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メッセージ メッセージ > メッセージ
メッセージ
Title
   創世記講解(30) - いのちの種(2)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   創 2:7, ヨハⅠ 3
Date
   2010-04-16


[本文]

[創世記2:7]
「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」

[第一ヨハネ3:9]「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。」

愛する聖徒の皆さん、「創世記講解」三十二番目、いのちの種、その四番目の時間です。
前回まで、からだが霊の次元で調節される時に現れる三つの現象を伝えました。そして、御霊の歩みに入って、さらに全く聖なる者とされるなら、何をするにも栄える祝福も臨むと、私の証しをもってお話ししました。
それでは、御霊の歩みに入る前までは、健康と物質に祝福されることができないでしょうか? 御霊の歩みに入っていなくても、霊の次元で臨む祝福を味わう秘訣があります。
それは、第一に、聖霊に満たされることです。
「聖霊に満たされる」とは、御霊が各人の心にある真理を通して、霊の空間を感じるようにしてくださる状態です。肉の性質が全くなく、罪が全くないし、平安と喜びと感謝だけがある霊の空間を感じるようにしてくださるのです。
たとえば、御霊に属する心に10%しかならなかった人がいるとしましょう。この人が聖霊に満たされると、残り90%を聖霊が満たしてくださいます。それで、その瞬間だけは心に肉の性質が全くないようで、ただ御霊に導かれているように感じます。この人は、ふだんは90%を占めている肉の願いに従って思って行なったでしょう。その心がほとんど肉によって治められるからです。ところが、聖霊に満たされると、その時は心の主導権を御霊に属した部分が持つようになります。
たとえば、10%の御霊の心を「子ども」として、90%の肉の心を「おとな」としましょう。この子どもとおとなが綱引きをすれば、当然おとなが勝つでしょう。ところが、子どものほうにとても力の強いおとながひとり来て、子どもと一緒に綱を引くならどうなるでしょうか? 当然、子どものほうが勝ちます。
まさに、皆さんが聖霊に満たされている時は、聖霊が皆さんの御霊に属している心に力をつけてくださいます。肉の思いや疑いも働かないのです。それで、人の力ではできないこともできるという信仰が与えられます。また、現実を見れば喜べないのに、天から喜びが与えられます。感謝できないことが起こっても、心からは感謝がなくなりません。このように聖霊に満たされていると、御霊の歩みに入ったような、さらに全く聖なる者とされた時のような現象が現れます。
聖霊に満たされている時は、からだも霊の次元で調節されます。まるで御霊の歩みに入って、さらに全く聖なる者とされれば、からだのすべての機能調節が霊の次元でなされるような現象が現れるのです。聖霊に満たされている時だけは、聖霊の力によって霊の次元でからだの機能が調節されるからです。
いのちの種が活動を始めた後、霊が成長して、からだの中心にある細胞核より大きくなれば、からだを調節する権限が完全に霊に移されます。霊の次元でからだの機能が調節されるので、これ以上老化しないし、むしろ若返りします。聖霊に満たされていても、このような現象が起きるのです。
ある人の霊の大きさがからだの中心になる細胞核の半分をおおうほどだとしましょう。ところが、この人が聖霊に満たされると、聖霊が残りの半分をおおってくださいます。その結果、からだの中心になる細胞核が霊に支配されるようになります。
幼い時から信仰生活を正しくしてきた方が年を取っても、世の人に比べてはるかに若くて健康な理由もここにあります。たとえまだ御霊の歩みに入っていなくても、信仰生活を正しくしてきたなら、聖霊に満たされて過ごした期間が長いです。肉の流れに従って老化してきましたが、聖霊に満たされている期間だけは老化しなかったのです。
そして、皆さんが聖霊に満たされていると、いくらつらい仕事をしても、からだが疲れません。私は以前、いやされた後、力仕事をした時も、12時から明け方の4時まで徹夜祈祷をしたりしました。一日中力仕事をしたので、からだは疲れて、眠たくなることもありました。
ところが、20、30分間だけ苦しみもだえて主を呼び求めて祈ると、聖霊に満たされました。すると疲労が取れて、からだは飛んでいきそうに軽くなり、聖霊に満たされたまま何時間も祈ることができました。祈梼院長はまず満たされるために賛美をして、恵みと感動を受けました。すると聖霊に満たされるようになり、一緒に明け方まで祈ることができたのです。
聖徒の皆さんも、このような体験をダニエル徹夜祈祷会や金曜徹夜礼拝の時によくされるでしょう。肉的に考えれば、疲れたからだで何時間も耐えて座っていたので、もっと疲れるはずでしょう。ところが、聖霊に満たされると、霊の次元でからだが調節されるので、いのちの息で満たされます。へとへとになって祈りに来たとしても、恵みに満たされて賛美して祈ると、かえって生き生きするようになります。疲れて重かったからだでも、飛んで行きそうに軽くなります。
このように、いつも聖霊に満たされている人には、病原菌も入ることができません。ところが、聖霊に満たされなくなると、再び肉の次元になるので、もっと疲れを感じて、病原菌が入ることもあります。
それでは、いつも聖霊に満たされているためには、どうすればよいでしょうか? まずは、神との間に罪の壁があってはなりません。そしていつも目を覚まして祈り、それも主を呼び求めて祈らなければなりません。信仰の一、二段階では、聖霊に満たされても、それが維持できないことが多いです。神のみことばどおり生きられなくて、罪を犯せば聖霊に満たされなくなります。
ところで、[第一ヨハネ5:16]にあるように、「死に至る罪」を犯せば、悔い改めの霊が与えられないので、罪の壁も打ち壊すことができません。いくら苦しみもだえて主を呼び求めても、聖霊に満たされることができないのです。
ですから、からだも肉の流れに従って、老いて衰えていくほかはありません。また、何かの病気にかかると、それに勝ち抜けないので、病気から来る苦しみをそのまま受けるようになります。
したがって、聖徒の皆さんは決して死に至る罪を犯してはいけません。死に至らない罪を犯しても、直ちに神に罪を告白して悔い改めますように。それで、いつも聖霊に満たされて、霊肉ともに健康でありますように。
聖徒の皆さん、皆さんが御霊の歩みに入る前でも、霊の次元の祝福を味わう方法、第二は、ムアンの甘い水と祈りを受けたハンカチを活用することです。
父なる神は、ムアンの甘い水と、皆さんが私に祈りを受けたハンカチに、創造の力の光を入れてくださいました。この創造の力の光は、天地創造のみわざを成し遂げた、まさにその初めの光です。皆さんが信仰によって使うなら、そのムアンの甘い水とハンカチに込められた創造の力の光が働いて、皆さんでもみわざを起こすことができます。
聖徒の皆さんが、ハンカチに祈りを受けるとき、私がいつも祈る内容があります。
「このハンカチを当てるたびに、敵である悪魔・サタン、闇が退いて、悪霊が出て行き、信仰といのちが与えられて、魂を砕いて罪を告白するみわざが現れ、御霊に感じて、聖霊に動かされ、満たされるよう、祝福してくださいますように。不思議としるしが伴い、いやしのみわざが現れ、栄光をお受けください。多くの魂を救って、守ってくださり、ともにおられ、祝福してくださいますように。創造の初めの光で取り巻いてくださり、創造の最上の力を吹き込まれ、信仰によって行なうたびに、死にかけている者も生き返って、生き返らせるように祝福され、栄光をお受けください。」
ですから、信仰によってハンカチを当てて祈ると、このようなみわざがそのまま現れることができます。ハンカチに込められた神の力の光がからだの中に入れば、霊の次元でからだが調節されるからです。神の力の光に込められた力が死んだ細胞を生き返らせて、正常に機能するようにします。また、退化した組織が再生するなど、全身が正常になるようにするのです。
聖徒の皆さん、ところが、聖霊に満たされている時や、ムアンの甘い水と祈りを受けたハンカチを通して霊の次元でからだが調節されるには、限界があります。一時的にだけ霊の次元でからだが調節されます。永久的でなくて、持続的ではありません。言いかえれば、聖霊に満たされている時だけ、信仰によってムアンの甘い水を飲む時だけ、そして、信仰によってハンカチの祈りを受ける時だけ、霊の次元でからだが調節されるのです。
ところが、皆さんが御霊の歩みに入って、さらに全く聖なるものとされるなら、いつも霊の次元でからだが調節されます。小児マヒや事故によって身体障害者になった方々の中で、いつも祈りを受けてもいやされていない方々がいます。私がその方々にいつも「御霊の歩みに入ったらよい」とお話ししする理由がこれです。
御霊の歩みに入ると、その時からは霊の次元でからだが調節されるので、弱い部分が正常になることもできます。死んだ神経が生き返り、退化した組織も再生できるのです。新しい力が湧いて、ひとりでも立ち上がって歩けるようになるのです。
それでは、御霊の歩みに入っていないのにいやされる方々は、どうしてそれができたでしょうか? 神の力を現すしもべの祈りによって、創造の力の光がそのからだに入って働いたのです。
その瞬間には、創造の力の光によって、からだが霊の次元で調節されたのです。
「創世記講解」二十八番目の時間に、創造の力の光によってやけどがいやされ、短い脚が長くなり、死んだ神経が生き返る原理を説明しました。やけどした部位や短い脚の細胞で新しい細胞を造るには、核の中のDNAを稼動しなければなりません。その時、電気製品の電源を入れるように、DNAを稼動する役割を創造の力の光がすると言いました。そして、創造の力の光で取り巻かれた空間は霊の時間の流れに乗るので、短い時間でも完全になります。
このような創造の力の光のみわざが[マラキ4:2]にもあります。まさに 「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」とあるのです。
それではなぜある人は御霊の歩みに入っていないのにいやされて、ある人は御霊の歩みに入ってこそいやされるのでしょうか? それは公義に従って、それぞれの人が満たさなければならない基準が違うからです。御霊の歩みに入ってこそいやされる場合は、公義の中で満たさなければならない基準が非常に高いです。
たとえば、先祖代々、偶像礼拝や殺人など大変大きい罪と悪を積み上げて、病気がやって来た場合があります。あるいは、当事者だけでなく、霊的に縛られている家族にも、問題の原因がある場合があります。このような場合は、家族もともに信仰を持って、神をまことに愛する証拠を見せなければなりません。
また、御霊の歩みに入ってこそいやされる場合には、心に悪がひどく多い場合があります。このような人は、神の恵みでいやされると、しばらくの間、信仰生活をまじめにすることはできます。しかし、心に悪が多いので、時間が経つにつれて罪と悪の道に陥りやすく、そのうち、まかり間違えば救われなくなることもあります。肉の健康より、霊と魂の救いが大切なので、このような人は早くいやされないほうがかえって幸いなのです。
ところが、どんな場合でも、御霊の歩みに入れば、肉の法則とは関係なくなります。神のまことの子どもになるからです。それで、神との間にあった罪の壁もなくなり、家族と縛られていた霊的な絆も解けます。霊の次元でからだが調節されるので、完全で健康なからだになれるのです。また、遺伝的に弱い形質を持ったとしても、御霊の歩みに入ってからはかかわりなくなります。
たとえば、喘息が現れる遺伝形質を持った人がいるとしましょう。この人が良くない環境に住んでいると、いつかは喘息が現れるでしょう。ところが、このような人も御霊の歩みに入るなら、からだが霊の次元で調節されます。細胞の喘息とかかわっているDNAが霊の次元で支配されると、喘息が現れないのです。エデンの園にいるアダムの子孫がいのちの息の影響を受けて、一番良くからだが成長して発達するのと同じです。
聖徒の皆さん、いのちの種は神が分け与えてくださった初めの光だ、と言いました。聖霊を受けていのちの種が生き返って、人の子の肉を食べてその血を飲んで霊が成長すれば、ついには御霊の人、さらに全く聖なる者とされます。したがって、このような人から出てくる霊的な光も、もとの属性は神の初めの光と同じです。ただし、光の強度が違います。
御霊の人、全く聖なるものとされた人から出てくる光は、闇の勢力を退けることはできます。しかし、再創造のみわざを現すことはできません。再創造のみわざは神の初めの光、すなわち、創造の力の光でなされます。それで、全く聖なる者とされても、火のような祈りを無数に積んでこそ、この次元の「神の力」が受けられる、と言ったのです。
また、御霊の歩みに入った方も、病人のために祈るとき、ただ祈るよりはハンカチをもって祈ると、はるかに驚くべきみわざが起こります。御霊の人から出てくる霊的な光より、ハンカチに込められた神の力の光のほうがもっと強いからです。
御霊の人が病人のためにただ祈っても、ある程度のみわざは伴います。[ヤコブ5:16]に「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」とあるとおりです。それでも、御霊の人のからだから霊的な光が出ていって、いやされるのではありません。御霊の人の祈りをお聞きになった神がいやしのみわざを施してくださるのです。ところが、ハンカチを当てて祈ると、ハンカチに込められた神の力の光が、直ちに病人のからだに入ります。それで、その光がいやしと再創造のみわざを起こします。
愛する聖徒の皆さん、今まで伝えた「いのちの種」に関するメッセージを短く要約しましょう。
神がアダムを土地のちりで造られて、「いのちの息」を吹き込まれると、生きものとなりました。「いのちの息」とは、初めの光に込められた神の力であり、エデンの園ではアダムの子孫に自然に伝えられました。霊の空間であるエデンの園では、宿った時からいのちの息の影響を受けるので、いわゆる「優良児」だけが生まれます。生まれた後も、霊の次元でからだが調節され、皆が最も格好が良く、美しく成長します。青年の時を少し過ぎて成長が止まりますが、それからは老化しないでその状態で永遠に生きるのです。
このようなエデンの園で生きていたアダムとエバが、神のみことばに聞き従わない罪を犯して、この地上に追い出されてからは、状況が変わりました。神はアダムとエバからいのちの息をほとんど取って行かれて痕跡だけを残されました。この痕跡のようなものが、まさに「いのちの種」だと言いました。
アダムとエバがこの地上で生んだ子孫には、いのちの種が伝えられません。それで、神は赤ちゃんが宿って6か月になったとき、いのちの種を霊の中に入れて、からだの中心である心臓の、ある細胞核に入れてくださいます。
いのちの種が入った霊がからだの中に与えられた状態を、海のブイにたとえて説明しました。からだの中心にある細胞は変わり続けても、いのちの種がある位置は固定されています。血が心臓から出て全身に広がるように、霊のエネルギーも、心臓のある細胞から全身に広がって、すべての細胞が調節できます。
人に入れてくださったいのちの種は、まるで固い皮に包まれた種のように、何の動きもなくじっとしています。そのうちにイエス・キリストを受け入れて、罪を赦していただき、聖霊が臨むと、いよいよいのちの種が活動を始めます。
芽を出した種は水と陽光が与えられてこそよく育ちます。このようにいのちの種も芽生えてからは、霊的な水と光が与えられてこそ、霊が育つことができます。すなわち、霊的な水である神のみことばを糧として、霊的な光である神のみことばどおり行なうとき、霊がのびのび成長するのです。
霊が成長して、からだの中心にある細胞核をおおうほどの大きさになれば、御霊の人であり、それより大きくなれば全く聖なる者とされた人です。ここで霊と細胞核をその大きさで比べたのは、物理的な大きさよりは、からだを調節する権限が霊にあるか肉にあるかを理解しやすく表現したからです。
霊の大きさが細胞核をおおうほど大きくなってからは、からだが肉の流れに乗らなくなります。そして、全く聖なる者とされれば、からだの機能調節が完全に霊の次元でなされます。一方、霊がこのようにからだを調節できるようになったなら、当然、たましいも調節できます。霊がたましいを支配するので、肉の思いや真理に逆らう思いでない、御霊による思い、真理の思いをするようになります。
聖徒の皆さん、からだの機能が霊の次元で調節される時に現れる現象を大きく三つ説明しました。
第一、からだのあらゆる器官が正常に機能するようになります。五臓六腑のあらゆる器官と組織が最上の状態に回復して、維持するのです。それで、少しだけ眠っても、食べ物を最小限食べても、からだに異常が生じなく健康だ、と言いました。ダニエルと三人の友だち、そしてバプテスマのヨハネを例に説明しました。
第二に、病原菌とウイルスが入れなくて、たとえ毒を飲んでも、決して害を受けません。主を受け入れてから、風邪も一度引かなかった私と、まむしに噛まれた使徒パウロを例に挙げました。
第三に、老化しなくて、かえって若返りすることもできます。また、体形も思ったとおりになります。若返りの例では、アブラハムとヨブを説明して、私が思ったとおりに体形が調節された証しをしました。
ここまでは、たましいに幸いを得ている時に臨む「健康である祝福」の分野です。また、たましいに幸いを得ているなら、同時に「すべての点でも幸いを得る祝福」も臨みます。ヨブは練られてから、御霊の歩みに入って、さらに全く聖なる者とされて、練られる前より倍に豊かになりました。
私も神様を見つけた後、三年間練られて御霊の歩みに入ったとき、驚くほど物質の祝福を受けました。三年間、みことばの武装してから全く聖なる者とされた時は、霊的に大きい祝福である「神の力」を授けられたことを皆さんに証ししました。
ところで、皆さんが御霊の歩みに入る前にも、霊の次元でからだが調節されるようにする方法がある、と言いました。第一に、聖霊に満たされることです。第二は、創造の初めの光が込められたムアンの甘い水と神の力のハンカチを活用すればよいです。
ところが、このような方法は一時的です。持続的に霊の次元でからだが調節されるためには、結局、御霊の歩みに入って、さらに全く聖なる者とされなければなりません。
参考までに、御霊の歩みに入ってきてこそいやされる場合と、御霊の歩みに入っていなくてもいやされる場合を、霊的な公義と関連づけて説明しました。そして、御霊の人から出てくる霊的な光と、初めの光の共通点との違いを伝えました。すなわち、もとの属性は同じだけれど、強度が違う、と言いました。

[結論]

愛する聖徒の皆さん、神はこの地上で耕作を受けるすべての人にいのちの種を与えてくださいました。自分ではいのちの種を芽生えさせることができない弱い人の子らのために、ひとり子イエス様と聖霊を遣わしてくださいました。また、御霊に感じるようにして、霊的な水である神のみことばを与えられ、霊がのびのびと育つ環境を作ってくださいました。人間耕作という遠くて険しい道のりに出発する子どもたちが、輝く姿で父のもとに帰ってくるように、父はすべてを配慮してくださったのです。
この教会には、父なる神様が特に配慮してくださったことが多くあります。この教会の牧者として、聖徒の皆さんに貧しい人はひとりもいないように、病気にかかった人がひとりもいないようにと願う心です。このような私の心の願いを知っておられる父なる神様が、聖徒の皆さんに祝福の道を確かに示してくださいました。そして、病気にかからないことはもちろん、主が来られる時まで、若く生きられる方法も教えてくださいました。ですから、「主が来られる日がまだ残っているのに、だんだん年を取っていくので、私はどうしましょうか?」と言う方はいないと信じます。
[第一テサロニケ5:23]に「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」とあります。
これから、皆さんすべてがこのようにすみやかに全く聖なるものとされ、霊、たましい、からだが完全に守られ、もっと忠実に働かれますように。それで、その日、父なる神様と主の御前で賛美と誉れと栄光を受けますよう、主の御名によって祝福して祈ります。


 
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