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Title
信仰の量り(8) - 信仰の3段階
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ロマ 12:3
Date
2005-12-04
<本文>
<ローマ12:3>
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
<序論>
愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエル、そしてケニア、ウガンダ、コンゴなど、アフリカ諸国をはじめとする、全世界と全国の3900余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。
からし種を地に蒔くと、芽が出て育って、ついには大きな木になります。
聖霊を受けて、皆さんの心に蒔かれた信仰の種も、ますます育ち、大きい信仰に成長するようになります。
信仰がどれくらい成長したのか、その大きさによって、この地上で体験できる信仰の働きが変わり、将来、天国の場所と報いが変わります。
それで<ルカ17:20 -21>に、「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。『神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。「そら、ここにある。」とか、「あそこにある。」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』」と言われました。
目で見えなくても、皆さんの心に信仰が臨んでいるだけ、信仰によって天国を攻めていっただけ、天国はすでに皆さんの中にあるのです。心に確実な天国の希望があふれ、この地上でも毎日主と共に歩み、喜びと感謝で心の天国を成し遂げるようになります。
ところが、種を地に蒔いて、長い歳月が過ぎても相変らず芽生えないなら、結局、種の中に含まれたいのちが消滅して、種そのものが朽ちてしまいます。
このように、一度聖霊を受けて救われたとしても、長い歳月が過ぎても、心に蒔かれた信仰の種が育たなければ、救いさえ受けられなくなることがあります。敵である悪魔・サタンが続けて世の情欲と疑いを植え付けて、救われる信仰さえ奪ってしまうのです。
愛する聖徒の皆さんは、神様が恵みによって下さった大事な信仰の種を、決して消さないようにお願いします。
蒔いた種にこまめに水をやって育てるように、みことばと祈りで、信仰に水を与えて育てて、大きい木のように満ち満ちた分量になりますように、主の御名で祈ります。
<本論>
愛する聖徒の皆さん。信仰の一段階は、聖霊を受けて救われた段階であり、信仰の二段階は、神様のみことばを聞いて行おうと努力する段階だと言いました。
二段階では、みことばを知って守らなければならないことを学び、行おうと努力はします。このように努力するうちに、時には守ったり、時にはみことばに逆らって肉の行いをしたりします。
しかし、時に転んで倒れても、また起きて歩いていくように、みことばどおり行おうと努力し続けると、信仰がますます成長します。それでだんだんみことばどおり行える力が大きくなります。
こうしてみことばどおり行える状態になると、信仰の三段階に上がるのです。それで信仰の三段階は、行える信仰だと言います。
二段階では、みことばどおり行えなくて、肉の行いをする時もありますが、三段階になると、当然、肉の行いはもう出てこないのです。
三段階では、みことばを無理に守り行うのではなく、神様のみこころを悟ったので、心からにじみ出て行うのです。
たとえば、主日を守ることや、十一献金についても、ただ知っていることと、悟ることとは全く違います。
主日を守ることは、神様の霊的主権を認めて、私たちの霊と魂が神様に属していることをあかしすることです。神様の子どもたちが、主日を聖なる日として守るなら、神様が一週間、災いや病気、事故から守られ、魂に幸いを得るように導いてくださいます。
また、収入の十分の一をささげることは、神様の物的主権を認めて、私たちのすべての所有が神様から来たことを認める信仰の行いです。人がいくら苦労して努力しても、神様が与えられないと、どんな実も刈り取ることができません。
ですから、私たちのすべての収入は、結局、神様のものですが、その中の十分の一だけ神様にささげて、残りは自由に使うように許されたのです。
このような十分の一を完全にささげると、物質の損害が起こらないように神様が守られ、あふれるばかりの祝福を下さる、と約束されました。
このように、たましいに幸いを得て、病気と試練・患難が離れて、物質の祝福を受ける、と言っても、そのみことばを数えきれないほど聞いて知っていても、相変らず主日を完全に守れなかったり、十分の一をすべてささげられなかったりすることが多いのです。頭で知っているだけでなく、心から悟ってこそ守り行えるのです。
たとえてみましょう。会社で突然、上司が「今日一日だけ徹夜して、一つ仕事を終わらせれば、徹夜手当もかなり与えて、一段階ずつ昇進もさせる。ところが、そういう気にならないなら、他の人に任せるから、家に帰って休んでもかまわない」と言ったとします。
人が職場で一段階昇進するためには、数年間どれほど苦労して努力するでしょうか? それがたった一日の徹夜で昇進できるなら、だれがそれを拒むでしょうか?
同じことです。完全に主日を守ることと十分の一が祝福であることを、本当に心から悟るなら、必ずすべて行う信仰を持つようになります。みことばを聞いても行わない人は、心から悟れないので、行わないのです。このように悟って行う三段階と、悟れない二段階では、明確に違いが生じます。
しかし、二段階では悟れなかったとしても、ひとまず入ってわかっているので、行おうと努力はしていきます。祈って行おうと努力するなら、ある瞬間、神様が上から恵みを下さって、心から悟れるようにしてくださいます。それが恵みとなって、能力となり、心に自分の信仰として来て、その後は十分に行えるようになります。
ところで、赤ちゃんが歩くようになるのを見ると、ある日、突然、起きて歩けるのではありません。寝たまま手足を動かして、力をつけてくると寝返りを打って、はいはいして、両足で立てるようになります。そのように努力しているうちに、ますます足に力がつくので、ついに歩いて走れるようになります。
信仰も同じです。ただみことばを聞いているだけで、行える恵みと力が来るのではありません。自らが祈りながら、行おうと努力していってこそ、その行おうとする心をご覧になり、神様が恵みを下さって悟れるようになります。
このように努力したことが、一つ、二つと行える能力になり、信仰の確信ができれば、みことばのとおり行うことが、これ以上負担にならないのです。日常生活のように、みことばどおり行うことが自然にからだに慣れてきて、安定した信仰生活を味わうようになります。
目につく真理に逆らうものはほとんど整理されたので、肉の行いをしないだけでなく、すでに肉の思いを捨てて、心の罪の性質まで捨てていく段階です。みことばが完全に心に臨んで、悪の大きい根さえすべて抜かれる時まで、続いて信仰の良き戦いをしていきます。
愛する聖徒の皆さん。みことばどおり行おうと努力していくと、心に悟りが来て、悟れば簡単に行える、と言いました。これを理解しやすいように、たとえてみましょう。
<第一テサロニケ5:16 -18>に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。
この意味を心で悟らなかった人は、苦しみにあったとき、喜んで感謝しようと努力はしますが、形式的にするだけです。心では相変らず「私がこんなに苦しいのに、感謝することがないのに、どうして感謝できるだろうか」と思うからです。喜ぼうと努力はしてみますが、結局、耐えられなくてつぶやいたりします。
それでも、どうしても従おうと、努力していくと、ある瞬間、祈っているうちに、神様のみこころが悟れるようになります。
「この地上のことは、どんな苦しみがあってもつかの間で、過ぎ去るものだ。永遠な天国に行く希望があって、どんなに感謝することか。私のような罪人が赦されて、救いを受けて、このように耕作を通して変えられる機会を得られるから、どんなに幸せなのか。信じて求めると、本当に信仰のとおり答えてくださるのに・・・今すぐは苦しいけれど、答えを受けて栄光を帰するようになるのだから、どんなに喜ぶことなのか」と、感謝の条件を心から悟るようになります。
また、みことばどおり神様に感謝の祭壇を築くと、試練・患難が退くという事実がますます信じられる信仰が来ます。
みことばどおり、喜んで感謝することは、神様に属した光の行いです。試練・患難は、やみである敵の悪魔・サタンがもたらすものです。
まっ暗な部屋に明かりをつけて、光が入ってくると、やみは退かなければなりません。そのように、心から感謝して喜ぶと、その霊的な光により、試練・患難が離れて、現実的にも祝福が臨むのです。
こういう事実を心から悟るようになれば、どんな苦しみにあったとしても、信仰によって喜んで感謝することができます。すると、実際に神様の恵みと力の中で、試練・患難が退くのを体験するようになります。
こういう事実を体験すると、心にさらに確実な信仰が与えられて、次には試練が来ても、さらに簡単に喜んで感謝して、勝利するのです。目の前の現実がいくら見通しのきかない時も、みことばの意味を心で悟ることさえできれば、見えない祝福を信仰で見つめて、みことばどおり行えるのです。
聖徒の皆さん。ところが、見かけでみことばどおり行うと言っても、無条件に信仰の三段階だとは言えません。
たとえば、主日礼拝に欠席しない人でも、その人がどんな心から礼拝をささげるのかによって、信仰の水準が変わります。まことに揺れない信仰で礼拝に来るのか、でなければ人の目があるので来るのか、あるいは、主日を守らないと災いにあうのが怖くて礼拝に来るのか、によって違います。
つまり、毎週出て来ても、霊とまことによって礼拝をささげるのではなく、居眠りしていたり、「礼拝が早く終わればいいのに・・・家に帰りたい・・・今やってるおもしろい番組が見たい・・・」など、いろいろな雑念の中に陥ったりしているならば、その人を信仰の三段階だとは言えないのです。
また、信仰とは、行いがあるべきというだけでなく、変わりがあってはなりません。蒔いて行えば祝福、と言われるので、蒔いて行ったのに、思ったより早く祝福が目に見えないから、行ったことを後悔する場合もあり、行わなかった以前に戻ってしまう場合もあります。こういう人は、心から悟って行える信仰の段階に至った、と言えないのです。
ですから、信仰の量りとは、ある一つ、二つのうわべの行いだけを見て、何段階と定めるのではありません。その人の心に神様のみこころがどれくらい悟れて信じられるのかを通して、見分けることができます。
愛する聖徒の皆さん。信仰の三段階に入って、みことばどおり行うとしても、初めはまだ心に葛藤があります。神様のみこころを悟り、聞き従うけれど、心には残っている罪の性質があるために、二つの心の葛藤が相変らずあります。
もちろん、この葛藤は、信仰の二段階のように、「真理どおり行おうかどうか」というような葛藤ではありません。真理どおり行うものの、その一方で善良な心を追おうとする霊の思いと、悪い心を追おうとする肉の思いが戦うのです。
真理どおり行うものの、その一方で善良な心を追おうとする霊の思いと、悪い心を追おうとする肉の思いが戦うのです。
先に説明したように、苦しみにあうと、信仰の二段階は喜んで感謝しようと努力はしますが、結局、勝てなくてつぶやいたりします。しかし、信仰の三段階は、苦しみの中でも十分に感謝して喜べます。
ところが、三段階だといっても、みなが100パーセント、完全な喜びと感謝が出るのではありません。三段階の入り口ならば、苦しみにあう瞬間、「とても苦しい」という肉の思いが働いて、気を落として満たされなくなりそうな場合があります。
けれども、すぐ聖霊の御声を聞くので、「いや、喜んで感謝しなければ・・・神様が生きておられるのに、私がなぜ弱気になるのか」と、自分の心を真理で固めるようになります。そして、さらに完全に喜んで感謝するために、叫んで祈り、恵みと力を受けると、より大きい感謝と喜びが湧き出るようになります。
そうするうちに三段階の半ばを越えて、終わりになると、もう肉の思いがあまり働かないのです。苦しみに突然あっても、気をおとしたりつぶやこうとする考えより、神様に頼り、喜んで感謝しようとする考えが先に浮ぶようになります。
万一、瞬間的に「苦しい」という考えがかすめても、直ちにそれを追い出して、感謝と喜びに心を変えます。
<マタイ7:24 -25>に、「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」とあります。
<第一コリント10:4後半>には、「その岩とはキリストです。」とあります。試練・患難に信仰が揺るがずに、みことばどおり完全に行う信仰になると、岩であるイエス・キリストの上に堅く建てられた、ということです。
信仰の三段階でも、60パーセント以上になれば、みことばどおり行うことがそれ以上重くて苦しく感じられません。ですから「岩の上に建てられた信仰に入り始めた」と言えます。
70から80パーセントになると、岩の上に完全に建てられた、ということで、この時は、みことばどおり行うことが、身についた習慣のように自然に出ます。
ここで一歩進んで、どんな状況でも瞬間の肉の思いさえ働かさずに、直ちに完全に喜んで感謝するようになれば、ついに霊の信仰、つまり、信仰の四段階に入ります。
他の例を一つだけあげましょう。職場で同僚が皆さんにあまりにも無礼なことを行うとか、自分のできることまで、いつも皆さんに渡そうとしている、としましょう。
この時、信仰の二段階では、ひとまず相手の行いに気を悪くします。真理のみことばを知っているので、悪い感情を和らげて仕えようと努力はしてみますが、心では相変らずつぶやきます。「本当に無礼な人だ。自分がすればよいことを、なぜ私にさせるのだろう。私がそんなに御しやすく見えるのか」など、いろいろな考えでとても気を悪くして、そういうことがたまって、耐えられない時は、その前で癇癪を起こしてしまったりするのが二段階です。
三段階では、そのように平和を破ることはありません。「あの人が無礼をしようとしたのではなくて、親しみを感じてしたのだろう。自分が直接できない何かの事情があるだろう」と、良く考えようと努力しながら、相手の願うとおり仕えます。
ところが、まだ三段階の入り口では、完全に心に真理が臨んでいないために、ひとまず気を悪くすることはあります。しかし、「違う」とまた考えを変えて、心を変えて、良い考えにしようと、善良な心になろうとするのです。
しかし、信仰の三段階の岩に立つと、瞬間的にはひょっとして気を悪くするかもしれませんが、直ちに霊の考えに変えて、平安な心で平和を追い、相手に仕えることができます。
その瞬間の考えさえなくなり、完全に死ぬ一粒の麦のように、相手に仕えるならば、この時は信仰の四段階、霊の人になります。
<結論>
愛する聖徒の皆さん。<ヘブル12:4>に、ヘブルの聖徒について、「 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と、悟らせるみことばがあります。
これは、だいたいはみことばを知っていて、自分なりには神様を愛するので、行いで罪を犯す肉の行いは捨てましたが、心では、相変らず罪を捨てないでいる場合です。
信仰の三段階にはいったん入ったけれど、それ以後、信仰の発展が遅くなり、長い歳月が過ぎても、霊に入ることはおろか、信仰の岩にさえ入れない場合もあります。
たとえば、他の人をさばいたとき、みことばに照らして、すぐ誤りが悟れます。すると直ちに、「ああ、私がさばいたんだ。お父さま、赦してください」と悔い改めます。
しかし、その瞬間には立ち返ったとしても、さばいて罪に定める罪の性質を捨てたのではないので、次に同じ状況になると、またさばきます。そして、悟って悔い改めます。
このように心の罪の性質を捨てずに、悔い改めることを繰り返す水準にとどまっているだけなので、信仰の段階が変わらないのです。
信仰が続いて成長するためには、ただ悔い改めだけしていればよいのでなく、罪と戦って、血を流すまで抵抗して、最後はすべて捨てなければなりません。
そのためには、自分の罪の性質を発見すると、その発見したことをただやり過ごしてしまわずに、心から深く悲しみ、神様の恵みを求めなければなりません。
自分の罪と悪がどれくらい醜いのかを悟り、心を砕いていのちを尽くして叫ぶ祈りをささげて、罪の大きい根まで抜いてしまう力を受けなければなりません。断食もして、徹夜祈祷や策定祈祷もして、心を尽くして献金するなど、神様の力を受けようと最善を尽くすのです。
このような自分の努力を通して、神様の恵みと力、聖霊の助けが臨み、結局は罪の性質が一つ一つ心から捨てられるようになります。
いつも悔い改めだけしているといって、自ら捨てられるのではなく、切なる心と真実な行いをもって捨てていってこそ、ついに心の罪まで捨てられるのであり、それで聖められた心を成し遂げるなら、皆さんの人生は全く違う次元に変わります。
すなわち、肉の次元から霊の次元に移され、すべての栄えなかったことが栄えるようになり、不可能が可能になる神様のみわざを常に体験して生きていきます。全知全能の父なる神様の子どもとされた特権を、思いきり受けて生きるのです。
愛する聖徒の皆さんは、みながこのような霊の次元を切に慕い求め、すみやかに罪を捨てて、聖められた心を成し遂げ、満ち満ちた信仰に至りますように、主の御名で祈ります。
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