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Title
   十字架のことば(9)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   Ⅰコリ 2:6-9
Date
   2005-05-15


<本文> <コリント第一2:6- 9>
「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」


<序論>

愛する聖徒の皆さん
またアメリカ、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と、中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプトをはじめとして、全世界と全国の2500余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<日曜学校の子供の皆さん>、視聴者の皆さん。

私たちが救われて、天国に行くようになったことは、救い主イエス・キリストのゆえです。ところがほとんどのクリスチャンは、「主イエス様を信じれば救われます。」と伝道はしますが、その救いの摂理を、正確に説明することはできません。私たちが主を信じるからといって、なぜ救われるのかを明らかに説明することができないのです。
この時間は、「十字架の道」九番目の時間として、「なぜ私たちが主イエスを信じる時、救われるのか?」その救いの摂理について申し上げます。
神様は敵である悪魔・サタンの奴隷になった人類を救ってくださり、罪と死の原理から開放させる方法を、世界の始まる前から、すでに計画しておかれました。
しかし、その救いの方法については、時が来る時まで、すなわち、イエス様が十字架で亡くなって、復活される時まで、徹底的に隠されました。
それで<コリント第一2:7>に、「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。」とあります。
それでは、「隠された奥義」とは果たして何でしょうか?この時間、語られるメッセージを通して、世界の始まる前から隠された奥義としての神の知恵を、明らかに悟る皆様になられますように願います。それで神様の大きい知恵と愛を、とこしえに感謝して賛美する皆様になられますように、主の御名で祈ります。

<序論>

愛する聖徒の皆さん。
アダムとエバが善悪の知識の木を取って食べた直接のきっかけは、サタンに操られた蛇が、エバを惑わしたからです。アダムとエバが罪を犯して呪われた時、神様はすでに人類の救いについて、預言しておかれました。
<創世記3:15>に、「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」とあります。
ここで「女」とは、肉的な意味の女でなく、霊的に「イスラエル」を意味し、「女の子孫」とは、イスラエルの民の中から生まれる「イエス・キリスト」を意味します。
<黙示録12:5前半>にも、「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。」とあり、イスラエルでお生まれになったイエス様を、「女は男の子を産んだ」と表現しています。ところが、「女の子孫」 すなわち、イエス様が、「おまえの頭を踏み砕き、」とおっしゃいます。 
蛇が頭を踏み砕かれるとは、致命的な害を受けることを意味します。イエス様が蛇の頭を踏み砕くというみことばは、「蛇を操った敵である悪魔・サタンの権勢を破ること」を預言したみことばです。また、「おまえは、彼のかかとにかみつく。」とあります。人はかかとをかみつかれると、歩けなくて倒れてしまいます。これはイエス様が両足に釘を打たれて、十字架で処刑されることを預言したみことばです。
このように神様は、敵である悪魔・サタンの権勢を破って人類を救うキリストが、イスラエルで生まれることと、イエス様が敵である悪魔・サタンの策略によって、十字架にかけられて亡くなられることを、すでに知らせてくださいました。
ところが、敵である悪魔・サタンも、イスラエルで救い主が生まれて、自分たちの権勢を取り戻すことを知っていました。ですから、素直に権勢を奪われようとはしないはずでしょう。
敵である悪魔・サタンは、将来生まれる救い主だけ亡き者にすれば、自分たちは永遠に空中の権勢を持って、 世を支配できる、と思いました。ですから、「いつ頃その女の子孫が生まれるのだろうか?」と待っていて、神様の人々が現れると、「救い主なのではないか」と疑って、何としても殺そうとしました。
ついに約2000年前、イエス様がイスラエルのベツレヘムでお生まれになりました。すると、敵である悪魔・サタンは、イスラエルを治めていた、ヘロデ王を操ってイエス様を殺そうとしました。敵である悪魔・サタンに惑わされたヘロデ王は、イスラエルの王として来られたイエス様によって、自分の王位が脅かされることを心配するようになりました。それでイエス様が生まれたベツレヘムとその近辺の二才以下の男の子をひとり残らず殺させました。 
しかし、イエス様はすでにそこにいらっしゃらなかったのです。主の使いが、イエス様の肉の父親であるヨセフに現われて、イエス様をエジプトへ逃げるようにしたからです。
その後も、敵である悪魔・サタンは、悪い者たちを通して、絶えずイエス様を殺そうとしました。悪人は、自分の悪い心と思いの中で、敵である悪魔・サタンに惑わされるので、悪い道具として使われるようになります。イエス様は救い主の働きを始められた時、多くの人々の病気を治して、御国の福音を宣べ伝え、善いことだけ行われました。
この時も当時のパリサイ人や 祭司長など悪い人々は、イエス様を嫌って嫉み、あらゆるたくらみを使って、イエス様に危害を加えようとしました。 しかし、神様が守られたので、彼らがいくら努めても、イエス様を害することができなかったのです。
イエス様も危険な瞬間のたびに、とても賢く避けて脱出されました。そうするうちに時が来ると、神様が許された計画の中で、イエス様は悪い者たちに捕えられて、惨めに十字架にかけられて殺されました。イエス様が守られたのも、イエス様が捕えられて引き渡されたのも、全てが神様のご摂理の中でのことです。

愛する聖徒の皆さん。
敵である悪魔・サタンは、もう全てが解決された、と思いました。蛇の頭を踏み砕く、女の子孫を十字架にかけて殺したので、自分が永遠に権勢を受ける、と思いました。
しかし、ここに神様の知恵がありました。イエス様を殺すことによって、敵である悪魔・サタンは、むしろ自分のたくらみに はまったことになり、自ら神様のご摂理を成し遂げる道具になってしまいました。
これはどういう意味でしょうか?
敵である悪魔・サタンが、イエス様を殺したのは、ひたすら救い主を亡き者にすべし、という一念のゆえでした。
ところが、<ローマ6:23前半>の「罪から来る報酬は死です。」という霊界の法則によると、「死」という刑罰は、「罪人」にだけ当たります。逆に言うと、罪のない人は、「死」の刑罰を与えられないのです。イエス様は原罪も自犯罪もないので、殺される理由がありません。それでも敵である悪魔は、罪のないイエス様を殺したので、結果的には、霊界の法則に逆らったことになります。
敵である悪魔は、この代価として、自分の権力、つまり、人を支配して死をつかさどる権勢を、渡さなければならなくなりました。イエス様は十字架にかけられて亡くなりましたが、罪がないので、敵である悪魔の死の権勢を破って、復活することができました。主イエス様を信じるので、主と一つになった魂たちも、敵である悪魔・サタンの死の権勢から抜け出して、天国に入れるようになりました。
「女の子孫が蛇の頭を踏み砕き、」という、創世記のみことばが正確に成就されました。これについて、<ローマ5:18 -19>に、「こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」とあります。

愛する聖徒の皆さん。
この救いのご摂理は、どれくらい賢くて深いでしょうか!
初めアダムとエバが、神様のみことばに不順従の罪を犯した結果、霊界の法により、死の刑罰を受けるようになりました。 それから約4千年が過ぎて、今回は敵である悪魔・サタンが霊界の法に逆らったので、死の権勢をまた渡すようになりました。
「罪から来る報酬は死です。」という、同じ霊界の法により、一度は人類が死に至るようになって、次には、その死の権勢が破られて、信仰で救われる働きが起きました。
敵である悪魔は、自分のたくらみを総動員して、自分の権勢を守ろうとしましたが、神様はそのたくらみまでもすでにご存知であり、初めから救いのご摂理を備えておかれたのです。
もし、敵である悪魔が、この十字架の摂理を悟ったなら、決してイエス様を十字架につけはしなかったでしょう。
今日の本文<コリント第一2:8- 9>にも、「この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』」とあります。
したがって、神様は十字架の出来事を通して、救いの働きが全うされるまでは、敵である悪魔・サタンが、その摂理を全く悟らないように、徹底的に隠しておかれました。神様と一つであるイエス様も、このご摂理をご存知であったので、完全に神様の御旨に従って殺され、これを通じて、救いのご摂理を完成されました。
<エペソ2:8>に、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とあり、 <ローマ10:10>には、「 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあります。 私たちが主を信じるので、主と一つになるなら、神様の恵みのゆえに、救われるようになるのです。
皆様がこの驚くべき神様の知恵を悟るなら、「信仰によって救われる摂理が、まさにこれだ!」と、おのずから感嘆するようになります。

聖徒の皆さん。それでは、私たちが主を信じることによって、主と一つになるというのは、何を意味するのでしょうか?口だけで「主よ、主よ、信じます」と言うので、救われる真の信仰があるとは言えません。心に信じて行いを持って、信仰の証を見せなければなりません。
<ヨハネ6:56>に、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」と言われました。 また、<ヨハネ17:21>に、「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」と言われました。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」というのは、「主のみことばを糧として、守り行うこと」です。私たちが主のみことばを糧として、守り行えば、私たちは主にいるようになって、主は私たちにおられるようになります。もちろん主を迎え入れたからといって、直ちにその時から、真理のみことばを全て守って生きることはやさしくありません。
しかし守ろうと努力する心である時は、神様もこれを信仰として認めてくださいます。このように努力してみことばを糧として、主に似た姿に変えられていくことが、すなわち、私たちが信仰によって、主に連なり、一つになる方法です。皆様が主を真実に信じるなら、当然、そのみことばを信じて守り行うようになります。「聖められなさい、罪と悪を捨てなさい」、「不義と妥協してはならない、正直でいなさい、真実になりなさい」、「愛しなさい、仕えなさい、相手の益のために生きなさい」 こういうみことばを守り行おうと努めます。世の中の人々がこういうみことばを聞くと、「本当に愚かだ」と言うかもしれません。
しかし、<コリント第一1:18>に、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」とあります。主を信じる信仰があれば、みことばのとおり生きる道が苦しみの道であっても、その道を喜びで歩みます
光の中で生きてこそ救われることを信じて、とても美しい天国に入る希望があるために、感謝をもって狭い道を歩むことが出来ます。
<ヨハネ第一1:7>に、「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。皆様が光である神様のみことばの中で行う時だけ、イエス様の尊い血が皆様をすべての罪からきよめます。
<ヘブル10:17>には、「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」とあり、<詩篇103:12>には、「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」とあります。
このように、悔い改めて光の中を歩む子供たちは、以前犯したすべての罪まで赦されます。そして主が復活されたのと同じように、将来、私たちも復活の栄光にあずかることができ、永遠な天国で幸せを受けるようになります。

愛する聖徒の皆さん。皆さんは、主イエス様を信じると、どのように救われるのか、その道理を明らかに悟られたと思います。ところが、ここで皆様がもう一つ覚えなければならない、重要な内容があります。 それは、「「イエス」という名と、「イエス・キリスト」、あるいは、「主イエス」という名には、大きい差があるということです。
<マ1:21>に、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」とあります。このみことばのとおり、「イエス」という名の意味は、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」、つまり、「これから救ってくれる」という意味です。一方、「キリスト」とは、「油そそがれた者」という意味で、「救い主の資格を得た人」を言います。ギリシャ語では「キリスト」、ヘブライ語では「メシア」と言います。日本語では、「救い主」、あるいは短く「主」と表現し、尊敬の気持ちを込めて「主さま」とも言います。
したがって、「主イエス」、あるいは「イエス・キリスト」というと、これは、「救い主としてご自分の民をその罪からすでに救ってくださった方」という意味が含まれています。
では、イエス様はいつ救い主になられたのでしょうか?
十字架につけられて死なれた後、死の権勢を破って復活された時です。したがって、「イエス」という呼び方は、十字架を背負う以前のことで、復活された後は、「イエス・キリスト」と言わなければなりません。
それで主が復活された後には、弟子と使徒たちが祈ったり、みことばを語ったりする時、ただ「イエス様」と言わずに、必ず「主」や「キリスト」を付け加えました。
例えば<使徒の働き3:6>に、ペテロとヨハネが宮の門で生まれつき足のきかない男を直してあげる時も、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言いました。「イエスの名によって歩きなさい。」と言ったのでなく、明らかに「イエス・キリストの名によって」命じました。
<エペソ5:20>にも、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」とあります。この時も「イエス様の名によって」ではなく、「主イエス キリストの名によって」感謝すると言いました。
これには霊的にかなり重要な意味が含まれています。例えてみましょう。 泥棒が立っている所に警官が近付きましたが、その警官は相手が泥棒だとは知らないとします。警官が自分のことはわからない、と思うと、泥棒はあまり恐れることもなく、逃げようともしません。
しかし、警官が自分のことを知っていると思うと、泥棒はどうするでしょうか? 捕まることが怖くて、いちはやく逃げるようになります。
敵である悪魔も同じです。皆様が正確に救いの摂理を悟って、イエス・キリストの御名で祈る時、漠然と「イエス様の名で祈ります」というのと、その祈りの権勢が全く違います。自分には不可能なことも、救い主になられたイエス・キリストにあっては可能であることを信じて、その信仰を告白して祈るので、さらに大胆で力ある祈りになります。皆様が祈って悪い霊を退ける時も、イエス・キリストがすでに、敵である悪魔・サタンの死の権勢を破られたことを知って、勝利された主の御名で命じることになるので、敵である悪魔・サタンが恐ろしくて震えて退くようになります。
これらの事実を必ず覚えて、「イエス様の名によって」でなく、「イエス・キリストの御名によって」、または「主イエス・キリストの御名によって」祈られるように願います。

愛する聖徒の皆さん、また視聴者の皆さん。
<ヨハネの黙示録3:20>に「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。誰でも主の御声を聞いて戸を開けるなら、主は彼とともにおられる、と約束されました。
皆様の中に、まだ主を迎え入れていない方がいらっしゃるなら、まさに、この時間、心の扉を開いて、主イエスを迎え入れて、罪の赦しを得るようにお願いします。
心の扉を開くためには、まず「思いの扉」を開かなければなりません。神様のみことばを聞く時、自分の思いと知識を主張せずに、神様のみことばを認めて受け入れなければなりません。
「目に見えない神様をどう信じるのか」、「処女がイエス様を身ごもったとか、死んだ人がよみがえったなど、納得いかない」と、疑って否むのではなく、自分の知識と思いを越える、神様の御力を認めるよう願います。
天下万物を見ても、神様を信じられる証がいくらでもあります。また、本教会に現れる数え切れない権能ある御わざを見ても、人の力では不可能なことが、神様の御力では、いくらでも可能になることがわかります。人がいくら賢くて能力があると言っても、神様の知恵と御力に比べると、あまりにもつまらない存在であります。
ですから謙った心で自分の思いを破って、「神様は全知全能な創造主であり、神様のみことばは真だ」と認めなければなりません。
このように認めて心の戸を開くと、神様が皆様の中に聖霊を与えられます。
<使徒の働き2:38>に、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と約束されました。
また、<ヨハネ1:12>には、「 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。
心の扉を開いて、悔い改めて、聖霊を受けるようになれば、聖霊の働きによって、真の信仰を持つようになります。みことばのとおり生きる力も受けるようになります。
これが水と御霊によって生まれることで、このように新しく生まれた人は、神様の子供になります。神様が「私の息子よ、娘よ」と呼んでくださり、私たちは神様を、「父」と呼べるようになります。
また、神様の子供たちは、天国のいのちの書に名がしるされて、私たちの国籍は天にあるようになります。この地でも国ごとに守らなければならない法があるように、国籍が天にある、天の国民ならば、天国の法に従わなければなりません。まさに、創造主になられ、私たちのお父さんである、神様のみことばを守り行わなければなりません。
ところが主を信じるといって、聖霊を受けたとしても、みことばどおりに生きず、相変らず罪を犯すと、敵である悪魔がその人を訴えて、試み、艱難をもたらします。試み、艱難にあいながらも、続けて罪を犯していくと、結局、いのちの書からその名が消されて、天国にも行けなくなります。
皆様が天国の法に従って生きる時だけ、敵である悪魔・サタンに訴えられず、天国に至る時まで、神様の保護と祝福の中に留まるようになります。

<結論>

愛する聖徒の皆さん、また視聴者の皆さん。
<使徒の働き16:31>に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とあります。神様は私たちが信仰によって救われるすべての過程を、徹底した公義の法則に従って成し遂げられました。その救いのご摂理は、誰も知らない隠された奥義として、神様の恵みと主の愛によって完成されました。
ところが敵である悪魔・サタンは、この奥義を悟らず、イエス様を殺した後に、むしろ自分の死の権勢を失うようになったことを悟った時、どれほど悔しかったでしょうか?
しかし、だからといって、敵である悪魔がおとなしくあきらめて、人々が救われるように、ほおっておくのではありません。今度は作戦を変えて、人々が救い主を迎え入れないように疑いを与えて、よく信仰生活をしないように惑わしています。それで自分のように滅びに引っ張っていこうとしているのです。
信じない人々には、思いを通して働きかけるので、「創造は科学的でなく信じられない」、「死んだ人がどうよみがえるのか?」とか、「十字架にかけられて死なれたイエス様を信じるからといって、どう救われるのだろうか?」と、疑いを吹き込みます。すでに主を迎え入れた聖徒も惑わします。「主よ、主よと言うなら、世の人々と同じように罪を犯しても救われる」と言い、罪を行いたがる誘惑を吹き込みます。
しかし<コリント第一1:21>に、「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」とあります。
いくら敵である悪魔・サタンが妨げて惑わしても、神様は善良な魂たちを探して、福音を聞くようにされます。それでこんにちまで数多くの人々が、主を迎え入れて、信仰によって救いに至りました。
この時間、みことばをお聞きになった皆様も、驚くべき愛を持って、私たちを救われたイエス・キリストを信じて、自分の救い主として迎え入れるように願います。
それで復活された主と共に復活の栄光にあずかって、永遠な天国で幸せを受ける(られますように、主の御名で祈ります。

 
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