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Title |
信仰の量り(27) - 信仰の五段階 (8) |
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Speaker |
堂会長 イ・ジェロク 牧師 |
Bible |
ロマ 12:3, 黙 21:10-11 |
Date |
2006-07-09 |
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<本文>
<ローマ12:3>
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
<黙示録21:10-11>
「そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」
<序論>
愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ペルー、ホンジュラス、ボリビア、エルサルバドル、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジェリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど全世界と全国の4,500余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通して礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん、
きょうは「信仰の量り」二十七番目の時間で「新しいエルサレム」について伝えます。 主を信じて救われた人は将来天国に入るようになりますが、救われたすべての人々が同じ場所に入るのではありません。各人の信仰と行いによって天国の場所と報いもそれぞれ違います。 天国のいろいろな場所の中でも最も良い場所がまさに新しいエルサレムです。新しいエルサレムは、愛そのものであられる神様が皆さんのために備えられた愛の結晶体です。まことの愛を分かち合うまことの子どもを得るために、あれほど長い歳月を耐えて待たれ、将来永遠に幸せに愛を分かち合って生きようと心を尽くして用意された住まいなのです。花びら一つ、飾られた宝石一つ一つに父なる神様の愛と御力が込められていて、創造主神様の栄光で満ちているところです。 神様はこの新しいエルサレムを心を込めて造られ、皆さんすべてが入ってこられるように望んでおられます。しかし、皆さんがここに入るためには、必ずふさわしい資格を備えなければなりません。つまり、信仰の五段階に入って、悪はどんな悪でもあってはならず、心を完全に真理の実で満たし、全家に忠実な者でなければなりません。 愛する聖徒の皆さんは、きょうもメッセージを通して、栄光の都新しいエルサレムをさらに慕い求めて、皆がその中に入る資格を備えるよう願います。それで、将来その都に入って、父なる神様と共に、主と共に永遠に生きられますように、主の御名で祈ります。
<本論>
愛する聖徒の皆さん、<ヨハネ黙示録21章>と<22章>を見ると、新しいエルサレムのおおまかな姿が出てきます。まず全体的な姿は正六面体であり、縦、横、高さが同じ一万二千スタディオンです。これは約2200キロメートルに当たります。その城壁はきれいで透き通って青色を帯びている碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金です。大通りも透き通ったガラスのような 純金です。 四つの城壁にはそれぞれ三つずつ、計十二のアーチ型の真珠門がありますが、門の上にはイスラエルの十二部族の名前が書いてあります。このように都の門が真珠で造られているのは、真珠に含まれた霊的な意味があるからです。 あこや貝が真珠を作り出すまでは、多くの痛みと長い間の忍耐が必要です。異物が貝の肉に食い込むと、貝はその痛みで自らの体液を出して異物をおおい、またおおいますが、その体液の結晶体がついに真珠として出てくるのです。聖徒たちが新しいエルサレムに入る資格を得るためにも、各自の涙と痛みに耐えて完全に真理に昇華させた人生を送らなければなりません。まさにこのような意味をこめて、新しいエルサレムの門を真珠で造られたのです。 城壁の土台石は十二の宝石で飾られていますが、この宝石にも各々霊的な意味があります。詳しい意味は『天国・下』に出ていますので、この時間は簡単に申し上げます。 第一の土台石は碧玉で、霊的な信仰を表し、第二のサファイアは変わらずに真実で、神さまのみこころに従うきよい心です。第三の玉髄は潔さと犠牲を意味し、自分の利益を全く求めないで神様と隣人のために命まで捨てられる心であり、第四の緑玉は光の実である正義と真実を表します。第五の赤縞めのうは死に至るまで忠実である心、第六の赤めのうは熱心と全き心、つまり使徒パウロのように自分を燃やして神の国を成し遂げる熱情的な愛を意味します。第七の貴かんらん石はあわれみ深い心で、第八の緑柱玉は寛容を表します。第九は黄玉ですが、これは善意、つまり争うことも叫ぶこともせず、いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない主の心です。第十の緑玉髄は自制を表し、第十一の青玉は傷もしみもない心のきよさと聖なることを意味します。第十二の紫水晶は美しくて柔和なことを意味します。 この宝石に含まれた霊的な意味を合わせれば、まさに父なる神様の完全な心であり、主の心になります。城壁の土台石がこのような宝石で飾られていることは、その都にとどまるためには聖徒の心にもこのような霊的な実が完全に結ばれるべきだという事実を表しています。 真珠門を通って都の中へ入れば、太陽も月もなく、あかりもありませんが、神様の栄光が取り巻いていて常に昼のように明るくまぶしい光で満ちています。遠くから見れば、きらびやかな栄光の雲の間に、家を飾っている様々な宝石の光が合わさって、まるで都全体が生きて動いているように見えます。 前に三天層について説明したとき、三天層と新しいエルサレムの家は一階建てでなく二階以上の建物で、純金と宝石で華麗に建てられていると言いました。池、庭園、スキー場、動物園、ゴルフ場、舞踏会場など、望む施設がみな個人で持てます。 ところが、新しいエルサレムと三天層を比べるなら、まずその規模からして明らかに違います。平均して三天層の家は、新しいエルサレムの家に比べて60パーセントくらいの大きさと考えればよいでしょう。(つまり、新しいエルサレムの家が三天層に比べてほぼ二倍程度大きいということです。) また、三天層の家も純金と宝石でできていますが、その宝石の種類と光には違いがあります。新しいエルサレムには数え切れない種類の宝石があって、それぞれが一つの光だけを放つのではなく、二重、三重の光を放つ宝石がたくさんあります。ところが、三天層には新しいエルサレムにある宝石の種類がみなあるのではなく、二重、三重の光を放つものもありません。 もちろん、三天層にある宝石でも、この地上の宝石に比べると言葉にできないほど美しくてうっとりさせる光を放ちます。以前、神様が説明してくださいましたが、天国の碧玉と最も似ているものを想像するなら、「青い海に日差しが反射してまぶしく輝く様子」を考えれば、ある程度理解できると言われました。碧玉一つだけでもこうですから、数え切れない宝石が集まって光彩を放つとき、その家の美しさはどれほど素晴らしいでしょうか? それぞれの家は、その主人が霊に入った深さと忠実に仕えた功績によって、またその行いと好みによって、様々な特色があります。栄光の光が家をどれほど囲んでいるのか、どんな宝石で飾られているのか、こういうものだけ見ても、家の主人がどれほど聖められて、この地上で神様にどれほど喜ばれる人生を送ったのかわかります。 その中の一軒を例にあげれば、終わりが見えないほど巨大な敷地の中に、宮殿のような母屋があり、その母屋を取り囲んで塀があります。この塀は碧玉か、あるいは青いガラスのように見えますが、塀の外からは中が見えないのに、中からは外がきれいに透けて見えます。レンガを積み上げたこの地上の塀とは違い、つぎ目の全くない一つの彫刻品と同じで、塀自体からもうっとりする香りが放たれて、塀の下を囲んで植えてある花も濃い香りを放ちます。 塀にはまるで刻んだように精巧な模様がぎっしり彫られていますが、塀の中や外のどちらか一方から彫刻したのではなく、不思議なことに透明な塀の内部から彫刻されたように、模様が現れています。文字と絵の模様が塀の中から見えるか見えないかのように、ほのかに輝き浮び上がっていますが、主人がこの地上で神様に喜ばれたこととその人が成し遂げた心の善と美しさなど、主人に関わる内容が記録されています。このような美しい彫刻を通して、神様はその人がこの地上で送ったすべての歳月を慰めてくださるのです。 このように塀一つだけでも尊い宝石であり、繊細な彫刻で愛を表現してくださった報いですが、まして家の内部はどれほどさらに美しくうっとりするように作っておかれたでしょうか? 新しいエルサレムに入った人々が神様の備えてくださった自分の家を見ると、ただ言葉もなく感謝の涙だけがとめどなく流れます。 門を入りながら見える広い敷地と、細部まで細やかなところまで繊細に飾られた装飾によって、気がぼおっとするようです。庭園にはあらゆる花と木が美しく配置されてあり、華麗な羽を持つ鳥が可愛く歌を歌ってくれます。庭園を横切って母屋に達するまで純金の道があり、道ばたに植えてある花は美しい香りを放ち、主人の功労をほめたたえ、この地上でのすべての苦しみと労苦を慰めてくれます。 家の中には、各人が普段願っていたすべての物がもれなく取り揃えられています。たとえば、本が好きで文書宣教を通して多くの魂を救ったある方の家には、美しい書斎が作られています。また、ある方の家の庭園には華麗に飾られたテーブルがありますが、これもまた、この主人を慰める意味で神様が下さったものです。この方は神の国を成し遂げるために自分の人生とすべての時間、愛する家族まで神様にすべてささげました。それで神様は、愛する人々と座って幸せで水入らずの時間が送れるように、このようなテーブルを報いとして下さいました。 また、他のある方の家、庭園の片隅には、いろいろな運動器具が設置されていますが、その中のアレイ一つを見てもこの地上のアレイとは違います。鉄やある金属で作った物ではなく、御父が下さった特別な飾りで作られているので、美しく光る宝石のように見えます。これを持ち上げたとき、つかんだ人の心に合わせて、瞬間瞬間、感じられる重さが変わります。天国で、ダイエットと健康を維持するためにこういう運動器具が必要なのではありません。この家の主人が本来この地上で運動が好きだったけれど、神の国のために忠実に仕えて、好きだった運動と趣味を捨てたことに対して、神様が慰めの意味で作っておかれたのです。 聖徒たちが新しいエルサレムに入ってくるまで、数え切れない忍耐と犠牲の時間を送ったとしても、このように備えられた一つ一つの報いを見る時は、あっという間にその心が溶かされて慰められるようになります。「父の繊細で細やかな心が、私の小さい望み一つ、小さい喜び一つもそのままにされず、このように愛を施してくださったんだ」と、感動しながらほめたたえるようになるのです。 愛する聖徒の皆さん、皆さんは天国でどんな家に住むことを願われますか? また、家の中にはどのように飾られた施設を望まれるでしょうか? 皆さんが新しいエルサレムに入りさえすれば、望むものは何でもかなえられ、願ったこと以上に、想像もできなかった大きく美しい住まいと報いが与えられます。しかし重要なことは、そのすべての建築材料と施設一つ一つが、この地上で皆さんが神様にささげられた愛と忍耐、忠実と献身を通して作られるということです。 皆さんがこの地上で愛するものや願うものを主のために献身してささげたとき、新しいエルサレムではそのすべてがそのまま慰めと報いとして戻ってくるのです。細やかな愛の神様は、ただの一つもそのままにしておかれません。神の国のために悲しむとき、その涙一滴さえ無駄に消えないで、すべてが皆さんの家を作り上げる資材と装飾になります。新しいエルサレムに入ってきた人々が、この地上では神様のみこころどおりにだけ生きたので、天国では神様が彼らの願いどおりにすべてを楽しむようにされるのです。 聖徒の皆さん、次に人々の服装を見れば、天国の色の中でも最も美しく鮮やかに輝く最上の色で、新しいエルサレムに入ってきた人の栄光を表現します。しなやかな生地に飾られた華麗な宝石と一緒に、とても多様な模様が刺繍されています。 たとえば、その人が地上でどれくらい感謝したかを表す感謝の模様があり、賛美の模様があり、その他にも喜びの模様、祈りの模様などいろいろあります。こういう模様は自分の願うままに縫い取られるのではなく、資格に合う模様を神様が下さるのです。 特に栄光の模様というものがありますが、この栄光の模様は新しいエルサレムの中でも神様に特別に栄光をささげた人々だけが受けるもので、他の模様とその栄光が明らかに区別されます。軍人たちが戦争で輝かしい功を立てた時に特別な勲章をつけるようになるように、この模様のつけられた人はさらに尊く感じられるのです。もちろん、服も一着でなく数え切れないほどあって、時によって他の服に着替えるようになります。 次に、頭には冠をかぶりますが、<第二コリント4:8>に出てくる「義の冠」や、<黙示録4:4>に出てくる「金の冠」、他にも新しいエルサレムでは冠の種類がとてもたくさんあります。花で飾った花の冠、真珠の冠、水晶の冠など、あらゆる宝石で繊細で華麗に飾られたいろいろな冠があって、状況に合うように冠を変えてかぶります。 ところで、女性にはこのような冠だけでなく、特別な髪飾りがあります。過去、韓国でも王妃とそばめ、女官、平民など身分によって髪型と飾りが違ったように、天国では髪型もすべて違います。パラダイスでは、冠も何の飾りもないただの髪をしていて、上の段階に行くほど女性の髪にはさらに美しく華麗な飾りをします。新しいエルサレムの女性たちは様々な宝石の飾りと一緒に、特別に美しい色を発する糸のような飾りで髪を飾るようになります。輝く美しい飾りひもが、まるで髪の一部のように長く垂れて、うっとりした光を放つのです。 このように、天国では各人が着る服の色や光、服に縫い取られた模様と飾っている宝石、また頭にかぶった冠と様々な飾りを通して、その人がどれほど神様に愛されて認められているのか一目でわかるのです。 今日、霊の目が開かれた方々がある御使いのかしらを見てあかしするのを聞いても、その飾りと姿は言葉ですべて表現しがたいのです。飛び立つようにきれいで優雅な姿に、踊りながらからだをやわらかく返せば、波打つように翻る金髪からドレスの裾に至るまで華麗に飾られた宝石が、五色の輝きを放ちます。御使いのかしらの姿だけでもこのように美しいのに、新しいエルサレムに入ったまことの子どもたちならば、神様はどんな天使よりもっときれいに装わせてくださるのですから、そこに入った皆さんの姿がどうなのか、想像さえしにくいことです。 新しいエルサレムでは、聖徒が服を着替える時や、宴会をする時でも、どこに行って何をしようとも、各人に付いた天使たちがまるで影のように付き従って仕えてくれます。互いに霊で通じるために、主人の望みをいちいち言わなくても、天使がすべてをてきぱきとしてくれるのです。各人が霊に入ってきた程度によって付き従う天使の数が変わるので、天使の数だけ見てもそれぞれの栄光がわかります。 愛する聖徒の皆さん、新しいエルサレムは美しくて華麗なだけでなく、その中で学び、見聞きして、楽しんで愛を分かち合うことに終わりがありません。永遠の時間を生きますが、退屈に思う暇がなく、毎瞬新しくて幸せなことでいっぱいです。 特に新しいエルサレムではいつも宴会が催されますが、時には父なる神様が主催されたり、あるいは主と聖霊様が主催されたりします。父なる神様が催される宴会では、皆が最高に美しく支度をしてきて、最上のものを食べて飲んで、うっとりするような美しい賛美と踊りを楽しみますが、その栄華を極めるさまは言葉で表現できません。 この地上でも皆さんが聖霊に満され、さらに感じて動かされれば、頭からつま先まであまりにも充満で爽快で、飛んで行くようにうっとりした気分になります。皆さんがこういう感じをいつも感じて生きていったら、どれほど幸せでしょうか? ところが、これよりもっと幸せがいつも心に満たされているのが、まさに天国での生活であり、その中でもより良い天国に上がるほど、その幸せと感動がさらに深く心に臨んでいます。神様とともに、そして愛する人々とともに、永遠の時間を楽しんで生きていく所、歳月が経つほど幸福がさらに深くなり、時間が流れるほど感動がより増す所、そこがまさに私たちが入る新しいエルサレムです。
<結論>
愛する聖徒皆さん、これで「信仰の量り」のメッセージを終えようと思います。皆さんがこの間お聞きになったメッセージのとおり、信仰にも量りがあります。ひとまず救いを受けたとしても、それで終わらずにますます大きい信仰に成長しなければなりません。皆さんがこの地上に生まれて生きていく真の目的は、まさに信仰の五段階に入り、新しいエルサレムに入る資格を備えることです。 きょう、新しいエルサレムの説明を簡単にしましたが、この内容はきわめて一部に過ぎません。全能の神様が愛する子どもたちのために神様の知恵と御力をすべて働かせてお造りになったのですから、どれほど美しく、どれほどうっとりすることでしょうか? 何よりも、新しいエルサレムに入ってきた人だけが、父なる神様にも、主にも、愛する人々にも皆さんが会いたい時に会えます。三天層以下の聖徒たちは特別に招待される時だけ、新しいエルサレムに入ることができます。三天層の聖徒たちは、それでも聖められた心を成し遂げたので、招待されて新しいエルサレムに入れば父なる神様と主にお目にかかることができますが、パラダイスや一天層の聖徒たちは招待されて入ってくる機会も多くなく、新しいエルサレムに入ってきたとしても、罪をすべて捨てられなかった自分の姿が申し訳なくて、主の顔をまともに拝見することもできません。 ある人々は、神様は愛が多いから、救われたすべて子どもたちが新しいエルサレムに入ってくるようにおできになるのではないかと思うこともあるでしょう。しかし、それは公義にも合わないし、信仰の段階が互いに違う人たちが一ケ所に混ざって住むとしても、幸せなことでもありません。幼い子どもが大人の中にいて、いくら細やかに世話されるとしても、それでも同じ年頃の友だちがいるほうが幸せで、若者は若者どうし、大人は大人どうしのほうが、心がもっとよく通じます。 天国でも、各自が心を霊で成し遂げた分、互いの心を分ち合って交わることができます。 それで、信仰の二段階や三段階にしかならない人を新しいエルサレムで生きるようにしてあげるとしても、それがより幸せだとは言えないのです。もちろん悪がなくて善だけあると、互いに理解して仕えながら生きられますが、その心に成し遂げられた善の次元と霊の深さが違うので、本当に心を分かち合うことが難しいのです。 ですから、皆さんは必ず全き霊に入って、新しいエルサレムにとどまる資格を得なければなりません。皆さんが罪を捨てて聖められ、霊の心を成し遂げる分、この地上でも天国の幸せがさらに深く感じられて、新しいエルサレムの栄光が生き生きした感動で迫ってきます。 このように天国への望みと喜びがより増すほど、この地上のことには全く未練がなくなります。どうすればすばらしい神様にもっと栄光を返せるか、また、どうすればもっと多くの魂たちがともにこの新しいエルサレムの栄光が受けられようか、こういう霊的な願いだけが心に満ちているのです。自分の人生をすべて犠牲にして、主の御名で迫害と患難にあっても、それが全くつらいと思えないのです。 愛する聖徒の皆さんは、朽ちるむなしいこの地上のすべての望みを捨てて、さらに良い天国に入る望みだけ皆さんの心をぎっしり満たすよう願います。力を尽くして花嫁の備えを完全に終えて、将来必ず新しいエルサレムに入り、永遠に神様とともにとどまる皆さんになられますように、主イエス・キリストの御名で祝福して祈ります。 |
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