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メッセージ
Title
黙示録講解(32)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙4:3-4
Date
2007-07-20
黙示録4:3-4
その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。
使徒ヨハネは、今、その霊が時間と空間を超えて、父なる神様の御座がある所で起こっていることを見ています。それも、使徒ヨハネが黙示録を記した当時から、永い歳月の後で起こることを見ています。
このように神様が特別に許されるなら、霊は時間と空間を超えて、過去にも未来にも、どこにでも行けるのです。それで、天地創造の前も、白い御座の大審判の後に行く天国の暮らしも、また地獄のむごたらしさも見ることができるのです。
もちろん、幻を通しても見られますが、幻で見ることと、使徒ヨハネの場合のように、霊が分離されて直接行って見ることとは大きな差があります。この違いについてはすでに説明をしました。きょうからは、使徒ヨハネの霊が見てきた内容について、本格的に説明していきます。
使徒ヨハネは、今、天に広げられた御座とその御座についている方を見ています。それで、<3節>に「その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。」と言いました。ヨハネはまさに神様の御姿を見たのですが、その方は碧玉や赤めのうのようだと言ったのです。
使徒ヨハネが神様の特別な許しによって、このように神様の御座と神様を見ているけれど、だからといって、使徒ヨハネが神様の御顔を正確に詳しく見ることができたのではありません。神様から放たれる光のためにも、神様の輪郭を詳しく見ることはできません。
たとえば、皆さんが暗いところから、突然明るいところに出ると、その明るいところにある物が正確に見られないでしょう。時間が経って、目が光に適応してこそ、初めて物の輪郭が見えるようになります。
このように、皆さんに少しの闇でもあるなら、仮に神様の前に出ても、神様から出てくる光のために、神様のかたちを正確に見ることができません。だからといって、闇が全くなく、聖められさえすれば、神様のかたちが拝見できるのでもありません。それほど神様に似せられて、さらに完全な光になってこそ、神様のかたちを拝見するのです。
それで、将来天国に行っても、三天層以上、新しいエルサレムに入ってきた魂たちだけが神様のかたちを拝見することができるのです。それも、もっと近くでもっと詳しく拝見するためには、さらにふさわしい資格を備えなければなりません。
今、使徒ヨハネもやはり、神様の前にふさわしい者だったので、このように神様の御座の前に進み、神様の御座と神様のかたちが拝見できました。しかし、だからといって、神様の顔や輪郭まで詳しく見られたのではありませんでした。それで、神様を碧玉や赤めのうのようだ、とだけ表現しているのです。
まず、碧玉だと表現したのは、神様から出てくる光が非常に多様であることを説明しているのです。ちょうど碧玉に光が当たっていろいろな光に反射するように、神様からもいろいろな種類の光が放たれているのを「碧玉のようだ」と表現しているのです。
また、碧玉は明るくて美しいし、まぶしい光を表現します。そして、碧玉には清らかさ、すなわち、さわやかでわずかなしみもなく、きよい、正直で正しい、という意味が含まれています。使徒ヨハネの立場では、彼なりにこの地上で最も尊くて美しく思われる宝石にたとえて表現したのです。
次に、「赤めのうのようだ」とは、とても明るくて花火のように美しい姿を、赤くて美しい色の赤めのうにたとえたのです。
ところで、この赤めのうの色には、まさに神様のうちにおられる聖霊の光が含まれています。三位の神様はもともと一つであられるので、御父から分離された聖霊様がいだいておられる光が、まさに御父の中にもあるからです。したがって、碧玉と赤めのうの色は、三位の神様に共通に見られるものですが、その中でも特別に赤めのうは、聖霊様を表すのです。
次に、使徒ヨハネは「その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。」と言いました。
虹は約束を意味します。<創世記9:12-13>に「 さらに神は仰せられた。『わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。』」とあり、<16-17節>にも、「『虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。』こうして神はノアに仰せられた。『これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。』」とあります。
このように神様は約束のしるしとして、神様の御座の回りにある虹を象徴として現してくださったのです。人と人との間でも、何か約束をするとき、それを保証するためにしるしを与えるように、神様も世との契約のしるしとして、直接、神様の御座の回りにある虹をしるしとして下さったのです。まるで神様の御座をおいて誓うようだと言えるでしょう。
したがって、虹を見せられるということは、神様が下さった約束のみことばについての契約のしるしとして見せられるということです。世の人々は虹を自然現象の一つとしてだけ解釈しようとしますが、神様を信じる人々なら、虹が神様の契約のしるしであることを悟らなければなりません。しかも人の科学や知識で説明できない虹が現れるなら、「神様がなぜ契約のしるしである虹をそのように珍しい形で見せてくださるのか?」と、当然その意味を深く考えてみるべきでしょう。
聖徒の皆さん、虹とは、ふだん夕立ちなど雨が降った直後に、太陽の反対側に現れる半円形の美しい光のことです。空気中の水蒸気に光が反射して現れる現象だと言われています。
ところが本教会には、1998年5月15日から珍しい虹が現れ始めました。まさに太陽の周りを丸く取り囲んだ丸い虹です。そして、丸い虹を見せられた理由について、神様は「私があなたとともにいる」という意味だと教えてくださいました。その日から今まで、マンミンの聖徒の皆さんはとうてい言葉にできないほど、いろいろな珍しい形の虹を見てきました。
それなら、どのようにして、これらのことが可能でしょうか? それは、神様の公義に則って、ふさわしい条件を満たしたからです。神様も無条件に超自然的な現象を任意に現してくださるのではありません。公義に合ってこそ現すことがおできになります。その公義に合う条件を満たしたので、神様は聖徒の皆さんにいろいろな珍しい虹を見せられ、皆さんが信仰と確信が持てるように働いておられるのです。言いかえれば、すでに代価を払って公義の条件を満たしたので、皆さんは神様が施された驚くべきみわざを見ながら、より大きい信仰が持てるようになったのです。
したがって、皆さんが見ている虹は、必ずしも第一の天の法則にのっとって、環境と条件が備えられてこそ見える虹ではなく、父なる神様が空間を開いて見せてくださる、ということです。時には第二の天の空間を、時には第三の天の空間を、時には第四の天の空間までも開いて、虹を見せてくださるのです。
それで、神様が本教会に見せておられる数え切れない虹は、世の人々は見られないものが多いのです。第一の天に見せる虹は世の人々も見られるでしょうが、第二の天以上の空間を開いて見せられる虹は、世の人々が見られないのです。ところが、聖徒の皆さんは、霊の空間にある虹も見られます。特に、牧者を信じて頼って従う聖徒の皆さんには、神様が必ず働いてくださいます。
ところで、神様が見せられる虹には、各々意味があります。たとえば、一重の丸い虹を見る時は「あなたと私、つまり、皆が真理にあって一つ」という意味です。父なる神様が子どもとされて、神様の摂理に従って一つになるように導かれるという約束の意味があるのです。
また二重、三重の丸い虹は、天が分離されていることを見せるもので、二重の丸い虹は第二の天を開いて、三重の丸い虹は第三の天まで開いて見せられるものです。すなわち、たとえば三重の丸い虹は、第一、第二、第三の天にかかっている虹が、同時に重なって見えるものなのです。
次に、いろいろな対称の虹は「父なる神様の一つの空間の中ですべてが成し遂げられる」という意味です。結局、三位一体の神様のみわざですべてが行なわれるという約束の意味が含まれているのです。
これからは、皆さんが虹に含まれたこのような霊的な意味を悟って見られますように。それで見るたびに、より大きい信仰になり、また、第二、第三、第四の天の空間を通して繰り広げられる、さらに珍しくて驚くべき虹をたくさん、たくさん見られますよう、主の御名で祈ります。
一方、使徒ヨハネは、神様の御座の回りの虹の形とそこから出てくる光を緑玉にたとえています。使徒ヨハネは、さまざまな光を出す虹の形を、自分が知っている知識の中で緑玉にたとえたのです。この緑玉には、神様の堅固なこと、強く勇ましいことを表す意味が含まれています。
聖徒の皆さん、この世でもレーザーショ-などを見ると、一瞬一瞬、目立つ光が変わります。ある時は赤、ある時は青、ある時は白い光がおもに照らしながら、時にはいろいろな光が合わさったりします。
それなら、これを見る人によっては、それぞれ自分が知っている知識の中で、その場面を説明する内容が違ってくるでしょう。いくつか特徴的な色だけを代表的にあげて説明する人もいるし、混ざり合った色を何とかして似た色にたとえて説明しようとする人もいるでしょう。
今、使徒ヨハネも、神様から出てくる光と、神様の御座とその回りの虹から出てくる、表現できないさまざまな光を見ながら、それを碧玉や赤めのう、そして緑玉にたとえて、彼なりに説明しようとしたのです。
したがって、皆さんは本文の内容を見て、神様と神様の御座から出てくる光を碧玉、赤めのう、緑玉という、いくつかの宝石の色に限るのではなく、どれほど多様な色とりどりの光で輝いているのか、霊で感じられますように。
続く<4節>に「また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。」とあります。
聖徒の皆さん、将来私たちが天国に行くと、そこでは徹底した序列と秩序の中ですべてが行なわれます。宴会や行事の時、それぞれの席が用意される順序も、霊的な序列に従って一寸の誤差もなく正確です。
したがって、霊的に先んじた方々が神様の御座に近く座るようになります。ですから、父なる神様の御座の左右には当然、私たちの主と聖霊様の御座があります。そして、それぞれのそばには、男性のうち天国での序列が最も高いエリヤ、エノク、アブラハム、モーセの四人の方がおられます。その次の序列が続くようになります。
ですが、序列が少々高いからといって、皆が神様の御座の近くに行けるのではありません。それほどになるなら、少なくともきょうの本文にある二十四人の長老のうちには入らなければなりません。もちろん二十四人の長老は、みな男性です。しかし、天国では男性の序列と女性の序列が違うので、女性も序列が上の方々は当然神様の御座の近くにいるようになります。
それなら、二十四人の長老は、はたしてどのような方々でしょうか? この地上で長老の務めをよく果たした方々の中で、二十四人の長老が出てくるのでしょうか? 今からこれについて説明していきます。皆さんが信仰と希望の中でこのメッセージをお聞きになって、皆さんの中からも二十四人の長老に入る方がたくさん出てこられますように、主の御名で祈ります。
愛する聖徒の皆さん、将来天国に行くと、この地上で各人が霊で耕した程度に従って、それぞれの場所が決められます。また、同じ場所の中でも、霊的な序列が正確に決められます。二十四人の長老ならば、当然、まずは新しいエルサレムの真珠門を通った人です。完全に聖められて、いのちを尽くして全家を通じて忠実であった人々です。
そして、このように新しいエルサレムに入ってきた人々も、みな序列が定められますが、その中でも序列が上の方々は、全体的な信仰においても優れていますが、特に目立つ信仰の分野があります。たとえば、信仰、希望、愛、忠実、善、真実、心を定めることなど、各分野で最も優れた宝石のような心をなした人々がいるのです。神様はこういう人々を代表的に選ばれ、二十四人の長老に立てられたのです。このように選ばれた二十四人が長老として神様の前に立つようになります。
彼らはきょうの本文にあるように、神様の御座の近くに付き添って、人間耕作をよく受けてきた子どもたちの代表として、永遠に誉れと栄光を受けるのです。それだけでなく、彼らは最後の大審判の時に、各人の信仰を測る基準のような役割をします。
たとえば、ある人が神様を信じたけれど、迫害に耐えきれなくて主を否定し、世の人々のように生きて、ついに審判台の前に立ったとしましょう。その人は何とか審判を免れようと、自分の立場で熱心に弁解するでしょう。「私はあまりにも深刻な迫害のため、信仰が守れなかったのです。」
その時、ひどい迫害の中でも十字架を逆さに背負って殉教したペテロや、獅子の穴の前でも信仰を信実に守ったダニエルのような方が出るのです。その方々が自分たちが体験した状況とそれを勝ち抜いた信仰を語ると、自分を熱心に弁解した人はそれ以上何も話せなくなります。
反対に報いの審判の時も、二十四人の長老の役割があります。火のように熱い心で神様を愛して忠実だった人が審判台の前に立ったとしましょう。この時は、二十四人の長老のうち、使徒パウロのように、熱い心で主のために忠実であった方に照らして、その人の忠実がどれほど高価で尊いものなのか測るのです。その結果によって報いを受けるのです。
このように、人間耕作六千年の歴史を通して出てきた数多くの神様の子どもたちの中から、特別に選ばれて各人々の審判に関する測りざおになるほどならば、はたして二十四人の長老がどれほど栄誉ある座なのか、ある程度は想像できると思います。
それでは、今から二十四人の長老に入る人と彼らの信仰について具体的に調べていきます。
ところで、皆さんがまず知っておくべきことは、天国の男性の序列のうち、1、2、3、4位にあたるエリヤ、エノク、アブラハム、モーセは二十四人の長老に含まれないということです。
これは、その方々の信仰が足りないからではありません。この四人の方は、将来、白い御座の大審判さえも免れるほど、父なる神様に完全に似せられた方々です。それで、二十四人の長老よりもさらに高い次元で栄光を受けるのです。二十四人の長老とは別に、神様の御座の左右で、さらに近くで三位の神様を補佐するのです。
したがって、二十四人の長老に入る最初の人物は、男性の序列第5位の使徒パウロです。そして、天国の第二グループの序列、つまり、序列6位から10位の人のうち、まだ正確に教えなかった序列9位の人を除いたほかの方もみな二十四人の長老に入ります。すなわち、使徒ペテロ、使徒ヨハネ、ダビデ、サムエルです。
だからといって、序列9位の人が二十四人の長老に入らないという意味ではありません。まだ父なる神様がその人が誰なのか正確におっしゃらなかったので、まだはっきりと言えないのです。
さあ、まず、二十四人の長老のうち、5人を言いましたが、その方々の熱い信仰と純潔な人生については、皆さんが聖書を読んでみれば、とてもよくわかるでしょう。一度主に出会ってから、一生を主に献身した使徒パウロの熱い心はどうだったでしょうか? 足がすりへるまで歩き回って、主の福音を伝えて、言葉では表現できない苦しみにあいましたが、一度もつらいとつぶやかなかったのです。どんな苦しみの中でも気を落とさず、ただ主の栄光だけを考えたし、自分のような罪人を救って栄光の道具として用いられた神様に感謝だけをささげました。
たとえば、一度はユダヤ人たちがパウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出したこともあります。ほとんどの人々は、こういうことにあったら恐ろしくて、しばらくためらうでしょう。しかし、パウロはこうしたことにあっても、「あまりにもつらいことにあったので、しばらく休もう」とさえ考えなかったのです。
<使徒の働き14:20-21>に、「しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子とし」たのです。
死の敷居でやっと生き返っても、意識が戻ると、このようにその翌日、直ちに宣教旅行に出たのです。一日休んだのでもなく、むしろデルベに向かって、その町で福音を宣べ、多くの人を弟子とした、とあります。主のためならば、主の国のためなら、このように自分のいのちやからだは関係なく、熱い心でいのちを尽くして献身した使徒パウロでした。
聖徒の皆さん、使徒パウロも私たちと同じような人です。石で打たれて、むちに打たれると痛いし、食べなければひもじさを感じて、寒さと暑さも感じます。難船して、海上を漂った時や、荒野を一日中歩いて旅をするなら、どうしてつらくなく、疲れないでしょうか? 信じた人々に裏切られて、異邦人と同国民さえも彼を排斥して殺そうと自分を追いかけているとき、どうして一日でも安心して過ごせたでしょうか?
しかし、ただ神様の栄光のために、また、死にかけていく魂たちを救うために、そのすべてを耐え忍ぶことができました。自分の情欲や欲望、すべてをあきらめて、主だけに全部明け渡したのです。
それなら皆さんは、はたして使徒パウロに比べるとき、どれくらいの熱心さと忠実さで神の国のために走ってきたのか、顧みられますように。時には自分の訓練に疲れて、ゆだねられた魂たちが枯れていくのを見ても、ただ放っておいたのではなかったのでしょうか? 神の国のために、自分の居場所を守らなければならないとき、つらいとか、自分の利益を求めるための何かの理由で、その場を離れてはいなかったでしょうか?
今、皆さんが審判台の前に立って、使徒パウロと顔と顔とを合わせているように、皆さん自身を一度振り返ってみられますように。それで皆さんも、主の働きのために走って行くとき、皆さんに与えられた使命や責任を重荷に感じるのではなく、使徒パウロのように感謝と喜びで行けるよう、主の御名で願います。
次の時間は、二十四人の長老のうち、名前を挙げたペテロ、使徒ヨハネ、ダビデ、サムエルの信仰について語り、続いて神様が今まで教えてくださったそのほかの人に関して説明します。(神様は私に、現在までは二十四人の長老のうち17人を教えてくださいました。) そのうち、きょうは5人、すなわち、使徒パウロ、ペテロ、使徒ヨハネ、ダビデ、サムエルについて説明して、12人がまだ残っています。(もちろん、その中には、まだ確定されたのでなく、進行中の人々もいるので、12人を全部伝えるのではなく、確定された人だけをお話する予定です。)
愛する聖徒の皆さん、二十四人の長老は、将来天国で非常に栄光ある位置に立つようになります。新しいエルサレムに入ることだけでもとうてい言葉にできない栄光なのに、その中で特別に選ばれて、各分野で人間耕作のモデルのように認められたということは、とても大きい光栄なのです。
ですから、皆さんも当然、「私も二十四人の長老に入ったら」という希望が持てます。ところが、その栄光は決して簡単に与えられたものではありません。血を流すまで罪と戦って聖められて、いのちを尽くした忠実を認められただけでなく、その中でもさらに特別に認められるほど、全心全力を注ぎ込んだ人々に、二十四人の長老の栄光が与えられるのです。「自分」というものは全くなく、ただ主だけ、ただ魂たちだけ、ただ神の国だけのための人生でなければなりません。
ですから、ほとんどの人が希望は持つけれど、実際に二十四人の長老には入れないのです。どうすれば二十四人の長老に入るということは知っているけれど、実際にそのまま行なう人はほとんどいないということです。「誰がはたして本当にそうできるのか? 聖書にある昔の信仰の人々だけがそうできるだろう」と、あきらめてしまいます。
ですが、皆さんはそうしてはなりません。明らかに皆さんの中からも二十四人の長老に入る方が出てくるはずであり、それに劣らない方々がたくさん出てくるべきであり、またそうなることを信じます。もちろん、女性の中からも高い序列の方がたくさん出てくるでしょう。
したがって皆さんは、信仰と希望をもって皆さんの目標に向かって、休まずに進んで行かれますように。<マタイ11:12>に、「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」とあるように、ふさわしい資格を備えた人のために用意された天国、新しいエルサレムの美しい栄光を激しく攻めていかれる皆さんになられますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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