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Title
公義 - 祈りの供え物献身礼拝
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ガラテヤ6
Date
2014-05-18
[本文]
[ガラテヤ6:7]
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」
[序論]
愛する聖徒の皆さん、2014年度祈りの供え物献身礼拝をささげられるように祝福してくださった父なる神様に、すべての感謝と栄光をお帰しします。
愛する祈りの供え物の皆さん、愛なる神様は私たちにいつも良いものを与えたいと思っておられます。しかも神の国のために忠実に仕えている働き人には、さらに「わたしは何を与えようか」と調べておられます。祈りの供え物の皆さんも、その使命を完全に果たしてきた人なら、きっと霊肉ともに祝福されているでしょう。
しかし、10年、20年間祈りの供え物として仕えたとしても、公義に合わなければ、神様がいくら祝福してあげたいと思っても、おできになりません。神様は耕作のすべての過程を公義の法則に従って行われます。蒔けばその刈り取りもされるようになさり、善を蒔けば良い実を刈り取り、悪を蒔けば悪い実を刈り取るのです。少なく蒔けば少なく刈り取り、多く蒔けば多く刈り取ります。御霊によって蒔けば霊的な実を刈り取り、肉で蒔けば朽ちる肉の実を刈り取るのです。
もちろん、すべての状況で原因と結果がいつも直接的に現われるのではありません。たとえを挙げると、一枚の布には横糸と縦糸が無数に交差しています。このように、ある一つの出来事にも、複合的な原因と法則が絡んでいます。そうであっても、最も基本的な公義の法則は、本文のように「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになる」ことです。
それでは、皆さんは過ぎし歳月、何を、どのように蒔いてきたでしょうか? [第一テモテ4:5]に「神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」とあります。皆さんは数えきれない祈りを積んできたので、ほとんどの人が御霊の歩みに入るか、御霊の歩みの近くにいるべきだったでしょう。たましいに幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、健康であり、皆さんのゆえ家庭にも祝福が臨み、家族全員が安らかで幸せであるべきしょう。神様の御前に完全な種を蒔いたなら、完全な実を刈り取ることは当たり前のことです。もしその実が美しくないなら、公義に照らしてみて、まともに蒔けなかったということになります。
この時間、祈りの供え物と聖徒の皆さんは自分をチェックしてみる尊い時間になりますように。自分の実ははたしてどんな実なのか、自分は今まで信仰生活をしながら、何をどのように積んだのか、自分はどれだけ霊的な祈りを蒔いてきたのか、もう一度チェックしてみますように。それで、皆さんの祈りと生き方全体が父の御前にかぐわしい香としてささげられますよう、主の御名によって祈ります。
[本論]
愛する献身者の皆さん、聖徒の皆さん、皆さんの祈りをチェックしてみるとき、第一に、どれだけ愛をもって祈ったでしょうか。
祈りの供え物は、文字どおり供え物です。供え物は、いけにえをささげる人のために、完全に犠牲になって死ななければなりません。祈りの供え物の皆さんも、自分を献身して、神の国のためにささげる供え物なのです。誰かが押しつけたのではありません。神様を愛するがゆえに、皆さん自らがこのような献身の道を選びました。父なる神様に感謝し、十字架につけられた主の恵みに感謝し、燃えるような心で自ら志願したのです。この心を神様は大きくお受けになったので、将来、天国では大きな栄光を約束してくださいました。
しかし、ただし書きがあります。神様がご覧になって、「あなたはまことに祈りの供え物としての生き方をして、祈りの供え物らしい祈りをささげた」と認めてくださらならなければならないのです。
それなら、どうしたら認められるでしょうか? 何よりも、前に申したように、愛の祈りを積むことができなければなりません。神様を愛し、主を愛するので、心に満ちた愛をもって求めなければなりません。
信仰の昔の人々を思い浮かべてみてください。エステルはどんな祈りをささげたでしょうか? 当時、ユダヤ人はすべてが滅びる危機に置かれていても、エステルは王宮で無事に過ごせました。もしユダヤ民族を救うために王のところに頼みに行くなら、まかり間違えば国の法を破ったことになり、自分がまず殺されることもありました。しかし、エステルは「私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」という覚悟で、断食しながら神様にすがりました。神の民を救うために自分のいのちをかけて祈ったのです。
また、ダニエルが断食して祈った時も、自分のために祈ったのではありません。神のみこころを実現するための祈りであり、民の罪を代わりに悔い改める祈りでした。ダニエルは、異邦の国でも認められて、安らかな日々を過ごすことができました。自分の身が安らかでありたいなら、80歳を越える歳で、あえて断食までしながら国のために祈る理由がありません。しかし、神様への熱情があったので、自分の身の安全を考えませんでした。その愛の祈りが受け入れられたので、神様は御使いのかしらガブリエルを遣わして答えてくださったのが見られます。
皆さんの祈りも、このような愛の祈りでなければなりません。父の願いが皆さんの願いになり、牧者の願いが皆さんの願いにならなければなりません。過ぎし歳月の間、牧者が流した涙が祈る皆さんの目にも流れたでしょうか? この教会に下さったビジョンを完全に実現するために、牧者がどれだけ哀切な心情なのか感じているでしょうか? 罪を犯した魂のゆえ流す涙の意味を、皆さんは知っているでしょうか?
彼らを心から離してしまえば私も楽だし、大聖殿建築と世界宣教の摂理もさらにすみやかに実現できるでしょう。しかし、私まであきらめてしまうなら、この人にはこれ以上機会がないのにと思えば、とうてい放っておけなくて、耐えがたい日々を送らなければなりません。こんな心を、祈りの供え物の皆さんは知っているでしょうか?
時々、大きな事故や自然災害で数百人、数千人が死亡したというニュースを聞けば、私は悲しみの上に悲しみが加えられます。「もう少し早く世界宣教を実現できていたなら、もう少し早く大聖殿を建築できていたなら、彼らにもこの聖潔の福音をもう少し早く聞かせてあげていたなら、神の力を見せてあげていたなら」という心で涙を流さなければなりません。
祈りの供え物の皆さんはこんな牧者の心を感じながら祈っているでしょうか? それなら、世界宣教のために、大聖殿建築のために祈るとき、その祈りがどれほど切に出てくるでしょうか。まことに神様を、牧者を愛しているなら、また魂を愛しているなら、御霊に感じて祈ります。父の涙で、主の愛の心をもって、牧者の心で、切々と祈りをささげるようになります。そうする時でこそ、祈りの供え物の使命を立派に果たしたと言えるのです。
愛する献身者の皆さん、聖徒の皆さん、第二に、チェックしてみるべきことは、「どれだけ真実に祈ったのか」です。真実だということは、変わらないことであり、誠実でまことを込めて最善を尽くすことです。
ある人が恵みに満たされている時は、牧者のために、魂のために、涙で主を呼んで祈ります。しかし、恵みに満たされていない時は、無感覚になって、いつも祈っている内容を口先だけで繰り返しています。このように移り変わる姿があるなら、真実に祈ったとは言えません。
また、真実な祈りは、まことを尽くしてする祈りです。大聖殿建築や世界宣教はもちろん、教会の行事や各部署、宣教会、支教会などのために祈るとき、皆さんはどれだけ真実に祈っているでしょうか? いつもしている祈りの内容だからといって、習慣的に口先だけで求めてはいないでしょうか? 真実な祈りをする人は父のみこころを実現することを切に願うので、まことを尽くして、誠実を尽くして祈ります。
たとえば、教会の行事のために祈る時も、まことを尽くして祈る時は、御霊に感じて具体的な内容が思い浮かびます。行事を主催する働き人のために、財政と天気のために、いろいろな分野を細かく求める内容がたくさんあります。何よりも参加する聖徒が恵みを受けて、神様に栄光を帰せるようにと求めるとき、自分の家で盛大なパーティーを開く時より、さらに切に、細やかに祈るようになります。
主のしもべのために祈る時も、真実に祈りの供え物の使命を果たしているなら、自分の子どもが主のしもべになったように切々とした祈りが出てくるでしょう。主のしもべは主の羊の群れをゆだねられたので、ひとりも失ってはいけません。聖徒に会うたびに御霊に感じて訪問し、いのちを与え、力と権勢をもって問題を解決してあげなければなりません。このようなことを覚えて真実に求めるなら、力あるしもべ、権威も伴うしもべとして出てくるように祈るとき、どんなに切なる心になるでしょうか。
多くの主のしもべが信仰の岩にも立っていなくて牧者が悲しんでいる時は、同じ心で悲しんで祈ったでしょう。そんな悲しみはなく、ただ自分の信仰の量りにだけ気を配って、自分の家族が量りをチェックされなくてさらにもどかしいとだけ思うなら、祈りの供え物らしいと言えないのです。
それ以外の祈りも同じです。牧者のために、大聖殿と世界宣教のために、どんな祈りであっても、真実に祈らなければなりません。そんな祈りをささげる人なら、神の国のために祈るとき、同じ言葉をただ繰り返したり、異言の祈りで時間を埋めたりはしません。導く人が祈祷課題を出すたびに、祈る内容が絶えず湧いてくるでしょう。
一方、ある人は最初は神の国のための祈りで始めたのに、いつの間にか自分のために祈っているのが見られます。「自分の家族がいやされなければならないのに、祝福されなければならないのに」と、このような問題がしきりに思い浮かぶからです。
また、ある人は自分のために祈る時は苦しみもだえて主を呼んで祈るのに、神の国のために祈る時はそれほど熱く祈りません。こんな祈りがどうして祈りの供え物らしい香として、かぐわしく立ち上れるでしょうか。「私は父の国のために毎日祈りました」「私は牧者のために主を呼んで祈りました」と言っても、神様がその祈りの香を量られる時には、祈りの供え物として喜んでお受けになるにふさわしいと言えないのです。
愛する献身者の皆さん、聖徒の皆さん、公義に照らして皆さんの祈りをチェックしてみるとき、第三に、どれだけ善をもって祈ったでしょうか。
[詩篇66:18]に「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」とあります。心に不義をいだいてする祈りは、神様が聞き入れてくださらないということです。また、[マラキ1:10]には「あなたがたがわたしの祭壇に、いたずらに火を点ずることがないように、戸を閉じる人は、だれかいないのか。わたしは、あなたがたを喜ばない。――万軍の【主】は仰せられる。――わたしはあなたがたの手からのささげ物を受け入れない。」という神様の嘆きが記されています。神様を恐れかしこんでもいないのに、形式的にささげるいけにえを戒められたみことばです。
祈りも同じです。神様を恐れかしこむなら、悪を避けるようになります。そうではなくて、長い間信仰生活をしても、相変わらず良くない心ならば、その祈りを神様が受け入れることがおできになりません。自分の利益に合わないことを経験すると、依然としてむなしくなって気を悪くするし、ねたんでそねむ姿が現れるでしょうか? 自分の思いに合わないことにあったからといって、ケンカしたり、引っかかったり、憤ったりすることはないでしょうか?
いまだにこんな心が捨てられていないなら、祈りの供え物でなく一般の聖徒であっても、その祈りを神様は喜ぶことがおできになりません。もちろん、まだ信仰の幼い初心の者なら、神様もその信仰の量りを考慮して、祈りを聞き入れてくださいます。しかし、数年、数十年間、真理を学んだ働き人で、神の国のために祈ると言いながら、いまだにこんな心なら、どうして受け入れられるような供え物と言えるでしょうか。
いくら多くの時間、教会と牧者のために祈るとしても、その祈りの香が受け入れられないなら、むなしい労苦をしているだけなのです。ですから、祈りの供え物の使命を果たすためには必ず悪を避けて、善の香をささげることができなければなりません。
[結論]
愛する献身者の皆さん、聖徒の皆さん、きょうは公義に照らしてみて答えられる祈りなのか、チェックできるように三つをお話ししました。まことに神様と主と牧者への愛が満ちていて、熱い心で祈ったのか。神の国のために祈るとき、最善を尽くして、真実な祈りをささげたのか。神様を恐れかしこんで、善の香をささげたのか。このような項目に照らしてみて、ふさわしくなかったなら、肉的には多くの時間祈りを蒔いたとしても、実際はまともに蒔けなかったのです。ですから、個人的にも霊肉ともに祝福されにくいだけでなく、何よりも祈りの供え物としての資格がないのです。それで、神様は「その資格をチェックしてみて、自ら整理すべきだ」というみことばを何回か下さったのです。
もうすぐ近づいてくるカナン時代に備えて、祈りの供え物も戦列を整えなければなりません。終わりの時、数えきれないほどの御霊の働き人が立ち上がり、神の摂理を実現していくとき、すべての分野で切実に必要なのが、まさに火のような祈りの支援です。戦場で絶えず補給品が必要であるように、霊的な戦いの一瞬一瞬にも、祈りの支援が必要です。皆さんの主を呼んで祈る香が天の軍勢と御使いを動かして、空中の権威を打ち砕き、やみの陣を打ち崩せる大きい力になるのです。
そんな祈りをささげるためには、第一に皆さんがすみやかに聖められなければなりません。また、天の御座を動かすまで、威力ある祈りをささげられる祈りの力が大きくならなければなりません。そうする時、皆さんの祈りによって世界の数えきれない魂を救い、神の栄光が大いに現われるのです。今後皆さんの祈りが公義にふさわしいものとなり、答えをすみやかに引き下ろせますように。それで、夜も昼も主を呼び求める皆さんの祈りが、終わりの時、神様の摂理を見事に実現し、皆さんのすべての労苦と献身がこの地上でも天国でも、完全な祝福の実として刈り取れますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
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