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Title
黙示録講解(30)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 3:14-22
Date
2007-07-06
黙示録3:14-22
また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」
<マタイ5:3>に、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」とあります。心が貧しくなったとき、人は低くなってへりくだるので、神様を捜す心にもなり、神様に頼ろうとする飢え渇く心にもなるのです。
しかし、心の富んでいる人は高ぶり、自尊心、利己心、欲などで心がぎっしり満ちているために、神様を捜そうとする心がありません。むしろ、心に世のことをさらに満たそうとするだけになります。
ところで、初めは心が貧しい状態から信仰生活を始めたけれど、時間が過ぎるほどますます元に返り、また心が富んでいく場合があります。心が真理で満たされて豊かになったのではなく、抑えておいた肉の心が息を吹きかえし、心がまた高くなってしまったのです。
特に、富と名誉と権勢などを持つと、自分では「私は豊かだ」と思いながら、信仰がますます肉の信仰に変わってしまう場合があります。信仰生活はしているといっても、実際には真理を慕う心も渇きもなく、祈りもだんだん休んで、ついにやめるようになり、霊的なことを慕う心も消えていきます。もう信仰で行なうのではなく、形式的な行ないがあるだけで、神様と神様の働きより自分自身と世のことが優先になります。
きょうの本文を見ると、まさにこういう人々が「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と言っているのです。ですが、実は彼らが豊かなになったのではなく、かえってみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを悟らなければなりません。
聖霊が嘆くので霊が悩み苦しんでも、すでに自ら悟れないでいて、そのまま行き続けては、結局救いさえから遠ざかるようになるので、「哀れだ」というしかありません。この地上でいくら多くを持っていても、実際天国には何も積んだものがないので、実は貧しい者であり、霊の世界や霊のことに対して見ることも、悟ることもできないので盲目なのです。花婿なる主を迎えて、天国に入るための花嫁の備えもできずにいるので、花嫁として礼服も用意していない裸の者のようです。
主はまさにこういう人々に、火で精練された金を買って豊かになり、裸の恥を現わさないために着る白い衣を買い、また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい、と言われます。このそれぞれのみことばの霊的な意味は説明しました。
ところで、主がこのように解決策まで下さったのに、そのみことばに耳を傾けないなら、その時は主のさらに厳しい非難と懲らしめが伴います。ですが、これも結局は父なる神様の愛であります。
<19節>に、「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」とありますが、このみことばには神様が懲らしめを許される理由と目的がよく現れています。愛するために懲らしめられるのであり、その目的は結局、懲らしめを通して悔い改めて熱心にならせることです。
<ヘブル12:6-8>に、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」とあるように、神様が子どもたちに懲らしめを許されるのも、その子どもたちを愛されるためです。
子どもが罪を犯したのに、それに対して何も叱ったり、懲らしめたりしないなら、子どもは自分の過ちが悟れずに、だんだんより深い罪に陥って、結局は罪から来る報酬は死という霊の世界の法則によって、死へ向かうしかないでしょう。
ですから、愛する子どもを懲らしめても、その子を正しい道に導くのが、子どもを愛する親の心です。このように肉の親でも、子どもが誤った道に行くのを見るとき、本当に子どもを愛するなら、ただおおってあげるばかりでなく、正確に過ちを教えて悟らせ、懲らしめてでも立ち返るようにするでしょう。
このように、父なる神様も子どもたちを愛されるので、時には懲らしめという方法を許されます。まさにこのような父なる神様の愛を心から感じるべきであり、懲らしめを通してもこのような愛を感じる人は、結局悔い改めて立ち返ることができます。
一方、懲らしめられても何の悟りもないなら、神様が懲らしめを許される理由がありません。ですから、次は過ちを犯しても懲らしめさえ来なくなります。過ちを犯しても懲らしめがないなら、その人は捨てられた子と変わりません。「信じる」という人がみことばどおり生きられなくて罪を犯していくのに、栄えて懲らしめもないなら、これは神様から顔を背けられたということです。このようになるなら、これよりひどい不幸はないということを悟らなければなりません。
ですから、神様が愛する子どもならば、その人が誤った道に向かったとき、私生子のように放っておかれるのではなく、当然、愛のむちを加えられるのであり、これが懲らしめられた本人にも祝福なのです。
懲らしめが、その時は怖くて恐ろしいかもしれませんが、「この懲らしめがなかったなら、私はどうなっただろう」と思うなら、むしろ懲らしめを通して父なる神様の愛が感じられるのです。そうする時、すみやかに誤った道から立ち返って、その時からは真理の人生を送るために熱心に努力していけます。
神様もこのように変えられた姿をご覧になるとき、どれほど喜ばれるでしょうか? ですから、その時は懲らしめられても、それを心に刻み、災い転じて福となす機会にするなら、かえって懲らしめを通して、その後からは神様の愛をさらに心深く感じて走って行けるのです。
だからといって、必ず懲らしめられる時までずっと誤った道を行きなさい、ということではありません。父なる神様は 懲らしめを許される前に すでに多くの機会を下さいます。みことばで悟らせて、勧めてでも叱ってでも、悔い改める機会を与えられます。
この時、少しでも早く悟って悔い改めて立ち返るならよいのですが、ひょっとしてそうできなくて、懲らしめられるようになったら、それでさえ父なる神様の愛であることを悟って、その時からは本当に心の底から悔い改めて立ち返らなければなりません。それで、失った神様との信頼関係も取り戻して、天の御国にも再び報いを積んでいかなければなりません。
次の<20節>に、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。
このみことばは、今まで叱られるばかりだったラオデキヤ教会が、それでも希望を持つようにする約束のみことばです。今まではなまぬるい信仰生活のため、霊的な深い眠りに陥っていたが、今からでも主の御声を聞いて目覚めなさい、というみことばです。
まず「主が戸の外に立ってたたく。」とは、主が真理のみことばで皆さんの思いをたたかれるという意味です。
私たちが神様のみことばを聞いた時は、これを心に入れて糧とすべきです。そのためにはまず真理のみことばが思いの門を通って、入って来なければなりません。そして次に、心の扉を通して心の中に入って来なければなりません。まるで、ある家の奥の間に入る時も、まずは門を通って、次に奥の間の扉を通過しなければならないようなものです。
したがって、皆さんが神様のみことばを聞く時は、たとえ皆さんの思いと理論に合わなくても、まず思いの門をあけて「アーメン」で受け入れなければなりません。
真理に逆らって長い歳月を生きてきた人が、突然、真理のみことばを聞くと、自分の思いや理論、または自分の枠と義に合わないみことばもあるでしょう。ですが、いったんは思いの門を開けて、神様のみことばを受け入れて、次に心の扉もまたパッと開き、そのみことばを心に入れなければなりません。
このようにみことばが心の中に入ると、この人は徐々にみことばどおり守り行なえるようになります。これを指して、主ともに食事をする、と言うのです。
しかし、いったんは思いの門を通ってみことばを受け入れても、実際重要な心の扉を開かなければ、みことばが頭に知識としてだけ残るのです。これがまさに知識的な信仰、つまり、行ないが伴わない死んだ信仰であり、こういう信仰では結局、なまぬるい信仰にとどまるのです。
長い歳月信仰生活をして、聞いて知っているみことばは多くても、実際、行ないを通して心に霊で実現されなかったので、信じられる霊の信仰も与えられず、教会にだけ行ったり来たりする姿になってしまいます。
ところで、主はいくら力があっても、こういう人の心の扉を強制的に開かれるのではありません。それは公義に合わないからです。
神様が人々の心の扉を強制的に開き、霊の信仰を持たせるなら、この世に救われない人はいなくて、新しいエルサレムに入れない人もいないでしょうが、それは公義にあってなされる耕作ではありません。神様は人に自由意志を下さり、自らにじみでる心で神様を信じて愛する、まことの子どもを得ることを願われるのです。
したがって、主は皆さんの思いの門と心の扉を度々たたかれますが、その門を開けるのは皆さん自身です。神様を愛する人ならば、当然心の扉までパッと開いて、主とともに食事をすることによって、真理のみことばどおり生きていくのです。
そして、このように心の扉を開いて、真理のみことばを受けて守り行なうので、主とともに食事をする人はこの世に勝ち、敵である悪魔・サタンに、勝利が得られるのです。また、今からでも心の扉を開いて、主の警告のみことばを受けいれて、立ち返って悔い改めた人もやはり、勝利を得る者になります。
主はこういう人々に<21節>に、「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」と言われます。死の力を打ち破って神様の御座の右に座られた主のように、最後まで勝利を得る者もやはり救われる座に着かせるというみことばです。
主はラオデキヤ教会に非難だけをされましたが、彼らが今からでも悔い改めて立ち返るなら、このように救いの道が開かれていることを言われたのです。救いの箱船の門が完全に閉じられる前までは、それでもまだ機会があるので、主は最後の瞬間までこのようにもどかしい心で語っておられるのです。
聖徒の皆さん、私たちは勝利を得る者に、しかも最後まで勝利を得る者にならなければなりません。イエス様が歩まれた狭い道を、最後まで変わらずに感謝と喜びと愛をもって歩んだ時だけ、終わりの日、主が来られる時に栄光をともに受ける座に着くことができます。
しかし、ある人々は勝利を得ているようですが、途中であきらめて、結局は祝福と栄光に一緒にあずかれないことが見られます。皆さんの中ではひとりもこのような方がいてはなりません。
主がラオデキヤ教会に下さったみことばがまさに、聖霊様が耳のある者に下さるみことばであることを悟って、もう一度自分の信仰を顧みて、万が一にもなまぬるい信仰に浸っていたなら、今からでも悔い改めて立ち返られますように。そして、最後まで勝利を得る者の列に参加して、それもどうせならもっと前のほうに出て来て、主の御座の近くにともにいられる皆さんになられますよう、主の御名で祈ります。
愛する聖徒の皆さん、きょうで七つの教会へのみことばが終わります。七つの教会へのみことばは、皆さんの信仰が顧みられる、とても重要なみことばです。しかも、主が来られる時が本当に近づいたこの時に、まことに目を覚ましているために必要なみことばです。
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と言われたように、今は多くの教会と聖徒が自分を顧みなければならない時です。霊的に眠っていたなら、今からでも目覚める時であり、世からさらに自分を守る時であります。「信じる」と言った自分の信仰をもう一度顧みなければならない時であり、神様のみことばで自分を変えさせて花嫁の備えをしていく時であります。
主が七つの教会に下さったみことばは、特に今日、この世に存在する数多くの教会にしばしば現れるいろいろな問題に対して、指摘と勧めと非難と教訓を与えられる内容です。
したがって、このみことばを通して、それぞれの教会が何のために指摘されて非難され、また何のために称賛されたのかを悟るなら、主がご覧になってふさわしい信仰を持つ教会と聖徒になれるのです。どんな教会が神様の望まれるまことの教会であり、どんな聖徒が主が望まれるまことの聖徒なのかを悟り、そのように変えられなければなりません。
エペソ教会は神様のみことばの中を歩むことに努めて、真理に逆らうことは捨てて、使命をよく果たして、互いに愛して熱心に集まる教会でした。
こういう教会だったのに、エペソ教会は主から初めの愛を捨てたことを非難されました。悔い改めて初めの行ないをしないなら、燭台までその置かれた所から取りはずされることもある、と言われたのです。
このように自分なりに熱心だった教会でも初めの愛と初めの行ないから離れたときは、主から非難されるしかありません。したがって、いつも今現在の信仰が重要です。「私は以前あんなに忠実だった」「私はあんなに使命を果たして、神様を愛した」という言葉では、現在の怠惰な信仰を弁解することはできません。
初めの愛と初めの行ないから離れてもならないのですが、毎瞬、最善を尽くしていく信仰生活、いつも主に初めて出会った時のような熱い感激と充満で走って行く信仰生活、このように変わらない姿になるべきです。
スミルナ教会は、主の御名のために多くの迫害と患難にあわなければならなかったのですが、主はこれが結局は祝福である、と言われます。どんな状況でも変わらない信仰でいのちを尽くし忠実であったとき、天の御国で与えられる大きい報いを約束しておられます。
したがって、皆さんは主の国のためにあう苦しみや迫害などがどれほど祝福なのかを悟り、喜びと感謝で走って行かれますように。
次に、ペルガモ教会は、適当主義信仰と、さらに進んで異端思想に染まった教会を代表して、主から非難と警告のみことばを聞きました。主を信じていると言いながら、バラムのように世と友になる信仰を持ったことと、ニコライ派のように、神様の真理のみことばを変えて異端思想に陥る教会があると言われました。
ですから、真理のみことばを正確に知って悟り、神様が望まれるまことの信仰生活をし、異端の聖書的な基準を正確に知って、そういうところに万が一にも惑わされてはならないことを、ペルガモ教会に下さったみことばを通して悟らなければなりません。
テアテラ教会もやはり、それなりに熱心にしているといっても、実は神様のみこころから離れている教会に向けられた主の非難が与えられた教会です。肉的にはいくら忠実であり、さらに熱心になっていくように見えても、いざ心には割礼をしないとなれば、それは肉の忠実に過ぎないし、神様の前に何の役にも立たないのです。
そのうちにまかり間違えばイゼベルのようなにせ預言者に惑わされて、真理から離れてしまうこともあります。心に割礼せずに、外形にだけ集中する信仰は、結局、救われることも難しい殻の信仰のようなものです。
サルデス教会は行ないのない死んだ信仰を持った教会として、主から非難された教会です。まことの信仰を持ったなら、そこには必ず行ないも伴うようになり、そのように行なう時だけ主を信じて愛している証拠になるのです。
フィラデルフィヤ教会は、幼い信仰を持った時から真理のみことばに従って「はい」と「アーメン」で行なってきた教会として、主から大きい称賛と祝福の約束を受けた教会です。神様のすべての教会がまさにこのフィラデルフィヤ教会のように行ない、主から愛されて祝福されるだけでなく、天国でも尊い栄光の座に入る、幸いで美しい教会にならなければなりません。
ラオデキヤ教会は、熱くない教会、それ以上熱心になろうともしないので、信仰が停滞してしまった教会を代表して、主から叱られた教会です。
熱心で熱かったとき、主から受けた多くの祝福を持って、さらに神様の働きのために熱心になるよりは、もっと多くを持つために、だんだん世と妥協していき、富と名誉と権勢を追い求めていく姿について悟らせておられるのです。
主がこういう教会と聖徒たちに懲らしめまでも許されることが、結局は愛であり、祝福であることを悟り、今からでも悔い改めて立ち返るようにと言われます。
このように皆さんは七つの教会に下さったみことばを通し、「私が信じているといったのに、それがはたしてまことの信仰だったのか?」「私はもしかして初めの愛から離れたのでは?」「これまで神様の前に死に至るまで忠実であったと思ったのに、それがはたして霊の忠実だったのか?」などを顧みることができました。
そして「死んだ信仰と生きている信仰」「各人の行ないに応じて報いる神様の公義」 「世と妥協する適当主義信仰」と「なまぬるい信仰」など、今日を生きていく聖徒たちが一度ぐらいは必ず自分の信仰に照らしてみなければならない大事な教訓が得られました。各教会に下さるひと言ひと言が、今の時代を生きていく神様の子どもたちにも必ず必要なみことばなのです。
したがって皆さんは、もう一度それぞれ自分の信仰を顧みて、万が一にも足りなくて劣る分野があるなら、今からでもすみやかに立ち返って変えられ、今からは多くの方々が霊に入って来られますように。
父なる神様は、本教会が果たすべき大聖殿建築と世界宣教の使命が、決して誰でも果たせる使命ではないことをよくご存じですので、今まで本教会と聖徒を細やかに導いて練られ、強い教会と霊の戦士に整えてこられました。
しかし、結局は準備された霊の人々だけが神様に用いられるのです。皆さんがいくら口で叫んで、心で切に願っても、霊で準備されてこそ神様が用いられるのにふさわしい器になれるのです。
これからは今とはさらに違って、さらに新しい次元に導いていかれるマンミンの働きに参加するために、皆さんのすべてがもっと堅い覚悟と決断をする、きょう、この時間になられますように。それで、神様の栄光を現す祝福の列に必ずともにあずかる皆さんになられますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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