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Title
十字架のことば(15) - 架上の七言(1)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ルカ 23:33-34, 42-43
Date
2005-07-17
<本文>
<ルカ23:33- 34>「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
<ルカ23:42- 43>そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
<序論>
愛する聖徒の皆さん、
またアメリカ、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と、中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプトをはじめとして、全世界と全国の2600余りの支教会の聖徒の皆様、支聖殿の聖徒の皆様、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆様、<日曜学校の子供の皆さん>、視聴者の皆様、
今日は十字架の道十五番目の時間です。これからは「架上の七言」について語って行きます。
「架上の七言」とは、イエス様が十字架にかけられた時から、亡くなられる瞬間まで残された七つのみことばのことです。
臨終が近づくと、人々は過ぎた日々を顧みながら、自分の人生を結論付けるような遺言を残すようになります。
イエス様も十字架を背負って、ついに救いの道を完成するところで、まるで遺言のような七つのみことばを残されました。
イエス様のすべての苦しみにそれぞれのご摂理があったように、イエス様が残された最後の七つのみことばにも、とても重要な霊的な意味が含まれています。
聖徒の皆さんは、語られるみことばを通し、私たちを救われるために亡くなられた主の愛と、父なる神様の愛を、より一層深く悟るようにお願いします。
それでその血の代価(だいか)で私たちを買われた、主のみこころにしたがって、真理の中を歩む皆様になられますように、主の御名で祈ります。
<本論>
愛する聖徒の皆さん、
「架上の七言」の中で、第一番のみことばは<ルカ23:33- 34>にあります。
「 『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。 そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」
イエス様が惨めな十字架の刑罰にあわれたのは、私たちの罪のためです。罪人として刑罰を受けるべき人類の代わりに、イエス様がすべての苦しみを受けてくださいました。
ところが、こういう事実を知らない群衆は、まるでイエス様を凶悪な罪人のようにあざけり、さげすみました。ローマの兵士たちも、罪人を扱うように、イエス様を乱暴に引っ張っていって、残忍に十字架につけました。
しかし、イエス様は、彼らを恨んだり呪われたりしたのではありません。むしろ、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と、彼らのためにとりなしの祈りを捧げられました。
愛する聖徒の皆さん、その時イエス様の祈りは、その場でイエス様を釘づけてあざける人々だけのためではありません。闇の中に留まるすべての人類のための祈りであり、今でも主の御名をさげすんで迫害する、すべての人々のためにささげられた祈りでした。
このようなイエス様の愛の願いのために、主を知らなかった私たちが赦されました。このように私たちを赦されて、愛を持って祈られたイエス様は、主を信じる私たちも、すべての人を赦すことを願われます。
訳もなく迫害されたり、損害をこうむるようになったりしても、悪を持って返したり、悪い感情を抱いたりするのではなく、ただ良くしてあげることを願われます。
<ヨハネ3:20>に、「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」とあります。
このみことばのように、世の闇の中で生きていく人々は、光の中で生きる人々を嫌(きら)います。その光により、自分たちの悪が明らかにされることが嫌(いや)で、それによって心を刺されることが嫌(いや)だからです。
それで、皆様が主日を全て守ろうとする時や、世の中で不義を行わないようにする時、迫害する人々がいるのです。
<マタイ10:22>にも、「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」とあります。主の弟子たちが主の御名のために、世の中から憎まれることをおっしゃるのです。
神様の敵である悪魔・サタンは、福音が世の中に伝えられて、人々が救われることを嫌うので、伝道者を迫害するように悪い人たちを操ります。聖徒たちが信仰を失って落胆するように、世の中の人々を通して苦しみをもたらしたりします。
皆様もそのような経験があるでしょうか?それで、皆様は迫害する人々にどうしましたか?
世の人々は、自分を困らせて悪を行う人々を憎み、同じく悪を持って報います。しかし、神様は、私たちがすべての人を赦して愛することを願われます。
イエス様はすべての罪人たちを愛されて、ご自分を釘づけた者までも愛されるので、彼らのために命を与えてくださいました。
<マタイ5:44 -45>に、「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」とあります。
神様の御子イエス様が、敵までも愛されて命を与えられたように、私たちも敵を愛して、迫害する人々のためにも祈る時、イエス様のように神様の子供として認められる、というみことばです。憎しみと争いを起こす敵である悪魔・サタンの奴隷でなく、全能な神様の子どもとして認められます。
ところがひょっとして皆様は、敵でもないのに、隣人や兄弟を憎んだことはないでしょうか?「あの人は嫌い、相手にしたくない」と思ったことはないでしょうか?あるいは、「私を苦しめるあの人が、良くないことに遭ったらいいのに」と、はなはだしく悪い考えをしたことはありませんか?
もし、そういう心があったなら、この時間に徹底的に悔い改めて立ち返るようにお願いします。「主の祈り」にも、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、 私たちに負いめのある人たちを赦しました。」とあります。
自分は兄弟を赦せず、愛せないのに、どうして「父なる神様、私の罪をお赦しください、私を愛してください」と祈れるのでしょうか?
救い主を十字架にかけてあざける罪人たちまでも愛されたイエス様を見習い、私たちも兄弟を愛して、敵までも赦して愛さなければなりません。「お父様、彼らを赦してください。彼らも主の愛で変えられるように祝福して、救われるように働いてください」と祈らなければなりません。
愛する聖徒の皆さん、
第二番目のみことばは、<ルカ23:42- 43>にあります。「そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」とあります。
イエス様が十字架にかけられた時、イエス様の左右には強盗が十字架の刑罰を受けていました。その中の一人はイエス様に向かい、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言いました。「イエス様が本当に救い主ならば、イエス様ご自分はもちろん、つけられた強盗たちも救ってみなさい」とあざけっているのです。
その時、もうひとりのほうが、彼をたしなめて言いました。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
つまり、自分たちは強盗であり、犯罪人であるから、当然受けるべき刑罰を受けていますが、イエス様には罪がないことを告白しているのです。
そしてイエス様に、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と願います。
すると、イエス様はその人の信仰を見て、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と約束してくださいました。この強盗は死ぬ直前、最後の瞬間だけでも、イエス様を自分の救い主として迎え入れたので、救いの約束を受けました。
愛する聖徒の皆さん、イエス様のこのみことばの中には、多くの霊的な意味が含まれています。
まず、天国の「パラダイス」について教えてくださいます。
聖書には天国についていろいろな記録があります。<第二コリント12:2>には、使徒パウロが自分の見た天国に関して、「私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に・・・肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。・・・第三の天にまで引き上げられました。」と言いました。
そして続く<4節>には、言い換えて「パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」とあります。
<ネヘミヤ9:6>をはじめとして、聖書の所々に、「天と、天の天と、」、「天の天」等の表現が出てくるので、さまざまな天があることがわかります。
私たちの目に見える肉の天(つまり空)だけがあるのではなく、霊の世界の天があります。
使徒パウロが見た「第三の天」は、天国がある空間であり、その中でも特別に「パラダイス」という場所を言っているのです。
また<黙示録21:10 -11>には、「そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」とあります。
神様の御座のある「新しいエルサレム」は、天国の中でも特別に、聖なる栄光の城として説明しています。
こういうみことばを見ると、天国の中でも「パラダイス」や「新しいエルサレム」など、場所が分けられていることがわかります。
ある人々は「パラダイス」や「新しいエルサレム」は、すべて同じように天国を示す、と言いますが、そうではありません。天国という大きい空間の中に、場所が段階別に分けられていて、その中に「パラダイス」もあり、「新しいエルサレム」もあるのです。
同じ大韓民国に住んでいる人々も、大統領のいるソウルの都心に住んでいる人がいれば、少し離れた京畿道(キョンギド)に住んでいる人がいて、とても遠い山間僻地に住んでいる人もいます。
このように天国も、各人が留まる場所がいろいろ分類されています。
例えばヨハネの黙示録にある、「新しいエルサレム」は、天国でも最も上の段階の天国です。ここには主の形に似て、すべての罪と悪を完全に脱いでしまい、全家を通して忠実な者だった人々が入れます。
例えばモーセやアブラハム、エリヤ、使徒パウロ、ペテロ、こうした方々が「新しいエルサレム」に留まります。
今日の本文の救われた強盗の場合は、死ぬ直前に主を迎え入れました。ですから、心の罪と悪を捨てる時間もなく、主のために忠実だったこともなく、まるで生まれたばかりの赤ちゃんのように、ただ救いの資格をかろうじてもらっただけです。信仰で蒔いたことも、行ったこともないので、天国で受ける報いもありません。
こういう人々は、イエス様がおっしゃった「パラダイス」に行きます。「パラダイス」は天国でも最も低い場所です。
「パラダイス」と「新しいエルサレム」の間にも、天国がさまざまな段階で分けられていて、各人の心が聖められた程度により、また信仰と忠実さにより、留まる場所が違います。
それなら、天国はなぜこのように分類されているのでしょう?これはまさに、公義にふさわしいからです。
種を蒔けば、その刈り取りもすることになるのが、神様の公義であり、人の行いに応じて報いるのが神様の公義です。
天国で永遠に住む場所も、人がこの地で行ったことにより変わります。すなわち、この地で私たちがどれくらい罪を捨てて、どれくらい聖なる主の形に似たのかにより、天国の場所が変わるのです。
また、それぞれの場所ごとに、その中に居る人々の栄光が全く違い、報いと幸せと権勢が全然違います。
<第一コリント15:41 -42>に、「太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、」と言われたみことばどおりです。
将来、主がまた来られて、死者たちが復活する時、おのおのの栄光がすべて違うという事実を説明しています。
神様は、私にこのようにさまざまな天国の場所と、その中での生活がどうなのか、明らかに知らせてくださいました。その内容は『天国上・下』の中に詳しく記録されてあり、この本は各国語で翻訳・出刊されています。天国の場所と天国の生活について、さらに明らかに知りたい方は、この本を参考になさってください。
愛する聖徒の皆さん、真に信仰のある人ならば、「適当に生きて救われれば良い」と言うのでなく、どうしてでもより良い天国に入ることを慕い求めなければなりません。
<マタイ11:12>に、「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」とあります。
ここで天国を激しく攻めて奪い取るとは、私たちが敵である悪魔と戦い、罪を捨てて主に似て行くほど、より良い天国に入る資格を得ることを意味します。
もし、皆様の中に、そねみ、ねたみ、裁き、罪に定めること、憎しみ、裏切(うらぎ)り、ずるがしこさ、欲、憤り、姦淫、こういう罪をそのまま持って天国に入ったら、天国がどうなるでしょうか?
そうなると、天国が汚染されて、もう聖なる幸せな場所とは言えないでしょう。この地と同じく、互いに憎んで苦しめて、罪と悪の中で生きていくはずだからです。
天国には罪と悪をもって行くことはできず、善で、霊で耕したことだけ持って入ります。それで、霊で耕した分量が似た人々どうし、同じ場所に集まって生きるようになります。
この地でも子供は子供どうし、青年は青年どうしでいる時、さらに楽しくなります。同じ年頃の友たちといる時、もっと幸せです。大人も子供たちと話すよりは、レベルの合う大人どうしで話すことが楽しいです。
このように天国も、聖められて主に似た程度により、似たレベルの信仰を持った人々が交わって生きることで、より一層安らかで幸せになるのです。
愛する聖徒の皆さん、イエス様は強盗に、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われました。
これは、イエス様も「パラダイス」に行かれるとの意味ではありません。天国で主が留まる場所は、「パラダイス」ではなく、最も美しい「新しいエルサレム」にあります。
しかし、主は天国全体の主人であり、すべての天国におられる方です。「パラダイス」にも、「新しいエルサレム」にも、どこにもおられて、天国のすべてをご存知であり、治められるのです。
また、「今日」ということも、十字架にかけられたその日、イエス様が「パラダイス」に行かれるという意味ではありません。強盗が信仰で救われて、神様の子供とされたので、その時からは、彼がどこにいても、主がともにおられる、という意味です。
私たちも、主を迎え入れて救われたその日から、主が私たちを常に覚えられます。どこへ行こうが、何を見て何をしようが、主は知っておられ、私たちのために祈られます。また、私たちを守る天使を送り、共にいるようにされます。
では、イエス様が十字架で亡くなられたその日、つまり、金曜日、イエス様はどこへ行かれたのでしょうか?
これについて<マタイ12:40>に、「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」とあり、<エペソ4:9>には、「・・・この『上られた。』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。」と説明しています。
また、<第一ペテロ3:19>に、「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。」とあります。
イエス様は十字架で亡くなられた後に、「パラダイス」ではなく、捕われの霊たちのところに行って福音を宣べられた、ということです。
ここで「捕われの霊たち」とは、イエス様が十字架を背負って救い主になられる前に死んだ人々の中で、救われることのできる人たちを意味します。
皆様はこのみことばをよく理解されるようお願いします。私たちが救われるためには、ただイエス・キリストを信じることで、罪の赦しを受けなければなりません。
人々が、自分なりにはいくら善良に生きた、と言っても、皆が原罪を持って生まれた罪人であり、律法どおり行えなくて、自ら罪を犯すようになります。イエス・キリストの尊い血だけが、私たちをすべての罪から清めて、救いの道を開いてくださるのです。
そうすると、イエス様が来られる前に、救い主のイエス・キリストを知らずに死んだ人々は、すべて救われずに地獄に行ったのでしょうか?
また、イエス様以後も、福音を一度も聞かなくて信じられなかった人々は、すべて地獄に行かなければなりませんか?
そうでありません。神様は愛と公義の神様であり、すべての人が救われるのを望んでおられます。
したがって、たとえ主以前の人々や、福音を聞かなかった人々のために、イエス・キリストによって救われる道を備えておかれました。
福音を全く聞けなかった人々の中にも、善良な心で創造主を認めて善に生きた場合があります。善良な良心で来世、すなわち、天国と地獄があることを認めて、神様の律法は聞かなかったけれど、自分なりに良心に従って善良に生きていきます。
<ローマ2:14- 15>に、「・・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ・・・」とあります。
人には誰にでも良心があって、善い人は、神様を知らなくても、良心の声に従って生きていきます。悪に染まらないように努めて、自ら善良に生きるために努力します。
このように善良な心を持った人々は、自分の欲を追って、むなしい偶像や悪霊を崇めることはしません。漠然とではあっても、一人の創造主を認めて、人の道理を追って生きていきます。もし、こういう人が福音を聞いたら、当然、イエス・キリストを主として迎え入れたでしょう。
でも、いくら善良に見えても、福音を聞いても信じない人は、その良心が悪くて救われることのできない人です。
人は、他の人の良心をはっきり知りませんが、全知全能な神様は、すべての人の心と行いをご存知であります。
したがって、イエス様が来られる以前の人々の中でも、もし福音を聞いたなら、信じるはずの良心を分けられるのです。これがつまり、良心裁きです。
神様はこのように良心裁きにより、救われる人々の霊と魂を、イエス様が救い主になられる時まで、「上のよみ」に留まりながら安息するようにされました。
主の前の旧約時代に、神様のみことばどおり生きて救われた魂たちも、「上のよみ」に留まっています。
<ルカ16章>に、金持ちと貧乏人ラザロのたとえがあります。神様のみことばのとおり生きなかった金持ちは、死んでハデスの火の中で苦しむけれど、神様を敬ったラザロは、アブラハムのふところに連れて行かれました。
まだイエス様が救い主になられる前なので、天国に行って主のふところに抱かれるのではなく、信仰の先祖アブラハムのふところに抱かれて安息しているのです。
その時、金持ちが苦しんでいる所は「下のよみ」で、ラザロが安息する所は「上のよみ」です。「下のよみ」は闇の領域で、地獄の一部です。反面、「上のよみ」は天国と同じように、光に属した領域です。
イエス様は十字架で亡くなられた後、「捕われの霊たちのところ」、すなわち、「上のよみ」の人々を訪れて行かれました。
<使徒の働き4:12>に、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」といわれたように、彼らにも救いの道になられたイエス・キリストを宣べ伝えなければなりませんでした。
まさにその時、「上のよみ」にいた人々も始めて、イエス様を救い主として迎え入れて、すべての罪が赦されて救われたのです。
<結論>
愛する聖徒の皆さん、
今日は「架上の七言」の二番目まで語りました。
一番目に「「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と言われました。この願いには、イエス様を釘づける人々のための赦しと愛だけでなく、信じないすべての人類のために命を与えられた、イエス様の愛が含まれています。
二番目にイエス様は、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われました。これは悔い改めて主を迎え入れた強盗に、救いを約束されたみことばであり、彼が行く天国の場所について知らせてくださった、希望のみことばです。
イエス様は十字架にかけられ、亡くなられる最後の瞬間まで、ただ私たちを救って、天国に導くことを切実に願われました。
それで、今も主は、私たちのために場所を備えておられ、主の指揮に従って、天使たちが一生懸命に、将来私たちが留まる家を建てています。
こうして、私たちを救うために命まで与えられて、いつも良いものだけ与えることを願われる主の愛を、より一層明らかに悟る皆様になられるようにお願いします。
それで毎日、より良い天国を激しく攻めて行かれる皆様になられることを、主の御名で祈ります。
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