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Title
信仰の量り(23)-信仰の五段階(4)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ロマ 12:3, マコ 16:16-20
Date
2006-05-28
<本文>
<ローマ12:3>
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
<マルコ16:16-20>
「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。〕」
<序論>
愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ペルー、ホンジュラス、ボリビア、エルサルバドル、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、ネパール、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、ケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダ、タンザニア、ナイジェリア、スワジランド、南アフリカ共和国、ボツワナ、コートジボアールなど全世界と全国の4、400余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通して礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん、
<ヨハネ14:13>でイエス様は、「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」と約束されました。人にはとうてい不可能などんな問題でも、イエス・キリストの御名で求める時は、神様が何でも成し遂げてくださるということです。
ところで、このみことばはだれにでも当てはまるのではなく、全き信仰を持った人々に当てはまるみことばです。皆さんがすべての罪と悪を脱ぎ捨てて完全な真理の心を成し遂げさえすれば、神様は何でも求めることに答えてくださいます。また、他の人のために祈る時も神様のみわざを現してくださいます。きょうの本文にあるように、いろいろなしるしも行うようになるので、多くの人々に福音をあかしすることができます。
きょうは「信仰の量り」二十三番目の時間で、信仰の五段階、四番目の時間です。みことばを通して皆さんも力を受けて、神様のみわざを十分に現して、数多くの魂たちを神様に導かれますように、主の御名で祈ります。
<本論>
愛する聖徒の皆さん、信仰の五段階の特徴のうち、二番目は数え切れない祈りを積み重ね、しるしと不思議が現れることであると言いました。罪を捨てて聖められた人が聖霊に感じて無数の祈りを積み重ねると、神様の力が臨むようになって、いろいろなしるしと不思議を行えるようになります。その中でもきょうの本文には「信じる人々に伴う五つのしるし」が出ています。
この間はそのうち、二つを語りました。つまり、主の御名で悪霊を追い出す事もでき、新しいことばを言えると言いました。
次に三番目のしるしは「蛇をもつかむ」ということです。この時の蛇とは、地をはう蛇でなく、霊的な意味の蛇を言うのです。
<黙示録12:9前半>に、「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。」とあるように、「蛇」とは、すなわち「敵である悪魔・サタン」を表します。
それで、信じる人々が「蛇をもつかむ」というのは、つまり、教会の中で発生する「サタンの会衆に属する者」を打ち砕く権威があることを言います。
<黙示録2:9後半>に、「またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」とあり、<黙示録3:9>には、「見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。」とあります。
「サタンの会衆に属する者」とは、ユダヤ人だと自称する人、すなわち、自らは神様に属した人だと思うけれど、自分の思いと益に合わないからと言って、神様の働きを妨げる群れを言います。つまり、教会の中で二人以上が集まり、つぶやき、さばき、罪に定め、 兄弟の間に争いをひき起こすなどで問題を起こすことを言います。そうしながら、党派心を持っていくことです。
もちろん教会の中でも、あることを成し遂げるとき、神様を愛する心と善良な意図の中で、建設的な提案をすることは必要です。しかし、自分の益を求める心と自分の義の中で、主のしもべに敵対して教会の方針に逆らって、信仰の兄弟たちを分離させるとき、これは明らかなサタンのしわざです。
教会の中にこのようなサタンの会衆に属する者が現れると、愛が冷めていき、神様のみわざが途絶えます。教会に属した羊の群れが試練や患難にあって、リバイバルもできなくなります。
ところが、教会の中に五段階の信仰に達した人がいるならば、このようなサタンの会衆に属する者を見抜くことができて、みことばの権威で砕くことができます。
本教会には開拓以来、一度もこういうサタンの会衆に属する者たちが現れたことがありませんでした。講壇でいつも真理のみことばが豊かに宣言されるので、聖徒たちが真理に逆らうことを聞くとき、惑わされず、支持することもないからです。
万一サタンの会衆に属する者が現れても、神様がまずこういう群れを知らせてくださるので、講壇でみことばによって砕くようにされました。ですから、サタンの会衆に属する者たちも自分たちの悪を悟って、魂を砕いて罪を告白するようになり、もし悔い改めないなら、取り付く島がないので、それ以上妨げられず離れるようになりました。
信じる人々に従うしるし、四番目は「たとい毒を飲んでも決して害を受けない」ことです。
<使徒の働き28:1- 6>に、使徒パウロがまむしにかまれる事件があります。これを見た多くの人々がパウロは倒れて急死するだろうと思いましたが、パウロは何の害も受けなかったのです。それで人々は驚いて、パウロを神のように思いました。
このように、全き信仰の段階に至ると、たとい毒を飲んでも守られるのです。毒を飲んでも害を受けないようにされて、有毒ガスを吸っても害を受けないように神様が守ってくださいます。病を誘発する病原菌やウイルスが侵入しても、直ちに聖霊の火で焼き尽くしてくださいます。
私もこういう体験をよくしました。すえて毒性のある食べ物を食べた時も、その毒性がからだに全く害をうけずそのまま排せつされてしまったり、催涙弾がさく烈したところを通る時に、周りの人々はくしゃみをして涙を流しても、私は何の影響も受けなかったりしたこともありました。
もちろんいくら力のある人でも、もし、神様を試すためにわざと毒を飲めば、この時は守られません。<マタイ4:7>に、「イエスは言われた。『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」とあるように、十分の一献金以外には、神様を試すことを禁じられました。あえて神様を試そうとわざわざ毒を飲んだりするならば、神様も顔を背けられて守ってくださらないのです。
次に信じる人々に伴うしるし、五番目は、「病人に手を置けば病人はいやされます。」ということです。
信仰の五段階に達して力が臨むと、自分に病が入ってこないのはもちろん、他の人の病も直してあげる力があるのです。ところが、悪霊を退ける時と同じように、力のある人が病人に手を置いても、病気がいやされない時があります。祈りを受ける人のほうに全然信仰がなかったり、神様との間に隔ての罪の壁があったりするからです。
本教会には毎週数え切れないほど多くの人々が私のところにきて祈りを受けていやされていて、しかもこの頃はインターネットやGCNを通しても時間と空間を超えた御力を体験する人々が多くいます。放送を通して大小の問題が解決されて感謝するあかしの手紙が絶えず届いています。
しかし、同じように祈りを受ける人々の中でも答えられない人がいるのは、なぜでしょうか?これは自らの信仰で祈りを受けるのではなく、偶然の幸運を願って出てくるからです。いくら大きい御力がこの教会に現れると言っても、だれでも神様のみわざを体験するのではありません。
まず神様のみことばを聞いて信仰を持つべきで、自分の罪を悔い改めなければなりません。それで「私が本当に祈りを受ければいやされる」という信仰と、慕い求める心で祈りを受けなければなりません。そういう心なら、「着物のふさにでもさわらせてもらうと、または、みことばだけでもいやされます。」という告白が出てくるようになります。もし願うとおりに祈りを受けなくても、心が傷ついたり、さびしく思ったりせず、最後までへりくだった心と信仰で行うようになります。
ですから、伝道する時も、皆さんが正しく教えなければなりません。無条件に祈りだけ受ければだれでもいやされて祝福されると、間違って伝えることによって、相手が答えられるどころか、むしろつまずく場合があってはいけません。
もちろん、そのように信仰なしに来られる方々の中にも、「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」と言われたように、私の信仰だけで働かれる場合も多くありますが、それでも伝道する皆さんのほうでは、真理を正しく教えなければなりません。
時には、祈りを受ける人に信仰が全然なくても、神様が心をご覧になっていやしてくださる場合もあります。その時は信仰がないけれど、神様に出会うと、神様に栄光をささげて熱く信仰生活をする人であるならば、神様がまずいやしてくださることもあります。しかし、原則的にはまずみことばを聞いて、悔い改めて、答えられるほどの信仰の器を準備すべき、ということをいつも覚えていなければなりません。
愛する聖徒の皆さん、皆さんがさらにもう一つ覚えることがあります。信仰の五段階ではいろいろなしるしが伴いますが、こういうしるしが現れるからといって、皆が信仰の五段階ではない、ということです。
たとえば、まだ聖められていない人でも、神様を愛して魂たちを愛して、火のような祈りを無数に積み重ねていくと、いやしの賜物や奇蹟を行なう力などの聖霊の賜物が臨むこともあります。それで、他の人のために祈るとき、いやしのみわざが現れるようになります。
また、聖霊の賜物が臨んだのではなくても、ある人に対して愛であくまで頼み続けて祈る時に、神様が憐れみを施してくださることもあります。
たとえば、主のしもべに力があるのではないが、羊のほうであまりにも切なる信仰でそのしもべに祈りを頼む場合があります。「私が神様のしもべに祈りを受けさえすれば、必ずこの病気がいやされる」と祈りを受けるとき、神様がその切実さと純粋な信仰をご覧になって働いてくださるのです。
しかし、このような場合は神様の力が完全に臨み、不思議としるしを行うこととは次元が違います。少なくとも信仰の四段階に入ってきて、数え切れない祈りを積み重ねる時でこそ、ある程度神様の力が臨むのであり、信仰の五段階に達した時でこそ、その力が完全に臨むようになります。
信仰の五段階に入ってきて、完全な力を受けたなら、一つ二つのみわざが偶然に現れるのではなく、先に申し上げたように信じる人々に伴う五つのしるしがいつも現れて、それ以上の不思議としるしも行えるはずです。病気のいやしだけでなく、わずらい、つまりからだの不自由もいやすことができて、その他にいろいろな不思議としるしを必要な度に行えなければなりません。
それで、聖霊の賜物の中でも、いやしの賜物と奇跡を行う力の賜物は、それぞれ区別して記録しています。いやしの賜物、すなわち、病を直す賜物は、病原菌とウイルスを焼き尽くして病気を直すことはできるけれど、わずらい、からだの不自由は直すことができません。悪霊が追い出せるのでもありません。
それでいやしの賜物が大きいといわれる祈梼院でも、悪霊につかれた人は直せない場合が多いのです。力があってこそわずらいを直すことができ、また聖霊の賜物としての奇跡を行う力があるとしても、その人に完全に力が臨んだとはいえません。
また聖書には、「力」という言葉と、「権威」「御力」という言葉も出てきます。「力」「権威」「御力」、こうした言葉は似ているようですが、確かに意味が違います。今からその意味を簡単に説明するとき、よく理解して糧とされるようお願いします。
まず「力」とは、人にはできないけれど神様にはおできになる力です。<マルコ10:27>に、「イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」」とあります。人にはとうていできないことが世の中には非常にたくさんありますが、神様の力では不可能がありません。
本教会が今日まで歩んできた歴史を見ても、ただ神様の力だけでできることだと、皆さんも共感されるでしょう。何もない無の状態で、やっと7000ウォンを持って開拓して、今のような大きな教会を成し遂げることは、人の知恵と知識でできるのではありません。
何か特別な関係もなく、世界の各地で大型聖会を成し遂げることも、このように短期間にGCNを成し遂げたことも、人の力でできることではありませんでした。ただ不可能を可能にされる神様の力でだけ成し遂げられたのです。
このような力があれば、病とわずらいを直すことができ、死者を生かして悪霊を追い出すこともできます。前にも説明したように、いやしの賜物があれば、病原菌とウイルスによる病は直せるけれど、見えない者、話せない者、歩けない者などを直すためには、いやしの賜物だけではなく、力がなければなりません。
まだ悪をすべて捨てる前であっても、神様を愛する心が熱くて、魂を愛する心が熱くて、数え切れない祈りを積み重ねるなら、聖霊の賜物の次元で力を受けることもあります。しかし、この時は力が完全に現れるのではありません。時々、部分的に現れるだけです。また、その賜物を受けた人が高慢になったり、その心が変わってしまったりするなら、賜物が取り消されることもあります。
しかし、信仰の四段階以上に入ってくると、すでに聖められた心なので、高慢になったり変わったりするはずがありません。したがって、力が消えるはずもなくて、多くの祈りを積み重ねていくほど、また神様にますます似せられていくほど、神様も思いきり力を行えるように、霊的な権威まで臨むようにされるのです。
それでは、「権威」とは何でしょうか?霊的な権威とは、「神様の立てられた威光ある栄光の力であり、神様の秩序にあって上からの神様の命」です。創造主の神様に属した栄光の権威を人に許してくださったのです。
<ローマ13:1>に、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」とあります。
ピラトがイエス様を尋問する時も、イエス様は、「もしそれが上から(つまり神さまが) 与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。」と言われました。
またヨブ記を見ると、サタンがヨブを訴える時も、必ず神様が許されてこそ試練や患難をもたらすことができるのです。神様が試練を許されることは許されましたが、ヨブのいのちに決して触れないようにされたので、敵である悪魔・サタンもそのいのちはどうすることもできなかったのです。
天下万物とすべての人生の生死禍福をつかさどられる方は、ただ神様であり、 雀一羽でも、父のお許しなしには地に落ちることはありません。
皆さんがこの事実を覚えるなら、ひょっとしてある試練が来た時も、人の方法を使うのではなく、神様にあって解決する道を探すようになります。なぜ父なる神様がこれを許されたのか、そのみこころを悟って神様に答えられなければなりません。
ところで、霊的な権威は聖潔と直接つながります。先に力について説明するとき、まだ聖められていない人でも、神の国を成し遂げようと熱い心で火のような祈りを無数に積み重ねると、部分的には力が臨むこともあると言いました。
しかし、霊的な権威は、聖められなければ決して受けることはできません。子どもに鋭い刀を握らせたら、自分と周りの人に大きい害を加えるようになります。また昔、管理の資質がない悪い人が王の権威を委任されると、民を苦しめて国が乱れるようになったことが度々見られます。まして全能な神様の光栄の権威をだれでも持つことができるなら、大きい混乱が起こるのではありませんか?それで、神様が霊的な権威を与えられる時は、少なくとも信仰の四段階に入った人、悪がなくて、兄弟のためにいのちも与えられるほどに愛と徳と寛容のある人に下さいます。
信仰の五段階に入り、霊的な権威と一緒に完全な力を持つようになると、この時は御力を行うようになります。「御力」とは権威のある力のことを言います。
<ルカ4:36>に、「人々はみな驚いて、互いに話し合った。「今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。」とあります。イエス様が行われたことは、力だけでなく権威と一緒に現れた御力のわざだったのです。
信仰の五段階に至らなくても、例外的に御力が現れる場合があります。たとえば、イエス様が弟子に按手して御力を行うように命じられた場合がそうです。これは、イエス様の御旨の中で、イエス様の御力が弟子たちに一時的に与えられたので、御力が現れたのです。
力を包括的に言う時は、悪霊を追い出して病気やわずらいをいやして、死者を生かすなど、すべての御霊に属した働きがその中に含まれます。しかし、厳密に言えば、力だけあることと、御力、すなわち、権威が伴う力とは見分けられます。それでは、力と御力とは何が違うのでしょうか?
たとえば、親子の間で、息子がいくら賢くて力が大きいと言っても、父のいうことには従うようになります。父の権威に服従するのです。
また、昔、王の命令を持って行く使いには、どんな臣下でも服従しなければならないことが見られます。たとえその使いよりもっと地位が高くても、使いは王の権威を受けて来るので、その命令に従うようになります。
まして全能なる創造主の神様が霊的な権威を与えられたなら、すべての被造物と悪い霊どもまでも、その前に服従しなければならないのです。
もう一つたとえてみましょう。
車が運転できる人は、車を動かして行ける力があります。しかし、警察が道を封鎖して車を停車させる時は、運転する力のある人でも、警察の権威に従って車を止めなければなりません。
霊的にも同じです。<詩篇62:11>に、「神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。」とあります。霊的な権威は創造主の神様に属した権威ですから、力と共に権威まで臨んでいるならば、悪い霊どもや病原菌、はなはだしきは無生物でも従わせることができます。風や波、雨と雲などに命じて、天気を動かすこともできるのです。
聖められて純金のように全き信仰を持った人でこそ、このような御力を受けることができ、信仰の五段階でも深い次元に入るほど、御力はより一層大きくて驚くほど現れるようになります。
<結論>
愛する聖徒の皆さん、<ピリピ3:20>に、「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」とあります。主を信じる私たちは、この地に属した者でなく、天に属した者です。
ところが、このみことばは将来永遠な天国に入ることだけを意味するのではありません。皆さんがまことに光の中に、真理の中にとどまり、天に属した者らしく生きていくなら、この地でも天のことをいつも体験して生きていけるのです。神様の権威と力で敵である悪魔・サタンを退けるので、どんな試練や患難も問題になりません。また、イエス・キリストの御名で御力を行うとき、多くの人々を救いの道に導くこともできます。
神様は神様の子供たちがそのような御力を行うことを切実に望まれて、御力を与えられるほどの人がいるのか、いつも探しておられます。
愛する聖徒の皆さんは、皆がこのような御力を受けることを慕い求めて、完全な光の中に、霊的な世界に、より一層こまめに攻めてこられますようにお願いします。それで、多くの人々の前で主の御名を高めて、また来られる主を迎えるとき、だれよりも大胆に主のふところに抱かれますように、主の御名で祝福して祈ります。
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