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Title
ヨハネの手紙第一講解 (19)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ヨハⅠ 3:4
Date
2011-04-10
本文
[第一ヨハネ3:4]
「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」
[本文]
愛する聖徒の皆さん、「第一ヨハネ講解」十九回目です。
きょうの本文[4節]に「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」とあります。罪を犯すとは、つまり、神の律法に逆らうことです。
この世でも、法を犯した人はそれに応じてさばかれて、代価を払わなければなりません。霊的にも、不法を行なった人は必ずその報いを受けます。ところが、人が不法を行なったからといって、そのたびに直ちにさばかれるのではありません。
世でも、ある人は大きい悪を行なっているのに、病気や災いもなく、富と栄華を味わっているように見えます。「本当に神様が生きておられるなら、あんな悪い人をなぜすぐ罰せられないのか」とつぶやく人もいます。
これについて、[詩篇37:1-2]には「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。」とあります。人の目には悪者が幸いな人生を送っているように見えても、神は必ずその行ないに報いられます。
悪を行なったとき、直ちにさばきが臨むこともありますが、その悪が積みに積まれて、ある程度歳月が経った後に臨むこともあります。ある場合は、その世代ではさばきが臨まないで、子孫の世代になってさばきが臨んだりもします。先祖の罪と悪も含めてさばかれるのです。
一つ例を挙げると、[創世記15:16]に「そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」とあります。これは、神がアブラハムに下さった約束のことばです。将来、アブラハムの子孫がカナンの地を占めることになりますが、するとそこに住んでいた住民が追い出されるようになります。
神はイスラエルの民のために、その地の住民を何の理由もなく追い出されるのではありません。彼らの咎がずっと積み重なって、結局、さばかれるほどにまで満ちたとき、公義に従って、その代価としてイスラエルの民によって追い出されるのです。
[出エジプト34:7]にも「恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」とあります。このみことばどおりに、先祖が重い罪をたくさん積んだ場合は、その子孫が自殺したり、精神異常になったり、悪霊につかれたり、アルコール依存症になることがよくあるのです。
かといって、先祖の咎があれば、必ず子孫が先祖のゆえに報いられるはずだということではありません。神のことばには連れ合いがあります。[エゼキエル18章]では、ひどく悪を行なった人の子だとしても、その父の咎の罰を負う場合とそうでない場合について説明しています。[19節]に「あなたがたは、『なぜ、その子は父の咎の罰を負わなくてよいのか。』と言う。その子は、公義と正義とを行ない、わたしのすべてのおきてを守り行なったので、必ず生きる。」とあります。悪い先祖とは違って、神を恐れて良い心で正しく生きている子孫は、先祖の罪とかかわりないということです。
ひょっとして先祖の悪い行ないによって良くない影響を受けるかもしれませんが、本人が熱心に信仰生活すれば十分守られます。さらに御霊の歩みに入れば、それらと全然かかわりなくなるのです。
それなら、先祖が犯した罪が、その世代ですぐ大きい災いとして臨まないで、子孫の世代で臨めば、先祖は罰を免れたからそれでよいのでしょうか? たとえこの地上で何の報いも臨まなかったとしても、地獄のさばきは避けられないでしょう。また、この地上でいくら富と栄華を味わったとしても、結局、地獄に行けば、それが何の役に立つでしょうか。「私はこんなに大した人だったのに」と誇ることもできません。かえって、この地上で味わったゆえに、地獄ではもっとひどくからかわれて、苦しめられます。
このような公義の法則を知っている人なら、不法を行なって何事もないより、いっそ懲らしめられてでも悔い改めるほうが幸いだと思うでしょう。神を信じる人なら、もっとそうでしょう。罪を犯したのに、何の懲らしめもないからといって、「よかった、大丈夫のようだ」と思って、やり過ごしてはいけません。
[へブル12:8]に「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」とあります。罪を犯してずっと闇の中にとどまっているのに、うわべでは平安で何事もないなら、かえって自分は神に御顔を背けられているのではないか、と恐ろしく思うべきでしょう。
もちろん、罪を犯したからといって、必ず大きい災いに遭うはずだということではありません。必ずしも目に見える訓練でなくても、心の訓練を受けて代価を払うこともあるし、小さい訓練によって代価を払うこともあります。また、罪を犯したとしても、徹底的に魂を砕いて罪を告白して、完全に立ち返って変えられたなら、安らかであることもあるでしょう。
聖徒の皆さん、創造主の神の公義は人の思いではとうてい推し量れないほどに複雑です。たとえば、一枚の布を織る時も、横と縦、数多くの糸が互いに組み合わさって、丈夫な織物ができます。そのように、神の公義もとても多様な要素が結び合わさっています。全能なる神のほうでは、世で一番精密な秤より正確にすべての要素を測られます。一寸の誤差もない公義に従って、人の子らの人生をつかさどられるのです。
しかし、その公義を人としてはすべて理解できません。それで、「正しい神様がいったいなぜこうなさるのだろう」と悩んだり、疑問を持つこともあります。たとえば、人が祝福されるのも、ある時は、真理にあって一つ善を行なって、その一つ分答えられることがあります。一方、数多くの善を積んでも、祈りの答えが遅いように見えたが、時になると、いっぺんに大きい祝福を受けることもあります。その時期と方法は、神がご覧になって各自にとって最も良いように、公義の法則に従って臨むのです。
これまで、たくさんのメッセージで説明しましたが、病気や何かの問題を解決されようとする時も、それぞれに当たる公義がどれほど多様でしょうか。皆さんが信仰によって神の御前に求める時は、どんな病気でもいやされて、いくら難しい問題でも答えられます。しかし、その過程は、人によってずいぶん違いがあります。
ある人は、過去の罪を魂を砕いて告白すれば、すぐ答えられます。しかし、ある場合は、災いの原因になった罪が何かを悟って、徹底的に悔い改めたのに、問題の解決が遅いことがあります。この時は、悔い改めにふさわしい実を結んだと、神が認められるほど十分な真理の行ないを積まなければなりません。へりくだって心から感謝しながら、最後まで訓練を通り抜けてはじめて答えが臨むのです。
また、ある場合は、答えられるために神の恵みを求めるという人が、むしろ罪の隔ての壁を積んでいくこともあります。以前に積んだ罪の隔ての壁を壊してはまた積んだりすることを繰り返すのです。
たとえば、重い病気やわずらいで苦しんでいる人がいるとしましょう。この人は以前、高ぶった言葉で神の御前に隔ての壁を積んで、人にも悪い行ないをしょっちゅうしました。それなら、神に答えられるために、まずはへりくだって心が善に変えられなければならないでしょう。日常生活の中でも仕える姿に変えられて、良い行ないを積んでいくべきでしょう。「いやしてください」と祈るばかりでなく、変えられた心と行ないで罪の隔ての壁を壊していかなければならないのです。
ところが、このような心に変えられることは後回しにして、答えられることにだけ汲々とすれば、自分の思いどおりに早く答えられないとき、不平と恨みを口にしたりします。「私は前に過ちを犯したことを確かに悔い改めもしたし、こんなに一生懸命に祈ってきたのに、また献金もして忠実に仕えたのに、私にはなぜまだ全然答えがないのか。神様は不公平な方のようだ」と言って、神を悲しませるのです。
あるいは、「私がこんなに病気で苦しんでいるのに、宣教会や区域の人々は、なぜもっと助けてくれないのか」と、さびしく思うこともあります。ひどい場合は憤ったり、かんしゃくを起こしたりもします。罪の隔ての壁を壊して、善を積まなければならない人が、むしろ、罪の隔ての壁をもっと積んでいるのです。このように壊してはまた積んだりし続けているので、長い間祈っていても、答えられる器が備えられないのです。徹底的に悔い改めて、神の御前に善を積んでいくと同時に、口の言葉や心、行ないで罪の隔ての壁をそれ以上積まないでこそ、すみやかに答えられるということです。
この続きは次回伝えます。
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