のみことばを糧とする方法であります。
それでは、今から子羊を食べる方法を、一つずつ調べていきましょう。
第一、子羊を食べる時は、火に焼いて食べなければなりません。それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならないのです。
ここで「火」とは、「聖霊の火」を意味します。つまり、私たちが御霊に感じて、神様のみことばを悟って、糧としなければならないのです。また、聖霊の火をつけるためには、私たちが火のように祈らなければなりません。
<第二ペテロ1:20 -21>にも、「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とあり、<第二ペテロ3:16>に、「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」とあります。
すなわち、神様のみことばを、御霊によって悟るのではなく、曲解するなら、むしろ真理から外れて滅びを招く、と戒めているのです。
「御霊によってではなく、曲解する」とは、本文にある「生のままで」、または、「水で煮て食べる」ことを言います。
「神様のみことばを生のままで食べる」ということは、みことばの中に書かれた霊的意味が悟れなくて、記録された文字どおりに解釈することを意味します。
肉を生のままで食べると、消化にも良くないし、おなかを壊しやすいように、神様のみことばも生のまま食べると、とんでもない反応が出て来るようになります。
子羊を生のままで食べる例をいくつかあげてみます。
<マタイ6:6>に、「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」とあります。
このみことばを文字どおりに解釈すれば、皆さんも祈るためには、必ず自分の奥まった部屋を作り、そこに入って祈って、はじめて神様のみことばに従うことになります。
しかし、聖書のどこを見ても、信仰の先輩たちが自分の奥まった部屋で祈った、という記録はありません。イエス様も祈られる時は、奥まった部屋ではなく、園や荒野で祈られ、使徒たちは聖殿で祈り、屋根や海辺で祈った、という記録があります。ダニエルは窓を開いて、エルサレムに向かって祈りました。したがって、ここで「部屋」とは、実際、家の部屋のことではありません。
霊的に、「部屋」とは、「人の心」を意味します。そして、祈る時、奥まった部屋に入りなさい、ということは、深い心の底から神様と交わるべきことを悟らせてくださるためです。
奥まった部屋に入り、戸を閉めると、その中は外部から完全に遮られるようになります。そのように、私たちが祈る時は、人に見られるために偽善的に行ったり、世の中の憂いと心配、雑念の中、同じことばをただくり返したりせず、心の底から神様と交わらなければなりません。
また、<第一コリント14:34 -35>には、「教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。 もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。」とあります。
これを文字的に見ると、妻たちは教会で黙っていなければならないので、祈りや賛美でも声を出せないし、前に立ってある使命を果たすこともできません。こんにちも、これを文字どおりに解釈して、教会の中で女性の活動を制限する、 昔の人たちの言い伝えを作った教団があります。
しかし、聖書を見ると、旧約時代にもデボラのように女性が民を導くさばきつかさとして立てられた時もあり、民に神様のみこころを伝える預言者の中にも、女預言者がいました。新約にも、イエス様に従ったさまざまな女性や、教会に仕えた女性たちの名前がところどころに記録されています。
したがって、「教会では、妻たちは黙っていなさい。」と言う時、「妻たち」とは、神様のみことばの中を歩んでいる女性聖徒を意味するのではありません。性別を問わず、教会の中に入ってはいるけれど、まだ真理の中を歩まない人々を意味します。
女性、つまり、エバが真理の中にとどまらなかったので、軽率に蛇に惑わされたように、また、アダムまで惑わして罪を犯させたように、罪を犯す属性を持った人々を意味するのです。
真理で変えられていない人々は、非真理の言葉をよく言い、心が狭くて軽率で、教会の中でもサタンの会衆を作り、さばいて罪に定めたり、党派を作って混乱を起こしたりします。
聖書では、このように肉の属性を捨てられず、不順従な人々に、「黙っていなさい。」と戒めることによって、真理の中で秩序に従うように示しているのです。
また、イエス様が水でぶどう酒を作られた事件も、文字どおりに受け入れる人々は、愚かな解釈をします。
<箴言23:31>に、「ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない」というみことばをはじめとして、神様は明確に、酒に酔ってはいけない、と戒められました。イエス様も肉の人々が飲んで酔うために、ぶどう酒を作られたのではありません。
これは、イエス様が神様の国の働きを始める時、「水」、つまり、「みことば自体」がこの地に来られたイエス様が、ぶどう酒のように、尊い血を注がれるというしるしです。
その霊的な意味を知らない人々は、「イエス様もぶどう酒を作ってくださったので、酒に酔ってもかまわない」と言い、真理から外れるのを見ます。
また、らい病のナアマンが、 ヨルダン川に七たび身を浸すと、 完全にいやされましたが、これも、イスラエルのヨルダン川にいやしの能力が含まれている、ということではありません。
ヨルダン川に七たび身を浸す、ということは、神様のみことばに完全に聞き従うことを意味し、そうする時、どんな病気や問題でも解決される、という霊的な意味が含まれています。その意味を知らずに、イスラエルのヨルダン川に行って、いくら熱心に身を洗っても、それで病気がいやされるわけではありません。
このように、文字どおり解釈して、霊的な意味が悟れないことが、まさに、神様のみことばを生のままで食べる、ということです。
次に、「水に煮てはならない」ということは何でしょうか?これは、神様のみことばを扱う時、他のどんな世の中のことも加えてはならない、という意味です。
時々、神様のみことばに、真理以外の理論などを混ぜて理解しようとしたり、人の思いと理論の中で説教したりする人々がいます。
ある人は、明らかに神様のみことばを語っているのに、説教の内容は、政治や社会の話など、あらゆる肉の話で満ちています。あるいは、「ある立派な人がこう言った」、「ある哲学者はこう言った」など、世の中の知識で説教する人もいます。
しかし、人の思いと知識は極めて制約的であり、いくら立派な思想も完全なものではありません。歳月が流れると、変わります。
<第一コリント1:25>に、「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」とあります。神様のみことばは、世のどんな知識よりも優れて、神様のみことばだけが唯一の真理であり、永遠に変わりません。
ある人はヘブライ語とギリシャ語を研究して、聖書の単語一つ一つの意味を調べるのに没頭して、その中にいのちを探そうとする人もいます。しかし、それで霊的に神様のみこころを悟れるのでもなく、いのちが得られるのでもありません。
ユダヤのパリサイ人と律法学者たちは、自分たちの母国語で記録された神様のみことばを学び、またそのみことばをすらすら暗唱して、一字も変えずに保存しようとしました。それでも彼らは、みことばが肉となって来られたイエス様を悟らず、永遠のいのちを得ることもできなかったのです。
説教者がメッセージを語る時も、こういうことを心に留めなければなりません。講壇で宣べられるべきみことばは、人の知識でも、いかなる理論でもなく、世の中の話でもありません。
御霊によって悟られた、聖書のみことばそのものを語らなければなりません。神様の生きておられることを、確信の中に語り、どうすれば生きておられる神様に出会えるのか、また聖徒に向かった神様のみこころが何か、どう信仰生活をしてこそ救われるのか、このような内容を語らなければなりません。こういう意味で、「子羊を水で煮てはならない」とおっしゃるのです。
第二に、子羊を食べる時は、丸ごと食べなければなりません。
生のままで、また、水で煮てはならず、その頭も足も内臓も火で焼かなければならない、と言われました。
これは、創世記の初めからヨハネの黙示録の最後まで、66巻の聖書に記録された、すべてのみことばを糧とすることを意味します。
ところが、聖書を読む時、ある人々は、レビ記のように理解し難いみことばは抜いて読んだり、旧約は主以前のみことばなので私たちと関係がない、と言ったりする人もいます。聖書に明確に記録されているのに、不思議なみわざとしるしは信じない人もいます。
このように、人間の思いに合わないことをすべて取り出すと、結局、残るものは、真理でもなく、信仰でもなく、倫理と道徳だけが残ります。
それさえも守りにくく、行いにくいのは、心に留めないからであり、いくら神様のみことばを読んでも、永遠のいのちを得ることはできません。
神様のみことばは、自分の思いに合う特定の部分だけ取るのではなく、すべてのみことばを全部信じて、糧としなければなりません。ですから、子羊を食べる時も、丸ごと食べるように命じられたのです。
第三に、子羊を朝まで残してはならず、朝まで残ったものは、火で焼かなければなりません。つまり、夜が明ける前に全部食べられなければ、残ったものは火で焼いてしまわなければなりません。
霊的に「夜」とは、敵である悪魔・サタンが、この世を支配している期間です。終わりの時になると、世の中はますます罪と悪に満ちて暗闇が深まります。そして、時になり、主が再臨なさると、闇が退いて光が臨み、朝になります。
その時は、聖書に記録されたすべてのみことばが真だったことを、世のすべての人々が知るようになり、また、聖徒たちがそれぞれどれくらい聖められて、報いを積んだのかも明らかにされます。
捨てられなかった自分の義と欲、自尊心などがどれくらい愚かなものだったか、世を愛する心がどれくらい虚しいものなのか、はっきりと知るようになります。
しかし、この時は、人々が明らかにされた結果を変える機会がありません。「私が早く罪と悪を捨てて霊に入ったらよかったのに、天国の報いをもっと多く積んだらよかったのに」と、もどかしい心で後悔しても、すでに手遅れです。
したがって、聖徒は主の再臨の前に、すべてのみことばをこまめに霊の糧として、すべて自分のものにしなければなりません。朝がくる前に、夜の間にすべてのみことばを全部耕して、花嫁の備えを終えて、また来られる主を待たなければならないのです。
<結論>
愛する聖徒の皆さん。神様のみことばを聖霊の火で焼いて食べる人々は、このみことばが、蜜や蜜蜂の巣のしたたりのように甘く感じられます。
永遠のいのちへの確信があって、天国の希望があふれて、聖書を読む時や説教を聞く時も、時間が経つのを知りません。ひと言ひと言を慕い求めて、御霊に感じて、恵みの中で受けるので、とても面白くて、そのみことばによって自分を発見して変えていくことが、毎瞬間楽しくて、なんとも言えないほど幸せです。
そのように信仰生活をする人々は、速かに霊の信仰に成長します。生まれたばかりの小さい者の信仰から、若い者の信仰に、また父の信仰に、すなわち、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するようになります。
それでの父の信仰に至ると、すべての事に祝福されて栄えるだけでなく、神様のみこころと愛を深く悟り、秘密な霊の世界を明らかに悟っていくようになります。その味がどういうものなのか、その幸せがどういうことなのかは、その信仰の中に入った人だけがわかります。
しかも、子羊をどれくらいよく糧としたのかによって、この地の人生だけでなく、天国でも皆さんの人生の質が変わります。みことばをどれくらい糧としたのかによって、とどまる場所の光が違って、与えられる栄光と報いが違うのはもちろん、永遠の時間の中で感じる感動と幸せの次元が、全く変わります。
愛する聖徒の皆さんは、神様が命じられたとおり、子羊を火で焼いて、まるごと霊の糧として、主がまた来られる前に、速かに全部糧とされるようにお願いします。
それで将来、天国でも最も栄えあるところにみなが入って、神様が愛する子どもたちのために備えられたすべての幸いを、心ゆくまで受ける皆さんになられますように、主の御名で祝福して祈ります。
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