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Title
黙示録講解(20)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
黙 2:18-29
Date
2007-03-30
<黙示録2:18-29>
また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。2:29 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
この間までは、主がテアテラ教会に下さったみことばの一般的な意味を伝えました。きょうは、このみことばに含まれた霊的な意味を調べていきましょう。
このみことばの中には、神様を信じて主に仕えるといっても、真理をわい曲して偶像に仕えている人々を悟らせる内容があります。ある特定の宗教をさばいて非難しようとするのでなく、このみことばに含まれた霊的な意味を説明することですので、このメッセージを聞く皆さんは、真理でよく見分けられますように。
本文<19節>に、「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。」というみことばは一般にはテアテラ教会への主の称賛だと説明されていますが、「黙示録講解」十七番目の時間にすでに説明したように、このみことばの真の意味は称賛ではありません。
主にあっての行いと愛と信仰と奉仕と忍耐に対して、彼らの近ごろの行いが初めの行いにまさっている、ということは、単に表に見える行いが多くなったという意味だけです。したがって、このみことばは称賛でなく、彼らが表に見せるために行うことが「本当に真実なことだったのか」を悟らせるための勧めのみことばです。外から見ると施しなどいろいろな善い行いをしていて、その規模もますます大きくなってはいるけれど、その目的が果たしてどこにあるのか、ということです。
もちろん、彼らの善い行いが間違っているという意味でなく、そのようにしていく目的が人々に自分たちの善い姿を見せて良いイメージを作っていくためではなかったのか、自ら省みるよう望まれるのです。
<ヤコブ2:15-17>に、「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」とあるように、主にあって仕えて施し、善を施すことは明らかに愛で信仰があるという証拠です。
ところで問題は、このように行いの証拠だけで「それはまことだ」といえないことです。<第一ヨハネ3:18>に、「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」とあるように、ことばや口先だけで愛すると言うのもいけないことですが、行いもやはり必ず真実が伴わなければなりません。表ではいくら大きく主にあっての行いをして、愛と信仰と奉仕と忍耐の行いを見せても、心の底からわき出る真実なものでなければ、主が望まれるまことではないのです。
たとえば、施しをするときも、「私たちはこのように施して善いことをしている」「私たちがしていることは正しい」 「これが愛であり、信仰だ」と、自分の満足や自分を表そうとする心から行うなら、心をご覧になる神様の前では、決してまことになれないのです。
さらに、自分のイメージを良くしていくために、すなわち、他の人々に良く見えるために、あれこれのことを行なっていくなら、それはややもすれば偽りになってしまいます。そして、このような偽りの行いは、結局、中身のない信仰に変わってしまいます。神様が望まれるのは、心が聖められることであり、その聖なる心の真実をもって行う、愛と信仰と奉仕と忍耐です。
ところで、心の聖さと真実という中身が欠けた信仰は、だんだんと形式主義に流れ、あらゆる昔の人たちの言い伝えを作り、聖徒たちを苦しめます。それで、キリスト教の歴史を見ると、初代教会の純粋だった信仰が、時間が経つにつれて、人々が作った形式に縛られて、だんだん変わってしまったことがわかります。そうするうちに、ついに16世紀に、まことの神様の御心を求める人々によって「ただ聖書へ帰ろう」という改革運動が強力に起きたのです。
聖徒の皆さん、この時間、特定の人々に対してさばいたり非難したりしようとしているのではありません。けれども、神様を信じて、イエス様を救い主として受け入れて、真理である聖書のみことばに従って信仰生活していると言いながら、人々が作った枠に縛られて誤った信仰生活をする場合が多いのです。はなはだしきは、宗教の土着化という名で現地の土着信仰や風習までも自分たちの宗教の中に受け入れていきました。
それで、韓国でも先祖に祭事をすることを許しています。もちろん、先祖の恵みを覚えて感謝する心自体が誤りではありませんが、このような名分で祭事を許したら、それは結果的に真理である神様のみことばに正面から立ち向かうことになります。
<第一コリント10:20>に、はっきり「いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。」とあります。それにもかかわらず、唯一の神様おひとりに仕えて、イエス様を救い主と信じると告白しながら、このような事を許しているのです。
きょうの本文に、預言者だと自称している女イゼベル、また、その女とともに不品行を行なった人々が出てきます。このように、預言者だと自称している人が真理に逆らう、誤ったものをもって、人々を惑わして一緒に真理に逆らっている現状が今日も現れているのです。わざわざ神様のみこころに逆らおうとしたのではなかったとしても、真理がよくわからないことによって、結果的には神様の御心に逆らって、神様に立ち向かうことまでするのです。
イエス様を聖霊によって身ごもって産んだ女性、おとめマリヤを拝んで仕えることも、真理がよくわからないから現れた代表的な現象です。彼らはもちろん、おとめマリヤを偶像として仕えるのではなく、救い主イエス様を産んだ方として、最上級の尊敬の礼を尽くして仕えるだけだと言います。だが結果的には、真理が見分けられない人々が、被造物の形の前にお辞儀をして福を祈るように、間違って導いているのです。
それなら、真理ははたしてどう言われているでしょうか? その解答をイエス様が直接言われたおことばで探してみましょう。<ヨハネ19:26-27>に、「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます。』と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」とあります。
この時、イエス様がおとめマリヤに、「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われたのは、そばに立っていた弟子ヨハネのことです。イエス様がご自分のことを「息子」と言われたのではありません。また、イエス様はおとめマリヤに、「お母さん」ではなく、「女の方。」と言われたのです。イエス様がマリヤを敬われないから、このように、「女の方」と呼ばれたのでしょうか?
聖書にはイエス様がおとめマリヤを「お母さん」と呼ばれた記録がありません。<ヨハネ2章>に、イエス様が水でぶどう酒を造られた時もイエス様はおとめマリヤに、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」と言われ、「女の方。」と呼ばれました。
聖書におとめマリヤを「お母さん」または「母親」と表現しているのは、イエス様の立場で言われたのではなく、聖書を書いた弟子たちの立場でそのように記録しているだけです。これは、おとめマリヤが決してイエス様のお母さんになれないことを明らかに言っているのです。
イエス様は、父なる神様もともと一つであられ、三位一体の神様のおひとりであられます。そして、創造主の神様にはお母さんがあるはずがありません。<出エジプト3:14>に、神様は「わたしは、『わたしはある。』という者である。」と仰せられました。誰かが神様を産んだのでもなく、神様を作り出したのでもありません。神様はとこしえからとこしえまで「わたしはある。」というお方であられます。したがって、神様の御姿であられるイエス様が被造物のおとめマリヤに「お母さん」と呼ぶことはできないのです。
肉的にも、おとめマリヤはイエス様のお母さんになれないのです。人が宿る時は父の精子と母の卵子が結合します。ところが、イエス様の場合は、マリヤがイエス様を産みましたが、マリヤの卵子を通してイエス様が宿られたのではありません。イエス様はマリヤのからだを借りて生まれただけであり、宿られる時はもともと神様と一つであられる聖霊の力で宿られました。
たとえば、科学技術がとても発達して、もし子どもを保育器のような所で人工授精させて育てることができたとしても、その時も保育器が赤ちゃんの両親になることはできません。その子どもの両親は、子どもを得るために精子と卵子を提供した人々になるのです。
このように、イエス様がおとめマリヤのからだを借りて生まれたことは事実ですが、だからといって、神の御子で、もともと神様と一つであられるイエス様が、おとめマリヤの息子になることはできません。ですから、おとめマリヤをイエス様の「お母さん」と呼ぶことも正しくありません。
真理である聖書は、このような事実が明らかにわかるように、すべてを正確に記録しています。また、<出エジプト20:3-5節前半節>に、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」とあります。「私はある」というお方、神様のほかにはどんな被造物もその形を造って拝んではいけないのです。
神様はその子どもたちが「わたしはある。」と言われた御父、御子、御霊の神様だけに仕えて崇めることを願われます。ですから、真理に照らしてみると、人の思いの中で作った誤った枠によって、結果的には神様のみこころに逆らって戒めを破っているという事実を、一日も早く悟って立ち返るべきではありませんか?
そうでなければ、ますます神様のみことばから、神様の恵みから遠ざかるしかありません。結局、サタンに訴えられるだけになります。心では偶像に仕えようとしたのではなく、実際は真理がよくわからなくてそうしたと言っても、結果的には神様の御心に逆らって、偶像に仕えたことになるからです。そのように真理に逆らい続けると、神様の恵みも、聖霊の助けも受けられずに、だんだんサタンにつかさどられるようになります。
それで神様は、このような人々にも何としてでも恵みの機会を与えられるために、この終わりの時に、聖霊の火のようなみわざの中で、みこころが正しく伝えられる道を備えられました。善なる心で神様を愛して真理を追うことを願う人々は、まことの真理のみことばを聞いて、伴う証拠を見るとき、自分の過ちを悟って、まことが何かを認めるようになります。しかし、悔い改めて立ち返らなければ、「この女を病の床に投げ込もう。」と言われたように、結局、厳しい神様のさばきが臨みます。
聖徒の皆さん、おとめマリヤを崇めて間違って仕えている分野を簡単に説明しましたが、事実、他のいろいろな分野でも真理に逆らう姿を探すことができます。
たとえば、酒とタバコはそれ自体が悪ではないのですが、それによって起こる数多くの罪と悪を思うと、神様の子どもとしてどうすべきなのか、真理で見分けられます。神の人々は聖霊の酒に酔って信仰生活をしていくべきなのに、世の肉的な酒に酔い、世の人々と同じように罪と悪を行いながらも「神様を愛する」と言うなら、はたしてそれが真実でしょうか?
また、イエス様が十字架につけられて亡くなられたとき、 神殿の幕が真二つに裂けて、神様と私たちとの間にふさがっていた罪の壁が崩れたことを表してくださいました。今は、主の尊い血で罪が赦されて、神様を父と呼べる神様の子どもになりました。
それなのに、イエス様が十字架を背負われる前、私たちがまだ罪人だったとき、直接神様の前に出られなかった時のように、相変わらず自分の罪を他の人、つまり、代理人を通して神様に告げて赦されるというなら、主がどんなにもどかしく思われるでしょうか? イエス様が十字架を背負われた後、新約時代に、誰かそのように代わりに罪を告げて赦されるように教えた使徒や主の弟子がいたでしょうか?
さらに、人がただ口で「あなたの罪が赦されました」と言ったとして、神様もそれを認められるのではありません。代わりに他の人のためにとりなしの祈りをささげることはできますが、その祈りを聞いて罪を赦してくださる方は、神様だけなのです。
すると、ある方は「<ヨハネ20:23>で、復活された主が弟子たちに現れて、『あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。』と言われたのはどういうことでしょうか?」と聞かれることもあります。
もちろん、このみことばのように、イエス様の弟子である使徒ペテロの場合は、聖霊を欺こうとしたアナニヤとサッピラを呪うと、彼らの魂が離れたことが見られます。しかし、このみことばが誰にでもすべて適用されるのではありません。それほど神様と主と一つになって、神様に愛されて保証される人でなければなりません。
だからと言って、こういう人が祈ってあげれば、無条件に罪が赦されるという意味でもありません。「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」というみことばのように、神様に愛されて保証される人の祈りは、それほど神様の憐れみを引き下ろすことができますが、それでも、結局、罪の赦しの鍵は、本人にかかっているのです。
<第一ヨハネ1:7>に、「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあるように、仮に何かの罪を犯しても、徹底的に悔い改めて立ち返って光の中を歩んでいく時でこそ、イエス様の尊い血ですべての罪が赦されるのです。
本人が相変わらず悔い改めて立ち返らず、闇の中にいるならば、この時はいくら神様に愛されて保証される人が代わりに祈っても、神様が赦すことがおできにならないのです。公義に全く合わないからです。それで赦されるなら、人々が勝手に生きながら罪を犯して、神の人の前に出てきて祈りを求め、それで罪が赦されるなら、また罪を犯して生きるのではありませんか? これがどうして公義で、まことの人間耕作でしょうか?
したがって、神様に愛されて保証される人が代わりに神様にとりなしの祈りをささげる時にも、必ずまず本人が徹底的に悔い改めて立ち返らなければなりません。そうする時、あまりにも赦されにくい罪だとしても、それで本人の祈りだけでは赦されにくい場合でも、神様が愛されて保障される人をご覧になり、憐れんでくださることがあるのです。
しかし、この場合と、罪を犯した人が代理人に罪を告げて、その代理人が代わりに神様に祈って罪が赦されるという主張とは、はっきり違います。
聖徒の皆さん、このような真理を正しく知らずに、誤った教理に従って行う人々がいます。こういう人々は、たとえその行いが神様のみこころに逆らったものではあっても、それがみこころに逆らうことだと知っていながらわざと行なったり、悪い心で行なったりしたのではないから、神様も理解しようとしてくださいます。
それで、こういう人々に、本文<24節後半節>に、「彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。」と言っておられるのです。すべてを行なった通りに報いてくださる公義の神様ですが、このようにサタンの深い欺きを知らずにその行いをした人々は、その行いから悔い改めて立ち返るなら、それに対してこれ以上ほかの重荷を負わせない、という意味なのです。
ただし、サタンの深い欺きだと知っていながら行なったり、習慣的に心をこめて行なったりした人は、たとえ徹底的に悔い改めて立ち返っても、それに伴う代価があります。偶像礼拝をひどくしていた人々も、彼らが主の中に入ってきたとして、過去のすべてのことが全部解決されたのでなく、以前に行なったことに対して公義の中で報いられます。
もちろんこれも、完全にして、より良いものを与えようとされる、父なる神様の愛なのです。しかし、今、本文の場合は、「神様を信じます、主を救い主として受け入れました」と言ったのに、それでも真理を正しく知らなかったので、誤った行いをしたことなのです。だから、彼らの場合は、偶像礼拝をひどくしたり、誤ったことだと知っていながら行なったりした場合とは違って、悔い改めて立ち返ることで過去の行いを赦されて、これ以上問わないということです。
けれども、彼らにも主は「 ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」と頼まれます。これからは、主の恵みによって得た救いの機会を再びのがすことがないように、主を迎えるその日まで変わらずに走って行くべきだ、というみことばです。そうした時だけ、彼らにもついに救いの恵みが与えられるのです。
このように父なる神様は何としてでも ひとりでももっと救われるように、真理で悟らせに悟らせて、誤った道を歩んでいる人々に対して、切に叫んでおられるのです。さらに、彼らが「神様を信じます、主を救い主として受け入れました」と言いながら、サタンに欺かれて死の道を歩んでいるならば、神様はもっと切ない心で彼らに救いの道を開こうとされるのです。それで、この終わりの時に、聖霊の火のようなみわざが必要であり、そのみわざを現すためにすべてを備えておかれるしかありません。
次の時間からは、主から「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」と言われたサルデス教会について調べましょう。
愛する聖徒の皆さん、赤ちゃんが生まれると、時間が経つにつれてだんだん成長するように、信仰の中でも霊的な成長は続けられなければなりません。
ところで、霊的な成長とは、ただ、表に見える行いだけを意味するのではありません。もちろん、信仰が成長するほど、表に見える行いも、日が進むにつれて多くなるべきですが、父なる神様がまことに望まれる霊的な成長は、まさに心が聖められていくことです。いくら行いにおいて忠実に奉仕していると言っても、心が聖められていく霊的な成長がないならば、それは正しい信仰生活だと言えないのです。
ちょうど子どもが、歳月が流れるにつれ、肉的な成長と精神的な成長がともにあるべきように、信仰の中でも、行いの成長はもちろん、必ず内面の霊的な成長が伴わなければなりません。
そうでない時、信仰の霊的な停滞現象が現れ、あれこれの問題が生じたりします。何かの病気が来て、家庭に問題が起きて、あれこれの困難にあう理由は、もちろん神様との間の罪の壁による場合がほとんどですが、時には信仰の停滞現象によって来る場合もあります。
ヨブ記のヨブも、まさに行いの信仰にとどまり、神様がまことに望まれる霊の信仰に発展せずに停滞しているとき、神様は彼に訓練を与えられて、彼がついには霊の信仰に入ってこられるように導かれました。
したがって、皆さんもこのような事実をよく悟って、神様の前でどんな罪の壁もあってはならないことはもちろん、信仰の霊的な停滞なく、毎日成長していく、充満な信仰生活をされますように。それで<エペソ4:13>に、「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあるように、皆さんの信仰がすみやかに成長して、霊へ、全き霊へと至られますよう、主の御名で祝福して祈ります。
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