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メッセージ
Title
   神の栄光を現す子ども - 新年祈祷課題 2  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ヘブ 10:22
Date
   2011-01-02


[本文]

[へブル10:22]
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」


[序論]

愛する聖徒の皆さん、2011年、新年の最初の主日を神の御前にささげる皆さんは本当に幸いです。この時間、霊とまことによって礼拝すると、神が今年の52週間も、私たちを霊肉ともに守ってくださると信じます。
この終わりの時は、実は希望をもって新年を迎えにくい時代です。しかし、マンミンの聖徒は、新年になると、きっとときめきと期待で胸がいっぱいになるでしょう。事故と災いの多い世で生きていても、光の中にいれば、神が霊の空間の中で安全に守ってくださいます。また、神は毎年、すべての分野で以前より大きい祝福を与えてくださいます。このようにすばらしい神を信じるので、私たちは毎年、期待の中で新年が迎えられるでしょう。このように幸いな私たちになるようにされた父なる神様に、すべての感謝と栄光をお帰しします。
きょうは新年祈祷課題の第二、「神の栄光を現す子ども」について伝えます。神の栄光を現す子どもとは、全き信仰をもって、真心から神に近づく子どもです。この時間は、皆さんがこの第二の祈祷課題のために祈るとき、覚えるべきことが何かを説明します。
去年、神は各人の信仰を引き上げられました。それで、皆さんは十分罪を捨てて、キリストに満ち満ちた身たけにまで達することができると実感したでしょう。全き信仰と真心も、十分持つことができます。今年は必ず全き信仰をもって、真心から神に近づき、神の栄光を現す子どもになりますように、主の御名によって祈ります。


[本論]

愛する聖徒の皆さん、まず「神の栄光を現す子ども」という祈祷課題を与えてくださった意味を調べてみましょう。
神はヤコブの子孫を選んで、イスラエルという国を建てられました。神はモーセを召して、ヘブル人をエジプトから連れ出してカナンの地に導き入れよと命じられました。そして、民を主に仕えさせて、主の御前にいけにえをささげるようにと言われました。
神を礼拝していけにえをささげる行ないは、神をエジプトの神々にまさる、まことの神として認めて高める表現です。つまり、神の栄光を現すことです。このように、神はイスラエルを選んで、国々の中でご自身を現して、栄光をお受けになりました。彼らを用いて旧約の歴史を進められ、福音が異邦人にまで伝えられるようにされたのです。
今日も同じです。神は霊的なイスラエル、すなわち、主を信じる子どもたちを聖別して、神の栄光を現すように望んでおられます。ところが、もどかしいことに、今日、神に仕えて、神にいけにえをささげると言いながら、アベルのいけにえでない、カインのいけにえをささげる人々がたくさんいます。
神の栄光を現すいけにえは、完全な血のいけにえです。「血のいけにえ」とは、霊的に、罪と戦って血を流すまで抵抗しながら、全身全霊を尽くして神に仕える生き方を意味します。血のいけにえの中でも最も完全ないけにえは、全き信仰をもって、真心から神に近づくようになった子どもたちが、神の御前にささげる生き方そのものです。
神はこの終わりの時に、このようなまことのいけにえの手本を見せるために、この教会を備えられました。起きて光を放つ教会として導いてこられました。
神のこのようなみこころを実現するためには、聖徒のひとりひとりが光を放たなければなりません。不純物を取り出した純金のように、精巧に細工した宝石のように、明るく輝いてこそ、この教会が光を放てるでしょう。それでは、どのように祈ってこそ、すみやかに神の栄光を現す子どもになれるでしょうか? 次の三つを心に留めて、答えられるまで祈りますように。

第一、神の栄光を現す子どもは、「すでに」全き信仰をもって、真心から神に近づく子どもであることを覚えますように。
全き信仰を持とう、神に近づこうと、「今」努力している子どものことではありません。「真心」とは、文字どおり偽りのない真実な心です。どんな悪もない、きよい心です。不純物を取り除いた純金は、歳月が流れたり、形が変わっても、本来の性質は変わりません。これと同じように、真心を持っている子どもは、環境や条件が変わっても、その心は変わりません。同じ心で神を愛します。また、光の中を歩みながら善を行ないます。
次に、「全き信仰」とは、キリストの満ち満ちた身たけにまで達した信仰のことです。単に大きい信仰や、ある程度成長した信仰を指すのではありません。0.0001%の疑いもなく、神を信じる純粋な信仰を意味します。
皆さんはほとんど、この教会で数多くの日を過ごしながら、善を慕いますと数えられないほど告白しました。みことばに聞き従っていると思ったでしょう。父なる神を、主を、信じていると告白しました。また、牧者を信頼すると言ったでしょう。
ところが、父なる神が訓練を受けるように許されて、心の奥まで照らされたとき、皆さんはどう告白したでしょうか? 全き信仰と真心を持っていると自負できたでしょうか? 特に去年は、父なる神が罪の根の根まで現れる作業を敢えてなさいました。これによって、それまで覆っておいて、埋めておいた醜い罪を自分の両目で直視しなければなりませんでした。そうしながら切々と感じたでしょう。「私の心に悪があって、父なる神様への信頼、牧者への信頼が完全でなければ、決して父のみこころを実現する働き人になれないんだ。牧者の力になることも喜ばれることもできないし、かえって悲しませる人にしかならないんだ。」本当にそうです。
エジプトから出たイスラエルの民も、モーセが導いている群れの中にいるからといって、みなが神の民とは言えませんでした。多くの民が神の御怒りを引き起こして、結局、約束の地カナンに入れませんでした。また、ヨシュアとカレブを除いた10人の斥候は、各部族から選ばれたにもかかわらず、カナンの地に入れませんでした。霊の信仰が持てなかったからです。カナンに入る過程で、このような殻の民は麦の聖徒から自然に分けられました。
これまで、この教会でも、「試み」を通して麦と殻が分けられて、御霊の働き人と肉の働き人が分けられました。しかし、神は、ひとりの魂も失わないように願われたので、そのたびにいつも豊かな憐れみと慈しみを施されました。今まで大いなる摂理を成し遂げられた一瞬一瞬、父なる神は心を真理に耕した子ども、神ご自身の心にそっくりの子どもが必要でした。かといって、変化が遅い人を簡単に捨てて、すみやかに変えられる人だけを用いられたのではありませんでした。ちょっと遅れている人も、尊い働き人に変えられるように期待して、待ってくださいました。時に応じて事々に悟りと恵みを与えてくださって、どんな心で、どのように走っていくべきか、道を示してくださいました。それで、今は多くの方が本格的に全き信仰と真心を持つ道に入りました。
きょうも、父なる神様はご自身にそっくり似せられた子どもを、今か今かと待っておられます。期待に満ちた父なる神様のまなざしを想像してみてください。全き信仰と真心を持ちたいという望みがもっと切実になるでしょう。この切なる心をいだいて火のように祈って、必ずその望みがかなえられますように、主の御名によって祈ります。

愛する聖徒の皆さん、「神の栄光を現す子ども」になるために、第二、どんな訓練でも、喜びと感謝をもって勝ち抜く人は、全き信仰をもって、真心から神に近づけることを覚えますように。
皆さんがよく知っているように、イスラエル民族が一朝にして聖別された神の民になったのではありません。長い訓練を受けて、ようやく神の選民らしくなりました。アブラハムとイサク、ヤコブの系図を受け継いで、ヤコブの12人の息子を中心に各部族が形成されるまででも、紆余曲折が多くありました。
その後、イスラエル民族はエジプトの圧制の下で奴隷の生活もしたし、モーセに導かれてエジプトから出た後も、荒野で長い間訓練を受けました。リーダーや働き人は、もっと厳しい苦しみの道を歩まなければなりませんでした。この過程で、途中で脱落した人も多くいました。エジプトから出ていく途中、モーセに立ち向かったコラの仲間、偶像を拝んで姦淫を行なって死んだ群れ、カナンの地を目の前にしても信仰を見せられなかったので、40年間荒野でさ迷い歩いて死んだ10人の斥候と出エジプト第1世代が、そのような人々です。
一方、苦しい道を歩みながらも、最後まで神に導かれていった人々もいました。彼らは訓練をよく受けて、結局、神の人、または神のまことの民になりました。彼らが初めから正しくて完全だったのではありませんでした。神ご自身が導きながら練られた結果、聖別された神の子どもに変えられて、神のみこころと摂理を実現する道具として用いられたのです。
[イザヤ48:10]を見ると、神は選ばれた民に向かって「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」と言われています。皆さんもこの召し、すなわち、救いの枠の中にとどまるためには、時には炉のように熱い訓練の中で試みられることもあります。罪と戦って血を流すまで抵抗して、毎日が死の連続にならなければなりません。
しかも、働き人なら、もっと厳しく練られることもあるでしょう。たとえば、自分の身と心、財産と才能を全部ささげて、いのちを尽くして主と教会のために、牧者のために生きると言いました。ところが、御霊の歩みに入る速度があまりにも遅いと感じられる時もあるでしょう。
しかし、全き信仰をもって、真心から神に近づきたいと本当に望んでいる人は、どんな状況に置かれても喜んで感謝します。訓練はそうなれる近道だからです。喜びと感謝をもって訓練をよく通り抜ければ、そのたびに神に近づくのです。不当に苦しみを受けながらも、善をもって耐え忍んで感謝したなら、父なる神との信頼関係がもっと固くなります。
皆さんがよく練られた結果、全き信仰と真心を持つようになって、いよいよ天国に入ったと想像してみてください。その時、自分がとどまる場所を今、あらかじめ見られるなら、訓練を受けるたびに、むしろ喜びと感謝があふれるでしょう。訓練をよく通りぬけるたびに、その輝く場所がもっと近づくからです。何よりも、皆さんがあれほどお目にかかりたいと思っている父なる神と主へと、もっと近づけるのです。
今年一年間も、父なる神が皆さんの細やかなところまで、いろいろな分野で練ってくださるたびに、喜びと感謝をもってよく通り抜けますように。年末までかかるのでなく、できれば早めに全き信仰をもって、真心から神に近づきますように、主の御名によって祈ります。

聖徒の皆さん、皆さんがこの第二の祈祷課題を握って祈るたびに、必ず覚えるべきことは第三、自分でもみことばどおりに行なうために、まめに努めなければならないという点です。
全き信仰と真心を持つことは、神が与えてくださる恵みと力、聖霊の助けがあってこそできます。世に罪と悪がはびこっているこの終わりの時には、さらに自分で悪を発見して、捨てることがやさしくありません。ですから、神ご自身が私たちを精練し、導いてくださるのです。
[マラキ3:3]に「この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。彼らは、主に、義のささげ物をささげる者となり、」とあるどおりです。ですから、全き信仰と真心を持つためには、すべての点で神に頼らなければなりません。
ところが、これは、各自の努力はあまり重要でないという意味ではありません。自らも自分を発見して変えるために、神のみことばの中で生きるために、絶えず努めなければなりません。しかも、死に至る罪から立ち返ったなら、もうそのような罪を招く肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を徹底的に遮って、心からも捨てなければならないでしょう。そして、皆さんの心にみことばと祈りと賛美、天国の望みをぎっしり満たさなければなりません。
最近、大学部の若者をはじめ、中高生部、青年、おとなまで、新しいエルサレムへ行く運動を行なっています。テレビを見ない、肉的にコンピュータを使わない、いつもみことばに接する、祈りをやめないなど、具体的な行動方針を決めて実践しています。これは、皆さんが神のみことばを行なうために、自分から努力する良い例です。
神が皆さんの欠けたところを発見させてくださるたびに、このように皆さんのほうからも、積極的に努力して変えられますように。明白な真理に逆らうものはもちろん、肉の欠如のような分野も、「できない、難しい」と言わないで、一つ二つと直して満たしていきますように。過去の罪と咎を清算したからといって、決して安心しませんように。これからは、全き信仰と真心を持つことに全力を尽くすようお願いします。


[結論]

愛する聖徒の皆さん、神はこれまで、絶えずこの教会を清めてこられました。ご自身で賛美まで下さって、私たちの心と口を浄化させておられます。賛美は神の栄光を現す代表的な行ないです。
それなら、皆さんは父が下さった賛美で神の栄光を現しているでしょうか? 口では賛美をしていても、罪を犯しているなら、これは神の栄光を現すのでなく、かえって侮ることです。
エジプトから出たイスラエルの民の姿を鏡として、これを感じてみますように。イスラエルの民は劇的に葦の海を渡った後、神をほめたたえました。[出エジプト15:20]に「アロンの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンを手に取り、女たちもみなタンバリンを持って、踊りながら彼女について出て来た。」とあります。[出エジプト15:11]に「主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行なうことができましょうか。」とあるように、神を高めて栄光を帰しました。その時、民全体がどれほど喜びあふれたし、その姿がどれほど壮観だったでしょうか。
ところが、このように賛美していた人々が、さほど経たないうちに恨みと不平、信仰のないことばを口にしました。偶像の前で拝んで、姦淫まで行ないました。このように罪を犯すつもりで、すなわち、全き信仰と真心が持てないままささげる賛美は、いつ、どのように変わってしまうかわかりません。
礼拝と祈り、使命を果たすことにおいても同じです。全き信仰と真心をもって行なうとき、神の栄光を本当に現すことができるのです。
[エズラ3:11]に「そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、『主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。』と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。」とあります。
すみやかに全き信仰と真心を持って、カナン聖殿の礎が据えられるとき、私たちもまことの礼拝と賛美、祈りと忠実な心をささげましょう。主が来られるその日まで、また、世々限りなく、神の栄光を現す子どもになりますように、主の御名によって祝福して祈ります。

 
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