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Title
信仰の量り(11) - 信仰の3段階
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ロマ 12:3
Date
2006-01-08
<本文>
<ローマ12:3>
“「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
<序論>
愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエルそしてケニア、ウガンダ、コンゴ、ブルンジ、ルワンダなどアフリカ諸国と、全世界、全国の4000余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。
世界的に有名なノーベル賞は、ダイナマイトを発明した「アルフレッド ・ノーベル」という人の名前からつけられました。
ノーベルはある日、新聞の記事を見て衝撃を受けました。自分は健康に生きているのに、新聞では他の人の死と間違えて、彼が死んだという記事を出したのです。
ところが、ノーベルが衝撃を受けたのは、自分が死んだという記事のためではなかったのです。新聞記事の内容に、自分の死を、「死の商人、死亡」と表現されていました。
ノーベルが思うに、自分は「ダイナマイトという立派な発明をして、人類に大きい功績を立てた人」でした。しかし、新聞の見出しを見ると、他の人々の目に映った自分は「死の商人」、つまり、大量殺傷武器の発明家にすぎない、ということを悟って衝撃を受けたのです。
それからノーベルは、人類の発展に貢献するいろいろな善いことを行おうと努力し、そのうちの一つがまさに、有名なノーベル賞の制定だと言われています。
愛する聖徒の皆さん、ノーベルがそうだったように、皆さんの場合も、自ら思う自分の姿と他人の目に映った姿が全く違うことがあります。
自らは「信仰が良くて、熱心な働き人で、霊を切に慕い求める人」だと思うのに、他の人々が見る時は、「私欲のある人」とか「気に触らないように気をつけるべき人」、あるいは、「まだ聖潔とは距離が遠い人」と見えることもあります。
ですから、かりに他の人の目で自らを顧みることができるなら、自分の足りなさを発見して聖められることに、まことに大きい益になるはずです。
また、他の人が見る視角より、もっと重要なものがありますが、それはまさに神様の視角です。自分が見てもよくやっていて、他の人々が見てもよくやっているようでも、心をご覧になり、その細かいところまで探られる神様には、違う姿に映ることもあるからです。
<第二コリント10:18>に、「自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。」とあるように、神様の前に認められる時でこそ、この地上でも信仰のみわざをいつも体験でき、天国でも最も良い場所に入れるのです。
まさにこういう意味で、この間説明した通り、自分の義と枠を打ち砕くことがかなり重要です。
真理を誤って適用して作られた自分の義と枠を持っていると、自らはとても正しくて善良なようでも、他の人々には認められなくて、しかも神様も「違う」とおっしゃいます。
ですから、すみやかにこういうものを発見して、自分を変えて、神様がご覧になって正しくならなければなりません。そうする時でこそ、さらに高い信仰の段階へ進み、すみかに霊の世界に入ることができます。
きょうは「信仰の量り」十一番目の時間です。愛する聖徒の皆さんは、語られるみことばを通し、すみやかに自分を発見して、完全に変えられて、大きい信仰が持てますように、主の御名で祈ります。
<本論>
愛する聖徒の皆さん、神様を信じて聖霊を受けると、救われる信仰を持つようになります。このように聖霊を受けて救われた信仰が信仰の一段階であり、信仰の二段階は神様のみことばを聞いて行おうと努力する段階です。
二段階ではみことばどおり行おうと努力はしますが、そのとおり行う時もあり、行えない時もあります。しかし、ずっと祈りながら努力していくと、ますます信仰が成長して、みことばどおり行える分量が多くなります。
それで信仰の三段階に至ると、その時からは神様のみことばどおり行えます。神様のみことばに含まれた意味を悟って、みことばどおり行うことが祝福だと知っているために、喜んでみことばの中を歩むのです。
このように、みことばどおり行える信仰の三段階に入れば、その次は心の罪の性質を脱いでしまう作業をすみかにしていかなければなりません。
たとえば、「憤らない」ということと「憤り」という罪の性質そのものが心からなくなったこととは、状況が違います。
そのように、悪を行わずにみことばの中を歩む人であっても、自分の中にある罪の性質を発見して、心から罪の性質自体を抜いて捨ててしまうべきです。それでこそ信仰の四段階に入ることができ、四段階からは神様のまことの子どもで、霊の人だと認められるのです。
ところが、時には信仰の三段階までは激しく攻めてきて、信仰の岩を過ぎて三段階の終わりに至ったのですが、ここから長い間、発展がなく、停滞している場合があります
それで、この間は、信仰の三段階にいる人が霊的に停滞しないで、すみやかに四段階に入るためにはどうすべきなのか、二つの分野を説明しました。
一番目は、ある程度信仰が成長したからといって、罪との戦いを止めてはいけない、と言いました。みことばと祈りを通し、根本の罪の性質をすべて抜いてしまう時まで、こまめに聖潔を成し遂げていかなければなりません。
二番目は、肉の思いを捨ててこそすみかに霊に入れるのですが、その中でも「自分の義」と「自分の枠」を砕かなければならない、と言いました。
明白に真理に逆らうもので作られた自分の義と枠は、神様のみことばを聞くと簡単に発見されるので、すぐ捨てられます。
ところが、ここで特別に警戒すべきことは、真理で包装されている自分の義であり、真理を誤って適用して作り出した自分の枠であります。これらのものがあると、自らは真理どおり行っている、と思うので、長い時間経っても霊に入れなくて、信仰の停滞が生じることがあります。
ところが、ある人々は、「私は発見して捨てることを真心で願うけれど、私の義と枠がよく悟れません」と言って、もどかしく思う場合があります。
自分は礼拝も欠席せずに、みことばを慕い求めて聞いて、祈りも休まないのに、それでも何が間違っているのか、自分を発見することができない、と言うのです。
しかし、自分の義と枠を言い張る人々はだいたい、みことばを聞いても自分に当てはまるみことばとして受けられなくて、祈っても火のような祈りはできません。
皆さんが一度自分自身を顧みるよう願います。神様のみことばを聞くとき、皆さんはどれくらい切実な心で、自分のみことばとして受けるのでしょうか? いつも聞いていたみことばだと、ただ流してしまったり、他の人に当てはまるみことばだと思ったり、あるいは自分に当てはまるみことばだと知っていても、「自分ではどうしようもないので、神様が変えてくださるだろう」と、自分の努力はあきらめているのではないでしょうか?
また、毎日数時間ずつ祈ると言っても、どれくらい心を尽くして、叫んで祈られるのでしょうか? イエス様が祈られる時には、「汗が血のしずくのように地に落ちた。」とあり、エリヤはどれほど切に叫んだのか、 「地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。」とありました。
私がこういうみことばを思い出させて、祈りの重要性を言うと、何日かはぐんと祈りが熱くなったりします。しかし、しばらくすると、多くの人々がまた本来の姿へ帰ります。祈る時、同じことばを、ただくり返すのも、神様の前に遮られるのですが、天使のことばのようにうまく祈るとしても、美しい香りでささげられるのではありません。
ほんとうに心を尽くして、苦しみもだえて叫ぶので、その祈りが神様の前に太い香りとなってささげられる時でこそ、聖霊の感動を受けて、交わり、満たされるようになり、変えられるのです。
もう一つ皆さんが顧みることは、「私が他の人の勧めを聞くとき、どういう姿勢で聞くのか」ということです。
自分の義と枠が強い人々は、他人の勧めにも耳が閉じられています。自分が正しい、という心で高まってしまって、他人の勧めを聞く時も、「私はこれこれしかじかの理由でそうだったのに、相手は私の立場を理解できないから、あのように言うのだ」と思います。自分が正しいと主張するので、なぜ自分がそんな話を聞くのか、根本的な問題を悟れないのです。
あるいは、他人が勧めるとき、「あの人は私より足りないのに」と言って、片方の耳で聞いて流してしまったり、はなはだしきは目上の人が勧める時も、「あの方も百パーセント完全ではないから、必ずあの方の話が正しいのではないだろう、私がどうしてもその話を聞く必要はないだろう」と言ったりします。自分は完全な人の話だけを信頼して、完全な人が勧めてこそ聞く、ということです。
しかし、こういう心なら、人の話を聞けないだけでなく、神様がいくら聖霊の御声を聞かせてくださっても、その声を聞くことができません。
皆さんが信仰の三段階でも中盤ぐらいに入り、四段階に近づくと、簡単に発見できる罪と悪はすでに発見して、ほとんど捨てた状態です。
このような時、自分が悟れなかった自分の義と枠組みまで発見して捨てるためには、その分さらに切実でへりくだった心で、徹底的に自分を顧みなければなりません。
「どうすれば私の足りないところを発見できようか」、とさらに切に慕い求めるべきであり、それで幼い子どもの話でも、それを通して自分を変えようと、謙遜に受けなければなりません。
愛する聖徒の皆さん、自分の義と枠を砕いて捨て、心の罪の性質まで発見して脱ぎ捨てると、ついに霊に入ります。つまり、信仰の四段階に入り、この時からは霊の人だと認められます。
では、四段階へ渡る前に、まず信仰の三段階で入れる天国の場所について調べましょう。信仰の三段階の人々が入る天国の場所は「二天層」です。
三段階に至ると、それでもみことばの中にとどまり、神様の子どもらしく生きたので、こういう人々の場所は、信仰の一段階が行くパラダイスや、二段階が行く一天層とはかなり違います。
パラダイスには個人の場所がなく、一天層の家は、個人の場所があっても集合住宅のような形で与えられる、と言いました。
しかし、二天層では、独立した個人の住宅が各人に与えられます。何階もあるのではなくて一階の建物ですが、この地上のどんな派手な邸宅や別荘とも比べられないほど、雄壮で美しくて、香りのよい花と木で飾られています。
そして、二天層では、家だけが与えられるのではなく、主人が最も願うものが家の付属施設として、一つずつ与えられるようになります。
つまり、主人が美しい湖がほしいなら、家に付いた湖が作られていて、プ-ルがほしいなら、純金と宝石で飾られた華麗なプールが持てます。
美しい草と花が満ちていて、愛らしい動物が遊んでいる美しい散歩路が与えられることもでき、舞踏会場を持つこともできます。
ところが、二天層では、これらのもののうち一つだけが持てるために、互いに必要によって、他の家にあるものを使うことができます。
このように他の人の家を訪問して施設を使っても、互いに気まずくなったりするのではありません。これを通じて互いに仕えて、愛を分かち合えるので、いくらでも幸せと喜びで使わせるし、使う人も安心して思いきり楽しめるのです。
そして、二天層の家には、家ごとに表札がかかっています。表札には天国の文字で主人の名前が彫られるだけでなく、この地上で仕えた教会の名前が共に彫られています。ですから、神様の愛される教会で信仰生活をしたなら、それだけ栄光と誇りが加えられるのです。
二天層に行った人々に与えられる冠は、まさに「栄光の冠」です。
<第一ペテロ5:2 -4>に、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」とあります。
このように、信仰の三段階の魂たちは、心の完全な割礼を成し遂げなかったけれど、みことばどおり行って、自分の使命をよく果たして、神様に栄光をささげました。そのような人に与えられるのが、「栄光の冠」であります。
ところが、このように二天層に行った魂たちは、とても美しい場所にいるので感謝して、自分が行ったことと比べられない報いをいただくので、その感謝があふれますが、それでももどかしくて残念なことがあります。みことばどおり生きて、熱心に使命を果たすだけでなく、心の罪まで捨てて完全に聖められたら、どれほどよかっただろうに、ということです。
聖潔された人々が行く三天層や新しいエルサレムは、その栄光が二天層とは比べられないのです。
もちろん、こういうものを見ても、天国にはそねみ、ねたみがないので、より良い天国の栄光をうらやましがって、自分がそれを受けないので心が痛んだりはしません。他の人が自分よりさらに大きい栄光を受けるとしても、自分がその栄光を受けるように喜んで、彼らを心から敬い、また、自分に与えられた場所と報いだけでも、感謝と幸せがあふれます。
しかし、あまりにも残念で申し訳ないのは、神様が自分にもそのように愛を与えられて、この地上で多くの機会を下さったのに、完全に罪を捨てられなかった、ということです。
つまり、ただ、神様のみことばを守り行って、忠実に働いて使命を果たすだけでなく、心の罪の性質まで脱ぎ捨てたら、完全に聖潔されたら、どれほどよかったのに、といつも心残りなのです。
したがって、まことに信仰のある方なら、いくら二天層が美しくて良いといっても、ここで止まってはいけません。必ず新しいエルサレムに向かって、休まずに、天国を激しく攻めていかなければなりません。
愛する聖徒の皆さん、神様はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。また、すべての人がまことの子どもに変えられて、新しいエルサレムに入って来ることを望んでおられます。
それで、聖書には救いの道を明らかに書いてくださり、より良い天国に入れる道も詳しく提示してくださいました。
ところが、人々を見ると、その信仰が育つ速度はそれぞれ大変違います。ある人はみことばを聞いたらすみやかに罪を捨てて変えられていきますが、ある人は同じ教会で同じみことばを聞いても、変化があまりにも遅い場合もあります。
ですから<マタイ19:30>に、「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」とあるように、各人の差が現れるのです。
それでは、同じ神様のみことばを聞いて、聖潔を慕い求めて努力はしても、人ごとにこのように違いが出る理由は何でしょうか? いろいろな要因がありますが、最も根本的なことは、まさに人によって心が違って、その器が違うからです。
人の心と器については、次の時間に語りたいと思います。
<結論>
愛する聖徒の皆さん、<詩篇90:10>に、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」という告白があります。
人生の齢はやっと百年もなりにくいし、世の中で得られることは、結局、労苦とわざわいだけですが、今日もこの地上で私たちが生きていくのは、永遠な天国の人生を準備するためです。
この短い人生が終わって主に会うようになれば、その時は各自の場所と報いが決められるようになって、永遠な天国で主と共に生きていきます。
ところが、この時一度決められた天国の場所と報いは、永遠に変えられないのです。いくら数え切れない歳月が過ぎても、パラダイスに行った人が一天層に入ることはできないし、三天層に住む人が新しいエルサレムに住むようになることはありません。
したがって、この地上で与えられた時間に、熱心に天国を激しく攻めなかったと後悔しても、その時は何の役にも立ちません。
しかし、感謝することは、主がまた来られる時まで、皆さんにはまだ機会があります。<エペソ5:16>に、「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」と言われたように、2006年一年間も、皆さんに与えられた時間を大事に思って、霊に、全き霊にすみやかに入り、こまめに天国を激しく攻めていかれるよう願います。
それで将来、天国では何の後悔もなく、最も良い天国、新しいエルサレムに永遠にとどまる皆さんになられますように、主の御名で祈ります。
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