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Title
黙示録講解(21)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 3:1-6
Date
2007-04-06
<黙示録3:1-6>
また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
きょうからは七つの教会のうち、ラオデキヤ教会とともに、主からの称賛はなく、非難だけされたサルデス教会のみことばを伝えます。
サルデス教会は主から「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」と胸の痛い非難を聞いた教会です。このみことばは、表から見ると生きているようでも、実は死んだ者だという意味です。言いかえれば、神様を信じて主を信じていると言いながら、自分では救われたと思っていても、いざ主がご覧になる時は、救いと関係がない場合を言います。<マタイ7:21>に、「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」とある通りです。
仮に、誰かがこの地上で、自分なりに神の国と義のために熱心に苦労して、献身して生きたと思っていたのに、実際、最後の審判の日に神様の前に立ったとき、<マタイ7:23>のように、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と言われるなら、これより悲しいことがあるでしょうか?
したがって、皆さんはサルデス教会に下さったみことばで自分を照らし、自分の信仰を顧みて、神様の前に何の役にも立たない死んだ信仰、つまり、生きているという名だけの知識的な信仰でない霊の信仰、生きている信仰、まことの信仰を所有されますように主の御名で祈ります。
そのためには、<ヤコブ1:21>に「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」とあるように、講壇から伝えられるすべてのみことばを柔和な心で受け入れて、信仰といのちと力にする、幸いで賢い聖徒になられますように。
愛する聖徒の皆さん、本文<1節>では、私たちの主を「神の七つの御霊、および七つの星を持つ方」と表現しました。ここで「七つの御霊」は、私たちが信仰生活をするとき、とても重要な内容です。
特に、今、7週間の特別徹夜祈祷会が行われていますが、皆さんがいやされて祝福されて答えられるためには、この七つの御霊について明らかに知って、答えの条件を備えていかなければなりません。
それで、きょうと次の時間には、この七つの御霊について語ります。この七つの御霊については何回か語ったことがありますが、今回もう一度語るとき、皆さんの信仰をよく顧みて、祈って求めるすべてのことに答えられますように。
聖徒の皆さん、神様は愛であられます。そして、救われた私たちの父になられます。親が愛する子どもには、願うことは何でも与えたがるように、愛の父なる神様も愛する子どもが願うことには、何でも答えたいと望まれます。
しかも、神様は全知全能でしょう。子どもたちが願うすべてを聞いてくださる力がおありになるのです。重い病気やわずらいのいやしを願っても、貧しくて物質の祝福を願っても、神様はみな答えてくださる力がおありになります。世の富と名誉と権威と知識など、その何をもっても解決できない問題を、神様の力ではみな解決してくださるのです。
それなら、このような神様の前に出てきて、「神様、信じます。愛します。ですから、私の祈りに答えてください。私の問題を解決してください」と、祈りだけすればよいでしょうか? 神様が、いくら愛が豊かで子どもたちに答えたいと望まれても、すべての人の祈りに無条件に全部答えてくださるのではありません。
神様は愛の神様である同時に、公義の神様であるために、祈る子どもに答えるのも、必ず公義に合うように行われます。仮に、公義の法則に関係なく、誰でも祈ったからといって答えられるなら、世がどれほど乱れるでしょうか? 欲の祈り、悪い心の祈り、自分の益だけのための祈り、器の準備ができていない人の祈りなど、仮にこのような祈りまですべて答えられるなら、それはその人にも決して得にならないのです。それで、神様は答えと祝福を与えられるとき、必ず霊の世界の法則に合わせて、公義に従って働かれるのです。
ですから、皆さんが答えられるためには、まずこの公義の法則をよく知らなければならないのです。きょうの本文にある七つの御霊が、皆さんが答えられるために必ず知るべき、公義の法則に当てはまる内容です。
それなら、七つの御霊とは何でしょうか? 七つの御霊とは、霊そのものであられる神様の心です。
私たちが神様の前に出て行き、答えられるためには、神様の心を悟らなければなりません。世でも、子どもたちが両親に何かを求めて答えられるためには、まず両親の心を悟って、その心に合わせて求めたとき、願うものが簡単に答えられます。神様に答えられる時も同じです。神様の心を悟り、その心と御旨に合わせて求めたとき、公義の神様が答えてくださいます。
それなら、神様の心はどのようにしたら悟れるでしょうか? それは、聖書66巻を通して悟れます。聖書の中には神様の心が含まれていて、どうすれば神様に喜ばれるのか、どうすれば答えられるのか、その方法が詳しく書かれています。そして、このような神様の心と答えの基準を提示するのが、まさに七つの御霊です。
七つの御霊の「七」という数字は神様の霊が七つだという意味ではありません。七は霊的に「完全だ」という意味です。<ヨハネ4:24>に、「神は霊ですから、」とあるように、神様は霊そのものであられます。したがって、このように霊であられる神様の心を七つの御霊と言ったのは、完全である神様の霊を表しているのです。
<黙示録5:6>に、「さらに私は、御座・・・そこには、四つの生き物がいる。・・・と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」とあります。
完全な霊であられる神様は、全世界のすべての人々をくまなく見回って、いつも探られておられます。この時、神様の心である七つの御霊を遣わされるのです。それで、神様の心である七つの御霊がすべての人々の心と行いを探るので、神様の心にふさわしい人に公義に合わせて答えと祝福を与えられるのです。
したがって、七つの御霊は、理解しやすくたとえるなら、神様のほうから答えを与えるために測られる秤だと思えばよいのです。肉や野菜などを買う時も、秤で重さを量って、その重さにあたる代価を払って買うように、私たちが神様に答えられる時も、七つの御霊の測りに照らして、答えられる条件に合わなければならないのです。
それでは、はたして七つの御霊は何を測って答えの可否を決めるのでしょうか? 七つの御霊は、人のすべての心と思い、そして行いなどを一寸の誤差もなく、大きく次の七つの側面から測ります。
第一に七つの御霊が測られるのは、「信仰」です。
聖書には明らかに、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」とあります。それでは皆さんは、はたして「信じます」と告白して祈った通り、すべてのことに答えられているでしょうか?
皆さんに本当に心に信じられるまことの信仰、霊の信仰が与えられて、告白して祈ったなら、それは必ず実現されます。ところが、自分なりに「信じます」と告白して祈ったのに答えられないなら、それは「信じます」と言った告白が、心から信じられる霊の信仰の告白ではなかったためです。頭で知識的にだけ知っている肉の信仰にとどまっているという意味です。私たちが頭で知って、口で告白するからといって、神様がそれをまことの信仰だと言われないのです。
それでは、霊の信仰とはどんなものでしょうか? それは、目に見えないし、人間の思いや知識に合わなくても、心で疑わずに信じられる信仰であり、何もない無から有が創造されることを信じる信仰です。
ところが、このような霊の信仰は、誰でも欲しいからといって思いのままにに持てるのではありません。このような霊の信仰は、上から与えられる信仰であり、心の悪を捨てて聖められる分、神様が下さる信仰です。
それで、今回のような特別徹夜の時も、皆さんが祈りだけするからといって、「答えてくださったことを信じます」という告白がまことの霊の信仰の告白になるのではありません。心の悪を捨てて割礼していきながら祈ってこそ、上から信じられる信仰が与えられて、信仰で告白して祈るようになり、そうする時、答えが与えられるのです。
したがって、霊の信仰には必ず行いが伴うようになります。まさに、みことばどおりに行う行いが伴って、みことばに聞き従うようになります。
<ヤコブ2:22>にも、「あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、」とあり、続く<26節>では、「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」とあります。
愛する聖徒の皆さん、信仰は信仰生活の基本です。生きておられる創造主神様を信じること 、御子イエスが私たちの救い主になられたことを信じること、十字架で死なれて三日目に復活して昇天されたイエス・キリストが、将来この地上にまた来られることを信じることです。そして、さばきがあって、永遠の後の世があって、神様の子どもたちに備えられた天国があると信じることです。
このような事実を本当に心で信じる人ならば、その人の人生は変えられるしかありません。空の空であるこの地上に望みを持つのではなく、永遠の天国に望みを持ち、その美しい天国に入る資格を備えるために、休まずに信仰の戦いをするようになるのです。聖書に記された神様のみことばどおり一つ一つ行いながら、真理に変えられていきます。このように行って変えられて行くほど、信仰はますます大きくなり、さらに大きい信仰の行いと従順が出てきます。
それなら、皆さんの信仰は毎日さらに大きくなっているでしょうか? そして、その信仰に合う行いと従順が出ているでしょうか? 七つの御霊が測ったとき、十年前、五年前、一年前と比べて、はたして信仰がどれほど成長されたのでしょうか? 信仰の尺度といえる「行い」も、以前と比べたら、はたしてどれほどもっと完全になられたでしょうか?
聖徒の皆さん、これから説明されますが、七つの御霊の測りで、信仰が最も先なのは、この信仰を基準として他のすべての基準が決定されるからです。言いかえれば、神様がそれぞれの信仰の量りに応じて、七つの御霊で測られる基準も、やはりそれぞれ違うということです。
たとえば、子どものような信仰を持った人と大人の信仰を持った人に対して、同じ答えの基準を適用するなら、子どもの信仰を持った人は答えられるのがあまりにも難しいし、大人の信仰を持った人はあまりにもやさしいでしょう。そうなると、子どもの信仰の人はまったくあきらめてしまい、一方、大人の信仰の人は、さらに深い霊の段階に入るためにそれ以上努力しようとしないでしょう。それで公義の神様は、それぞれの信仰の量りに応じて、七つの御霊が測る答えの基準をそれぞれ違うように決められました。ですから神様は、七つの御霊によって信仰を測られるので、残りの六つの分野でもその信仰の量りに応じて基準を適用されます。
ところが、同じ信仰でも、より大きい問題に答えられるためには、当然、より大きい信仰を見せなければなりません。「私の信仰はこれほどだから、これくらいならよいだろう」と満足するのでなく、自分の信仰を飛び越える信仰の行いが必要です。そうする時、大きい問題にも答えられて、この機会を通して信仰も一段階さらに成長するようになります。今回の特別徹夜が、まさにこのような祝福の時間になられますように。
第二に、七つの御霊は「祈り」を測ります。
ただし、無条件に祈ればよいのではなく、祈る時も神様の心と御旨にかなう方法に従ってしなければなりません。それなら皆さんは、今回の特別徹夜でどれほど神様の心と御旨にかなう祈りをしておられるでしょうか?
神様の心にかなう祈りは、まずはいつものように、つまり、祈りが習慣になって祈らなければなりません。「絶えず祈りなさい。」と言われたように、毎日、絶えず祈らなければなりません。このようにいつも祈る人でこそ、いつも目を覚ましていて誘惑に陥らないだけでなく、たとえ何かの問題や試みが来ても、すみやかに答えられて通過できます。
ところが、もし特別徹夜の時だけ祈って、ほかの時は祈らないなら、その人はいつものように祈ることにはなりません。もちろん、信仰によっては、特別徹夜だけ参加しても答えられる方々がいますが、それでも「信仰がある」という方々ならば、いつも祈りを休んではならないのです。それとともに、特別徹夜でさらに心と思いと最善を尽くして祈りをささげる時でこそ、心の願いと祈りに答えられるのです。
だからといって、普段はよく祈らずに、今回の特別徹夜にだけ参加された方々であっても、「簡単に答えられなさそうだ」とあきらめてはいけません。今回の特別徹夜をきっかけに、今からでも祈る方になるなら、神様が皆さんをどれほどかわいくご覧になるでしょうか? そして、当然答えてくださらないでしょうか?
次に、ひざまずいて祈らなければなりません。
聖書の預言者たちはもちろん、イエス様もひざまずいて祈られました。全知全能の父なる神様の前で、私たちの人間の力でできないことを求めるのに、謙遜にひざまずいて申し上げるのは当然のことです。ひざまずく状況でないなら仕方ないのですが、そうではないならば、ひざまずいて祈ることが聖書的であるだけでなく、御心にさらにかなう祈りになります。
次に、自分の心に従って祈るのではなく、父なる神様のみこころに従って祈らなければなりません。
イエス様が<ルカ22:42後半節>で、「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と祈られたように、祈りは自分の心や利益のためにではなく、みこころに従ってしなければなりません。
<ヤコブ4:2後半節-3>でも、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」と言われました。欲を持って、神様のみこころにふさわしくない祈りをすると、答えられないのです。
次に、 苦しみもだえて、叫んで祈らなければなりません。
イエス様はどれほど苦しみもだえて祈られたのか、「汗が 血のしずくのように地に落ちた。」と書かれています。まさにこのような祈りを通して、<創世記3:17後半節>に「あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。」とあるように、苦しみと汗の食物として答えを得るのです。
次に、心の底からの祈りをしなければなりません。神様は人のうわべではなく、心をご覧になるからです。
祈りもやはり、聖なる表の姿が重要なのでなく、どれほど切実な心で祈るのかが重要です。いくら苦しみもだえて祈っているように見えても、本当に真心の祈りをささげないなら、何の役にも立ちません。しかし、本当に心を尽くして切に祈ると、自ずから唇が開いて声を出して、聖霊に感じて叫んで祈るようになります。それで、心の祈りをすると、自然に苦しみもだえて祈るようになります。
次に、信仰と愛を持って祈らなければなりません。
<ヤコブ1:6-7>に、「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」とあります。「本当に答えられるのだろうか、答えられないならどうしよう」と疑いながら祈ると、答えられません。本当に生きておられる神様が答えられることを信じて、父なる神様を愛する心で祈らなければなりません。信仰と愛も、それぞれ七つの御霊が測る分野ですが、信仰と愛がなくてささげる祈りは、神様がかがれるほどの香りになりません。
このように七つの御霊は、祈りを測ることにおいても、単純に祈りをするのかしないのかではなく、神様のみことばに従って、みこころに合わせて祈っているのかを正確に測って、祈りに対する全体的な評価を下すのです。
今回の特別徹夜を通して答えられたい方々は、このような正確な基準に合わせて、一日一日皆さんの祈りの香りをささげるよう願います。
次の時間には、七つの御霊が測るほかの分野、すなわち、喜び、感謝、戒めを守ること、忠実、愛について続いて調べましょう。
愛する聖徒の皆さん、きょうは七つの御霊の測る七つの分野のうち、信仰、祈り、この二つだけ申し上げました。「あとの分野もはやく聞いてこそ、今回の特別徹夜に答えられるのでは」と思われるかもしれませんが、皆さんがきょう、二つの分野を聞かれたとおり、信仰を持って神様の心と御旨に合わせて熱心に行えば、ほかの分野の基準も充分に通過できます。
次の時間にほかの分野について説明しますが、信仰があってこそ祈ることができ、喜んで感謝することができ、戒めを守って、忠実になって、愛することができます。結局、七つの御霊が測る七つの分野は、別々でなく緊密につながっていて、互いに補い合いながら答えの条件を満たしていきます。
したがって、皆さんは信仰をもって、火のように祈っていかれますように。そうすると、自然に心の底からの喜びと感謝も出てきて、神様のみことばである戒めを喜びと感謝をもって守り行うようになります。当然、神の国のために忠実になります。そして、これらすべてをいやいやではなく、神様を愛するために、また魂を愛するために行うのです。
このような事実をよく悟って、皆さんの信仰の量りに応じた七つの御霊の基準をあふれるように満たして、みなが答えられますように。また、これからも主が来られるその日まで、一日一日の暮らしが七つの御霊の測りにふさわしく、毎日、神様に出会って、体験して、答えられる皆さんになるよう、主の御名で祝福して祈ります。
愛する聖徒の皆さん、きょう、金曜徹夜2部には復活節カンタータがあります。私たちのためにいのちまでもすべて渡された主の愛を考えながら、「私は、はたして主をどれほど愛して、救ってくださった恵みにどれほど感謝して喜んでいるのか」、心の底から悟る恵みと感動の時間になられますように。
ところで、カンタータで主が復活された夜明けに墓を訪ねて行く女性たちは、まさにマグダラのマリヤとおとめマリヤです。ですが、聖書にマグダラのマリヤの名前は明らかに記されていますが、もうひとりの女性がおとめマリヤだということは明らかではありません。
<マタイ28:1>に、「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。」とあり、<マルコ16:9>にも、「さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。」とあり、マグダラのマリヤが週の初めの日の朝早く墓に行って、復活の主に最も早くお会いしたことははっきりわかります。
それなら、マグダラのマリヤと一緒に墓に行った「ほかのマリヤ」がおとめマリヤだということは、どうしてわかるでしょうか? マグダラのマリヤと一緒にいたマリヤが誰なのかは、聖書のいろいろな所に記された内容を通してわかります。
<ルカ24:10>に「 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。」とあります。ここでヨハンナは<ルカ8:3>に出てくるヘロデの執事クーザの妻です。
次に<マルコ16:1-3>を見ると、「1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、『墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。』とみなで話し合っていた。」とあります。また、<マタイ27:56>には、マグダラのマリヤと一緒にいた「ヤコブとヨセフとの母マリヤ」が出てきます。
このようにイエス様の復活された現場をはじめ、マグダラのマリヤのそばには、「ヤコブの母マリヤ」とも、「ヤコブとヨセフとの母マリヤ」とも言われるマリヤが、いつも一緒にいたことがわかります。それなら、このマリヤとは誰でしょうか?
<マタイ13:55>を見ると、イエス様が郷里に行かれたとき、そこの人々がイエス様を肉的に見て、「この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。」と言ったのです。ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダはまさに、おとめマリヤがイエス様を聖霊によってみごもって産んだ後、夫ヨセフとの間に産んだ息子たちの名前であることがわかります。
これらすべてをまとめてみると、「ヤコブの母」または「ヤコブとヨセフの母」とは、おとめマリヤを示していることがわかります。人々がしばしば子どもの名前を入れて「誰々のお母さん」と呼ぶように、おとめマリヤも、彼女が産んだ息子ヤコブやヨセフの名前を入れて、「ヤコブの母マリヤ」または「ヤコブとヨセフの母マリヤ」と記されているのです。
そしてご参考までに、聖書には「おとめマリヤ」という表現が直接出てこないのです。おとめマリヤとは、乙女、すなわち、処女のからだで聖霊によってみごもってイエス様を産んだので、後代にほかのマリヤと区分して付けられた名前です。
したがって、きょうのカンタータに出てくるおふたりのマリヤは、マグダラのマリヤとおとめマリヤだという事実をご存じの上でご覧になりますように。女性の中で天国で最も高い序列のおふたりが、はたしてどんな心でイエス様が十字架を背負われる現場にいて、また、主の復活を目撃したのか、心で感じられて大きい恵みと感動の時間になりますように、主の御名で祝福して祈ります。
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