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Title
黙示録講解(45)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 7:5-10
Date
2007-11-23
<黙示録7:3-10>
ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
ヨハネの黙示録の全般的な内容は終わりの時についての預言であり、霊的な内容です。それで、人々がその意味を知ろうとしても、神様が教えてくださらなければ、人の思いや知恵では悟ることができません。終わりの時に大きい患難が臨むというおおまかな内容は推測できますが、具体的で詳しい内容はわからないのです。
その中でもきょうの本文は長い間、聖書を読む多くの人々が疑問を持っていた内容です。主を正しく信じていた人々はみな携挙された後の七年大患難の間に、どこから十四万四千人という神のしもべたちが現れたのか、また、その人たちはどんな人々であり、どんな働きをするのかが疑問だったのです。
このような疑問を解いてくれるメッセージがこの前の時間から伝えられていますが、きょうも続けて十四万四千人の神のしもべたちについて説明します。
きょうも伝えられるメッセ-ジで、すべての魂を救おうと望んでおられる神様の愛をさらに深く悟って、また、みこころに従って終わりの時に備える幸いな聖徒になりますように。
聖徒の皆さん、本文に出てくる十四万四千人は七年患難の間、特別な使命を受けて、神様の救いの摂理を全うするしもべたちだと言いました。
彼らは七年患難の前は救い主イエス様についてよく知らなかったり、主を受け入れるような機会がなかったので、この地上の七年患難に残された人々です。そうしていて七年患難の間に起こることを見て、遅まきながら正しい良心を持って神様を信じて、主を受け入れるようになったのです。
彼らはひとたび主を受け入れると、その後は命をかけて世に出て行って、この地上に残された人々に福音を伝えます。それで、迫害によって殉教したり、あるいは自然災害や戦争などで死ぬようになりますが、これもまた殉教と認められるのです。そして、このように十四万四千人が出て行って福音を伝えると、他の数多くの人々も彼らの伝道で主を受け入れて、救われるようになります。
しかし、皆さんが必ず覚えておくべきことは「七年患難の間に主を受け入れても救われる機会があるんだな」と安易に思っては絶対にいけないということです。この十四万四千人の神のしもべたちは以前は神様を知らなかったけれど、それなりに正しく生きてきて、今は神様がまことの神だと知ってからは命までもささげられる心を持っている人々です。たとえ彼らが神様と主を知らなくても、良心さばきを受けるなら、三天層に入るような心なのです。このような心を持っているので、彼らが七年患難の時に主を受け入れるなら、殉教するまで使命を果たして、その殉教の功労を認められて天国の三天層に入れるのです。
ところで、彼らが三天層に入れる根拠になるみことばが<黙示録14章>に出て来ます。<14:4-5>に、十四万四千人の神のしもべたちについてもう一度説明があります。「彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。」とあるのです。
前に6章を説明するとき、殻の信者はかろうじて殉教して救われても、自分たちの恨みを晴らしてくださるよう神様に願っている場面がありました。それほど心に善が足りなくて、心の割礼ができなかったということです。
ところが、この十四万四千人の伝道者たちは、その口には偽りがなく、傷のない者だと言われました。さらに女によって汚されたことのない人々、童貞であるとあります。ここで「女」とは「世」を意味しています。したがって、世に染まらず、自分をきよく守ったという意味です。また、小羊が行く所には、どこにでもついて行く、というみことばのように、彼らはただ主のみことばに聞き従って、命を捨ててまでもみこころに従うという意味です。ですから、彼らが神様の前で十分に三天層に入るにふさわしい資格を備えた人々だということがわかります。
次に、<9節>に出てくる数えきれぬほどの大ぜいの群衆、すなわち、十四万四千人の伝道者たちによって福音を聞いて受け入れたこの人々も、殻の信者たちとは違います。彼らは、以前福音を聞いても世と妥協して罪の中を歩んでいた殻の信者たちとは違って、信仰を持つ機会がなかった人々です。つまり、以前福音を聞いたなら、信仰生活を正しくして引き上げられるような、それでも正しい良心を持った人々なのです。もちろん十四万四千人の伝道者たちほどふさわしい心を持ったのではありませんが、それでも信仰を持つような正しい良心はあったので、神様は彼らも憐れんで、救いに至る機会を下さるのです。
このような人々には神様の恵みによって早く殉教する道が開かれたり、激しい拷問や迫害を避ける道が開かれたりします。したがって、たとえ信仰が弱くても、彼らには救われる道が開かれるのです。そして、彼らにはパラダイスが天国の場所として与えられます。
しかし、殻の信者は違います。前にも説明したように、彼らには七年患難が臨む前に、すでに多くの救いの機会があったのに、その機会をつかまず、神様の恵みを捨てたからです。ですから、すでに携挙が終わったところで彼らがもう一度その信仰を認められるなら、残酷な苦しみに耐えに耐えて殉教に至ってこそ、公義に従って救われるのです。
ところが、その残酷な苦しみを勝ち抜いて信仰を示す人々が殻の信者の中ではそんなに多くないのです。その上、殉教したとしても、彼らはやっとパラダイスでも最も外側にとどまるだけで感謝して満足しなければならないのです。
愛する聖徒の皆さん、それでは「十四万四千人」の神のしもべたちについて、もう少し調べてみましょう。本文を見ると、イスラエルの十二の部族からそれぞれ一万二千人ずつ出てきて、その数を合わせれば十四万四千人になります。
ここで「イスラエルの十二部族」とは、すでに説明したように、肉的な意味でイスラエル民族だけを示すのではないのです。イスラエル民族は創造主の神様が人間耕作の摂理のために特別に選ばれた民族です。ところが、十四万四千人のしもべたちも、七年患難の時、救いの摂理のために神様に選ばれた人々なので、彼らを霊的に「イスラエルの十二部族」と表現したのです。
ここで「一万二千人」「十二の部族」、このように十二という数字が続いて登場しますが、これにも霊的な意味があります。聖書に出てくる数字には霊的な意味が含まれている場合が多いのです。
たとえば「三」は「かなった数」として「完全になる」という意味があります。神様も三人のお方でありながら同時におひとりである、三位一体の神様として存在しておられます。また、イエス様が葬られて三日目によみがえられたことや、ヨナが三日間、魚の腹の中にいたこと、イエス様が受けられた三度の試みなどがすべて「かなった数」である「三」とかかわっています。
次に「四」は苦しみの数です。イスラエルの民が荒野で受けた四十年の訓練や、エジプトでの四百年の奴隷生活、あるいはイエス様の四十日断食のように、「四」という数字はおもに苦しみとかかわっています。
次に「七」は「完全数」です。これは「完全」を意味する数であり、神様も六日の間すべての創造を終えて、七日目に安息なさいました。神様が答えを下さる時も、七つの御霊の基準に合わせて下さり、ナアマン将軍が神様の前に出てきていやされる時も、ヨルダン川で七たび身を洗いました。
次に「十二」は光の数です。<ヨハネ11:9>でイエス様は「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」と言われました。一日24時間のうち12時は、太陽が中天にかかっていて最も明るい時です。イスラエルの十二の部族、イエス様の十二の弟子、新しいエルサレムの十二の土台石、十二の真珠門、いのちの木の十二種類の実などが、この光の数である十二にかかわっています。
私たちの主はまことの光であり、真昼の光のように最も明るい全き光であられます。このような光である主が耕作の摂理を成し遂げるために、人となってこの地上に来られました。神様はこの光であるイエス様をこの地上に遣わされるとき、神の民であるイスラエルに遣わされました。光の数である十二部族で形成されたイスラエル民族を通して、イエス様がお生まれになるようにされました。また、イエス様の弟子が十二人であることも、彼らを通して全世界に救いのことばが伝えられて、まことの光であるイエス・キリストが伝えられることを意味しています。
このように、最後の七年患難の時に主を伝える神のしもべたちも、十二という光の数に合わせて、十二の部族の中から一万二千人ずつ選ばれるのです。それで、計十四万四千人を立てられるのですが、このように多くの数を伝道者として立てられるのは、七年患難の間には、それだけ福音を宣べ伝える期間が短いからです。短い時間に、できればもっと多くの人々に福音を伝えて、救いに至るようにしなければならないので、十四万四千人もの伝道者が一時に立てられて、世に出て行って福音を伝えるのです。
ところで、本文を見ると、この人々について、ただ十二の部族からそれぞれ何人ずつ、計何人だと簡単に説明すればよさそうですが、そうしなかったのです。「ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、・・・」と、十二の部族の名前を一つ一つ挙げています。
しかもこの名前は、もともとヤコブから生まれた十二人の息子たちとは、その名前と順序にも若干の違いがあります。たとえば、ルベンが長子なのに、本文にはユダが一番先に出て来ます。そして、五番目の息子ダンの部族が抜けて、代わりにマナセ部族が入っています。
ここでダンの部族が抜けた理由については、<第一列王12:27-29>を見ればわかります。「この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。『もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。』それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。」とあります。
ソロモンの息子レハブアムの時に、イスラエルは国が分裂して、北イスラエルと南ユダに分かれてしまいました。この時、北イスラエルの王となったヤロブアムは民の心が南ユダにあるエルサレム聖殿へ向かうのを防ごうと計画して、金の子牛を二つ造り、これらを神として仕えるようにします。一つはベテルに、もう一つはダンに据え、神様の代わりに仕えるようにしたのです。
この時、金の子牛を安置した「ダン」という場所が、まさにダン部族が集まって住んでいた所です。エジプトから出たイスラエルの子孫がカナンを征服した当時、ダン部族は「ライシュ」という町を征服した後、そこを自分たちの先祖の「ダン」の名前にちなんで、新しく「ダン」と名づけたのです。
それで「ダン」は偶像礼拝の根拠地になって、そこにおもに住んでいたダン部族の人々も、簡単に偶像礼拝に染まってしまいました。このように偶像礼拝の根拠地になった「ダン」と、そこに住んでいた「ダン部族」のため、多くの人々が偶像礼拝をして、結局死の道を歩むようになりました。
ダン部族にはこのような大きい過ちがあったので、黙示録に記された十二の部族、すなわち、救いの摂理を全うする十二の部族の中からは、ダン部族の名前が抜けるしかなかったのです。このようにダン部族が抜けた代わりに、マナセの名前が入ります。マナセはヤコブの十一番目の息子ヨセフの長子です。
ところで、創世記を見ると、これに関してもすでに預言されています。<創世記48:5>に、イスラエル、すなわちヤコブが、息子のヨセフにこう話す内容が出てきます。「今、私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子にする。」とあります。
ヨセフのふたりの息子、エフライムとマナセは、たとえイスラエル、すなわち、ヤコブの息子ではなくて孫であっても、彼らをイスラエルの十二の息子のように印を押しているのです。このように、イスラエルの十二の部族の中からダンが抜けてマナセが代わりに入るのも、すでに遠い昔からすべてをご存じであって預言させた神様の正確な摂理のうちにあるのです。
ところで、イエス様の十二の弟子の中でも、これと似たことがありました。イエス様の十二の弟子によって、まことの光である救い主イエス様が伝えられなければならないのですが、その十二人の中にはイスカリオテ・ユダも入っていました。それで結局、裏切ったイスカリオテ・ユダの代わりに、くじを引いてマッテヤという弟子がこの十二使徒の列に入るようになります。
このように十二人の中からふさわしくない者が抜けて、ふさわしい者が代わりに入ったのも、耕作の歴史の中で意味がある出来事です。これはすなわち、選ばれた民イスラエルの子孫でない異邦人の中からも、救いの恩寵の中に入ってくる人々がいることを示す出来事です。
<ローマ11:17>に「もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、」とあります。
ここで「オリーブ」とは、神様の選ばれた民イスラエルであり、「野生種のオリーブ」とは異邦人を意味しています。そして「枝の中のあるものが折られ」ということは、もともとオリーブであるイスラエルが自分たちの王であるイエス様を否定して十字架につけたので、結局、救いから遠くなったことを意味しています。
代わりに野生種のオリーブがその枝に混じってつがれ、オリーブの根の豊かな養分をともに受けているということは、異邦人の中でイエス・キリストによって救われる人々がいるということを意味しています。十二の部族のうちダン部族が抜けて、代わりにマナセ部族が入り、十二の弟子のうちユダが抜けて、マッテヤが入ったように、主を否定することでイスラエルの中からは救いから抜ける人々がいて、彼らの代わりに主を受け入れた異邦人がむしろ救いにあずかるのです。
ここまでよく理解されたでしょうか? それでは、今からはイスラエルの部族の名前がなぜ順に長子のルベンからではなく、ユダから始まるのかを説明します。
本文の十二の部族は、霊的に、彼らを通して救いの摂理を完成するために立てられた神のしもべだと言いました。それで、この名前の順序には、私たちが救われて聖められるまでの信仰成長の過程についての霊的な意味が含まれています。
一番先に出てくる部族はユダ部族です。もともとイスラエルの長子はルベンなのに、ユダ部族がルベンより先になった理由は、まさにユダヤ部族からイエス様がお生まれになったからです。もちろん、イエス様は人の子孫としてお生まれになったのではありません。イエス様はおとめマリヤのからだに聖霊によって宿ってお生まれになりました。しかし、マリヤの夫ヨセフがユダ部族ですので、肉によればユダ部族の子孫として来られたことを言っています。このようにイエス様がお生まれになったユダ部族が当然十二部族のかしらとして出てくるのです。
「ユダ」という名前には「ほめたたえる」という意味があります。これはまさに、この地上に救い主として来られたイエス様のお生まれをほめたたえるという意味です。イエス様がお生まれになった日に、御使いと一緒に、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」と言ったように、救い主のご聖誕をほめたたえるという意味です。
次に、ルベンという名前には、「子を見よ」という意味が含まれています。人となってこの地上に来られた神の御子イエス様を救い主として受け入れることが信仰の初めの段階です。ついに救われた神の子どもとされるのです。信仰の段階で言うなら、一段階です。
それで、このようにイエス様を救い主として受け入れるなら、三番目の名前であるガドが意味する「幸運が来た。」という意味のように、幸いな人になります。この世のどんな幸運とも換えられない、救いのまことの幸いを受けるのです。良き知らせである福音を聞いて、イエス様を救い主として受け入れて救われるので、幸いな人になったということです。
そして、このように幸いな人になったら、その時から心にしあわせがあふれる信仰生活を始めるようになります。まさに四番目の名前のアセルは「しあわせ」という意味です。悪魔の子どもとして地獄に行かざるをえなかったのに、主を受け入れて天国に行くようになったのですから、どれほどしあわせなことでしょうか。ですから、救われてまことの信仰生活をする時は、心に喜びがあふれるようになります。
一方、教会に通っていても、救いの道を正しく知らなければ喜びがありません。また、ある人々は初めて神様を見つけて、主を受け入れた時は、まるで世のすべてを得たように喜びがあふれていても、だんだんその喜びを失う場合があります。しかし、神様のみこころに添って信仰生活をするなら、決して救いの喜びがなくなりません。時間が経つほど、その喜びは増し加わらなければなりません。ですが、真理に従って生きないので、だんだん世と妥協して心が神様から遠ざかるので、喜びが消えていくのです。皆さんは日が経つにつれ、年が経つにつれ、ますます救いの喜びが増し加わりますように。
ところで、信仰生活を始めて、人によって少し差はありますが、ある程度時間が過ぎれば、信仰の二段階に入ります。その時からみことばを聞いて真理を悟るようになり、罪と戦って捨てる過程が始まります。
五番目の名前のナフタリは「争う」という意味です。<マタイ11:12>に「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」というみことばのように、今は罪と熱心に戦って捨て始めながら、天国を激しく攻めて行くのです。また、より良い天国を慕い求める心が生じるので、何としてでも早く務めも受けて、使命も受けて、神の国のために忠実に仕えて、奉仕しようとします。それとともに、信仰にあって互いに良きライバルになります。
このように罪と熱心に戦って捨てて、忠実な者になっていくと、もう信仰の量りの中間程度の信仰の三段階に至るようになります。このような三段階の信仰に当たる霊的な意味を持ったマナセ部族からは、次の時間に説明しましょう。
<結論>
愛する聖徒の皆さん、<ヘブル12:1>に「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」とあるように、私たちのこの地上での信仰生活をたびたび信仰の競走にたとえます。スポーツ選手が賞をもらうために競走するように、私たちも信仰生活という霊的な競技で勝利を得て、賞を受けるために走って行くのです。
ところが、この霊の競走では譲歩というものが必要ありません。この地上の競走や試合は、自分が勝つためにはほかの人が負けなければなりません。しかし、天国を激しく攻めて行くこの霊の競走は、いくらたくさんの人でも、資格さえ備えるなら皆が勝てる競走です。必ずしも誰かに勝たなければならない競走ではありません。
たとえば、自分が御霊の歩みに入るからといって、他の人が御霊の歩みに入れないのではなく、むしろ自分が御霊の歩みに入ることによって、他の人々ももっと早く御霊の歩みに入るように、一緒に祈って導くことができるのです。ですから、互いに良きライバルになり、御霊の歩みに先立って入るとき、神様に喜ばれて、また一緒に信仰生活をしている相手にとっても益になるのです。したがって、誰がさらに御霊の歩みを慕って先に入るのか、力を尽くして競争し、天国を激しく攻めて行かなければなりません。
また、このように天国を攻めて行く人は、心の割礼だけでなく務めも使命も慕うのです。ある人々は神様を愛するように見えて、個人的に礼拝と祈りは熱心ですが、務めや使命を避けます。どんなことを任せても「喜んでします。神の国に忠実に仕える機会を下さって感謝します」という心であるべきなのに、「申し訳ありませんが、私がすべきでしょうか」という返事が出て来ます。
もちろん、それなりに理由がありえます。「私よりもっとよくやれる方々がいるから、その方々がやれば神の国にもっと益になるだろう」とか「能力の足りない私にどうしてそんな事ができるだろうか」という申し訳ない心からそう言うのかもしれません。
しかし、厳密には、このような心もまことに神様を愛するのではありません。本当に神様を愛するなら、自分の能力が足りなくても、自分に任せられたことは喜んで受けて、最善を尽くして果たすようになります。そして、自分が一度受けたことは完全に責任を果たそうとする心です。
このような熱い心と責任感は「これはどうしても私がしなければならない」という私心とは全く違うものです。自分の能力が足りなくても「私のような人を信じて任せてくれてとても感謝だ」とへりくだった心で最善を尽くすとき、神様の力が臨むのです。
本当に信仰があって、希望があるならば、このように聖められるために熱心になり、使命を果たすためにも熱心になり、神の国を激しく攻めて行くようになります。このように、きょうも聖められるために、また、皆さんに与えられた使命を果たすことによって、天国の新しいエルサレムを激しく攻めて行く幸いな聖徒の皆さんになりますように、主の御名によって祝福して祈ります。
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