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Title
黙示録講解(35)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙4:5-9
Date
2007-08-24
[黙示録4:5-9]
御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。 第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方』また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、
初めに、父なる神様は声を含んでいる光としておられました。そのうち、三位の神様に分離されて、初めてかたちを着られました。ところが、このようにかたちを着られても、もともと光と声の時から持っておられた属性は、そのまま含まれています。威厳と栄光と御力が父なる神様の中に全部含まれているのです。
きょうの本文に「御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。」とあるのは、まさに父なる神様の威厳と栄光と御力を意味しているのです。みことばで天地万物を創造してつかさどられる御力を表現して、すべてがその前に従うしかない、威厳と権威と栄光を表現しています。
次に「七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。」とあります。七つの御霊は父なる神様の心として、七つのともしびとは一つの象徴として見せられたものです。
ともしびが明るく照らす役割をするように、父なる神様の心から分離された七つの御霊も、すべてを明らかに照らして正確に探ります。全世界の国々を探り、人の子らのすべての心と思いと知力も探られます。ですから、七つの御霊は測りの基準になり、答えの秤のような役割をします。
聖徒の皆さん、神様は愛であられるために、何としてでも子どもたちに良いものを与えよう、祝福にだけ導こうと願っておられます。しかし、神様は公義の神様でもあられるので、無条件に良いものを与えることはできません。公義の条件にふさわしいとき、答えと祝福として下さるのです。
仮に、公義の法則に関係なく、神の子どもだからといって、願うことは全部答えられるなら、むしろ世がどれほど乱れるでしょうか。まだ悪があり、欲もあって、自分の利益だけを求める人々、また、器の備えができていない人々も、願うことは全部答えられるなら、それはかえって自分にも決して得にならないのです。それで、神様はすべての答えと祝福を必ず霊の世界の法則に合わせて、公義に従って働いていかれます。
この時、公義に従って答えと祝福の可否を決定する基準がつまり、七つの御霊です。父なる神様の心の属性のうち、代表的な七つの分野を七つの御霊に分離して、この七つの御霊が各人を測るのです。
七は霊的に「完全だ」という意味です。したがって、七つの分野だけを測りますが、それが結局は完全な神様の心になり、一寸の誤差もなく測るようになります。七つの御霊の測りが、まさに完全な神様の心で探るのと同じだという意味です。このように神様の心である七つの御霊が、すべての人々の心と行ないを探り、公義にふさわしい人に答えと祝福が与えられるのです。
七つの御霊が測る七つの分野については、前に「サルデス教会」へのみことばを語ったとき、説明しました。信仰、喜び、祈り、感謝、戒めを守ること、忠実、愛、この七つの分野を測ると言いました。
したがって、皆さんが何かの答えを受けるためには、この基準に照らして自分を顧みればよいのです。もちろん各人の信仰の量りに応じて、基準の程度は変わります。七つの御霊は各人の信仰の量りに応じて、その人の水準に合わせて測るので、皆さんが自分の信仰の程度にふさわしいなら、答えられるのです。
また、皆さんが自らを顧みて「私が御霊の歩みにどれほど入ったのか」を探るのも、この七つの御霊によって測ってみればよいのです。もちろん、御霊によって心を耕した程度を測るなら、八つの幸い、愛の章、御霊の九つの実に自分を照らしてみればよいのですが、七つの御霊によっても、すべてを総合的に調べられるのです。
この時間、七つの御霊についてもう一度説明はしませんが、皆さんは七つの御霊についてのみことばは何度も聞いて、心によく糧として、答えられて祝福される生き方になりますように。しかし、このように答えの方法である七つの御霊について語っても、皆さんがその基準一つ一つに合わせるために、自ら努力していかなければ、何の役にも立ちません。
したがって、皆さんは[ヤコブ1:22]に「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」とあるように、聞いたみことばを必ず実行しますように。それでこそ、答えを受けることも、御霊の歩みに入ることもできるのです。数えきれないほど聞いて、口からは数えきれないほど告白しても、それだけで答えられるのではなく、御霊の歩みに入るのでもないことを必ず悟って、心に刻む皆さんになりますように。
続く本文[6節]には「御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。」とあります。ここで「水晶に似たガラスの海のよう」とあるのは、海のように大きくて広いという意味と、とても澄んでいてきよいという意味です。
天国の海はその源がいのちの水の川から流れ出たので、この地上の海のように塩辛いのではなく、甘くて不思議な味がします。また、海の中が全部見えて、その中のさまざまな魚と海草も全部見えるのです。
ところで、将来、白い御座の大審判の時になると、このガラスの海が一つの重要な役割をします。つまり、それぞれの人がこの地上で生きている間、どんな心と思いと精神と言葉と行ないをしたのか、このガラスの海にそのまま映されるようになります。大変澄んでいてきよいガラスの海の上に、少しも隠されずに、すべてが明らかにされるのです。ガラスの海に映されたものには一つも偽りがなく、全部が真実でまことなのです。
ところで、肉で思うなら、その広いガラスの海に映されるものが、どうしてひと目で全部見られるのか、と思うかもしれません。まるで皆さんが海辺に立っていて、海全体が画面だとするなら、肉で思う時は画面がひと目で全部見られないようです。
しかし、このガラスの海はいくら広くても、そこに映されるものがひと目で見られるのです。霊の世界ですから、こういうことも可能です。肉の世界では自分の目に映る限界でだけ見られますが、霊の世界ではいくら大きくて広くても、ひと目で見えるのです。
たとえば、御使いやケルビムの中には、肉の大きさで見るなら、ひと目で全部見えないほど、とても大きい御使いやケルビムもいます。しかし、霊の目が開かれて見るなら、いくら大きい御使いやケルビムでも、ひと目で全部目に見えるのです。頭のてっぺんからつま先まで一度に見られるのです。その上、御霊に感じて見るなら、全体的なものを見ながら、同時に部分的な細かいことまでも見られます。
この間、イスラエル出張の時、神様は御使いのかしらミカエルをとても詳しく見せてくださいました。ミカエルは多くの御使いのかしらのうち、軍隊の長官のような役割をしています。その威厳と権威が大したものであり、その大きさも非常に大きいです。
皆さんにこのミカエルの姿について、少し説明しましょう。頭にはまるで王冠のようなかぶとをかぶっていて、手には長い剣を持っています。右の胸の上のほうには緑玉が、下のほうには赤めのうがさがっていて、左の胸には名札のようなものがあって、彼が誰なのか、どんな階級なのかを表すしるしが彫られています。ベルトをしていますが、このベルトにはいろいろな武器がさがっています。また、長いスカートに似たものを着ていて、脚が見えないのです。霊の目が開かれた方々はこういう姿の御使いを見たら「御使いのかしらミカエルだ」と思えばよいでしょう。
きょうの本文にある四つの生き物についても、すでに皆さんに詳しく説明したことがあります。本文にも、四つの生き物が神様の御座の回りにいる、とありますが、これは四つの生き物の地位がどれほど高いのかを知らせるしるしです。
四つの生き物はケルビムのかしらであり、護衛大将のように最も近くで神様に仕える存在の一つです。その権威もやはり大したものであり、その下にいる数多くのケルビムを指揮します。時によっては、神様の命令を直接受けて遂行したりします。
四つの生き物については、黙示録とエゼキエル書にも詳しく説明されています。しかし、その内容だけを見ては、四つの生き物の姿を正確に描き出すことはやさしくありません。霊の目が開かれて、直接見てこそわかります。
たとえば、預言者エゼキエルは[エゼキエル1:6]で「彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。」と記しましたが、使徒ヨハネは、きょうの本文[8節]で「それぞれ六つの翼があり、」と記しています。これは四つの生き物が合体された姿を見て、それぞれの翼がつながったり重なったりする姿を表現したので、ふたりの記述に違いがあるのです。
だからといって、聖書が間違って書かれたという意味ではなく、むしろこのように違うように書かれることによって、四つの生き物の姿をさらに正確に伝えてくれるのです。合体した時と分離した時、また、どの方向から見るのかによって、その姿が変わるということです。
四つの生き物は文字どおり、生き物四つが一つになっているケルビムです。四つが合体したり、それぞれ分離したりします。全体の形は人に似ていて、頭は一つですが、頭の四面にそれぞれ四つの顔があります。四つの生き物は後ろに背を向けて行ったり、頭を左右に回したりすることがないので、分離された四つの生き物の正面から見える顔が、それぞれその生き物を代表する顔になります。四つの生き物の顔はおのおの、人、しし、牛、わしです。
本文[7節]に「第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。」とあります。
実際、四つの生き物を正確に見ることはやさしくありません。それほど霊の目が明らかに開かれた人であるべきだし、神様が許されてこそ見ることができます。四つの生き物は特別な場合を除いては、神様の御座の周りを離れないし、その役割がかなり重要で隠密なので、神様もあまり表に現さず、隠されるのです。
ところが、私たちの教会には、数年前にこの四つの生き物の姿と役割について明らかに解き明かされ、霊の目が開かれた何人かに見せてくださいました。四つの生き物は一般の御使いや天の軍勢とは違って、とても怖くて、見ている人に脅威までも感じさせます。全体の色も少し暗くて濃く、非常に強くてがっちりした感じを与えます。
一つに合体していた四つの生き物が、何かの命令を遂行しようとする時は、あっという間に解体され、四方に飛んで行きます。四つの生き物はいつも前にだけまっすぐに行き、そのスピードがとても速いのです。
[エゼキエル1:12]に「彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。」とあり、[エゼキエル1:14]には「それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた。」とあります。
そして、本文[8節]に「この四つの生き物には、その回りも内側も目で満ちていた。」とあるように、この四つの生き物は全身が目で満ちているのです。これは、彼らの役割が神様の近くで守ることですから、当然周りを隈なく見回すためですが、もう一つは、神様の命令を受けてこの地上をあまねく見回すためでもあります。
四つの生き物はまるでの町奉行所のような役割をするので、神様に直接かかわる罪があると、四つの生き物が直接出るのです。たとえば、聖霊を冒涜し、けがし、逆らう罪や、神様にひどく立ち向かって公義の線を超えた場合、この四つの生き物が直接災いや患難の審判を下すのです。ソドムとゴモラの審判の時も、四つの生き物が直接命令を受けて遂行したのであり、将来、七年患難の時にも四つの生き物が直接かかわるようになります。
ところで、四つの生き物は全体的な使命もありますが、おのおのが持つ固有の使命と役割があります。
まず人間の顔をした生き物は、ケルビムに命じて彼らを動かす権威があります。彼が口を開けて命じるとき、ケルビムが動きます。第二の天にいるケルビムも、この人間の顔をした生き物の命令に従って動きます。
次に、わしのような生き物は、天の門を開いたり閉じたりする権威があります。その羽ばたきによって霊の世界の門が開きます。したがって、天から雲が出たり入ったりするのも、まさにこの生き物が第二の天に通じる門を開いてこそ可能なのです。また、霊の世界の門を開いて、移動する星や二重以上の丸い虹が見られるようにするのも、まさにこのわしのような生き物が関わるのです。
ししのような生き物には、災いを働かせる権威があります。彼が口を開けて火の災い、疫病の災いなどが臨むようにするのであり、またその災いを収める権威もあります。
最後に、雄牛のような生き物には、第一の天で天気をつかさどる権威があります。雲を集めたり雨を降らせたりすること、または雨を止ませたり台風を動かして消滅させたりすることなどが、まさにこの生き物の権威でなることです。
四つの生き物にはこのようにそれぞれの使命と役割がありますが、四つの生き物が連合して、その途方もない権威で同時に働く場合も多いです。神様はまさにこのような途方もない権威を持った四つの生き物をつかさどられ、公義に従って天気を動かして、災いを下すことも、また収めることもあり、霊の世界の門を開いて驚くべき現象を現すこともあるのです。
ところで、ひょっとしてある方々はこのような四つの生き物の姿についての記述を読むとき、「ちょっとおかしい形だな」と思うかもしれません。しかし、実際に見ればそうではありません。もちろんその威厳と権威がものすごくて、見ている人に恐れまで感じさせますが、彼らは神様のそばで直接警護する存在ですから、当然近寄れない威厳と権威があるべきです。
世の王も、最もすばらしくてりりしい者を選んで護衛させるように、神様を警護する任務を任された四つの生き物も、実際に見れば、とても威厳があって立派でありながら、美しい姿なのです。
このような四つの生き物が神様の御座の前で告白する内容が本文に出てきます。「彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。』また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、」とあります。
天国では、神様の栄光の光が新しいエルサレムからパラダイスまでいつも照らしているので、やみや夜がありません。それでも「昼も夜も」と表現したのは、この地上に生きている人が理解できるように表現したからです。つまり、休まずにいつもそうする、という意味です。
聖書には、人が肉的に考えると、誤解する表現がたびたびあります。たとえば「休まずに祈りなさい。」とあるからといって、それが24時間、一年中ずっと祈りなさい、という意味ではありません。いつも祈る心であり、その心が神様に向かっていなさい、という意味です。祈る時間には当然、心を尽くして神様の前に祈るべきであり、祈らない時間だとしても、心だけはいつも神様に向かっていなさい、という意味です。
このように、四つの生き物が昼も夜も神様の御座の前で栄光と誉れと感謝をささげて賛美をするとは、ただの1秒も休まずにそうするという意味ではなく、いつも心を尽くして神様を賛美して崇める心でいる、という意味です。時には実際に聞こえる声で告白したり、時には聞こえないけれど、心から告白したりする時もあります。
ところで、天国では実際にいつも賛美が絶えません。四つの生き物のほかにも、賛美だけのために造られた御使いもいて、何よりも救われて天国に行った神の子どもたちからは賛美が絶えないのです。永遠に休まずに神様を賛美して崇めても、どう神様から受けた恵みへの感謝を全部現すことができるでしょうか。
天国のあちこちではいつも宴会が開かれているので、そこで誰でも思いきり賛美して、神様に心から香がささげられるのです。また、宴会でなくても、いくらでも賛美で神様に栄光を帰すことができます。声のある賛美でも、心の香でも、心の感動でもささげるのです。
このように四つの生き物も、その心を尽くしていつも神様を恐れ敬い、賛美しています。彼らは神様の前に「聖なるかな」と告白しています。
[第一ペテロ1:16]に「それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」とあるように、神様は聖なる方であり、子どもとされた私たちも、やはり聖であることを望んでおられます。ですから、父なる神様に似せられて、まことに自分もきよめられた子どもたちがその口で神様を賛美する時でこそ、神様もそれを喜んで受けられるのです。
天国に行けば、パラダイスから新しいエルサレムまで、すべての天国の民が神様を賛美するはずですが、神様がその中で誰の賛美をもっと喜んで受けられるでしょうか? 当然、神様の聖なることに完全に似せられて、新しいエルサレムに入ってきた子どもたちの賛美です。
これはこの地上でも同じです。今日、数多くの人々が神様を賛美していますが、神様はその人たちの容貌や肉的な実力を先にご覧になるのではありません。心のきよさをご覧になって、聖なる心を持った子どもたちがささげる賛美を喜んでかがれるのです。
その上、心がきよめられた子どもが、もっと神様に喜ばれるために一生懸命に練習して整えて、きれいで美しい声でささげるなら、それはより大きい喜びになれるのです。声がきれいで美しいからではなく、そのようにきれいで美しい声で賛美をささげるために、努めに努めてきた心と思いを喜んでお受けになるからです。
これは他の分野でも同じです。最も重要なのは心ですが、心があるだけでよいのではなく、その心を表現する行ないもやはり大切です。心はなく、うわべの行ないだけを重要視するなら、それは神様が受けられません。しかし、心とともに、心と思いを尽くした行ないまでささげるなら、それはさらに濃い香で神様の心を感動させることができます。
それで、[第一ヨハネ3:18]にも「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」とあり、行ないと真実の両方を言われたのです。
ですから、将来、天国に入ってきた神の子どもたちが、この地上で耕した御霊に属する心をもって、とこしえに神様を賛美して、思いきりその愛と感謝を表現するなら、父なる神様はどれほど喜ばれるでしょうか。
それで、特に二十四人の長老のような方々が神様の前に賛美して崇めると、よりいっそう神様に喜ばれるのです。これについては、次の時間に続いて調べます。
愛する聖徒の皆さん、皆さんが将来、天国に行くと、その時は誰がさせなくても、また誰かが導かなくても、皆さんの口にはいつも賛美があふれます。感謝の告白があふれて、神様を崇めて栄光をささげる告白がいつも絶えないのです。心から泉がわくように感謝と喜びと恵みがあふれるために、それを表現しなくてはいられないのです。
それなら今、皆さんの姿はどうでしょうか? 今、この地上でもそのような方がいるなら、その方の心には明らかに天国が満ちているでしょう。少なくとも御霊の歩みに入っただけでも、こうなれます。そして、その喜びと恵みはこの世の何によっても奪われないのです。
この良いものを皆さんも味わいたくはありませんか? 皆さんに道は開かれています。もうこれ以上、肉の世のあらゆる憂いと心配と苦しみの中にとどまりながら、ためらう方がいませんように。少しの未練やためらいもなく、皆さんを肉の世に捕らえておこうとするすべてのものを手放しますように。そうするとき、御霊の歩みに「すっ」と入れます。
そのような方がもっとたくさん出てきて、この地上でも将来の天国での喜びと感謝を味わい、いつも神様の前に賛美と誉れと栄光をささげる皆さんになりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
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