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メッセージ
Title
十字架のことば(13)
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
ヨハ 19:23-24, イザ 53:5-6
Date
2005-06-19
<本文>
<ヨハネ19:23-24>
「 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。 そこで彼らは互いに言った。『それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。』それは、『彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。』という聖書が成就するためであった。」
<イザヤ53:5- 6>
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
<序論>
愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプトなど、全世界と全国の2500以上の支教会の聖徒の皆様、支聖殿の聖徒の皆様、全世界でインターネットで礼拝をささげているすべての聖徒の皆様、<教会学校の子供の皆さん>、視聴者の皆様。
今日は十字架の道13番目の時間として、イエス様の着物と下着に含まれたご摂理を語りたいと思います。
イエス様は罪人たちの罪を贖うために、多くの苦しみを受けて、十字架にかけられて亡くなられました。十字架の苦しみを受けられる時、イエス様は茨の冠をかぶられ、むちに打たれて、手と足を釘づけられて、わき腹を槍で突き刺されるなど、さまざまな苦難に遭われました。これらのことは偶然に起きたのではなく、一つ一つが正確な神様のご摂理の中になされたものです。
すなわち、獣にすぎない人類にいのちの糧を与えられるため、家畜の飼葉おけに寝かされて、私たちが富むものとなるために、ご自分は貧しくなられました。私たちの病気を贖われるために、むちに打たれて苦しみを受けられ、思いを通して犯す罪が赦されるために、茨の冠をかぶられました。
このように、イエス様が苦しみを受けられたすべての過程は、アダムの罪によって、人類に臨んだ呪いを解いてくださり、私たちの罪を贖うためには、どうしても必要な過程でした。
この時間は、イエス様の着物に含まれたご摂理と、イエス様が手足を釘づけられた摂理を説明いたします。今日も語られるメッセージを通して、私たちのためにあらゆる苦しみを喜んで受けられた主の愛を、より一層深く悟る皆様になられますようにお願いします。それで、主のために命までささげられる、美しい主の花嫁となられますように、主イエス・キリストの御名で祈ります。
<本論>
愛する聖徒の皆さん、視聴者の皆様。
イエス様はむちに打たれて茨の冠をかぶられたので、顔全体とからだは血だらけになり、今度は重い十字架を背負わなければなりませんでした。その十字架をご自分で背負って、処刑場のゴルゴタというところまで上がられました。
ついにそこに着くと、兵士たちはイエス様の着物を脱がせました。今日の本文<ヨハネ19:23- 24>に、「さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。 そこで彼らは互いに言った。『それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。』それは、『彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。』という聖書が成就するためであった。」とありました。十字架にかけられる時、イエス様は着物と下着をすべて奪われて、完全に裸のまま十字架にかけられました。
尊い神様のひとり子イエス様が、卑しい被造物の人々の前で、裸になる恥をさらされました。イエス様がこのように恥をさらされた理由は、まさに、私たちが受けるべき恥を、代わりに受けられるためです。罪人が当然受けるべきあざけりとさげすみ、卑しめを、何の罪もないイエス様が代わりに受けられたのです。
もし、皆様のからだと服に、腐った食べ物や汚物がたくさんついて、ひどい臭いがすれば、そのまま多くの人の前に現れることができますか?それを洗い落とすまでは、人前に出るのは恥ずかしいでしょう。
ところが、からだについた汚れより、さらに醜くて恥ずかしいものが、まさに罪です。アダムも初めて善悪の木をとって食べて罪を犯した時、神様の御顔を避けて、園の木の間に身を隠したことが記録されています。罪があるから神様の前に恥を感じて、神様の顔を避けようとしました。
ところが皆、罪の中で生きていますから、年月が経つほど、人々はますます罪に対して無感覚になっていきます。罪を犯して悪を行っても、「他の人もみんなそうでしょう」と言い、良心が鈍くなっていきます。
しかも、今は終わりの時、私たちは以前のどの時代より、さらに悪い世の中に生きています。もし、三十年、あるいは五十年前の人々が、今の世の中を見るなら、大きいショックを受けることでしょう。
以前には人々が驚いて指を差しそうな犯罪が、今日ではあまりにもたくさん起きていて、前は想像することも難しかった恥ずかしいことが、最近はあまりにも満ちているからです。
しかし、いくら時代が悪くなったといっても、光である神様のみことばに照らしてみれば、恥ずかしい罪の姿が一つ一つ明らかにされます。真っ暗な時は、部屋が汚くてもよく悟れませんが、明かりをつけると、汚れが明らかにされます。このように、光である神様のみことばに心を照らしてみれば、自分の中にある恥ずかしい罪を発見することができます。
世の中の汚れに染まり、罪と悪の中で生きた人々は、将来、神様の審判台に立つ時、あまりにも大きい恥をさらすようになります。自分の汚い心と行いが一つ一つ明らかにされるので、頭を上げることさえできなくなります。
しかし、イエス様は、私たちの罪を贖って、私たちが受けるべき恥とあざけりを代わりに受けられたので、これを信じる私たちは、罪人が受けるべき恥から抜け出せるようになりました。
<創世記3:21>に、「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」とあります。罪を犯してエデンから追い出されるアダムとエバに、神様は、裸の恥を遮るように、心を込めて皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました。
この地に来られたイエス様も、ご自身で裸になられ、十字架にかけられたので、罪人たちの恥を贖ってくださいました。
ところが、<黙示録3:18>には、ラオデキヤの教会に主が、「わたしはあなたに忠告する。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。」と言われます。神様を信じると言いながらも、冷たくも熱くもない、熱心さもない彼らに、早く心を聖めて、主を迎える備えをするように、戒められたということです。
愛する聖徒の皆さんは、罪人たちの代わりに恥をさらされた主の愛を、心の底からもっと感謝するようお願いします。そして速やかに完全に聖められて、一点の恥もなく、主を迎えられますように、私たちの主イエス・キリストの御名で祝福して祈り願います。
愛する聖徒の皆さん、イエス様の着物と下着を脱がせた兵士たちは、着物を四つに分けて、四人が分け合いました。下着は、上から全部一つに織った、縫い目なしのものだったので、くじを引き、一人が取りました。
では、罪のないイエス様が惨めに釘づけられる緊迫した場面で、イエス様の着物がどうなったのかを、聖書にこうして詳しく書く必要があるのでしょうか?
イエス様の着物を、兵士たちが四つに分け合ったとか、下着が上から全部一つに織ったのか、下から全部一つに織ったのか、くじを引いて取ったとか、これらをいちいち記録しているのは、ちょっとおかしく思われるかも知れません。
また、イエス様の着物は、高価なシルクや、宝石で飾られたものでもなく、長く着て古くなり、その上、土ぼこりと血で汚れたものです。そのような古い着物を、ローマの兵士たちが四つに分け合い、下着はくじを引いて取ったということも、不思議なことです。
しかも、はるか以前に書かれた旧約の詩編まで、これについて預言しているのです。つまり、<詩篇22:18>に、「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」とあり、今日の本文には、「それは、『彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。』という聖書が成就するためであった。」とあり、この預言が成就されたことを説明しています。
聖書はイエス様の着物を通して、神様の重要なご摂理を表しています。それは、イエス様以来、イスラエルの歴史についてあらかじめ示している内容です。まず、着物に含まれたご摂理を調べましょう。
イエス様は神様の御子であり、神様の民であるイスラエルの王です。そのイエス様の着物とは、霊的にはイスラエルという国家、またその民を意味します。
ところが、イエス様の着物を四つに分けたので、その形がなくなり、着物を作った材料、つまり、布きれだけが残るようになりました。
これはイスラエルの王であるイエス様の着物が分けられたように、イスラエルという国が滅び、その形がなくなることを意味します。着物の材料の布きれだけが残ったように、「イスラエル部族」という名前だけが残るようになります。ローマの兵士たちが着物を分けたことは、イスラエルがローマ軍によって滅ぼされることを意味します。
着物が四つに分けられたことは、イスラエルの民が四方、すなわち、東西南北、世界各地にちりぢりに離散することを表しています。
それ以後の歴史を見ると、確かにそうなりました。<ルカ19:43 -44>には、「やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」と言われました。
イエス様の予言どおり、エルサレムはAD70年に、ディドー将軍が率いるローマ軍により、包囲攻撃を受けました。イスラエルの民は最後まで抵抗しましたが、ついに城は陥落して、エルサレムは完全に破壊されてしまいました。「一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。」と言われたとおりに、ローマの兵士たちは、聖殿の石までもすべて散らしてしまいました。
歴史の記録によると、このエルサレム陥落の過程で、百万人以上のユダヤ人が殺され、その中には、十字架にかけられた捕虜も多かったそうです。
戦争で生き残った人々も、東西南北ちりぢりに離散してしまい、以後、ユダヤ人はあちこちに散らばって生活しながら、異邦人から多くの迫害を受けなければならなかったのです。
2千年近く受けてきた苦しみの歴史の中でも、ユダヤ人が経験した最も惨めな事件は、第2次世界大戦の時の、ナチス政権による虐殺です。短い期間に600万人以上の人々が、ただユダヤ人だという理由だけで殺されました。しかも裸のままだったのです。
私は神様を信じる前に、このユダヤ人虐殺を聞いた時、本当におかしいと思いました。普通は死刑囚を殺す時も、きれいな服に着替えさせるはずなのに、彼らはみな同じように着ていた服まで脱がされて殺されたので、不思議なことだと思ったのです。
ところが、神様を信じて十字架の摂理を悟って、その理由がわかるようになりました。このようなユダヤ人の死は、ユダヤ人たちが自分たちの王として来られたイエス様を殺したので、その子孫に臨んだ呪いの一つだったのです。
イエス様を直接処刑したのは、ローマの兵士でしたが、イエス様の処刑を求めたのはユダヤ人たちでした。当時ユダヤ地域は、ローマに支配されていたので、イエス様を処刑するためには、ローマから派遣された総督の許可が必要でした。
ユダヤの総督ピラトは、イエス様が無罪だと分かったので、イエス様に死刑を言い渡そうとしませんでした。それでも、ユダヤ人たちが続いて死刑を要求すると、ピラトは、「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」と言いました。つまり、死刑の判決は下すけれど、罪のない人を殺した罪の報いは、イスラエルの民に返すという意味です。
続く<マタイ27:25>には、「すると、民衆はみな答えて言った。『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。』」とあります。
<箴言18:21>に、「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」とあります。ユダヤ人たちもやはり、自分たちが告白した通りに、報いを受けるようになりました。第二次大戦当時、大量虐殺された時、不思議なことに、裸になって殺されたのは、イエス様を殺した方法そのままだったという報いを受けたのです。
ユダヤ人たちは、「私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」という告白のように、長い年月、苛酷な苦難の歴史を生きてきました。その苦難の歴史が、イエス様の着物を四つに分けあった事件に、すでに示されていました。
次に、イエス様の下着は、縫い目なしのもの、つまり、色々な布を縫い合わせて作ったものでなく、上から全部一つに織ったものだった、と言いました。ここで下着とは、人の心を意味します。イスラエルの王であるイエス様の下着は、イスラエルの子孫たちの心を意味して、神様への彼らの信仰を表します。
神様の民・イスラエルの最初の先祖はヤコブです。神様はヤコブの名前をイスラエルに変えて、彼の十二人の息子たちから、イスラエルの十二部族を形成するようにされました。
神様は信仰の先祖であるアブラハムの子孫の中でも、ヤコブの心が良いのをご覧になり、ヤコブを通して神様の選民を形成するようにされたのです。イスラエルの民は、長い間、他の民族と結婚しないで、単一民族を守り、唯一な神様だけを崇めてきました。
ところが、ソロモン王の子レハブアムの時、イスラエルに内紛が起きて、南のユダと北のイスラエルに分裂してしまいました。以来、北のイスラエルは、異邦人と結婚して、単一民族としての純粋性を失いました。南のユダだけが、真のイスラエルの子孫として、異邦人と混ざらない単一民族として残りました。それで今では、イスラエルの子孫をユダの人、すなわち「ユダヤ人」と呼ぶようになりました。
イエス様の下着が上から全部一つに織ってあったように、ユダヤ人たちは先祖のヤコブから続いて、純粋な単一民族としてつながってきました。
また、ローマの兵士たちはイエス様の下着を裂きませんでした。上から全部一つに織った衣を裂くとと、はじがほどけて何の役にも立たないので、くじを引いてひとりが持っていきました。
下着を裂かなかったのは、霊的に、ユダヤ人たちの神様に向かった心は、決して人が分けたり、なくしたりすることはできないという意味です。ローマはイスラエルという国は滅ぼしましたが、イスラエルの民の信仰まではなくせなかったのです。
エルサレム陥落以後、世界中にちりぢりに離散したユダヤ人たちは、それほど長い間苦しめられながらも、自分たちのアイデンティティーを失わなかったのです。最後まで自分たちの民族と信仰を固く守り、ついに1948年5月14日、先祖の地へ帰り、独立国家を打ち立てました。
これは、聖書<エゼキエル書38:8- 12>の預言が、そのまま成就されたということです。ここには終わりの年に、世界の国々から民がイスラエルの地へ戻り、その国が立ち直ることが予言されています。
世界のどの民族が、国の形がなくなって、2千年以上、しかもひどく迫害されて苦しめられながら、その民族性と固有な信仰を守れるでしょうか?また、滅ぼされてから2千年以上経って、その国が立ち直ることのできる民族が、他にあるでしょうか?これは常識的には不可能なことです。
先祖のヤコブから譲り受けたユダヤ人たちの心と信仰が、それほど堅固だったので、これらのことが可能になり、上から全部一つに織ったイエス様の下着がそのまま保たれたことが、まさにこのような歴史をあらかじめ教えてくれるのです。
愛する聖徒の皆様、
イエス様はこのように服を脱がされたまま、十字架に手足をつけられました。私たちが知っている一般的な死刑の方法は、死ぬまでの心の苦しみがもっと恐ろしいけれど、肉体の苦しみは、比較的短い時間に終わります。
しかし、十字架刑は、長い間非常に激しい苦しみをあたえる死刑の方法です。殺人者や反逆者など、重罪人にだけ行われる苛酷な刑罰でした。
まず、木で大きい十字架の形を作り、その十字架の上に両手と両足をつけます。それから十字架を立てると、体重が下へさがり、手足がつけられたところに、さらに激しい苦しみが加えられます。急所を避けて釘を打つので、早く死ぬこともできません。ずっと血を流しながら、息が絶える最後の瞬間まで、その激しい苦しみをそのまま受けなければならないのです。
イエス様はこのような十字架の刑罰を受ける前、一晩中連れ出されて尋問を受けられ、ひどいむち打ちといばらの冠のため血だらけになって、重い十字架を背負ってゴルゴタの坂道を上がられました。
疲れたからだで十字架を背負うことは容易なことではなかったので、何度もひざがくずおれて倒れましたが、結局はその苦しみの道を歩き通し、丘の上に上がられました。
丘の上につくと、百人隊長の号令に合わせて、兵士たちは一回、もう一回と、かなづちを打ち下ろして、イエス様は残酷な苦しみの中で十字架につけられました。
熱い太陽が照りつける中、長い時間ぶら下がっていると、血のにおいで毒虫が飛んできます。このように十字架にぶら下げられたまま、イエス様は完全に息絶えるまで、六時間ほど激しい苦しみを耐え忍ばなければなりませんでした。
では、イエス様がこのように手と足を釘付けられねばならなかった理由は何でしょうか?これは、人が手と足で犯したすべての罪を贖うためのご摂理でした。
<マルコ9:43- 45>には、「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」とあります。
手があるので、その手でしてはいけない事をして、足があるので、その足を使って行ってはいけない所に行って罪を犯す場合が、どれほど多いことでしょうか?それでは、皆さんが地獄に行かないために、罪を犯さないために、手と足を切らねばならないのでしょうか?
こんにちでも旧約の律法を守る国々では、実際にそうします。「目には目を、歯には歯」で返すという原則によって、手で盗むと手を切り、目で罪を犯すと目を抜いて、姦淫すれば石で打って殺します。
以前、田舎でばくちに凝(こ)った人々を見ると、田畑と財産、果ては家族まで売っても止められないので、後に自分で手を切ったりする、と聞いたことがあります。
しかし、イエス・キリストを救い主として迎え入れた子供たちは、そうする必要がありません。手足を切らなくても、悔い改めると赦されて、聖霊の御力で罪を捨てることができます。すでに罪のないイエス様が、両手と両足を釘づけられて、血を注ぎ出されたので、手足で犯す罪を贖ってくださったからです。
また<マルコ9:47>には、「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」と言われましたが、目で犯す罪とは、結局、見たり聞いたりして感じることによって、思いの中で犯す罪です。
これは前の時間に説明した通り、イエス様が頭に茨の冠をかぶられて、血を注ぎ出して贖ってくださったので、私たちは目をえぐり出さなくてもよいのです。
このように、私たちの罪を赦され、地獄の火から救ってくださるために、イエス様がこの残酷な十字架の苦しみをご自分で受けられました。
ところが、ある人々は「主を信じます」と言い、口では「悔い改めます」と言いながら、相変らず罪の中で生きています。神様は、こういう悔い改めは偽りだとおっしゃいます。
<ヨハネ第一1:6>にも、「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」とあります。
また<ガラテア5:19 -21>には、肉の行いをする者、すなわち、行いで罪を犯す者たちは、「神の国を相続することはありません。」とあります。これは、つまり、救われないという意味です。救われて天国に行くためには、これらの罪を犯してはいけません。
イエス様が私たちの罪のために、手と足を釘づけられ、苦しみを受けられたことを、真に信じる人は、再び罪を犯すことができません。また、罪を犯したことを、心から悔い改めて立ち返ったなら、同じ罪を繰り返して犯さないはずです。
罪を捨てないで以前の姿のまま生きる人は、真の信仰がある人でもなく、神様を愛する人でもありません。救いとも関係のない人です。
もちろん、変えられようと努めているのに、まだ信仰が弱い時は、繰り返し罪を犯す場合があります。そうする時も、心から悔い改めて、また罪を捨てるために努力していけば、神様も赦してくださいます。また恵みをくださり、罪を捨てる能力を与えてくださいます。
罪を捨てて聖なる神様に似ていくことは、人の能力では不可能ですが、神様の御力では可能になります。また神様の子供ならば、当然罪を捨てて聖められなければなりません。
<結論>
愛する聖徒の皆さん、
手と足を釘づけられて、血を注ぎ出されていた間、イエス様は死の苦しみを思われませんでした。イエス様の苦しみと死を通して、どうしてでも一人の魂でも救われるように祈られ、イエス様を釘づけて、あざける魂たちのために、代わりに赦しを求められました。
このように大きい愛で私たちのために亡くなられて復活された主が、救われた子供たちを連れに、また来られる時が近づきました。
<マタイ24:32-34>に、「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」と言われたイエス様のみことばがあります。
ここでいちじくの木とは、霊的にイスラエルを意味します。冬には死んだようだったいちじくの木が芽吹くと、近づいてくる夏が感じられるように、滅ぼされたイスラエルが、再び立ち直る日が来ると、その時代が過ぎ去る前に、主の日がまもなく近づいて来ると言われました。
神様のすべてのみことばは、一点一画も足したり抜いたりすることのできない真実であります。エルサレムの陥落や、ユダヤ人たちの苦しみ、イスラエルの滅びと復興など、すべてのことが聖書に書かれたそのままに成就しました。
まだ成就されていないことは、今後起きることです。その一つが、もう遠くないうちに、十字架で亡くなられて復活されたイエス・キリストが、聖徒たちを連れに来られることです。
<黙示録16:15>に、「・・・見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。・・・」とあります。主が再臨するその日、主を迎える用意ができていなければ、誰も天国に入ることはできません。
愛する聖徒の皆さんは、決して霊的な眠りに陥らず、目をさまして祈って、身を慎むようにお願いします。
私たちの恥を贖い、罪を赦すために、惨めな十字架を背負われた主の愛を覚えて、一日でも早く、花嫁の備えを終えられますようにお願いします。
それで終わりの日、再臨のラッパが鳴り響く時、一人ももれずに皆引き上げられて、婚宴に参加する皆様になられますよう、花婿となられた主の御名で祝福し、祈ります。
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