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メッセージ
Title
心を尽くした賛美
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
イザヤ43:21
Date
2014-06-29
[本文]
[イザヤ43:21]
「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
[序論]
愛する聖徒の皆さん、2014年芸能委員会の献身礼拝をささげられるように祝福してくださった父なる神様に、すべての感謝と栄光をお帰しします。まことを尽くして準備された献身者の皆さんにも感謝いたします。
愛する献身者の皆さん、芸能委員会の献身礼拝の時は、父なる神様もそうですが、聖徒の皆さんも期待していることがあるでしょう。「今度はどれだけ美しい特別賛美で栄光を帰すだろうか」と期待しながら、一緒に恵みを受けることを慕うのです。
以前は、皆さんの賛美が今のような賛美ではありませんでした。講壇ではきれいに飾って賛美しましたが、日常では肉に落ちていき、神様を悲しませる人がたくさんいました。しかし、過ぎし数年を送りながら、牧者の涙と切なる勧めを通して、芸能委員会が目を覚ましました。今は死の道へ向かっていた人たちも立ち返って、救いの道に入っただけでなく、多くの人が信仰の岩の上に立ち、御霊の歩みに入りました。それだけ皆さんの賛美の香もかぐわしくなったし、父がかがれるにふさわしいように変えられました。
愛する献身者の皆さん、歌は口で歌います。舞踊は全身で踊るし、楽器は手で、口で演奏します。しかし、賛美は声でするのではないし、全身で、手と足でするのでもありません。神様がお受けになる賛美というのは、心でささげる賛美です。聞いて好ましい声、優れた才能、訓練されたテクニック、そのあらゆるものより大切なのは、賛美する人の心です。
この時間、「心を尽くした賛美」というタイトルでメッセージをお伝えします。献身する皆さんすべてが賛美する者としてふさわしい資格を備えて、完全な香としてささげられますよう、主の御名によって祈ります。
[本論]
愛する献身者の皆さん、聖徒の皆さん、心を尽くした賛美をささげるためには、第一に、父なる神様がご覧になってふさわしい賛美をしなければなりません。
賛美の最も根本的な目的は神の栄光を高めることです。もちろん恵みについての感謝と天国の望みを歌ったりもするし、悔い改めと決断、あるいは変化を求める歌も歌います。主にあっての幸せと喜びを歌ったりもします。
しかし、どんな内容とスタイルであれ、決して忘れてはいけないことは、すべての賛美は父なる神様の栄光を現わすためにささげるということです。特に献身者の皆さんは個人的に賛美するだけでなく、多くの聖徒の前で賛美して礼拝を助ける使命を任せられました。
しかし、人の前に出て賛美するとしても、それは人のための賛美でもないし、自分のための賛美でもありません。ひょっとしてでも人に良く見えるため、すなわち、自分を現わして認められ、自分の満足のために賛美するなら、決して神様がご覧になってふさわしい賛美ではありません。賛美する人の心には「どうすればこの賛美を通して父に感動をささげられるだろうか」、このような意識がいつもなければなりません。ソリストはもちろん、チーム、聖歌隊、オーケストラに至るまで、全員が心に留めなければなりません。
御霊の歩みに入ったり、それに近い人であっても、「私はよくやっているだろう」と思ってはいけません。いつも自分を顧みて、「ひょっとして別の心が入り込んだのではないか」正確に自分を見分けてみなければなりません。「こうやったら聖徒の皆さんが喜ぶだろうか。こう準備したらアンコールが出るだろうか」という心ではなく、「こうすれば父が喜ばれるだろうか。感動なさるだろうか」を考えなければなりません。
父がまず感動なさったら、聖徒にも上から感動を与えてくださいます。父が「もう一度聞きたい」と思われるような、そんな感動的な賛美をささげて、アンコールが盛大に出てこなければならないのです。
化粧や衣装、飾りも、自分を目立たせようと準備するのではありません。父に完全で、聖なるようにささげるために準備するものなのです。仮にチーム全員が着る特別賛美の服が用意されたとして、自分に似合わない色や自分の体に合わないデザインなら、どんな心になるでしょうか? 神様の御前にふさわしい賛美をささげようとするなら、「私はこんな色は嫌いと言ったじゃない」と思って、わだかまりを持ってはいないでしょう。
「私の衣装がほかの誰よりも華やかであるべきだし、もっとかわいく素敵でなければならないし、私のチームが他のチームより人気があるべきだ」、こんな心で準備することも神様の御前にふさわしい賛美ではありません。「私は平凡なのは嫌いだから、もっと目立つ特別賛美をしよう」と自分を現わしたいと思ったり、「あのチームが一番上手だ。あの人は本当に実力が優れている」という言葉を聞きたい心で賛美することも、ふさわしくありません。
また、自分の好みに合うから楽しんで賛美することと、父の御前にささげることは違うということを悟らなければなりません。実力があって、舞台に立つことを喜ぶ人なら、父の御前にささげる賛美だと言いながらも、まかり間違えば人の前で自分の才能を発揮する機会を楽しむようになるかもしれません。神様に栄光を帰すよりは、自分の楽しみに酔って賛美しながらも、自分では見分けられないこともあります。「私は聖霊に満たされて賛美した」「聖徒の皆さんが恵みを受けるようにした」と思うだけなのです。
しかし、神様は心をご覧になります。賛美する人の心が完全に神様に栄光を帰そうとしたのか、自分を現わそうとする心が入らなかったか、すなわち、世で公演する人のように、自分が優れていることを思いきり見せようとしたのではないか、いつもチェックする皆さんになりますように。それで、ただ神様がご覧になって、喜ばれるような賛美をささげますように。
愛する献身者の皆さん、聖徒の皆さん、心を尽くしてささげる賛美は、第二に、心を耕してささげる賛美でなければなりません。
[詩篇66:18]に「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」とあります。祈りもそうですが、賛美も心に不義をいだいているとき、神様は聞き入れてくださいません。
たとえを挙げてみましょう。皆さんがきれいで大きなケーキをプレゼントされましたが、箱を開けてみたら嫌なにおいがします。ケーキの中の果物やクリームが傷んでいます。「傷んでにおいがひどいけれど、見た目はきれいだから食べよう」と思う人はいないでしょう。
賛美も同じです。「神様は偉大なるお方です。私たちを罪から救ってくださって感謝します。新しいエルサレムに必ず行きます」とウグイスのような声で賛美して、御使いのように飾って踊ります。ところが、その心の中は姦淫がぎっしりで、講壇でもかわいい身振りで異性を惑わそうとしたり、自分より他の人がかわいく見えるのではと、ねたんでそねみながら歌うなら、どうでしょうか? 心をご覧になる神様がその賛美を喜んで受けることがおできになるでしょうか?
感謝なことに、献身者の皆さんは以前に比べてきよい香でささげています。しかし、さらに努力しなければなりません。自分はどれだけ真理に逆らう心を捨てたのか、自分の中にどれだけ善と愛があるのか、牧者の犠牲によって開いておかれた霊の空間の中で、どれだけ力を尽くして主を呼んで祈り、最善を尽くして変えられているのか、絶えず顧みなければなりません。祈りと断食でまめに努力して、発見されるごとに捨てて、悟るごとに自分の中にしまっておいて、全き心を耕していかなければなりません。
私は自分が歌の上手な人だと思っていません。しかし、私が賛美するとき、父がその賛美をどれだけ喜ばれるのかを知っています。また、聖徒の皆さんがその賛美を通してどれだけ力づけられて、慰められているのかも知っています。心を耕して、香を完全にささげる、まことの賛美をささげているからなのです。
芸能委員会の賛美もそうでありますように。父の心に慰めと感動を差し上げて、聖徒の皆さんには恵みと感動を与える、ふさわしい賛美をささげますように。
愛する献身者の皆さん、聖徒の皆さん、心を尽くした賛美をささげるためには、第三に、世と聖別された賛美でなければなりません。
賛美の根本的な目的は神様を崇めて高めることです。神様と関係のない世の音楽と舞踊も、多様なジャンルとテクニックが発達しています。このような世の音楽と舞踊の目的は、人の自己満足と自分を現わすためです。さらには、世の音楽の究極的な目的は人をやみに引き入れて、ルシファーを賛美するところにあります。
ルシファーは神様に立ち向かって、自分も拝まれて栄光を受けたいと願うので、世の音楽の流れをリードしているのです。このような音楽を通して、人々をもっと深い罪と悪に落ちるようにさせます。神様に立ち向かって、サタンを崇拝する雰囲気に自然に接するようにさせたりもします。
青少年や子どもたちでさえ、荒々しく淫らな歌詞が込められた歌をまねして歌ったり、汚れた意味が含まれている舞踊をまねして踊っています。そうしながらも、それが自分のたましいにどれだけ害を与えるものなのかを悟れないのです。
ところで、もっと大きな問題は、賛美を作ったり歌う人も、こんな世の流れの影響を受けているところにあるのです。もちろん、世の文化に優れたところがあるなら、教会の中でも活用するのはかまいません。しかし、必要なところを活用するのを知っていることと、世の風潮を見分けられないでそれに染まることとは違います。
今日、教会が賛美を多様化するとか、世の人の共感を得てこそ伝道しやすいなどの理由で、世の文化を受け入れている傾向があります。そんな中で、神様に喜ばれないような目まぐるしいメロディーと歌詞が教会の中でも横行するようになりました。聖なる神様の栄光を現わすよりは人の肉的な情緒を刺激し、それどころか、やみが宿っているメロディーを使います。
私たちが賛美を通して聖霊に満たされるように、世の人も、このような肉の音楽と舞踊を通して楽しみと満足を感じることができるのです。刺激的な快感を感じたりもして、声を限りに歌ったり、全身を揺すりながら踊ったら、ストレスが解消されるという人もいます。そんな時だけは心配や思い煩いを忘れて、幸せを感じるという人もいるし、優れた作品や公演を通して芸術的な欲求が満たされたら、そこから喜びを感じたりもします。
しかし、このようにして感じる喜びと幸せは永遠のいのちとは関係がないことを知らなければなりません。霊的な希望も、力も与えられません。聖霊の満たしは一瞬の喜びに終わらないで、変化といのちを生みます。心からの賛美で神様に喜ばれるなら、これを通して問題の解決と確信が湧いてきたりもします。
献身者の皆さんが特別賛美をしたり、賛美リードをする時の心構えを探り窮めてみますように。聖徒の皆さんも自分をチェックしてみますように。賛美するたびに歌詞一つ一つに心を込めて、祈り心で父を高める心でささげているでしょうか? ひょっとして心を集中させないで、口でだけ習慣のように歌ってはいないでしょうか? でなければ、世の歌を歌うように節に酔って、拍子に酔って歌いながら、興に乗って歌ったり、自分の肉の心を発散したのではなかったでしょうか?
一節一節心を込めて聖霊に満たされた賛美をささげたのか、でなければ興に乗って歌って踊ったのかは、賛美を歌った後、自分の心を顧みればわかります。金曜徹夜礼拝2部であれ、賛美礼拝であれ、その他のどんな時間でも、父がお受けになるような賛美をささげたならば、その瞬間だけ恵みに満たされて終わるのではありません。父と主の愛がさらに深く感じられるし、牧者の心を明らかに悟れるようになるので、新たな恵みが注がれます。霊の信仰と天国の望みがさらに大きくなるし、決断して真理を行おうとする力が臨みます。
もし、そうでなくて、一生懸命飛び跳ねて賛美したのに、家に帰ってむなしくなったり、再び世を追い求めたのであれば、そんな人は神様の御前にふさわしい賛美をささげられなかったということになります。
献身者の皆さん、聖徒の皆さん、もう一つ覚えておくことがあります。父なる神様がマンミン賛美を下さったのは、世と聖別されるきよい賛美を望まれたからです。ところで、同じ一つの節であっても、リズムやメロディーを変えたり、和音を入れるなど、少しずつ編曲するだけでも、元の音楽と全く違う曲になりうるのです。
神様がマンミン賛美を下さったとき、歌詞だけ下さることもできましたが、メロディーまで一緒に下さいました。私たちの心を浄化させて、信仰と天国の望みを加える、そんな歌詞とメロディーを下さいました。公式に許可されている働き人以外はマンミン賛美の編曲や歌詞を変えることを禁止したのも、このようなきよい歌詞とメロディーを汚染させたり、変えさせてはいけないという意味なのです。
このマンミン賛美は父なる神様が聖潔の福音で終わりの時を実現していく皆さんに下さったプレゼントです。この聖なる賛美を通して神様の愛をさらに深く悟って、毎日変えられる恵みと力が皆さんの中に加わりますように。
[結論]
愛する献身者の皆さん、聖徒の皆さん、きょうの本文[イザヤ43:21]に「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」とあります。私たちが造られた目的は神様を心からほめたたえる、まことの子どもになることにあります。
しかも皆さんは特別に聖別されて、神様を賛美して栄光を帰すためにささげられた人たちです。「聖なる講壇に立って栄光を帰す人は、講壇に立っている時だけでなく、毎日の一瞬一瞬の生き方も聖であり、すべての生き方が父の栄光を現わすべきだ」ということを皆さんもずいぶん聞いて知っています。また、このみことばを実現するために今まで多くの努力をしてきたでしょう。
しかし、さらに身を慎んで努力してくださるようお願いします。父の栄光だけを高めると言っていても、自分でも知らないうちに心に別のものが入り込んだのではないか、霊的な怠惰さによって遅滞し、さらに深い霊の世界に入れないのではないか、いつも警戒しなければなりません。
きょうの献身礼拝を起点に、さらに霊の深い世界へとすみやかに激しく攻めていきますように。それで、栄光を受けられるにふさわしい父に傷のない賛美をささげられる、宝石のような皆さんになりますよう、イエス・キリストの御名によって祝福して祈ります。
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