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メッセージ
Title
   黙示録講解(88)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   黙 21:10-14
Date
   2009-01-30


黙示録21:10-14

そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。

愛する聖徒の皆さん、きょうの本文からは、新しいエルサレムについて使徒ヨハネが見たことが本格的に記されています。まずは、外側から見た新しいエルサレムの形と色と感じ、そして、都の門と土台石などを説明しています。
新しいエルサレムについては、最近「天国」の説教で詳しく扱ったので、重なる内容は簡略に説明していきたいと思います。もちろん、重ねて詳しく語っても、天国の望みが心に満ちている方は、「退屈だ」と言わないでしょう。
ある人が、仮に数十年間お金を貯めて、晩年に自分の家を建てるようになったとしましょう。一生、自分の家がないまま生きてきましたが、今ようやく家を建てるようになり、それも宮殿のような家を建てようと計画しました。
それなら、一日一日待つその時間が、どれほど望みあふれるでしょうか? 地面を掘って柱を立て、屋根を作って内装工事が全部終わるまで、どれほど期待してわくわくするでしょうか? 行けるなら毎日立ち寄って、その過程が見たいでしょう。
仮に直接行けないならば、せめてどう進んでいるか、度々聞きたがるでしょう。「家が今、ここまで建てられました。床の材料は何々色の大理石にします。部屋はいくつ、部屋の壁紙はこれこれの色です。庭にはこれこれの花と木を植えています。」このように詳しいことまでも聞きたくなり、この後、家の中をどのように飾るのか、いろいろな想像をしてみるでしょう。しかし、自分と関係ない人の家ならば、どのように建てられるのか、あまり関心がありません。
天国も同じです。皆さんが本当に自分を変えさせて、新しいエルサレムに向かって走っているならば、天国についての内容は、聞くたびに感動します。漠然と「そんなところがあるんだ」というのではなく、もっと知りたくなり、もっと聞きたくなり、しょっちゅう聞いても幸せで、感謝です。自分が入る天国の家をもっと具体的に描いてみるとき、この地上の苦しみも十分に勝ち抜ける慰めになります。
きょうも、メッセージを聞いて、皆さんの心に慰めになり、毎日さらに聖められて忠実に走れる力が増し加えられますように、主の御名によって祈ります。

本文[10-11節]に「そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」とあります。
ソウル市内の全景を見るには、ナムサン(南山)タワーのような高い所に上るか、飛行機に乗って空から見下ろせばよいです。そのように、ヨハネは、御霊に感じて霊が浮き上がって、巨大な新しいエルサレム全体を見ています。
「大きな高い山に行った」とは、新しいエルサレム全体を見下ろすほどの山が、天国のどこかにあるという意味ではなく、肉の人が理解できるように表現したのです。そのように見下ろすと、新しいエルサレムに「神の栄光があった。」と書いてあります。
私たちはいつ神様に栄光を帰すでしょうか? 神の力によって、人としてはできないわざが現れたとき、栄光を帰します。治療できない病気がいやされて、目の見えない人、話せない人、歩けない人が完全になったとき、また、祈りによって台風が退いたり、ひどい日照りの中で雨が降ったりすると、栄光を帰します。また、悪い人が主を信じて良い人になったとき、罪と悪を捨てて聖められたことを発見するとき、神様に栄光を帰します。
世の教養と勉強によって、人の心が善良になるのではありません。いくら学校で道徳と倫理を教えても、世はますます暗くなって、人々の心は日増しに悪くなっていくのが見られます。
しかも、心の根にある罪の性質まですべて捨てて聖められることは、人の意志と力だけではできないのです。神様の恵みと助けによって、そして、聖霊の力でできるのです。このように神様の働きによって、自分が前と違って変えられたことを感じるとき、感激して神様に栄光を帰すようになります。
死ぬしかなかった魂が救われて天国に至った時も、私たちが神様に栄光を帰します。とても美しい自然や、神秘的な現象を見る時も、創造主の神様の大いなることをほめたたえ、栄光を帰します。
本文で使徒ヨハネは、神様が造られた新しいエルサレムで美しさの極致を感じるので、「神の栄光があった。」と言っているのです。
この新しいエルサレムは、巨大な城壁の全体がこの地上では見られない天国の碧玉で造られています。文字どおり、宝石で造られた都です。その光と美しさは言葉で表現できなくて、ただ外側から見るだけでも驚いて、神様に栄光を帰すようになるのです。
初めに「その輝きは高価な宝石に似ており」と書いてあるのは、ヨハネがまだ近くで確認する前、遠くから見た時の全体的な印象を、臨場感をもって伝えているのです。今、ヨハネが新しいエルサレムを見ているのは、まるでカメラでどこかの都を撮るとき、まず遠くからから都の外部と全体を撮って、だんだん近くに焦点を移して、細かい部分を見せているようです。
初めは遠くから都全体の形と感じを見て、だんだん細かいところまで説明しています。もう少し詳しく見たら、やはりこの都は、実際に宝石で建てられていて、透き通った碧玉のようであった、と書いてあります。
「碧玉」は青い光を帯びた玉で、天国の碧玉はこの地上の碧玉とは感じが全然違います。この地上の宝石も、原石の質と細工技術によって価値が全く変わってきます。たとえば、同じダイヤモンドであっても、光彩とデザインは千差万別です。まして神様が細工なさった天国の宝石は、どれほど美しいでしょうか?
天国の碧玉も、この地上のもののように青いことは青いのですが、白に青い光が混ざったようで、濃くなくて、とても澄んでいて透明です。青い光を帯びて透き通っているのです。この地上で最大限、その感じを表現するなら、海に波が立つとき、日差しが波に反射して放つ青い光を思い出せばよい、と言われました。この青い光を見る時は、父なる神様の清らかさとしみもなく透き通っている正直さ、正しさなどが感じられます。このように美しい碧玉で造られている都を見ると、ヨハネは、その美しさと栄えある輝きに、おのずと神様に栄光を帰すようになりました。
新しいエルサレムの輝きが「高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」とあるのは、将来、私たちがそこで味わう人生がどんなものなのか、悟らせてくれます。それは人としては想像できない霊の人生であり、この地上の肉の人生とは比べられない、とても栄華ある神秘的な生き方です。
また、霊的に碧玉は「信仰」を意味します。レンガを一つ一つ積み上げて都を作り上げるように、新しいエルサレムは、私たちが信仰の段階を一つ一つ積み上げ、最高の信仰である五段階になると入る所です。それで、神様は新しいエルサレムの城壁を碧玉で造られたのです。
[12節]に「都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。」とあります。
十二の大きな門に、門衛の役割をする十二人の御使いがいます。あえて誰かが新しいエルサレムに侵入することもできないけれど、それでも御使いが守る理由は、新しいエルサレムの栄光を表すためです。
この地上の城や宮殿の前でも、りりしい制服を着た兵隊がものものしく警備していると、そこに住んでいる城主や王族の威厳が感じられます。新しいエルサレムには、創造主の神様の御座があって、神様に最高に愛された子どもたちが住んでいます。いかめしい御使いがその都を守ることは、神様の権威と新しいエルサレムに住んでいる聖徒の権威を表してくれるのです。
また、御使いが守っているのは、天国の秩序を表してもいます。天国は、徹底した公義に従って秩序があり、一寸の誤差もなく動いています。いくら華麗に飾ってある天国でも、秩序がなくて無節制に動くなら、それは美しくて幸せではありません。
正確な公義と秩序があるからといって、無理に、あるいは、やっとのことで守るのではありません。その公義がまことに正しくて当然だと感じるので、心から自然に聞き従うのです。たとえば、自分より高い序列の聖徒を見ると、無理に頭を下げて仕えるのではありません。心から尊敬と愛が湧き出て、喜びと慕う心で仕えるようになります。
また、天国のほかの場所の聖徒が新しいエルサレムに出入りするのも、定められた秩序に従ってだけできるのです。新しいエルサレムで宴会を催す時も、天国のすべての聖徒が来ることはできません。招かれた人だけが正確な時間に、自分のために用意された席に入って来ます。
もちろん御使いが守っていなくても、ほかの場所の聖徒がいつでも自由に新しいエルサレムに出入りすることはできません。栄光の光がはっきり違うので、許可を得ないなら入れないのです。けれども、特別に御使いが守ることによって、それだけ天国が全き秩序に従って動いていることを見せているのです。
本文[13-14節]に「東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。」とあります。
新しいエルサレムは、城壁の長さも幅も高さも全く同じで、正六面体の形に造られています。このように都をきちんとした形に造られたのは、まず天国の正しさと秩序を表しています。また、東西南北の四方から、すべての人が救われてこの都に入って来る、という意味もあります。
それで、四角の城壁のどの面にも三つ、計十二の門があって、東西南北、世界のすべての人々からふさわしい子どもたちが、この門を通って入って来るのです。この時、十二の門のうち、それぞれどんな門を通って新しいエルサレムに入るのかは、信仰の特徴や心の香りによって決められます。
先に、十二の門には、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった、と言いましたが、十二の土台石には、小羊の十二使徒、つまり、イエス様の弟子たちの名が書いてあります。これには、父なる神様が救いの摂理をどのように成し遂げられて、どのように全うされたのか、その摂理が含まれています。その摂理をおおまかに調べてみましょう。
神様は、まことの子どもを得るために、人類の先祖であるアダムとエバを造られました。ですが、彼らは罪を犯したので、エデンの園から追い出されました。この時から、人は汗を流して苦しんで地を耕してこそ、その糧を得るようになりました。そして、結局は死んで、土で造られた肉は再び一握りの土へ帰って、霊と魂は死の地獄に落ちるようになりました。
このように、死の道に向かっている人類を救うために、神様は驚くべき摂理を繰り広げられます。時になると信仰の父アブラハムを召され、その子孫のヤコブ、すなわち、イスラエルを用いて、神様の民を選ばれました。
[創世記22:17]を見ると、神様がアブラハムに約束のみことばを下さいます。「わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」とあります。
このみことばどおり、神様はアブラハムの子孫が一つの国を成すようにされます。そして、その中から死の力を打ち砕いて、人類を救う救い主が生まれるようにされました。
ヤコブ、すなわち、イスラエルには十二の息子がいました。彼らを通してイスラエル民族の十二の部族が形成されました。彼らによって国が建てられて、その中で律法が宣べられます。旧約の律法は、やがて来られる救い主、新約のイエス・キリストの影です。影があれば実体が必ずあるのであり、実体は影とは一体のように、旧約と新約も一つであります。
旧約時代の律法は、やがて来られるメシヤを証ししたものであり、新約時代には、メシヤが来られて、律法を全うされました。イエス様は十字架で死なれて、愛で律法を全うされ、この福音を弟子たちにゆだねられました。十二の弟子を召して、地の果てまで主の証人になるようにされ、霊的な神の国を実現するようにされました。
旧約時代、イスラエルを形成した十二の部族も大切で、彼らの中で宣べられた律法も大切です。しかし、さらに大切なのは、律法を全うした新約と、霊的に完全な神の国を実現した十二使徒です。この弟子たちは神のみことばを守って教え、行なうようにさせた人たちであり、新しいエルサレムを造っている土台石のような人です。
ところで、十二の土台石のうち、特異な土台石が一つあります。十二使徒のうちのひとり、すなわち、イスカリオテ・ユダは、イエス様の弟子に選ばれましたが、結局は自ら裏切って死の道に行きました。後でイスカリオテ・ユダの代わりに、「マッテヤ」という弟子が選ばれて、使徒の務めを代わりにします。
このマッテヤの名のある土台石は、ほかの土台石と区別される特別な意味を持っています。すなわち、この土台石にはマッテヤひとりだけでなく、イエス様の復活、昇天以後、神様が召されて用いられるしもべがみな含まれます。イエス様の命令に従って十二弟子が働き、多くの主のしもべがその福音のバトンを受け継いで、今まで神の国を実現しています。
この地上でも、リレーをするとき、最初に走った人も大切ですが、バトンを受け継ぐひとりひとりがみな大切です。最後の人までみなよく走ってこそ勝てます。
十二弟子の後に、多くの主のしもべが召されて、引続き神様の摂理を実現してきて、新しいエルサレムを積み上げてきました。このように神様の摂理の実現にあずかったしもべたちは、土台石に名が書かれた十二使徒のように、大きい栄光が受けられるのです。
しかし、主のしもべや神の働き人だからといって、誰でもこの座に至ることはできません。本当に「使徒」と呼ばれるほどの資格がある人でなければなりません。すなわち、神様の前にふさわしい心を持った人であり、いのちをささげるまでただ聞き従った人、完全に真理を行なった人なのです。また、自分の家族、親戚、自分の人生、自分の主張を前に出さず、神様を最も愛する人です。
[マタイ10:37]で、イエス様は「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と言われました。また、[マタイ8:22]では、父親が亡くなった弟子に、「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」と言われたのです。
もちろん、このようなみことばが、神の子どもたちは肉の父が亡くなっても行ってはいけない、という意味ではありません。死人たち、すなわち、霊が死んだ世の人々は、世に属したことに没頭します。しかし、神の働き人は、肉の事より、霊に属したことをまず思うべきで、心がいつも神の国になければなりません。
[第二テモテ2:4]にも、「兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。」とあるように、自分の生活に掛かり合って、神の働きに差し支えてはいけないのです。このように、ふさわしい資格を備えた人は、光栄な十二番目の使徒の座に入れます。

結論

愛する聖徒の皆さん、新しいエルサレムは愛だけでなく、徹底した公義で造られた都です。
人は「公義と愛」という言葉を聞くと、愛は好きですが、公義は負担に思ったりします。しかし、公義のない愛は、それほど輝きません。公義は恐ろしくて苦しめるものでなく、愛をさらに完全にさせて美しくさせる、枠のような役割をします。
やさしいたとえを挙げてみます。本当に賢い親は、いくら大事な子どもであっても、何が何でも子どもの願いどおりにしてあげないのです。小さい時は「よし、よし」と全部受け入れる親が良いと思うこともあります。しかし、皆さんがおとなになって物心がつくと、それがまことの愛でないことを悟ります。
もちろん、親の愛が感じられるように、愛情豊かに表現することも大切です。しかし、同時に、子どもに必ずすべきことと、してはならないことを教えるべきであり、心が痛むけれど、厳しく叱らなければならない時もあります。そうする時でこそ、子どもは自分を制することができて、ひとりの人格体としてまっすぐ育って、家の外でも認められるのです。
また、皆さんが教会の中でリーダーを選ぶ時も、どんな人を選ぶでしょうか? ただおとなしくて人とぶつからなくて、性格が良いからといって、選ぶのではありません。真理にあって正しいか正しくないかが正確に見分けられて、時に応じてどうしても必要な時は、きっぱりした決断力もなければなりません。
やわらかくて善良で、傷を与えない心ならば、ほかの魂に安らぎを与えることはできます。しかし、その柔和には必ず義が伴ってこそ、魂を真理に導くことができ、霊的なまことの平安が与えられるのです。柔和に義が備わってこそ、徳になるのです。
ここでも柔和が愛の面とすれば、義は公義の面になります。もちろん、愛が足りなくて義が強い人は、ほかの人に冷たくて固く見えたり、自分自身までつらくしたりします。しかし、柔和と愛が加わった公義は、人をさらに美しくて尊く作りあげます。また、その義をもってほかの人をつらくさせるのではなく、光と闇が見分けられるようにして、霊的な喜びを与えます。
まさに、このような原理が新しいエルサレムに含まれているのです。新しいエルサレムは、神様の愛が満ちていて、自由と幸せ、平安が満ちているところです。それとともに、神様の正しいご性質があちこちに表れています。
城壁もおおざっぱに造られたのではなく、真四角であり、初めから大きさを正確に決められました。城壁の大きさにも、十二の門と十二の土台石にも、耕作の摂理が細やかに込められています。都の中に建てられたすべての家も、その大きさと材料、形に意味があって、その中の聖徒も適当にではなく、とても秩序正しく自制した生き方をします。
このように、公義が備わっているので、新しいエルサレムの栄光がより大きくなるのであり、その中で聖徒の人生ももっと幸せで栄華あるものになるのです。
愛する聖徒の皆さんは、このような父なる神様の心をよく悟れるよう、願います。公義と愛にあって完全な父なる神様の心に似せられた子どもになり、この都に入れる資格をすみやかに備えられますように。一歩進んで、多くの方が十二の土台石に名が書かれた使徒のように、神様の耕作の摂理において大きい功績を立てて、将来、言葉にならない栄光のうちにとどまりますよう、主の御名で祝福して祈ります。

 
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