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メッセージ
Title
   信仰の量り(4) - 信仰の段階  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ヨハⅠ 2:12-14, ロマ 12:3
Date
   2005-10-30


<本文>

<第一ヨハネ2:12-14>

「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。 小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。 」

<ローマ12:3>

「 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

<序論>


愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、イギリス、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプト、イスラエルなど、全世界と全国の3,800余りの支教会の聖徒の皆さん、支聖殿の聖徒の皆さん、全世界でインターネットを通し、礼拝をささげているすべての聖徒の皆さん、<教会学校の子どもの皆さん>、視聴者の皆さん。
人はこの地上で何十年生きながら、その間良い食べ物を食べて、良い服を着て、良い環境で生きるために、いろいろな労苦をします。
しかし、そのように努めに努めて、たとえこの地上では富貴と栄華を受けるとしても、それはつかの間です。短い人生が終わると、必ず死を迎えるようになり、すべての人がさばかれて、天国か地獄、二つのうちどちらかに行かなければなりません。
天国に行くのか、地獄に行くのか、一度決められると、その結果は永遠に変えることができません。地獄に行って苦しみを受けて、いくら後悔しても、再び救われる機会は得られないのです。
また、救われて天国に行く人々の中でも、天国で受ける場所と栄光がそれぞれ変わります。
<第一コリント15:41>には、「太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います」とあります。
天国でも、ある人は輝く太陽のように最も栄えあるところに入り、あるいは月の栄光、あるいは星の栄光を受けるようになります。多くの星の明るさがそれぞれ違うように、星の中でも受ける栄光がまた違います。
このような栄光もまた、一度決められたら永遠に変わりません。もっと聖よめられて忠実だったらよかったのに、それによってもっと良い天国に入ったらよかったのにと、いくら後悔してもその時はすでに遅いのです。
永遠な天国で皆さんがどんな人生を送るのかは、今、この地上で皆さんの行いによって変わります。どれくらい神様のみことばどおり生きたのか、どれくらい罪を捨てて清い心を耕したのか、どれくらい神の国に忠実だったのか、このような信仰生活の結果により、天国の場所とその栄光が決められます。
それでは、皆さんの信仰は果たしてどれほど良い天国に入る信仰でしょうか?
最後の審判は、厳格な公義によってされ、神様はかたよったことをなさらず、ただ心をご覧になります。本当にどれくらい霊の信仰があるのか、その心を評価されるのです。
ところが、ある人は自分の信仰を自らあまりにも過大評価したりします。信仰生活が長くて、多くの使命があって、みことばをたくさん知って教える立場にあるならば、さらにそのような錯覚をしがちです。
それで、<マタイ7:22- 23>に、「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」と言われたのです。
この時叱られた人々も、自らはとても信仰が良い、と錯覚しているのです。万が一にも皆さんがこういう人になっては決してなりません。自らは熱心に神様の働きをして、信仰が良い、と思っていたのに、さばきの時に主が皆さんをご覧になって、「あなたの信仰は本当に小さい」と言われるなら、どれくらい恥ずかしいでしょうか?
ですから、救われた皆さんであっても、常に自分の信仰水準を顧みて、より良い信仰を持つために努力しなければならないのです。
今日は「信仰の量り」四番目の時間です。お聞きになるみことばを通し、愛する聖徒の皆さんは、ご自分の信仰が果たしてどんな水準なのか、見分けてみるよう願います。それで皆さんの足りない部分を満たし、全き信仰が持てるように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん。今日の本文<ローマ12:3後半>に、「 いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあり、人ごとに信仰が違うという事実を教えてくださいます。
信仰がとても大きい人がいるかと思えば、からし種ほどの小さい信仰を持った人もいます。新・旧約のところどころで、このように信仰の量が違う、ということを、いろいろなたとえを通して説明しています。
たとえば、<第一ヨハネ2:12 -14>では、「霊の信仰」の段階を、人の成長過程にたとえて詳しく説明しています。「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。 」とあります。
ここで「子ども」「小さい者」「若い者」「父」とは、体の年齢によって言われたのではなく、「霊の信仰の量り」を意味しています。
肉では子どもであっても、霊的には信仰が大きいこともあり、肉では成長したおとなであっても、霊的には子どもの信仰にしかならない場合もあります。
まず、一番目に「子どもの信仰」について、「主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」とあります。
<ヨハネ1:12>に、「 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と言われたように、罪の赦しを得て救われた信仰が「子どもの信仰」であり、肉的にたとえると、今生まれたばかりの赤ちゃんのような状態です。
まだ真理もよく知らずに、真理に従って生きようと努力もできないけれど、それでも福音を聞いて主を受け入れたので、聖霊を受けて救われるような初心の者の信仰です。
聖霊を受けて新しく生まれたとはしても、まだみことばをよく知っているのでもなく、みことばを聞いて知っているとしても、そのとおり生きる力はまだありません。「神様を信じる」と言いながら、まだ世を愛する心もたくさんあるのです。試みられたら、たちまち気を落として、つまずいたりします。
皆さんが救われて神様の子どもとされたとしても、この段階に長くとどまっていては決してなりません。乳飲み子が日ごとにすくすく育つように、皆さんもすみやかにみことばを糧として、信仰がすくすく成長しなければなりません。
次に「小さい者」については、「御父を知ったからです」とあります。救われた子どもたちの次の段階が、御父を知る小さい者の段階です。
「御父を知る」ということは、救われた聖徒たちの父がだれなのかを知ることで、つまり、神様が私たちのお父様になられることを知る、という意味です。
救われる信仰のある人は、神様が父であることを知って、祈る時も当然「父よ」と呼びます。また、父のみことばを学ぼうとして、そのとおり聞き従おうとします。
ところが、ある人々は教会には来ないのに、「私はイエス・キリストを知っている、神様を知っている」と言う場合があります。以前、一時期、信仰生活をしたとか、どこかでキリスト教について聞いたことがある、ということです。
しかし、彼らは「御父を知っている」のではありません。神様を本当に知っているなら、神様が天地万物と私たちの霊と魂を創造された父であることを悟らなければならず、神様がイエス・キリストを送り、私たちを救われたこともわかるでしょう。
そして、本当にその事実を知っているなら、当然、主を受け入れて教会に来なければなりません。主を受け入れずに、神様と何のかかわりもなく生きていながら、「私は神様を知っている」と言うのは真実でありません。
「小さい者の信仰」では、神様が父であることを知っているだけでなく、父なる神様のみことばに従わなければならないことも知っています。しかし、みことばに従う時もあれば、そうでない時もあります。試みられたら、不平を言って恨んだり、気を落としたりする時もあります。ですから、まだ信仰が小さいということです。
三番目に「若い者の信仰」は、強くて、神様のみことばがそのうちにとどまり、悪い者に打ち勝つ信仰だ、と言いました。
「神のみことばがそのうちにとどまる」とは、そのみことばをすべて守り行うことです。神様のみことばが心に臨んでいるので、天国に希望を置き、世を見つめずに、悪い者、すなわち、敵である悪魔・サタンが惑わそうとしても惑わされず、みことばではね除けられます。
この段階では、みことばの上に堅く立つので、どんな試練にあっても、揺るがない力があります。休まずに祈る中で、むしろ感謝して、賛美して、試練にたやすく勝つのです。
最後に、最も成長した「父の信仰」は、「初めからおられる方を、知る」信仰です。「初めからおられる方」とは、もちろん「神様」を意味します。
ところが、この時、神様を知っているということは、「小さい者の信仰」で神様を知っていることとはまったく違います。
「小さい者の信仰」で「神様を知っている」とは、小さい子が両親の顔を知っていて、両親の言うことに従うのと同じです。まだ思慮が足りない子どもたちは、自分の両親を知っているけれど、両親の故郷がどこなのか、どんな性分を持っているのかなど、具体的なことまではわかりません。両親の心を詳しく説明してあげても、小さい者の水準では、よく理解することもできません。
しかし、「父の信仰」は、偉大な創造主神様の深さと、その初めまでも知る信仰です。
たとえば、モーセは神様の初めがわかったので、天地創造など多くの秘密の啓示を受けて、モーセ五書が書けた、そのような大きい信仰の段階です。
アブラハムが神様の深い心まで推し量り、喜ばせる行いで「神の友」と認められた信仰が、初めからおられる方を知る段階です。
このように、信仰を肉的な成長過程にたとえたら、皆さんの信仰はどの水準にあたるでしょうか?
「子どもの信仰」の方々は、こまめに神様のみことばを学んで聞き従い、「小さい者の信仰」に育たなければなりません。
「小さい者の信仰」の方々も、遅れることなくすみやかに「若い者の信仰」の段階に入らなければなりません。全能なる神様の子どもらしく、すべての事に栄光を帰して、満たされる信仰生活をするなら、少なくとも「若い者の段階」には入らなければなりません。
「若い者の段階」に入った人でも、神様と明らかに交わる「父の深い段階」をさらに切に慕い求めなければなりません。愛する聖徒の皆さんは、「父の信仰」を慕って、必ずその段階に至るように願います。
その他にも<エゼキエル47章>には、エゼキエルが見た幻の中で、水の深さで信仰の量りを説明する場面があります。エゼキエルが幻の中で見ると、水が神殿の敷居の下から流れ出て、神殿の中を流れて外まで流れ出ていました。
<エゼキエル47:3-5>に、「その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。」とあります。
ここで「水」とは、神様のみことばを意味します。聖殿から流れ出た神様のみことばが、世の中に広がっていくことを見せてくださったのです。
この場面を見せられたのは、神様がさばきの時に各人の信仰を量られるので、一寸の誤差もない判決が行われることを意味します。
たとえば、「足首まであった」とは、かろうじて救われるほどしかならない小さい信仰で、「渡ることのできない川となった」とは、完全にみことばの中にとどまる「父の信仰」です。このように、人ごとに違う信仰の量りに応じて神様がさばかれる、という意味です。
また、<第一コリント3:12 -15>にも、信仰の量りとつながるたとえがあります。「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」とあります。
 ここで、「この土台の上」の「土台」とは、イエス ・キリストのことです。人ごとにイエス・キリストの土台の上に信仰を積み上げていきますが、この時の働き、つまり、その信仰の行いをどれくらい心を込めて建てたのかによって、各自が受ける報いが変わります。
「各人の働きは明瞭になる日」とは、三つで説明できます。
第一に、自分の使命の評価を受ける日です。四半期が終わるごと、あるいは年末になると、これまでどれくらい信仰によって使命をよく果たしたのか、各人の実を評価するようになります。それで、よく果たした人は賞を受けますが、果たさなかった人は叱られたり、使命を再び受けなくなったりします。
第二に、「働きが明瞭になる日」とは、火のような試練が来る時です。普段は熱心で信仰が良く見えた人々でも、試練が来ると、自分にまことの信仰がないことを発見することが多いのです。
第三に、「働きが明瞭になる日」とは、終わりの日、神様の御前でさばかれる時です。神様の審判台の前では、すべての人の行いが一つ一つありのままに明らかにされて、善・悪に応じて賞と罰を受けるようになります。
純金のような信仰を持った人は、火のような試練の時にも全く揺るがないのです。感謝と喜びで試練に勝った後に、以前よりもっと大きい祝福を受けるようになります。
しかし、銀、宝石、木、草、わら――、このように段階が降りて行くほど、試練にあう時に勝つ力が弱くなります。銀も火の中で焼けてなくなりませんが、金よりは価値がないのです。
宝石は火に焼けて消えなくても、壊れると、価値が大きく落ちます。このような宝石の段階にあたる信仰は、普段は満たされているようですが、試練が来ると、熱心が冷めて満たされなくなります。それでも救われる信仰はあるので、金や銀の信仰よりは劣りますが、信仰の行いによって、将来天国で受ける報いもあります。
ところが、木と草は火に入れば焼けてしまいます。これは、かろうじて救われる信仰はあるけれど、働きが火に焼けて消えるので、天国で受ける報いはないことを意味します。
しかし、わらのような信仰ならば、働きが火に焼けて報いがないだけでなく、救いさえも受けられないのです。表面では教会に出席して信仰生活をしているけれど、その心には救われるほどの霊の信仰がない場合が、まさにわらとして働いた場合です。
みことばをお聞きになる皆さんの中には、万が一にもその働きがいのちのないわらのようで、救いさえ受けられない方が決していないように願います。
草や木のような信仰でも足りないし、宝石や銀の段階に満足してもいけません。愛する聖徒の皆さんは、皆が純金のような信仰を持ち、神様が働きを試される終わりの日に、大きい栄光と報いを受けられるよう願います。

<結論>

愛する聖徒の皆さん。今日のみことばを通して調べたとおり、聖書では信仰の量りについて、ところどころで教えてくださいます。
<エペソ4:13>に、「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあるように、私たちがより大きい信仰、すなわち、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するべきです。
また、そのためには、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達しなければならない、と言われました。
聖書のみことばを聞いて頭で知っているだけでなく、心から信じて、心に耕さなければならないのです。そうして、罪と関係のない皆さんになる時、神様が望まれるまことの子どもになれて、この地上でも天の御国でも主と共に歩み、永遠な愛を分かち合うことができます。それがまさに私たちの信仰生活の中で見つめてゆくべき重要な目標です。
次の時間からは、信仰の量りを五段階に分けて、一段階からそれぞれの段階を詳しく説明します。また、それぞれ段階の信仰にあたる天国の場所と冠についても、簡単に説明していきます。
皆さんが長い旅をする時、道しるべがあって、今後どれくらい行けばその目標としたところに到達するのかわかるなら、道に迷うこともなく、残った旅程もさらに力強く行けます。
そのように、信仰の段階別に詳しいみことばを悟るなら、さらに簡単に皆さんの現住所を見分けられて、より大きい信仰が持てます。
愛する聖徒の皆さんは、神様のみことばを悟ればすぐ聞き従い、心を真理に変えて、キリストの満ち満ちた身たけにまで達しますように、私たちの主イエス・キリストの御名で祝福して祈ります。

 
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