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メッセージ > メッセージ |
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Title |
黙示録講解(89) |
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Speaker |
堂会長 イ・ジェロク 牧師 |
Bible |
黙 21:15-18 |
Date |
2009-02-06 |
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黙示録21:15-18 また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。
愛する聖徒の皆さん、「ヨハネの黙示録講解」八十九番目の時間です。 きょうの本文がある[21章]は、使徒ヨハネが新しいエルサレムを見て記した内容です。本文[15節]に「また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。」とあります。 「金の測りざお」とは、天国の測定道具で、金の葦で作られています。新しいエルサレムを金の測りざおで測る理由を悟るためには、この金の測りざおの霊的な意味を知らなければなりません。 まず「金」の霊的な意味は、変わらない信仰です。金は、歳月が経っても変わりません。金の塊を小さく砕いても、それを集めれば塊の時と同じように、金としての価値があります。また、純度の低い金を火で精錬すると、火に焼けてなくなるのではなく、純度の高い純金になります。 霊の信仰も、この金のように変わることがありません。神様がたびたび試練や患難で、聖徒が訓練を受けるのを許されるのも、変わらない霊の信仰を持たせるためなのです。このように変わらない金で作られた測りざおで新しいエルサレムを測るとは、神様の測りが正確だし、移り変わることがない、という意味です。一点一画も変わることがなく、神様が約束されたみことばどおりさばきが行なわれる、という意味です。 それでは、測りざおの材料である葦には、どんな意味があるでしょうか? 霊的な意味を説明する前に、葦の特性をちょっと調べてみましょう。 葦は、水のほとりや湿地で育つ多年生の草で、丈が1メートル以上、3メートルにもなります。それで、葦の茂みに人が隠れると、見つけにくいので、隠れ場になったりします。茎には節があって、まっすぐに出る葉は鋭くていさぎよく、花がパッと咲くと白い毛が多くて、やわらかい綿のように見えます。風に揺れる姿は弱そうですが、実際はとても固く根を下しています。このような葦の特性を参考に、霊的な意味を具体的に調べましょう。
第一に、葦の茎には、一定の間隔で節があります。まるで定規の目盛りのような節があるので、 長さを測る道具として使えます。葦にこのように節があるのは、それぞれのしわざに応じて、行ないに応じて報いてくださる神様の公義を表しています。 [黙示録22:12]に「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」とあります。また、[黙示録2:23後半]には「また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。」とあります。 葦が育つほど節が増えていくように、それぞれの信仰が育ち、行ないが積まれる分、天国の場所と報いが決められます。そして、その基準を満たしてこそ、新しいエルサレムに入れます。この信仰と行ないを測るとき、神様は、おおまかにされるのではなく、徹底した公義に従って厳しい基準を用いられます。 先に、この葦が金でできているのは、変わらない金のように、神様の測りが正確で移り変わることがないからだ、と言いました。これと似ていますが、葦の節に含まれた意味も、聖書に記された約束のみことばは、変わることがなく、間違いがないことを表しています。一点一画、つけ加えたり減らしたりせずに、そのまま適用されます。 たとえば、[マタイ7:21]に「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」とあります。このみことばは、必ずそのまま成就されます。いくら教会に通っていても、神のみことばどおり生きなければ、天国に入れないのです。世と友になって、不正と不法の中を歩みながら「主よ、主よ。」と呼んでも、何の役にも立ちません。 また、[マタイ18章]には「子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」ともあります。肉的に考えると、すでに大きくなった皆さんが、再び3、4歳の子どもに帰ることはできません。しかし、聖書にそのように書いてある以上は、必ず子どもになってこそ救われます。ですから、皆さんが天国に行くためには、このみことばの霊的な意味を悟って、霊的に子どもにならなければなりません。 このように変わらない神のことばによって信仰と行ないを測るように、金の測りざおで測って、ふさわしい者が入る所が、新しいエルサレムなのです。
第二に、 葦は地に固く根を下していて、簡単に抜けません。 葦は背が高くて、まっすぐに育ちますが、しなやかで風にすぐ揺れるために、弱そうに見えるかもしれません。おもに湿地や水のほとりのやわらかい土に生えているために、抜けやすそうにも見えます。しかし実際は、その枝が風に揺れても簡単に折れなくて、根を固く下していて、簡単には抜けません。 イネのようなものは、台風が一度通り過ぎたら、倒れやすいです。ところが、葦はいつも水のほとりで風に揺れているけれど、台風が通った後も、相変わらずそのまま残っています。世の人々は、葦のしなやかさだけを見て、よく移り変わる人の心を葦にたとえたりします。しかし、神様はしなやかでありながら、固く根を下していて、簡単に折れない葦の良い点を高く評価されるのです。 このような葦の特性は、イスラエル民族とも似ています。イスラエルは国土が狭くて砂漠は多く、石油は乏しいし、降水量も少ないです。人口も少なく、周りはすっかり敵国で囲まれていて、いつも脅威にさらされています。周りの国々が連合して攻撃すれば、今すぐにでも滅びそうですが、現実はそうではありません。これは、その信仰の根が固いからです。 アブラハム以後、イサクとヤコブ、モーセ、ダビデなど、昔の信仰の人々によって、その根を神様に深く下しています。こう言えば、「十字架のことば」の説教を聞かれた方々は、イエス様の着物と下着に含まれた摂理を思い出すでしょう。イエス様を十字架につけたとき、その着物は兵士たちが、四分に分け合ったが、下着はくじを引きました。これには、イスラエル民族に対する摂理が含まれています。 兵士たちが着物を裂いたように、イスラエルという国は、ローマによって滅ぼされて、民は四方に散りました。しかし、上から全部一つに織った、縫い目なしのイエス様の下着のように、アブラハム以降のイスラエル民族の心だけは、そのまま受け継がれました。それで結局は、時になってイスラエルという国も再び建てられたのです。このように神様に対する信仰に根を下して、神様の摂理にあって建てられた国なので、いくら弱そうに見えても、滅びないのです。 聖徒の皆さんも、金の葦のように、岩なるイエス・キリストの上に固く根を下さなければなりません。主の上に根をしっかり下した聖徒は、試練や患難の風雨が吹き荒れても、台風が襲って来ても、倒れません。しかも新しいエルサレムに入る人は、どんな試練や患難にも屈せずに勝ち抜いて、ついにそこに入るのです。
第三に、葦はとてもしなやかです。風にやわらかく揺れて、その花は暖かい綿毛のようです。このように、新しいエルサレムに入る聖徒も、十分に試練や患難に勝ち抜く力があるけれど、同時にやわらかくて穏やかな心も持っています。 イエス様を見ると、このようなご性質がよくわかります。イエス様は大きい力で不思議としるしを行なって、死んだ者も生かされました。風と波もイエス様のことばに聞き従って、敵である悪魔も恐ろしくて震えました。 そのような威厳と権威がありながら、どれほど柔和でやわらかかったでしょうか? 迫害される時も、争ったり立ち向かったりせずに、その場を避けてしまわれました。低くいやしくてさげすまれていた人々も、イエス様のところで暖かく慰められて、苦しんでいた人々も休みを得ました。 それで、[イザヤ53:2]にイエス様について「若枝のように芽生え」とたとえています。[マタイ12:19]には「(イエス様が)争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。」とあります。 新しいエルサレムに入る人は、イエス様のようにやわらかい心を持った人です。しっかりしていながら、綿毛のような心です。体が丈夫で力が強いからといって、霊的に強くて力があるのではありません。葦のように固く根を下した人は、つまり、真理に深く根をおろした人は、その心がとても柔和で善良なのです。それで、どんなことにも心の平安を失ったり、揺れたりすることはありません。 心の畑がまだ耕されなくて、道端の畑や石の畑の場合は、やわらかいのでなく、固くて頑なです。いばらの畑も同じです。しかし、良い地のような心の畑を耕すと、綿毛のようにやわらかい心になります。人とぶつかったり引っかかったりすることのない、柔和で優しい心になります。 皆さんがひどく平和を破ることはなくても、心に起きる小さい揺れによっても、自分の心を顧みることができます。仮に人の前で過ちを指摘されて責められるなら、皆さんはどんな心になるでしょうか? 真理を聞いて知っているので、うわべでは笑って「指摘してくださって、ありがとうございます。変えられます」とも言えるでしょう。しかし本当に、深い心の底から喜びと平安が消えていないでしょうか? へりくだった姿で責められたことを振り返って、心に留めて変えられようと努力する心でしょうか? でなければ、「私はそうしたのではないのに、相手が私を誤解している」と思って、気を落としたり、悔しくなったりするのではありませんか? あるいは、「どうしてもそんなに人の前で、私に恥をかかせなければならなかったのだろうか」とさびしくはならなかったでしょうか? 平安が失われるだけに、心がやわらかくなく、へりくだっていないから、自我が生きている心、固い心なのです。自我が全くなく、やわらかくて綿毛のように柔和でこそ、ついに新しいエルサレムに入れます。
第四に、まっすぐに伸びる葦の葉は、いさぎよくすがすがしいのです。まことにしなやかで美しいです。このような葦のいさぎよく美しい姿は、信仰の岩に立った聖徒が、行く所はどこでもキリストの香りを放ち、美しく生きることを表しています。 葦の美しい姿には、弱さと鋭さが混ざっています。すなわち、やわらかさと刃のような鋭さと強さも兼ね備えています。新しいエルサレムを慕い求める聖徒の信仰は、まっすぐ伸びている葦の葉のように、天国の門に向かってだけ、まっすぐに上らなければなりません。また、葦のいさぎよい姿のように、行く所どこでもキリストの香りを放たなければなりません。 そして、手が切れそうな鋭い葉のように、時には鋭い刃の剣のように、きっぱりした心もなくてはなりません。鋭い刃の剣のような心からといって、人を切って痛くしたり傷つけたりする、という意味ではありません。神様の法を守るために断固とした心、優柔不断にためらったり妥協したりしない、固い心を意味します。 火の燃える炉に投げ込まれても、偶像を拝まなかったダニエルの三人の友だちのように、罪と妥協せずに正しい道を進んでいくのです。このように小さい不義とも妥協しない姿は、世の人が見る時は、愚かに見えることもあって、成功しにくく見えるかもしれません。 たとえば、金融業界で働いている方は、接待をすることが多いです。しかし、聖徒の皆さんは、酒も飲まないでタバコを吸いません。また、週末はこまめに人々と付き合って、人脈を広げても足りなさそうなのに、主日になると、教会で時間を過ごします。このような一つ一つが、信じない世の人の立場からは、どれほどじれったく見えることでしょうか? また、他の人が悪を行なうとき、悪をもって立ち向かうこともないので、とても弱く見えることもあります。しかし、聖徒がまっすぐな心で真理を守る時は、神様が聖徒とともにおられるので、決して弱くありません。折れて害をこうむるのではなく、火の燃える炉の中からも救われた三人のように、かえって見事に栄光を帰す人生になります。はいるときも、出て行くときにも祝福されて、かしらになり、尾にはならない、貸すであろうが、借りることはないようになります。 ところが、たびたび、神様を信じていると言いながら、敵である悪魔・サタンに訴えられて、つらそうに生きている人々がいます。このような場合、自分が真理に逆らって不義と妥協したのではないか、顧みなければなりません。あるいは、自分なりには、真理の中を歩んだとしても、実は自分の義と枠の中で行なって、まことの神の御心を表せなかったので、訓練が伴う場合もあります。 聖霊に働きかけられて、真理を固く守って、正しい信仰生活をする時は、決して弱くなく、すべてのことに栄光を帰す信仰生活ができるのです。今まで調べた葦の特性のゆえに、神様が新しいエルサレムを測る時は、金の測りざおで測られるのです。
続く[16-17節]に「都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。」とあります。 新しいエルサレムの全体の形は、長さも幅も高さも同じ正六面体です。「都が四角」とは、天国の秩序と正確性を、また、公平さと公明正大さを表しています。新しいエルサレムには十二の門がありますが、城壁のどの面にも同じように三つあります。これは、全世界のどこからも、誰でも金の測りざおの測りにふさわしいなら、公平に新しいエルサレムに入れる、という意味です。 都の形が四角だからといって、中のすべての構造が直線だけでできているのではありません。さまざまな形の曲線もあって、美しくていろいろなものが可愛く飾られています。人の心が多様で、好みもみな違うので、家を飾るとしても、それぞれの心に合う形が違います。ある人はまっすぐできちんとしたものが好きで、ある人はやわらかい曲線や丸いものが好きです。それで、神様も都の中にある家を、そこに入る聖徒の好みに合わせて、多様に飾ってくださるのです。
城壁は長さも幅も高さも同じ一万二千スタディオンだと書いてあります。一スタディオンは、およそ1,500マイルで2,400キロメートルに当たります。ここで特異なことは、都の長さと幅が同じだけでなく、高さまでも同じだということです。 たとえば、ソウルほどの四角の都市を作りましたが、長さと幅と同じ高さの壁を積んだら、その高さがものすごくなりませんか? それほど高い壁で囲まれているならば、都の中で住む人が息苦しいかもしれません。しかし、天国ではいくら城壁が高くても、息苦しくはありません。その壁がガラスのように全部透明だからです。中からは外が全部見えますが、外からは中が見えません。 新しいエルサレムを平面積だけで計算すれば、およそ日本の15倍になります。ところが、新しいエルサレムは城壁が高いだけに、空間の活用もこの肉の世とは違います。底に面した下の部分だけを活用するのではなく、神様の力で最も高いところまでも活用できます。それで、平面では同じ広さであっても、この地上の空間よりはるかに広く使えます。平面積で計算したより、数千倍以上増えることもあります。 高さがこのように高いならば、当然、それに合わせて城壁の厚さも厚くなるでしょう。本文を見ると、城壁は百四十四ペーキュスあった、とあります。一ペーキュスは、約45センチなので、144ペーキュスなら、城壁の厚さだけでも約65メートルもある、という意味です。どれほど巨大な都でしょうか? もちろん、天国の測りの基準が、この地上と同じなのではありません。けれども、聖書を読む人々がおおまかでもその規模が想像できるように、このような数字を書き記したのです。
[17節]に「人間の尺度で・・・・・・、これが御使いの尺度でもあった。」とあるのは、人間耕作の結果によって、すなわち、それぞれの人の子らが信仰の段階を通り抜けた分、御使いがその都に場所を備える、という意味です。 本文[18節]に「その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。」とあります。[黙示録21:11]にも、これと似た表現があります。「都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」 新しいエルサレムの城壁は、外壁と内壁の二重構造です。外と内の城壁は離れているのではなく、まるで紙二枚が重なったようにできています。それで、都の外から城壁を見ると、碧玉で造られていて、都の中から見ると、純金で造られています。 碧玉と純金を地味に積み上げたのでなく、美しい彫刻と模様で華麗に飾られています。天国のさまざまな宝石には、みな神様が与えられた霊的な意味があります。その色と宝石の名前が合わさって、それぞれの宝石の威厳と誇りを表します。 碧玉の霊的な意味は「信仰」です。これはすなわち、信仰を表す宝石が天国の碧玉だということです。新しいエルサレムは霊の信仰があってこそ入れる都なので、碧玉で城壁を造ったのです。金も霊的に信仰を表すと言いましたが、本文の「純金」には、望みという意味が含まれています。信仰があるから天国の望みが持てて、この地上で熱心に信仰生活ができます。その望みがあるので信仰生活しながら、霊的に積み上げていくすべての行ないが、天国の家と報いとして積まれるのです。 次の時間には、十二宝石で飾られている土台石と、真珠でできている都の門について調べます。
結論
愛する聖徒の皆さん、新しいエルサレムの中の空間はとても広いですが、その中に入る数は、救われた全体の数に比べると、あまりにも少ないです。旧約聖書の人物を調べても、エリヤ,エノク,アブラハム、モーセ、ダビデ、サムエル、ダニエル、三人の友だち、エステル、ルツなど、そんなに多くありません。新約時代には、聖霊に助けられるので、旧約時代よりは、多く入りますが、それでも救われた聖徒全体に比べるとごく少数です。 ですから、このように広い新しいエルサレムで、それぞれの人に与えられる場所がどれほど広いでしょうか? 神様は広くて栄えある新しいエルサレムを造って、その中に入ってくる子どもたちを切ない心で探しておられます。この地上の魂の中で探してまた探して、ふさわしい心を発見すると、とても喜んで、純金のように出て来るように練られます。 それで、思いきり神様に栄光を帰すようにされ、その信仰の行ないに応じて、新しいエルサレムに家と報いを備えてくださいます。世の材料と比べられない、華麗で美しい家と、想像さえし難い、うっとりした人生を味わうようにされ、すべての涙をぬぐって慰めてくださいます。一日一日指おり数えて、その日の喜びを期待しながら、きょうも神様は、最上の材料で新しいエルサレムを造っていかれます。 人間耕作の永い歳月の間、気をもみながら耐え忍ばれた神様の心を、慰められる聖徒の皆さんになりますように。それは、ひとりでも多くの人が新しいエルサレムに入ることです。この地上の残った日々を賢く活用して、新しいエルサレムの広い敷地の中に、美しい家を建てる皆さんになられますよう、主の御名で祝福して祈ります。 |
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