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メッセージ
Title
   黙示録講解(90)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙 21:19-21
Date
   2009-02-20


都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。

愛する聖徒の皆さん、本文[19節]からは、新しいエルサレムの十二の土台石の内容です。十二の土台石は、十二の宝石で飾られていて、それぞれの宝石は特別な霊の心を表しています。「八つの幸い」と愛の章の「愛」、「御霊の九つの実」の霊的な意味が十二の宝石にみな含まれています。この十二の宝石が表す心をまとめると、「全き愛」になります。これはすなわち、父なる神様の心で、主の心であります。
新しいエルサレムの土台石が十二の宝石で飾られているのは、その中に入った人々の心を表しているからです。すなわち、彼らはこの地上で耕作を受けながら、十二の宝石一つ一つに含まれた心を耕して、父と主に似せられた人なのです。どの分野も乏しいことのない完全な心、全き愛を実現した人でこそ、新しいエルサレムに入れるのです。
この宝石の霊的な意味については、「天国」の説教で六時間にかけて詳しく説明したので、きょうは簡略に調べましょう。

第一の土台石は「碧玉」です。
「碧玉」は「信仰」を表します。新しいエルサレム城壁の材料も碧玉ですが、この時の碧玉は「信仰の五段階」、すなわち「神様に喜ばれる信仰」を意味します。
ところで、土台石としての碧玉が表す信仰は「霊の信仰」です。霊の信仰は、すべてのみことばが心から完全に信じられる信仰です。一度信じたなら変わらずに信じるし、また、みことばを変わらずに信じるので、いつも従順の行ないが伴います。
一方、肉の信仰を持った人は、自分の思いと理論と知識に合うことだけを信じます。また、初めは「信じます」と告白しますが、実際に難しい現実を迎えると、疑います。祈っていても途中であきらめてしまい、みことばどおり従うと言いながらも、1、2回してみてやめたりします。
霊の信仰はこのようなものではありません。アブラハムがイサクをささげたように、みことばが自分の知識や思いと違っても、100パーセント信じて従う信仰です。自分に益にならないように見えても、条件をつけずみことばどおり行なえるのです。

第二の土台石「サファイヤ」は「まっすぐな心と節義」を表します。
これは、真理の中で一度心を定めたら、世のどんな誘惑や脅威にも屈せずに揺れない、真実そのものの心です。火の燃える炉に投げ込まれても偶像を拝まなかったダニエルの三人の友だちがそのような心です。獅子の穴に投げ込まれるようになっても、祈りを休む罪を犯さなかったダニエルも、このサファイヤのような心を耕した人です。いっそ命を失っても、真理を捨てることはできないという、まっすぐで崇高な心を、まさに青いサファイヤの色で表したのです。

第三の土台石は「玉髄」です。玉髄は「潔白」と「犠牲的な愛」を表します。
これは咎のないきよい心を表して、どんな代価も願わないで、神の国と義のために自分を犠牲にする心を意味します。何の希望もない老いた姑に仕えて、最後までつき従ったモアブの女性ルツがこれに当たります。ルツは姑を真実に愛したので、与えるだけでも満足する心でした。姑から何か返してもらえなくても、自分はすべて渡せました。
肉の愛は、相手のために犠牲になった分、自分も相手からもらいたいと思うのです。期待したほど返してもらえなければさびしくなり、傷ついて相手を恨みます。しかし、真実の愛を心に耕すと、真理の中で自分を犠牲にして渡しても、返してもらうことを期待しません。このように澄んできよい心で自分を完全に犠牲にする愛を耕してこそ、新しいエルサレムに入れるのです。

第四の土台石「緑玉」は、「義と青さ」、「正しさときよさ」を表します。
これは、[エペソ5:9]にある「光の結ぶ実」のような色です。すなわち、「あらゆる善意と正義と真実」が合わさったのが、まさに緑玉の色です。神様が認められるまことの義とは、善と義と真実を兼ね備えたものです。優しいだけで正しくないと優柔不断になったり、不義と妥協したりすることもあります。また、義だけあって善がないなら、まかり間違えば自分の義と枠にこだわって、神のみこころとは遠ざかりやすいのです。人をさばいて罪に定めたり、融通がきかなかったりします。正しいか正しくないかを問い詰めることだけに偏って、いのちを生かさない場合もあります。
したがって、善と義を兼ね備えなければならなくて、これが真実に、すなわち、いくら歳月が流れても変わらないとき、完全な光の実が結ばれた、と言えるでしょう。

第五の「赤縞めのう」は、「忠実」を表します。
自分に与えられた分野で、どうしてもしなければならないことだけをするなら、これは忠実と言えないのです。給与をもらう働き人が自分の業務をやり遂げても、忠実と言えません。ただ自分が当然すべきことをしただけです。自分の業務はもちろん、指示されていないことまでも心を尽くして誠実にやり遂げてこそ、はじめて「忠実であった」と言えるのです。
神様が認められる忠実は、自分の使命を果たすために、心と思いと精神と命を尽くすことです。教会はもちろん、家庭と職場、そして、自分が属するすべての所で忠実であるとき、全家を通じて忠実な者と認められます。
自分が属する分野で忠実であるためには、義と犠牲の心がなければなりません。自分の益を求めることより、全体と相手のために正しいほうを選んで、それを実現するために、自分を犠牲にするのです。
ところで、ただ忠実だけでなく「全家を通じて忠実である」ためには、これに善の心がさらに加わらなければなりません。善良な心があるほど、ある一つの分野に偏らないで、まんべんなく気を遣うことができるからです。
皆さんにさまざまな使命があれば、それぞれの使命に自分なりの比重があります。ところが、多くの人が自分でもっと大事だと思う使命には忠実になるけれど、そのほかの使命には相対的に忠実にならない場合が多いのです。それで、一緒に働く人が物足りなく思っても、「私にはこれよりあれがもっと大切なので、仕方ない」と思います。
しかし、善が臨むほど、何としてでもあらゆる分野を満たそうと努力して、心を広く遣っていきます。それを感じる時は、たとえ直接一緒にいる時間は少なくても、その分野に関わった人がもの足りなく思うではありません。かえって「忙しいのに、このように気を遣ってくださって感謝します」と言います。
このように、善の心が臨むと、自分が属するどの分野もおろそかにしません。何が善なのかわかっていても行なわないと、誰かが何か言わなくても、自分が落ち着かないからです。ですから、自然に全家を通じて忠実な者になるのです。
ひょっとして自ら熱心に信仰生活しているけれど、自分の心の熱さが以前とは違って、霊的な進歩が遅いと感じる方は、このことをもう一度顧みられますように。魂のために、神の国と義のために、どれほど自分を犠牲にしているのか、また本当に良い心からあらゆる分野で忠実であるのか、顧みられますように。全家を通じて忠実である宝石のような心を耕してこそ、この地上でも祝福の器が備えられて、新しいエルサレムに入る資格も備えられるのです。

第六の「赤めのう」は「熱心と誠意」、そして「神の国と義を実現するための熱い愛」を表します。
天国の赤めのうは、血のようにとても赤くて、透明です。赤めのうのように熱い愛を代表する人は、まさに使徒パウロです。パウロは一度主に出会った後、一生、神の国のために生きました。人としてはとうてい耐えがたい数え切れない迫害と患難にあいながらも、その熱情が冷めなかったのです。自分が受ける苦しみがいくら大きくても、彼がもっと心配するのは、むしろ弱い魂たちと教会のことでした。神の国を実現さえできるならば、どんな苦しみや犠牲もものともせず、自分のいのちさえ惜しまなかったのです。新しいエルサレムに入るためには、皆さんにもこの赤めのうのような熱い愛がなければなりません。

第七の土台石は「貴かんらん石」で、「あわれみ」を表します。
これは人としてはとうてい理解したり赦したりできない人までも、真理にあって善で理解して赦せる心です。このような心があれば、偏ることはありません。嫌いな人や憎らしい人もいなくて、ぶつかったり気まずくなったりする人もいません。すべてを善をもって思うからです。すべてを理解して、受け入れて、穏やかにいだく心が、まさにあわれみです。いくら凶悪な罪人を見ても、罪は憎むものの人は憎みません。
イエス様は、イスカリオテ・ユダが裏切ると知っておられながらも、最後まで彼をいだいて立ち返る機会を与えられました。また、ステパノは石で打ち殺されながらも、自分を石で打つ人々のために、かえって赦しを求めました。このようなあわれみの心を耕した人でこそ、新しいエルサレムに入れるのです。

第八の「緑柱石」の心は「神の国と義を実現するために、すべてに寛容な心」です。
これは、無理にそうするのではありません。心に悪がなくて、ただ善だけ満ちていて「寛容」という言葉さえ必要ないのです。神様の約束が実として明らかに現れるまで、大変な逆境にあっても、寛容の心で長い歳月がかかっても最後まで耐え忍びます。ある人を伝道したり、養ったりする時も、その人が変えられることを信じ、最後まで寛容であります。また、自分の心を割礼する時も、ついに聖められる時まで耐え忍びます。自ら変化が遅く見えても、気を落とすのではなく、神様を信じて感謝しながら、最後まで努力していきます。このように寛容の心でついに刈り取る実が、まさに新しいエルサレムの栄光なのです。

第九の黄玉は「善意」を表します。
善意とは、「御霊に従って善を追い求める心」です。これは世の「良心」と似ている言葉です。良心とは、正しいか正しくないか、善と悪を判断する自分なりの基準です。ところが、世の人の良心は、時代によって、国によって、個人によって変わります。一方、「善意」の心が善悪をわきまえる基準は、変わらない神のみことばです。ただ「神様がご覧になって善なること」を追い求めるのです。
ところが、心だけで善を追い求めるのではなく、その善が表に現れる時でこそ、本当に善意が臨んだと言えます。すなわち、心に善を慕い求めるだけに、すべての言葉も徳があって、行ないも恵みになり、善良なキリストの香りを放つようになります。善きサマリヤ人のように善い事を行なって、自分の助けが必要な人に恵みを施します。誰にも叫んだり、ぶつかったりしません。悪くて平和を破る人を見ても、彼らに顔を背けたり、無視したり、打ち負かそうしたりしません。いたんだ葦も、くすぶる燈心もあわれまれたイエス様の心で、善をもって対します。こういう善意の心があるとき、新しいエルサレムに入れます。

第十の緑玉髄は「自制」を表します。
いくらからだに良い食べ物でも、食べすぎればむしろ消化不良になります。運動が健康に良いと言われても、自制できないのでかえって害になったりします。
肉の分野だけでなく、霊の分野でも同じです。いくら良いことでも、秩序に従って自制しなければなりません。喜びも、愛も、自制しなければならない時があります。聖霊に働きかけられて何かの働きをしても、何が何でも直ちに進めるのではなく、正確な時と方法まで導かれなければなりません。たとえ霊に入った人であっても、自制によってあらゆる分野が全体的に美しく調和するようにしなければなりません。しかも、まだ霊に入る前ならば、肉の欲を徹底的に自制して、ただ御霊の願いに従わなければなりません。

第十一の土台石、「青玉」は「きよさ」を表します。
これは「心に罪がない状態」すなわち「わずかな傷も、点も、どんなしみもないきよい心」を表します。私たちがからだをきれいにするためには水で洗うように、心をきよくする時も、霊的な水で洗わなければなりません。すなわち、神のみことばで洗い清めなければなりません。
[ヘブル10:22]に「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあります。
たとえば、みことばに「捨てなさい」「してはならない」と言われたとおり従うと、ますます心から真理に逆らうものと悪が洗われていきます。また、「しなさい」「守りなさい」というみことばに従うなら、きれいな水が注がれ続けるように、世の罪と悪に再び染まらずに、いつもきよい心が維持できます。
素直な子どもの澄んだきよい目を見ると、見ている人の心もさわやかになります。心がきよい子どもをご覧になるとき、神様の心もそうです。何度も見たくて、もっとともにおられたくなるのです。それで、新しいエルサレムに、神の御座の近くに導かれるのです。

第十二の紫水晶は「柔和」を表します。
これは「性格が柔和でやわらかいながらも、すべての人を受け入れる大きい心」です。綿毛のように暖かくてやわらかく、多くの人がその中に宿って休める心、すべてを善をもって理解して、愛でおおう広い心です。
ところが、いくら暖かくてやわらかい心ですべての人を受け入れても、それが心だけなら、あまり意味がありません。その柔和を必ず行ないで現さなければなりません。柔和な言葉と行ないによって他の人が力を得て、暖かくなって、心の休みが得られるとき、それが「徳」になります。
徳のある人は、霊的な権威を持ちます。多くの人の心を得て、真理に、いのちに、導くことができるのです。モーセがこのような心だったので、数百万のイスラエルの民でも十分に導けたのです。

愛する聖徒の皆さん、今まで十二の宝石が表す霊の心を簡略に調べました。信仰、まっすぐな心、犠牲、正義、忠実、熱情、あわれみ、寛容、善意、自制、きよさ、柔和など、これらの霊の心をまとめると、「全き愛」だと言いました。
新しいエルサレムの土台石も、またその中の家を飾る宝石も、ただきれいで華麗だからといって、どんな宝石でも使うのではありません。その一つ一つに神様の摂理が宿っています。
また、皆さんがもう一度覚えることは、新しいエルサレムの宝石は、この地上の宝石とは輝きや美しさが違って、名前も違う、ということです。神様は宝石一つ一つを作るとき、その中に霊的な意味を込めて、その意味に合う色と光彩を表されました。
たとえば、「神の国のための熱情的な愛」を表すためには、その意味がよく表現できる血のように赤くて透明な宝石を作られました。私たちがこの宝石を見るだけでも、神様のために燃え上がる熱い心が思い浮かびます。また、その熱い心によってにじみでる高貴な忠実の行ないが思い出されて、感動するのです。それほど栄えある光と光彩をこの地上の宝石からどうして感じられるでしょうか?
このような宝石一つ一つに、神様は天国の言語で美しい名を付けてくださいました。その名がそれぞれの宝石の光と結びつき、宝石そのものの威厳と誇りになるのです。ところが、この天国の宝石がどれほど美しいのかを、この地上の言葉で一つ一つ描写することも難しくて、天国で呼ばれる宝石の名を知らせても、私たちが理解できません。ですからヨハネは、後世の人々が最大限理解しやすいように、この地上の宝石の中で、最も似た宝石の名前で書き記したのです。
このような十二の土台石の意味を思い出させて、その宝石のような心が皆さんにはどれほど臨んだのか、いつも顧みられますように。そうする時「私ははたして新しいエルサレムにどれほど近づいているのか」わかるのです。

[21節]に「また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」とあります。
新しいエルサレムの門は、東西南北四方に三つ、すなわち、約800キロメートルごとに一つずつあります。城壁が高くて厚い分、この十二の門も、非常に大きいので、近くから見ると、しばらく見上げなければならないほどです。
大きいアーチ型の門全体が、美しく輝く巨大な一つの真珠からできていて、黄金と宝石で作られている取っ手があります。真珠が作られる過程は、皆さんもよく知っておられるでしょう。貝の中に異物が入ってきて、弱い肉に食い込むと、貝は苦しみに耐えながら、分泌液を絞り出して異物をおおいます。このように貝の分泌液で幾重にもおおった結果が、美しく輝く真珠として現れます。
このように神の子どもたちも、新しいエルサレムに入る資格を備えるためには、多くの忍耐の時間に耐えなければなりません。神様は、神の子どもたちが自分の中にある真理に逆らうものを発見するように、訓練というものを与えられます。つまり、さまざまな環境で自分の罪と悪が発見できるように、機会を与えられるのです。
このように訓練を受けて自分を発見する時は、心がとても痛くてつらかったりします。「私はこんなに悪かったのか」「これしかならない人だったか」と思って、しばらく気を落としたりします。その時も気を取り直して祈って断食しながら、全力で神様にすがると、神様は恵みと力を与えてくださいます。
憎しみを捨てる分、愛が結ばれていきます。力を尽くして憤りとわだかまりを捨てていくほど、柔和が結ばれていきます。このように自分の罪と悪を脱ぎ捨てるために、全心全力を尽くして努力していくと、結局は聖められた霊の心を耕すようになります。
子どもたちが訓練を受けて苦しんでいると、誰よりも父なる神様の心が痛まれるでしょう。それでもこの過程を与えられる理由は、子どもたちをあまりにも愛されるからです。愛する子どもたちが新しいエルサレムに入るためには、このように自分を発見して捨てる過程がどうしても必要であることをご存じだからです。それで、神様は訓練を与えられて、子どもたちが貝が分泌液を絞り出すように、苦しみもだえて聖められていく過程を、もどかしそうに見守っておられるのです。ただ見守るだけでなく、恵みと力を与えられて、新しいエルサレムまで入って来るように導かれます。
このような神の愛がわかる人は「訓練がつらい」とつぶやいたり、嘆いたり、「もうみんなあきらめたい」と気を落としたりしません。いくらつらいことを経験していても、むしろ「私はこれを父なる神様の恵みで十分に勝てます。必ず美しい聖潔の実となり、父に喜ばれます」と感動の告白をしながら祈っていくのです。
また、真理のとおりただ従っていく人は、何かの患難がやって来ても、心が満たされなくなることはありません。心の底から相変わらず喜んで感謝するので、「これが訓練だ」とさえ思わないで勝利することもあるのです。
すべての訓練に勝ち抜くと、結局は凱旋将軍のように、まぶしい栄光の中でこの真珠門をくぐるのです。そのような意味を込めて、神様は新しいエルサレムの門を、一つの真珠から作ってくださったのです。

結論

愛する聖徒の皆さん、この地上の日々がいくら厳しくても、将来生きる永遠の天国に比べると、つかの間にすぎません。火のような訓練があっても、あるいは世にどんな良いものがあっても、歳月が過ぎると、みなが一瞬の出来事にすぎません。このような事実を本当に心に悟れば、勝てない訓練は決してありません。
皆さんはすでに天国について多くのメッセージを聞いて、新しいエルサレムについても、あまりにもよく知っておられます。そのすべて知識を一つ一つ、皆さんの心に望みとして積み上げられますように。
[ヘブル6:19]に「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。」とあります。どんな試練と患難の暴風が吹き寄せても、この望みが皆さんの魂をしっかり捕まえて、新しいエルサレムの港まで導くのです。
皆さんすべてが望みのみことばを握って、最後まで勝利して必ず真珠門をくぐり抜けますように。それで、神様が備えられた新しいエルサレム、皆さんの場所で、限りない慰めと喜びを味わって生きられますよう、主の御名によって祝福して祈ります。"

 
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