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メッセージ メッセージ > メッセージ
メッセージ
Title
   守られる神 - 初穂の刈り入れ感謝主日  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   申 32:10
Date
   2011-07-03


[本文]

[申命記32:10]
「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。」


[序論]

愛する聖徒の皆さん、きょうは「初穂の刈り入れ感謝主日」です。
[出エジプト23:16前半節]で、神は「また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りを行なわなければならない。」と言われました。ここで「初穂」とは「小麦」を意味します。小麦が実るのを待っている間、イスラエルの民は特に気をもまなければなりませんでした。神が適切な時に雨と風、陽光を下さらなければ、小麦の収穫が良くなくて、するとたくさんの人が飢え死するからでした。よく実った小麦を収穫して、その初穂をささげる日は、まさに祭りのようでした。小麦を収穫するようになったことは、神が自分と家族の命を守ってくださったことと変わらないからです。
皆さんがここで神に感謝礼拝をささげることにも、同じ意味が含まれています。父なる神はこの険しい世で皆さんと家族の命、健康、家庭と職場を守られ、必要なものを満たしてくださいました。何よりも「信仰」を下さって、霊の実を心に結ばせてくださったので、神に感謝する子どもとしてここにいるのです。
[詩篇116:12]に「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。」とあるとおり、皆さんもこの時間、幸せな悩みを持っていると思います。前半期の間、神が下さった恵みに報いて、後半期も豊かな実を結ぶために「初穂の刈り入れ感謝主日を迎えてすべきこと」三つを伝えます。
きょうのメッセージを聞いてもっと豊かな実を結んで、さらに濃い感謝の香のいけにえをささげますように。きょう、この聖殿の中に神にささげる感謝の香が満たされますよう、主の御名によって祈ります。


[本論]

聖徒の皆さん、初穂の刈り入れ感謝主日を迎えて、第一、神の御前で主日を聖なる日として守って、完全な十分の一献金をささげたのかを顧みますように。
主日を聖なる日として守ることは天地万物に対しての神の霊的主権を、十分の一献金は物質主権を認める行為です。簡単に言って、二つの戒めを守る行為は主を信じる神の子どもだというしるしです。したがって、主日を聖なる日として守って、完全な十分の一献金をささげるとき、神は私たちを守って祝福してくださいます。
聖徒の皆さんはこの二つを守れば神がいつも守って祝福してくださることを毎日の暮らしで証ししている生き証人です。私たちの教会のように十分の一献金をささげる聖徒の比率が高い教会は見つけにくいでしょう。もちろん十分の一献金は聖徒として当然ささげるものです。ところが、今日、教会の実状はそうでないので、もどかしいです。本教会では今まで教会としても、また聖徒個人としても、十分の一献金がうまずたゆまず増えてきました。みことばに聞き従って戒めを守ったとき、どれほど大きい祝福を下さったのか、例を挙げてみましょう。
2008年12月から2009年1月まで「完全な十分の一献金と奉納物 」について説教しました。その後、「主日を聖なる日として守ること」について説教しました。その結果、どうなったでしょうか? 2009年には、教会の十分の一献金が前年に比べておよそ10パーセントも増えました。去年2010年には、わずか2年で2008年に比べておよそ25パーセントも増えたのです。
もちろん、これは神が約束どおり驚くべき祝福を注いでくださった結果です。神は時に応じて私の心に働きかけられ、これらについて説教するようにして、聖徒も祝福される器を備えるように導かれました。その結果、驚くべき収穫が得られたのです。
これは決して人の力でできることではありません。十分の一献金が大幅に増えた時期は、世界経済危機の余波で「景気が悪い。赤字だ」とため息をついていた時でした。その余波はいまだに消え去っていません。こういう時に、かえって聖徒の皆さんは十分の一献金が増える驚くべき祝福を受けたのです。
私たちの神はこの二つの戒めを守るとき、このように祝福を注がれるだけでなく、皆さんの健康とすべての持ち物を守ってくださいました。いろいろな病気と事故、災難と災いから守ってくださったのです。
ところが、皆さんの中で最初から「戒めを守れば祝福を下さる」というみことばが完全に信じられて、自分から行なった方はそんなに多くいないでしょう。この教会に神の公義と愛についてのみことばをたくさん下さり、みことばを確かなものとされる神の力あるわざを見せてくださったので、悟って信じられたのです。
皆さんはどう行なうとき災いが臨むのか、または守られて祝福されるのかをよく知っています。知っているだけでなく、神が伴う力あるわざによっていつもこのすべてのみことばがまことであることを確かにしてくださったので、知っていることを実践します。主日を聖なる日として完全に守って、完全な十分の一献金をささげるだけでなく、さまざまな戒めを守っています。それで、ゴシェンの地のように聖別された霊の空間で、世の人とははっきりと違う生き方をしています。
[第一ヨハネ5:18]に「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」とあります。今は信仰がずいぶん成長して、霊の次元に入り、このみことばどおり完全に守られ、健康に過ごしている方が多いです。今まで放映されたマンミンマガジン「証しドキュメンタリー」や『万民ニュース』に掲載された証しだけ読んでみても、今まで神が皆さんをどのように守ってくださったのか、切々と感じられるでしょう。
この教会で信仰生活を始めてから、病院に行ったことのない方が本当に多いです。流行性の病気ですら、聖徒の皆さんには隙をついて入れません。がん、エイズ、白血病、肺病のような不治の病と難病で死を宣告されても、うそのように完全にいやされた聖徒もどれほど多いでしょうか。
最近、特別いやし集会では、本当に多くの方の視力が良くなりました。世でどうしてこんなことがあり得るでしょうか。常識的には決してあり得ないことです。これは、神が私たちを愛して与えられた驚くべき祝福です。
私たちの神は病気だけでなく、さまざまな事故からもいつも聖徒の皆さんを守ってくださいました。山火事や隣の家で起きた火事も、聖徒の家庭や事業の場は侵せませんでした。車はジュース缶がつぶれるように壊れても、聖徒の皆さんは全身が守られました。建設現場で重い物が頭の上に落ちても、戦争で爆弾が家の庭に落ちても、聖徒は何の害も受けませんでした。
はなはだしきは火山の噴火や地震、津波も、聖徒の皆さんを避けていきました。3月に日本で発生した大地震と津波の中でも、日本の支教会の聖徒はみな守られました。一番大きい被害にあった地域の隣にある山形県の支教会の牧師先生と聖徒の方々が、どれほど不思議に守られたか証してくださいました。すべての栄光を父なる神にお帰します。聖徒の皆さんすべてがいつもみことばどおりに行なって、主の御翼の陰にいつもとどまりますよう、主の御名によって祈ります。
愛する聖徒の皆さん、初穂の刈り入れ感謝主日を迎えて、第二、毎瞬神に感謝することを忘れてはいないのかを顧みますように。
[第一コリント15:10]で、使徒パウロは「神の恵みによって、私は今の私になりました。それは私ではなく、私にある神の恵みです。」と告白しています。皆さんもこのような告白をよくしているでしょう。本当にそうです。与えられたすべての物とさまざまな感謝の条件はもちろん、信仰生活の中で結んだ霊の実まで、皆さんにあるすべては神が恵みによって与えられたものです。物質と健康はもちろん、良い心と良い言葉、良い行ないまで、皆さんに結ばれた光、真理、善の実はすべて神が結ばせてくださったのです。
これを認めるなら、自分の人生と信仰の旅路で、感謝する条件がどれほどたくさんあるしょうか。父なる神は子どもたちがこれを悟って感じて、感謝の香をささげるとき、本当に喜ばれます。心から祈りと賛美によってささげる感謝が香として神に立ち上ります。
ところが、[申命記16:16-17]を注意深く見てください。「あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。」とあります。
神は心をご覧になって、心の香を受けられると言われましたが、なぜここではこう言われたのでしょうか? 二つの理由を挙げてみましょう。
まず、感謝は「行ない」によって表現されるとき完全になって、その香がもっと濃くなるからです。[ヤコブ2:22]に「彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ」とあるとおり「感謝」も同じです。ささげ物を持って出ることによって「神様が私にこのような感謝の条件を下さいました」と、まことに認めるようになります。[マタイ6:21]に「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」と言われたとおり、ささげ物を持って出ることによって、自分の感謝が心からにじみ出た、まことの感謝であることを父なる神の御前に表すのです。
また、言葉で「感謝します。愛しています」と言うより、その心を自分の尊いものに込めてささげるとき、その香はさらに濃くなるしかありません。自分を犠牲にして献身して尊いものをささげることによって、その感謝の告白に自分のすべてが込められるからです。
[ヨハネ12章]を見ると、ラザロの妹マリヤがイエス様に香油を塗る場面があります。[3節]に「マリヤは、非常に高価な、純粹なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髮の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」とあります。マリヤはイエス様への感謝と愛を何としてでも表現したかったでしょう。イエス様は死んだ兄を生き返るようにしてくださっただけでなく、それまでみことばを教えてくださいました。また、イエス様は驚くべきことをなさって、信仰と天国の望みを植えつけてくださいました。何よりも他の誰も与えることのできない愛を下さったのです。
このようなイエス様にマリヤは自分の一番尊いものをささげ、感謝と愛を表現したのです。その香りがどれほどかぐわしかったのか、イエス様は「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」と[マタイ26:13]で言われました。
皆さんもマリヤのように美しい香をささげたことがあるでしょうか? 皆さんが受けた恵みがマリヤに比べて少なくないことを皆さん自身も認めるでしょう。たとえば、皆さんは霊の糧をどれほどふんだんに供給されているでしょうか? 天国と地獄についての知識、自分を発見して変えさせるみことば、敵である悪魔サタンから守られる道が何か提示するみことばなど、これらは巨万の富でも買えない、とても尊いものです。この霊の糧を食べて、牧者の声に良く聞き従った分、まことに信仰の強い聖徒になったのです。悪い獣、すなわち、敵である悪魔サタンから守られて、必要なものをふんだんに供給されました。このすべてのことに心から感謝する人は自分の尊いものを神にささげて、神の国のために喜んでささげます。
ところが、いつもいただいているばかりで、ささげたものはあまりにも少ないようで申し訳なく思ってはいないでしょうか? または、その行ないが移り変わりはしなかったでしょうか? 恵みを受けた瞬間は「ありがとうございます」と口だけで告白して、その恵みをすぐ忘れてはいないでしょうか? でなければ、いつも大きかろうが小さかろうが、感謝の条件に心を込めたささげ物を持って出たでしょうか?
聖徒の皆さん、感謝するとき、心と一緒にささげ物を持って出るように言われるもう一つの理由は、より多くの感謝の条件を与えられるためです。
[第二コリント9:7]に「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」とあります。神が愛される人なら、必ず祝福してくださるのではありませんか? 感謝のささげ物を喜んで持って出るのは、結局、畑から豊かに収穫した後、また種を蒔くことと同じです。畑に再び種を蒔いたので、収穫する実がまた結ばれるでしょう。[第二コリント9:6]にあるとおり、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るようになります。 このように、神にいつも喜んで感謝を表現する方はこういう祝福をいつも体験するでしょう。
私たちの神はどれほどすばらしい方でしょうか。皆さんの人生の中で喜んで感謝を表現して、すばらしい神に愛されますよう、主の御名によって祈ります。
愛する聖徒の皆さん、初穂の刈り入れ感謝主日を迎えて、第三、暗い世で私たちのたましいを守られた恵みに感謝しますように。
皆さんも感じているとおり、この世が霊的にどれほど暗いでしょうか。どれほど罪がはびこっているでしょうか。目に見えて、耳に聞こえることの中から光と善を見つけるのがあまりにも難しい世になってしまいました。このような時、神は私たちの心と目、耳が暗い世に向かわないように守ってくださいました。太陽だけに向かっているひまわりのように、神だけ、主だけ、天国だけに向かうように導いてくださいました。
子どもたちだけを見ても、この愛が感じられます。親の方はほとんど「うちの子が世で悪いものを見ならって、それに染まるのでは?」と心配するしかないでしょう。ところが、マンミンの子どもたちはどうでしょうか? 世の娯楽を楽しむより、礼拝と祈りに励みます。世の歌ではなく、聖なる賛美を歌います。神の聖殿に出て来て、みことばを聞くのを楽しみます。
ミニいやし集会に参加したことのある方はよく知っているでしょうが、子どもたちが聖殿に所狭しと座って、まるで小鳥が口を大きくあけて餌をもらうように、みことばをどれほど慕って聞き入れているでしょうか。
アンジェリカの証しの時間には、天国だけでなく地獄について聞く時さえ感謝して、かえって幸せそうな姿を見ました。何としてでも世を愛する心と悪を引き抜いて、愛すべき神の子どもになろうと一生懸命に信仰生活をして、一生懸命に勉強しています。好奇心が旺盛な時に、子どもたちをこのように守ってくださるので、どれほど感謝でしょうか。
おとなの聖徒も同じです。長老から青年まで、以前楽しんでいたテレビ、世の娯楽を断って、GCNの番組を見て、みことばを身に着けています。ダニエル徹夜祈祷会の人数も増えたそうです。
最近あった特別いやし集会の時に熱く賛美する姿も、子どもたちに劣らなかったのです。全聖徒が子どものようにただ神だけ、主だけを見つめて、牧者と一つになって熱く賛美するその瞬間、どれほど感激したでしょうか。「主が再び来られるその日が待ち遠しいです。天国の新しいエルサレムに必ず行きたいです」と告白する方が本当に多かったのです。このように、三回の特別いやし集会は父なる神の「愛の結晶体」でした。
また、聖徒の皆さんは最近、あちこちで初めの光、すなわち、美しいオーロラの光を見て、どれほど幸せでしょうか。この光を見ながら、全知全能でうるわしい神を感じて慕っています。また、この光を信じて頼るとき、心の願いまでかなえられるので、どれほど感謝でしょうか。
父なる神はこのように私たちが敵である悪魔・サタンに属する世に心を寄せないで、天国の新しいエルサレムだけを望むように心を守ってくださいました。霊的な力を与えられ、聖霊に満たされるようにされました。ただのひとりも地獄に向かわないように、今この瞬間も、燃える炎のような御目で守られ、 翼の下に私たちを抱いておられます。このようにすばらしい神、わが主、聖霊様に、皆さんがささげられる最高の心と告白と賛美で感謝の香をささげますように。


[結論]

愛する聖徒の皆さん、きょうの本文[申命記32:10]に「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。」とあります。これがまさに皆さんの告白であることに、どれほど感謝して生きてきたでしょうか? 私たちがこのように愛すべき子どもに変えられ、心からにじみ出る感謝の香でいけにえをささげられるまで、命と健康、持ち物を守ってくださった神に感謝と栄光を帰します。次の例祭には、皆さんすべてに霊肉ともにもっと豊かな実が結ばれますよう、いのちなる私たちの主の御名によって祝福して祈ります。

 
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